石清水八幡宮

南総門から本社を望む
南総門から本社を望む
重厚な南総門の前に立って少しかがむと、今年(2016年)2月9日の官報告示で石清水八幡宮の本殿など1件10棟が正式に国宝昇格の指定がなされた中の一つ、本社の楼門(ろうもん)がそびえ立つ光景が目に入ってきます。

大阪府に隣接する京都府南部。桂川(かつらがわ)、宇治川(うじがわ)、木津川(きづがわ)が合流し淀川(よどがわ)となって大阪湾へと注いでいく要衝の地を望み、これら三川を挟んで北岸の天王山(てんのうざん)と相対する男山(おとこやま)。その男山は、平安京の南西の方角に位置したことから裏鬼門に当たる重要な場所となり、さらには大阪湾(おおさかわん)から淀川を遡って都に入ることのできる水運上の交通の要所でもあったことなどから、平安京を護るための格好の場所とされました。

流麗な山容を呈し、幽邃(ゆうすい)な森に包まれた男山、九十九折りの参道を上ったその山上に石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は鎮座しています。

石清水八幡宮は、平安時代の初期に山城国(やましろのくに)男山に鎮座して以来、朝廷の崇敬を得て、伊勢神宮に次ぐ国家第二の宗廟と崇められ、平安時代中頃には、清少納言(せいしょうなごん)がその著『枕草子』の「神は」の段で「神は、松の尾。八幡(やはた)。・・・」と書いています。

更には、源氏(げんじ)が八幡神(はちまんじん)を氏神(うじがみ)として仰いだことから、八幡(はちまん)信仰が全国に流布します。なかでも、平安時代後期の武将、源義家(みなもとのよしいえ)は7歳の春、石清水八幡宮の宝前で元服して「八幡太郎」(はちまんたろう)と号したことでも知られ、源氏一門を隆昌に導いたのでした。

源義家は、後に鎌倉幕府を開いた源頼朝(よりとも)、室町幕府を開いた足利尊氏(あしかがたかうじ)などの祖先にも当たり、中でも、足利将軍家の篤い崇敬を受けた室町時代、その室町幕府第6代将軍を決めるに当たっては石清水八幡宮社前にてくじ引きが行われ、足利義教(よしのり)が後にも先にもただ一人の「くじ引き将軍」となったことは知られているところです。

縁起

石清水八幡宮は、平安時代初期、行教(ぎょうきょう)という奈良大安寺(だいあんじ)の僧によって男山の地に勧請(かんじょう)されるのですが、この男山には、もともと「石清水寺」(いわしみずでら)という名の山寺があったといいます。

石清水八幡宮が創建されてから2年後の貞観(じょうがん)4年(862)、行教が官符を得て、石清水寺を護国寺(ごこくじ)と改め、それによって石清水八幡宮護国寺という名前の神宮寺(じんぐうじ)となりました。神宮寺とは、神仏習合思想に基づき神社に付属して建てられた寺院のことをいいます。石清水八幡宮護国寺は略して宮寺とも、あるいは、本尊が薬師如来であったことから薬師堂と呼ばれることもあったようです。

さて、その行教が「貞觀五年正月十一日 建立座主大安寺傳灯大法師位行教」の署名でしたためた『石C水八幡宮護國寺略記』(寛喜(かんぎ)4年(1232)法印宗清奥書)(『石清水八幡宮史』所収)には、石清水八幡宮の縁起について次のように記載されています。

石C水八幡宮護國寺略記
三所大菩薩移-ニ坐此男山峯卽奉-ニ置御體後代縁起事

右、行ヘ俗姓紀氏專爲業修行久送多年矣、而間恒時欲大菩薩也、爰以去貞觀元年參-ニ拜筑紫豊前國宇佐宮、四月十五日參-ニ着彼宮、一夏之間、祗-ニ候寶前、晝轉-ニ讀大乘經王、夜誦-ニ念眞言密ヘ、六時不斷、奉-ニ向三所大菩薩也、九旬已畢、欲本都之間、以七月十五日夜半、大菩薩於行ヘ示仰宣、吾深感-ニ應汝之修善、敢不忍忘、須近都移坐、鎭-二護國家、汝可祈請者、行ヘ歡喜之涙滿眼、瞻仰之愼彌倍、卽始彼十五日、晝夜六時不断奉祈請、以同月廿日京上、八月廿三日到-ニ來山崎離宮邊、寄宿之間更倍信心、祈願申云、伏蒙示現者、同廿五日夜被示云、吾移-ニ坐近都、爲-ニ護王城也、卽撰何處-ニ置寶體、願垂示現給云々、卽夜示宣、可移坐之處石C水男山之峯也、吾將其處者、・・・

石清水八幡宮護国寺略記

三所大菩薩(※1)がこの男山の峯に移坐し、御体を安置奉りて、後代の為に縁起のこと

右、行教(俗姓紀氏(きのうじ))は業の為に修行して久しく、多年を送った。そのような時は常に大菩薩を拝み奉らんと望んでいた。ここにおいて去る貞観元年筑紫豊前国(ぶぜんのくに)に鎮座する宇佐の宮に参拝することとなり(※2)、同年4月15日に宇佐の宮に参宮した。

そして翌4月16日から7月15日までの90日間、宝前にて謹んで仕え、昼は大乗経(だいじょうきょう)を転読(てんどく)し(順ぐりに唱え読み)、夜には真言密教を誦念(じゅねん)し(念仏して唱える)、六時(ろくじ)(※3)には欠かすことなく三所大菩薩に廻向し奉った。こうして90日間の参籠もすでに終わりに近づき都に帰ろうとしていた最終日の7月15日の夜半、行教は八幡(はちまん)大菩薩から

「吾、深く汝が修善に感応す。つとめて忘れる可からず。吾、須(すべか)らく都の近くに移座し、国家を鎮護せん。汝、祈って、加護を請うべし。」

との神託を受けたのだった。行教の目には歓喜の涙が満ち溢れ、あおぎ見て敬い慕う気の配り様は倍増した。4月15日に参宮して以来、昼夜六時には欠かすことなく祈り、加護を請うことも無事に務め上げて、7月20日には京へ上がるべく出発した。

翌8月の23日、山崎離宮(現京都府乙訓郡大山崎町にある離宮八幡宮(りきゅうはちまんぐう)。天王山の麓に位置。)の辺りまで戻って来た。ここで寄宿している間、更に加護を願って神を信ずる心が倍旧した。行教は祈願して言う。

「どうかお告げを頂けないでしょうか」

すると同25日夜、再び示されて言う。

「吾、都の近きに移座す。王城(おうじょう)を鎮護せんが為なり。」

そこで行教が

「何処を選んで宝体(※4)を安置奉ればよろしいでしょうか、願わくばお告げを下されんことを」

云々と。

その夜示して曰く。

「移座すべき所は石清水男山の峯なり。吾、将にそこに現れんとするものなり。」

・・・

※1.三所大菩薩
石清水八幡宮の祭神となる次の三柱。
  • 誉田別尊(ほんだわけのみこと)(応神(おうじん)天皇)
  • 比淘蜷_(ひめおおかみ)(多紀理毘賣命(たぎりびめのみこと)・市寸島姫命(いちきしまひめのみこと)・多岐津比賣命(たぎつひめのみこと)の宗像三女神(むなかたさんじょじん))
  • 息長帯比賣命(おきながたらしひめのみこと)(神功(じんぐう)皇后)
※2.行教が宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)へ赴くこととなった背景
天安(てんあん)2年(858)、皇室との関係を深め、権力を確立していた藤原良房(ふじわらのよしふさ)の外孫惟仁親王(これひとしんのう。のちの清和(せいわ)天皇。)の即位を祈祷するため、九州の宇佐八幡宮(現大分県宇佐市)へ派遣されることとなったのですが、ほどなくした同年11月に惟仁親王が即位したことから、翌貞観元年(859)に改めて清和天皇護持のため、藤原良房の命で宇佐八幡宮に参篭することになったのです。
※3.六時
1日を6つに分けた、15時〜19時にあたる日没(にちもつ)、19時〜23時にあたる初夜(しょや)、23時〜3時にあたる中夜(ちゅうや)又は半夜(はんや)、3時〜7時にあたる後夜(ごや)、7時〜11時にあたる晨朝(じんじょう・しんちょう)、11時〜15時にあたる日中(にっちゅう)を指します。
※4.宝体
尊い体(すがた)、即ち、神霊の宿る物体。それは神そのもので、神の本体として礼拝の対象物となるもの。

京に戻った行教はこのことを朝廷に報告します。そして時の清和天皇の勅命により、宇佐八幡宮に准じて、正殿三宇、礼殿三宇からなる神殿六宇の造営が行われ、翌貞観2年(860)4月3日に宇佐八幡宮から山城国男山に三所大菩薩を勧請して「石清水八幡宮」が創建されたのです。

このように石清水八幡宮は、行教という僧によって勧請された社であり、護国寺という神宮寺によって統括された、寺院と一体の神社でもあったことから、仏教とは切っても切れない関係にありました。

即ち、石清水八幡宮に祀られている八幡神は「神」であると同時に、鎮護国家の「仏」でもあったのです。

ところで、このような背景もあって、明治維新以前の石清水八幡宮には、山上の本殿を取り巻くように多くの寺院や堂塔、それに僧房が並び立っていたといい、これらは俗に「男山四十八坊」と呼ばれていました。しかし、明治初年の神仏分離令により、これらの仏教施設はことごとく取り払われ、今では参道のかたわらに、草木に覆われた石垣や石碑を残すのみとなっています。

今日、石清水八幡宮参詣の折には、境内に残る跡地にも目を止め、当時の様子を忍んでみるのも楽しみの一つと言えそうです。

仁和寺にある法師

鎌倉時代末期、吉田兼好(よしだけんこう)が書いたとされる随筆『徒然草』(つれづれぐさ)の第五十二段に次のような話が載っています。

仁和寺(にんなじ)にある法師、年よるまで、石清水(いはしみづ)を拝(をが)まざりければ、心うく覚(おぼ)えて、ある時思ひ立ちて、ただひとりかちより詣(まう)でけり。極楽寺(ごくらくじ)、高良(かうら)などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。さて、かたへの人にあひて、「年比(としごろ)思ひつること、果(はた)し侍(はべ)りぬ。聞きしにも過ぎて、尊(たふと)くこそおはしけれ。そも、参(まゐ)りたる人ごとに山へのぼりしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意(ほい)なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。
少しのことにも、先達(せんだち)はあらまほしき事なり。

仁和寺の老僧がこれまで石清水八幡宮に参拝しなかったことを残念に思い、ある日、ふと思い立って一人歩いて石清水八幡宮詣でへと出かけて行った。男山山麓の極楽寺、高良(こうら)社などを詣でると、老僧は石清水八幡宮はこれらだけだと思いこんで、帰ってしまった。

さて、仁和寺へ戻ってくると朋輩に向かって「この度は八幡宮に詣でることができて長年の念願を果たしました。噂に聞いていた以上に荘厳でいらっしゃった。それにしても、参詣している人々がいずれも山へ登っていく。はて、何だろうと思い知りたかったけれども、八幡宮に参詣するという私の今回の旅の目的を果たしたのだからと思い、山の上までは見なかった。」と言った。

ちょっとしたことにも、その道の先導役はあって欲しいものである。

石清水八幡宮は神仏習合の社ということで僧侶の参詣も何ら問題はなく、思い立って参拝にやって来たところまではよかったのですが、男山の麓に鎮座する摂社の高良社を本宮と誤認して念願を果たしたと思いこんでしまい、帰って行った仁和寺の老法師の話です。

今日の高良社に参拝すると果たして本宮と誤認するものなのか、と思えるのですが、往時は男山山麓も壮大で、頓宮(とんぐう)、極楽寺(※5)とともに、高良社は、仁和寺の僧ならずとも目が眩むほどの荘厳を極めていたといい、高良社を見て石清水八幡宮の本殿と受け止めてしまうほどの社だったようです。

※5.極楽寺
石清水八幡宮は、大きく分けて本宮のある山上の上院(じょういん)と、頓宮や高良社のある山麓の下院(げいん)とから成っています。下院にあった極楽寺は、頓宮横の斎館付近に建てられていたとされますが、幕末の鳥羽・伏見の戦いで下院が焼失した際、極楽寺も焼失してしまったといいます。そしてそのまま極楽寺は再建されることなく廃絶となっています。

寛永文化の担い手、松花堂昭乗

江戸時代初期、書道史において近世の幕開けをもたらしたとされ、後世(明治以降)に「寛永の三筆」(かんえいのさんぴつ)と称され(享保(きょうほう)年間(1716〜1735)の1730年代には「京都三筆」と呼ばれています)その名をとどめた近衛信伊(このえのぶただ)、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)、そして松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)。

ただ、近衛信伊の近衛流、本阿弥光悦の光悦流が寛永の頃から早くも百年ほど経った江戸時代中頃の元禄(げんろく)期で途絶えたとされる中、瀧本流、松花堂流、山様、式部流などと称せられた昭乗の書流は、近世(江戸後期の頃まで、即ちほぼ江戸時代)を通じてその書文化を担う一大書流へと発展していったといいます。その理由は、一般の人々に親しみやすく、真似しやすかったということ、そして出版物の浸透も相まって、特に、江戸時代後期には庶民文化の向上とともに寺子屋が急激に増えていく中、手習いの手本の教材として瀧本流の墨拓本が作られたことから、広範囲にわたって利用されることとなったことが大きかったようです。加えて、昭乗の書流は江戸幕府の公用体として、江戸時代の主流を占めた大橋流(幕府の右筆となった大橋長左衛門(おおはしちょうざえもん)が始祖)に引き継がれたことも挙げられ、長く人々に受け入れられたのでした。

昭乗が起こした書流が流行した様子は、江戸時代後期の享和(きょうわ)2年(1802)に成った白陽東魚(はくようとうぎょ)の『青楼日記』(せいろうにっき)に次のように記載されています。

・・・左様さ近年は、猫も、しゃくしも、まにあいの松花堂をやらかして、書ちらかすもんだから、紅毛もじの素讀をするやうで、むてへよめねへのがございやす。・・・

・・・そうさ、近年では猫も杓子も、役に立つ松花堂流を習うのはいいが、書き散らかすもんだから、紅毛(こうもう)文字、つまり、オランダ語の書籍でも読んでいるようで、何と書いてあるのかまったく読めないのがありやす。・・・

一方、昭乗は小堀遠州(こぼりえんしゅう)、林羅山(はやしらざん)、佐川田昌俊(さがわだまさとし)、沢庵宗彭(たくあんそうほう)、石川丈山(いしかわじょうざん)、木下長嘯子(きのしたちょうしょうし)ら、当時を代表する多くの文化人・知識人とも交流を深め、茶の湯、和歌、連歌(れんが)などについても活躍の場を広げていきました。

また、書画骨董(こっとう)の鑑識にも優れ、蒐集(しゅうしゅう)した茶器は「八幡(はちまん)名物」として知られているところです。

さて、昭乗の生年・生国には2説があり、はっきりしていません。安土桃山時代の天正(てんしょう)10年(1582)に摂津国(せっつのくに)(現大阪府北西部と兵庫県南東部)で誕生したとする説、もう一つは、その2年後の天正12年に奈良の春日(かすが)で誕生したとする説です。昭乗には兄が一人いましたが、二人して自らの生国、父母の名、そして先祖のことなど、子、あるいは弟子にすら、たとえ聞かれても一切を語らなかったといいます。

そのような昭乗は、8歳(6歳)のころ八幡(やわた)にやって来たようで、その翌年に、石清水八幡宮内の坊の一つである瀧本坊(たきのもとぼう)の住持、実乗(じつじょう)に拾われたといいます。昭乗は誰の子で、どこから入寺したのかといった幕府の調べもあったようで、これに対して、実乗は、昭乗の生まれも、父母の名さえも知らない、と答えたといいます。

ちなみに、瀧本坊は参道を挟んで霊泉「石清水」が流れる石清水社の東に位置し、「瀧の落来る本」(『男山考古録』)にあったことからこの名が付いたといいます。

17歳(15歳)の頃になると、昭乗は「洛南なる石清水八幡宮の鎮座する男山に上り、瀧本坊の実乗を師として仕えた」(佐川田昌俊『松花堂昭乗』)ようです。男山入山後は一時期、鐘楼坊(しょうろうぼう)に入り、その後、師・実乗のいる瀧本坊に移っています。

後に、昭乗は、実乗のもと真言密教をおさめて阿闍梨(あじゃり)法印の位につくことにもなりますが、この関係もあってか、昭乗は空海(くうかい)を敬慕し、空海の書風を受け継ぐ大師流(だいしりゅう)もよくしたといいます。

慶長(けいちょう)20年(1615)5月7日深夜、大坂夏の陣で大坂城が陥落します。ここに、豊臣家と深く関わっていたことから豊臣方の残党として嫌疑をかけられた絵師がいました。当時、狩野探幽(かのうたんゆう)とともに狩野派の絵師として知られていた狩野山楽(さんらく)です。狩野探幽はその活動の場を江戸に移しましたが、狩野山楽は京に留まっていたのです。狩野山楽は災難を避けるべく、しばし実乗のいる瀧本坊に身を隠すことになります。この時、昭乗は狩野山楽から絵を学んだようです。昭乗34歳(32歳)。昭乗は彩色画もよくしましたが、晩年には水墨画を多く描くようになっています。

寛永4年(1627)3月、実乗が亡くなります。昭乗は瀧本坊の住職となって実乗の後を受け継ぎます。昭乗46歳(44歳)。以後、自らも瀧本坊と名乗ることになります。

寛永14年(1637)の12月中旬、56歳(54歳)となっていた昭乗は、瀧本坊を、昭乗の兄中沼左京(なかぬまさきょう)の子で昭乗の甥にあたる乗淳(じょうじゅん)に譲り、昭乗自らは瀧本坊の南方に少し下った先の丘にある泉坊(いずみのぼう)に移ります。そしてその一角に茶室「松花堂」を建て、以後、自らも松花堂と名乗り、晩年を過ごすことになります。

寛永16年(1639)。昭乗はこの年5月頃から体調を崩したようで、7月には小堀遠州が昭乗を伏見に呼び寄せ医師に診察を受けさせています。当時、小堀遠州は伏見奉行の地位にありました。そこで、松花堂のある男山は京に住む名医が診察に出向くには不便なところにあったこともあり、小堀遠州が昭乗を伏見に転地させた上で、京に住む名医を呼び集めて診察させたといいます。昭乗と小堀遠州の交流の深さが窺い知れます。しかし、治癒は難しいとの診断が下されたのでした。

そして、9月18日、昭乗は息を引き取ります。58歳(56歳)。昭乗の墓は、石清水八幡宮の麓にある泰勝寺(たいしょうじ)にあります。

最後に、「松花堂弁当」について。これは、十字形の仕切りを設けて四つの区切りのある四角い木製の塗箱(ぬりばこ)に、ご飯、焼き物、煮物、刺身などを盛りつけた弁当として知られています。農家が種入れとして使っていた器からヒントを得て昭乗が絵具箱(煙草盆であったとも)を作り、愛用したといいます。「松花堂弁当」は、昭乗が愛用したその絵具箱から昭和の初めに考案され、誕生し、広まりました。

写真集≪一ノ鳥居〜参道ほか≫写真集≪一ノ鳥居〜参道ほか≫(29枚の写真が表示されます。)
写真 
遠望
木津川(写真)に架かる木津川大橋(国道1号)より下流方面を望むと、写真奥の左側に男山が、そしてその右側にお椀を伏せた格好の山、天王山がうっすらと見えます。
写真集2≪泉坊松花堂跡界隈ほか≫写真集2≪泉坊松花堂跡界隈ほか≫(29枚の写真が表示されます。)
写真 
松花堂跡へ
影清塚のある分かれ道で表参道から逸れる(「写真集」の写真22参照)と松花堂跡(国史跡)の前を通って霊泉「石清水」を祀る石清水社のある方へと向かいます。
石段が上の方へと延びていますが、その一番手前には短いながらも「石橋」が架かっています。その両端には低い欄干らしきものも見えます。そして写真右下の暗くなっているところに石碑が立っています。近づいてみると・・・
写真集3≪展望台・エジソン記念碑≫写真集3≪展望台・エジソン記念碑≫(10枚の写真が表示されます。)
写真 
はて、ここは・・・
太陽の光を浴びて爽やかな緑が漂う展望台へとやってきました。
写真集4≪三ノ鳥居〜本宮≫写真集4≪三ノ鳥居〜本宮≫(28枚の写真が表示されます。)
写真 
三ノ鳥居
上院への入り口です。半世紀以上の時を経て南北朝が統一されて間もない応永(おうえい)7年(1400)に三ノ鳥居が建てられています。大木を用いて朱塗りにし、金で飾られた鳥居だったといいます。そのまばゆさが目に浮かぶようです。
それから約200年後、江戸時代初めの正保(しょうほう)2年(1645)正月に石造りに改められます。
その後鳥居は、安永(あんえい)3年(1774)、昭和36年(1961)と、二度の台風により倒壊したといいますが、その度に再建されてきました。現在の鳥居は、昭和36年の第二室戸台風によって倒壊した翌年の昭和37年(1962)に再建されたものとなっています。
写真集5≪石清水灯燎華≫写真集5≪石清水灯燎華≫(6枚の写真が表示されます。)
写真 
国宝指定を祝して
今年(2016年)5月4日の19時より、石清水八幡宮でライトアップがあることを知り、出かけました。まだほんのりと太陽の明るさが残る19時少し前、男山山上にあるエジソン記念碑近くの広場では写真の光景が見られました。
≪関連情報≫
項目 内容
所在地 八幡市八幡高坊30
祭神 八幡大神(誉田別命、比淘蜷_、息長帯比賣命の総称)
創建年 貞観2年(860)
祭事 石清水祭ほか
文化財
国宝
石清水八幡宮本社10棟(本殿(内殿及び外殿)、摂社武内社本殿、幣殿及び舞殿、瑞籬、楼門、東門、西門、廻廊三棟、附:棟札3枚)
重要文化財
石清水八幡宮護国寺略記、摂社若宮社本殿、摂社若宮殿社本殿、摂社水若宮社本殿、摂社住吉社本殿、鎌倉期石灯籠(永仁三年乙未三月日刻銘)、五輪塔ほか
史跡
松花堂およびその跡、石清水八幡宮境内

【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。

【マップ掲載番号の説明】

図中の[地図]のボタンをクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
  1. 一ノ鳥居
  2. 放生池
  3. 頓宮北門
  4. 頓宮
  5. 頓宮殿
  6. 斎館
  7. 頓宮南門
  8. 五輪塔
  9. 高良神社
  10. 頼朝松
  11. 表参道上り口
  12. 裏参道上り口
  13. 二ノ鳥居
  14. 七曲がり
  15. 影清塚
  16. 大扉稲荷社
  17. 豊蔵坊跡
  18. 駒返し橋
  19. 泉坊跡
  20. 泉坊松花堂跡
  21. 石清水社
  22. 瀧本坊跡
  23. 護國寺薬師堂跡
  24. 細橋
  25. 伊勢神宮遥拝所
  26. 展望台
  27. 元禄三年銘石造灯籠
  28. エジソン記念碑
  29. 神馬舎
  30. 三ノ鳥居
  31. 一個石
  32. 鳩峯寮の庭
  33. 御鳳輦舎
  34. 御羽車舎
  35. 本宮前参道
  36. 書院庭園
  37. 南総門
  38. 本社
  39. 信長塀
  40. 東総門
  41. 水若宮社
  42. 若宮殿社
  43. 若宮社
  44. 鬼門封じ
  45. 北総門
  46. 住吉社
  47. 西総門
  48. 楠の御神木
  49. 天王山(※2)
  50. 桂川(※2)
  51. 宇治川(※1)
  52. 御幸橋(※1)
  53. 木津川(※1)
  54. 安居橋
  55. 放生川(大谷川)
  56. 買屋橋
  57. 泰勝寺
  58. 八角堂(※2)
  59. 松花堂庭園・美術館(※2)
  60. 木津川大橋(※2)
※1.−(マイナスボタン)を2回クリックすると表示されます。
※2.−(マイナスボタン)を3回クリックすると表示されます。

図の操作について

  • 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
  • 図中の+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
  • 図中の[地図]のボタンをクリックすると地図タイプを切り替えることができます。
  • 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
  • 最初の状態に戻すには、キーボードのF5キーを押下してください。

近隣の観光スポット情報

上記の【境内概観図】をご参照ください。

posted by はんなり・ジャーニー at 10:11 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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