
梅に彩られて
拝殿(写真左)とその右奥に本殿の拝所が見えます。
奈良時代、橘氏(たちばなうじ)の実質上の祖とされる県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ。橘三千代(たちばなのみちよ)。)が、現在とは異なる地に橘氏の氏神として創祀したのが始まりとされる梅宮大社(うめのみやたいしゃ)。
平安京に都が遷された平安時代の初め、嵯峨(さが)天皇の皇后で、檀林皇后(だんりんこうごう)の名でも知られる橘嘉智子(たちばなのかちこ)が現在の地に移したといいます。
橘氏系譜
平城京に都が置かれていた奈良時代、宮中の宴において、県犬養三千代は第40代天武(てんむ)天皇の代から仕えていることを女帝・第43代元明(げんめい)天皇から称され、杯に浮かぶ橘とともに橘宿禰(たちばなのすくね)の姓を賜ったことから橘姓へと改姓し、橘氏の実質上の祖となりました。加えてこれと同時に、それまでは「道代」と書かれていた名を「三千代」に改名したものと見られています。
県犬養橘宿禰三千代(あがたのいぬかいのたちばなのすくねのみちよ)(県犬養三千代。橘三千代。)から橘嘉智子までの橘氏の系図(抜粋)は下記のようになっています。

- ※系図中の「?」について
- 藤原多比能(ふじわらのたびの)は藤原不比等(ふじわらのふひと)の娘ではありますが、県犬養三千代を母とする説には異論もあります。
上記系図中の赤字で記したものは、次項に掲載した古文書(こもんじょ)に記載されている人であることを示したものです。
由来
平安時代末期に成立した古辞書『伊呂波字類抄』(いろはじるいしょう)には、「梅宮」(ムメノミヤ)社の由来について次のように記されています。
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・・・譜牒男卷下云、太后氏神、祭二於圓提寺一、此神始犬養大夫人所レ祭神也、大夫人子藤原太后及乙牟漏乃女王祭二於洛隅内頭一、其後遷−二祭於相樂郡提山一、此神爲二仁明天皇一成レ祟、出二於御卜一、復託−二宣宮人一云、我今天子外家神也、我不レ得二國家大幣一、是何縁哉云云、天皇畏レ之欲下盛立二神社一、准二諸大社一、毎年令中崇壯上、太后不レ肯曰、神道遠而人道近、吾豈得下与二先帝一外家齊上乎、天皇固請レ之、太后曰、但恐下爲二國家一成上レ祟、仍近移−二祭於葛野川頭一、太后自幸拜祭焉、今梅宮祭是也、・・・
- ※上記文中の文字の色の区別について
- 次の2文字については文字を拡大するなどしなければ判別しづらいために、次のように色で区別して記載しています。
- 祟・・・たたる
- 崇・・・あがめる
奈良時代後期から平安時代にかけて、家や氏の系譜を中心に、重要な事件や人物の事績などを記載して作成されるようになった文書(もんじょ)『譜牒(ふちょう)〜男巻下〜』に云う、として次のように伝えている。
太后(たいこう。嵯峨天皇の皇后である橘嘉智子を指します。)、氏神を圓提寺(えんていじ)(橘諸兄(たちばなのもろえ)が創建した氏寺の井手寺(いでじ)。旧称井堤寺(いていじ)。)(現在は廃寺)に祭る。
この神は、はじめ犬養大夫人(いぬかいのだいぶにん。橘三千代を指しています。)が祭る所の神なり。大夫人の二人の娘である藤原太后(ふじわらのたいこう)(藤原安宿媛(あすかべひめ)。光明子(こうみょうし)。後の光明皇后。)と乙牟漏(おとむろ)の女王(一般には牟漏女王(むろのじょおう/むろのおおきみ)と記されています。橘諸兄の妹。光明皇后の異父姉。)が洛隅内頭(洛(平城京)の隅の内のほとり)に祭った。その後、山城国相樂郡提山(やましろのくにそうらくぐんつつみやま)(橘諸兄の拠点があった井手の地。現京都府綴喜郡井出町(つづきぐんいでちょう)付近。)に遷し祭った。
ところが、この神が仁明天皇(にんみょうてんのう)に祟(たた)りを成した為、占いに出したところ、次のようなお告げがあった。「我、今天子(仁明天皇)の外家(がいけ。母方、即ち、橘嘉智子の家系。)の神なり。我、『橘』の始祖である県犬養橘宿禰三千代以来これまで皇統の護持に力を尽くしてきたが、国家より何の奉納も無い。これは一体どういうことか(と、不満・怒りをあらわにした)」云々と。仁明天皇はこれに畏(かしこ)まって、手厚く神社を立てて諸大社に準じ、毎年壮大に崇(あが)めるように取り計らおうとした。しかし太后(橘嘉智子)頷かず曰く、「いえいえ、神道(しんとう)は奥深いものですが、人として守り行うべき道である人道(じんどう)は身近なものです(わたくしは特別なことを望んでいるのではなく、人としてごく当たり前のことを望んでいるのです、の意か)。第一、どうしてわたくしが帝(みかど)の手をお借りしてまで、外家である橘家の氏神を祀るのに必要な建物が欲しいと思うでしょうか。」と。仁明天皇は真摯にこれを受け止めた。そして太后(橘嘉智子)曰く、「ただ神の怒りに触れて国家に災いが降りかかるようなことにでもなればと思うと心配ですので・・・」と。こうして太后(橘嘉智子)は程なくして提山から葛野川(かどのがわ。現在の桂川。)の頭(ほとり)(即ち現在地)に移して祭った。太后(橘嘉智子)は自ら幸(ゆ)きて拝み、祭ったのだった。
今の梅宮祭(うめのみやのまつり)が是である。
橘嘉智子
さて、橘嘉智子が4歳の時、父・清友は32歳の若さで亡くなっています。父亡き後の橘嘉智子を誰が育ててくれたのか、確かなことは分からないようですが、母方の田口氏の下で育てられたという見方があります。
別の見方は、父・清友(きよとも)の異母兄弟である橘入居(たちばなのいりい)に引き取られ、その嫡男・橘逸勢(はやなり)らとともに育てられた、というものです。書に秀でていた橘逸勢は後に、空海・嵯峨天皇(橘嘉智子の夫)と共に三筆と称されることは広く知られているとおりです。橘逸勢の生まれた年は定かではないようですが、橘嘉智子よりも3〜4歳年上であったようで、子供のころは一緒に遊び、また、橘嘉智子の書の手ほどきもしてあげていたのかもしれません。
橘嘉智子は、後に結ばれることになる嵯峨天皇が親王(神野(かみの)親王)の時に入侍しています。ちなみに、橘嘉智子は嵯峨天皇と同年の生まれです。
その後の大同(だいどう)4年(809)4月に親王が天皇に即位した2カ月後の6月には夫人(ぶにん/ふじん)として天皇の后妃となり、皇后・妃に次ぐ地位についています。この時には神野親王と結婚していた高津内親王(たかつないしんのう)が妃となっています。しかし、高津内親王は、その後、妃を廃されています。理由は「良有レ以也」(良(まこと)に以(ゆえ)あるなり=まことに道理のあることだ、もっともなことだ)との記録があるだけといい、一切が不明とされています。
嵯峨天皇即位6年後の弘仁(こうにん)6年(815)7月、橘嘉智子は皇后に立てられることになります。橘氏出身としては最初で最後の皇后です。
橘嘉智子は、その人となりは心が広く穏やかで、その容姿は美しく世に類なき麗人であったといいます。仏教を厚く信仰し、承和(じょうわ)年間(834年〜848年)には、嵯峨に檀林寺(だんりんじ)を建立し、また同年間の末年ごろには、右京二条西大宮辺りに橘氏子弟の育成のため学館院(がっかんいん)の設立を行うなどしています。
ところで、承和9年(842)7月15日に嵯峨上皇が息を引きとります。するとその2日後の17日には、仁明天皇の皇太子に立てられていた恒貞親王(つねさだしんのう)の側近に仕えている伴健岑(とものこわみね)と橘逸勢を首謀者とする一団が皇太子・恒貞親王を奉じて東国に赴こうとする謀反を画策したとして逮捕され、平安京および京から地方へと繋がる道の要衝が警固されるといった物物しい事態が突発しました。
橘嘉智子のもとには事前にいち早く橘逸勢らの動きが内密に伝えられたことから、橘嘉智子は、今はすでに亡き嵯峨上皇と橘嘉智子の信任を得て当時急速に台頭し始めていた藤原北家(ふじわらほっけ)の藤原良房(ふじわらのよしふさ)に相談して自ら事件を摘発し、藤原良房に事件の処理を命じたのです。その人となりや容姿からは窺えない意志の強さを持った橘嘉智子の一面が垣間見えるようです。
結果、伴健岑と橘逸勢らは流罪となります。そして、なんの罪も無かったにもかかわらず恒貞親王は皇太子を廃されたのでした。これは承和の変(※1)と呼ばれています。
橘逸勢は本姓剥奪の上で伊豆国(いずのくに)への護送途中、承和9年8月13日、平安京から配流先までの半分近くまで行った辺りの遠江国(とおとうみのくに)板築駅(ほんつきのうまや)(※2)にて没しています。
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・・・逸勢行到二遠江國板築驛一。終二于逆旅一。・・・
(『日本文徳天皇実録』〜嘉祥三年五月壬辰十五条〜)
(逸勢一行は遠江國板築驛に到着した。が、ここは逸勢の最後の逆旅(げきりょ。やどや。旅館。)となった。)
- ※1承和の変
- 弘仁14年(823)、第52代嵯峨天皇は譲位して上皇となり、異母弟の淳和天皇が第53代天皇として即位します。ついで淳和天皇も譲位して上皇となると、皇位は、天長(てんちょう)10年(833)、嵯峨上皇の皇子の仁明天皇が第54代天皇として受け継ぎます。この時、仁明天皇の皇太子には淳和上皇の皇子・恒貞親王(母は嵯峨天皇と橘嘉智子との間に生まれた皇女・正子内親王(まさこないしんのう))が立てられました。正子内親王は、仁明天皇と双子の兄妹の関係にあります。
- 一方、急速に台頭し始めていた藤原良房(よしふさ)は、その妹順子(のぶこ/じゅんし )と仁明天皇との間に生まれた皇子である道康(みちやす)親王(後の第55代文徳(もんとく)天皇)の立太子を画策していました。
- この形勢を察した淳和上皇と恒貞親王は、権力闘争に巻き込まれることを憂慮して度々皇太子を辞する意志を表明していました。が、嵯峨上皇、仁明天皇に心配無用として慰留されていたのです。
- 嵯峨上皇が亡くなったのはこのような状況の時だったのです。そしていわば無用な権力闘争などが起きないようにと睨みを利かせていた嵯峨上皇の崩御により、皇太子・恒貞親王の身が危ないとの危機感を持った橘逸勢らが行動を起こそうとしたことによって承和の変が起こったのです。
- 先述のごとく橘逸勢らは逮捕され、恒貞親王は皇太子を廃されます。恒貞親王の母・正子内親王は、その母・橘嘉智子に対して激しく怒り、泣き恨んだといいます。
- 事件後、代わって皇太子に立てられたのが藤原良房の妹・順子の子である道康親王でした。そして藤原良房は大納言に昇進します。この事件を機に藤原良房は皇室との関係を深め、その権力を確立し昇進を重ねます。そして遂に人臣最初の摂政(せっしょう)・太政大臣(だいじょうだいじん/だじょうだいじん)にまで昇り、その後の藤原氏繁栄の基礎を築いたのでした。
- この承和の変は、藤原良房の陰謀の疑いが濃いものと一般に解されており、藤原氏による他氏排斥事件の初めともされている事件となっています。
- ※2板築駅
- 浜名湖北西部の支湖、猪鼻湖(いのはなこ)の北西に位置する静岡県浜松市北区三ヶ日町日比沢(みっかびちょうひびさわ)にあったとされています。三ヶ日町日比沢地区の南端には板築山(ほうづきやま)があります。「駅」(うまや)は、馬継ぎ場や宿場を指し、人・馬・舟・車などを用意して交通・通信の便をはかっていた所にあたります。
- なお、橘逸勢神社と伝橘逸勢墓が、三ヶ日町日比沢の西に隣接する三ヶ日町本坂(ほんざか)にあります。
写真集(16枚の写真が表示されます。)
戸口の左右に随身(ずいじん。貴人外出時の護衛。)姿の二神を祀る三間一戸(さんげんいっこ)の楼門(ろうもん)。
梅宮大社には酒造の守護神とされる酒解神 (さかとけのかみ)が祀ってあり、門の二階には酒樽が見えます。
元禄(げんろく)13年(1700)に再建されるも、その後の台風による被害を受け文政(ぶんせい)11年(1828)に再造営されたものとなっています。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 所在地 | 京都市右京区梅津フケノ川町30 |
| 主祭神 | 酒解神 酒解子神 大若子神 小若子神 |
| 創建年 | 平安時代初期(創祀は奈良時代と伝承) |
| 主な祭事 | 梅宮祭 |
【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。
【マップ掲載番号の説明】
- ※
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- 四条通沿い参道入り口
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- 拝殿
- 本殿
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- 見切石
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- 咲耶池
- 池中亭
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- 松尾橋(※2)
- 松尾大社(※2)
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近隣の観光スポット情報
桂川上流(北)方面へ向かえば嵐山、渡月橋もさほど遠くない位置にあります。


