圓通寺

御幸御殿から庭園を望む
御幸御殿から庭園を望む
庭園は御幸(みゆき)御殿(客殿)に東面して広がり、その全面に敷き詰められた杉苔が緑の絨毯となって覆っています。
庭園の先に見えるのは霊峰比叡山(ひえいざん)。その山頂までの距離は約6キロメートル。当庭園は比叡山を借景としており、比叡山はこの圓通寺の庭から眺めるのが最も美しいといい慣わされてきました。しかしながら、比叡山を借景にしているとはいえ、ここでは比叡山はもはや借景としての位置づけを超えて庭園の一構成要素として扱われているようでもあります。
まだ10月の下旬にもかかわらず、この地は寒暖の差が大きいのでしょうか、写真左側には早くも楓の紅葉している様子が見られます。一方、写真右側にも楓の木があり、まだ緑の葉に包まれていますが、秋も深まる頃には一段と艶やかな庭園の姿を見ることができそうです。
従来圓通寺での写真撮影は全面禁止となっていたようですが、近隣の住宅建築などによる開発が進むことによって景観がおびやかされることを案じた住職が御幸御殿(客殿)に面する庭園のみの撮影を許可されたといいます。
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鞍馬街道の通じる洛北深泥池(みどろがいけ/みぞろがいけ)の北、岩倉の幡枝(はたえだ)にある圓通寺(えんつうじ)。江戸時代の初め、幕府による朝廷への圧迫に対する不満から譲位した後水尾(ごみずのお)上皇が着手した山荘の造営計画の中で、修学院離宮(しゅがくいんりきゅう/しゅうがくいんりきゅう)造営前に幡枝に設けられた離宮を前身としています。

その御幸御殿(客殿)に東面する平庭枯山水(ひらにわかれさんすい)庭園は、霊峰比叡山を最も美しく見せる借景庭園の代表作として名高く、客殿に座って庭園を望めばその景観の見事さに時が過ぎるのもしばし忘れてしまいます。国の名勝に指定されています。

朝廷と幕府の確執

慶長(けいちょう)20年(1615)5月に大坂夏の陣が終局を迎えて豊臣家が滅亡した2ケ月後の元和(げんな)元年7月、禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)が発布されます。「禁中」とは天皇を指します。

禁中並公家諸法度は、二条城において前関白二条昭実(にじょうあきざね)、第2代将軍徳川秀忠(ひでただ)、大御所徳川家康(いえやす)が連署し、この順で署名された17ヵ条よりなるもので、幕府の方針に忠実な朝廷の運営が行われる事を目指し、幕府が天皇と公家の行動を規制するために定めた法度といえます。

例えば、その第1条は「天子諸藝能之事、第一御學問也。」(天子諸芸能のこと、第一御学問なり。)から始まっており、政治に無関係の学問や和歌の修業を天皇にすすめるものとなっています。また、改元(年号の定め方)、天皇以下公家の衣服や諸公家の昇進の次第、あるいは紫衣(しえ)勅許の条件や僧侶の号等々について定められた内容となっており、主として天皇の行為が細かく直接に規定されたものであることがうかがえます。

そして以後は、朝廷の行動全般が京都所司代(きょうとしょしだい)を通じて幕府の管理下に置かれることとなります。

ところが禁中並公家諸法度の発布後の寛永(かんえい)3年(1626)、当時の後水尾(ごみずのお)天皇は、これまでの慣例どおり、幕府に相談なく大徳寺・妙心寺等の十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えます。

このことを知るに及んだ幕府は翌寛永4年、これを法度違反だと問題にして後水尾天皇の勅許状を無効とし、京都所司代・板倉重宗(いたくらしげむね)に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じたのです。

これに対して執拗に抗議したのが大徳寺の僧、沢庵(たくあん)らでした。沢庵らは幕府の決定に対して容易に服従せず、ついには寛永6年、配流の刑に処されることとなったのです(紫衣事件(しえじけん))。

この事件は江戸時代初期における朝廷と幕府の不和確執の最大のものとされています。

俄ノ譲位、そして離宮造営へ

この事件により、幕府は「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」という事を明示することとなり、これは即ち、元は朝廷の一官職に過ぎなかった征夷大将軍とその幕府が、天皇の上位に立った、という事を意味しています。

この事件に代表されるように、天皇の権威を失墜させる幕府のおこないに耐えかねた後水尾天皇は同寛永6年11月、幕府への通告を全くしないまま、二女で当時わずか7歳であった興子(おきこ)内親王(明正(めいしょう)天皇)への「俄(にわか)ノ譲位」を断行したのです。

そして後水尾上皇となって失意のうちにがやがて情熱を傾けて着手しだしたのが山荘の造営計画でした。

寛永18年(1641)より鹿苑寺(ろくおんじ)(金閣寺)付近に候補地の物色を始め、以後洛北へと足を向けていったといいます。そして正保(しょうほう)年間(1644〜1648)頃に岩倉の幡枝に離宮を造営することとなったのです。現在の圓通寺はその幡枝離宮の下(しも)離宮にあたり、比叡山を借景とする枯山水庭園もこの頃に造られたといいます。

この後、後水尾上皇は承応(じょうおう)2年(1653)〜承応4年(1655)にかけて幡枝離宮の東に位置する比叡山麓に修学院離宮を造営することになるのですが、幡枝離宮はそれまでのひと時を過ごしたところでもありました。御幸御殿から庭園を通して比叡山を望む景観は実にすばらしいことから後水尾上皇のお気に入りだったようです。

以来今日に至るまでの370年間、その景観は時代環境の変化に押し流されることなく連綿と受け継がれてきています。

修学院離宮が完成して17年ほどが経った寛文(かんぶん)12年(1672)、幡枝離宮は後水尾上皇の第19皇子である霊元(れいげん)天皇の乳母(めのと)の文英尼(ぶんえいに)に下賜されることになります。

それから6年後の延宝(えんぽう)6年(1678)、文英尼が開基となり、室町時代から戦国時代にかけての臨済(りんざい)宗の僧で妙心寺10世の景川宗隆(けいせんそうりゅう。1425年生〜1500年没。)を勧請開山(かんじょうかいざん。実際に開山でない人を開山にあてること。)として寺に改められることになったのです。後には、後水尾上皇より山号を大悲(だいひ)、寺号を圓通とする勅額を賜ることになります。

延宝8年(1680)には霊元天皇の勅願寺となり、霊元天皇より梵鐘が寄進されたといいます。

写真集写真集(2枚の写真が表示されます。)
写真 
庭園の北東側に目を向けると
苔むした庭園には大小40余りの石が配されていますが、この方角に集中して配されています。庭石の多くは青みがかった海石(かいせき)で、紀州(和歌山県と三重県南部)から運ばれてきたものといいます。苔地を大海、庭石を大海に浮かぶ島々と見ることもできます。
庭石の石組は、立石より横石を多く使うことによって全体的に低く抑えられた構成となっているようです。これによって借景の比叡山を引き立たせているといいます。
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≪関連情報≫
項目 内容
所在地 京都市左京区岩倉幡枝町(はたえだちょう)389
山号 大悲山(だいひざん)
宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 聖観音(しょうかんのん)
創建年 延宝6年(1678)
開基 文英尼
開山 景川宗隆(勧請開山)

【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。

【マップ掲載番号の説明】

図中の[地図]のボタンをクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
  1. 山門
  2. 高浜虚子句碑
    「柿落葉踏ミてたづねぬ円通寺」
    と彫られた句碑。
  3. 鐘楼
  4. 方丈(本堂)
  5. 御幸御殿(客殿)
  6. 枯山水庭園
  7. 潮音堂(観音堂)
    黄檗宗(おうばくしゅう)の開祖隠元(いんげん)が中国から請来したという不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん/ふくうけんじゃくかんのん)が安置。出家した後水尾法皇は隠元に帰依。
  8. 深泥池(※1)
※1.−(マイナスボタン)を3回クリックすると表示されます。

図の操作について

  • 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
  • 図中の+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
  • 図中の[地図]のボタンをクリックすると地図タイプを切り替えることができます。
  • 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
  • 最初の状態に戻すには、キーボードのF5キーを押下してください。

近隣の観光スポット情報

上記の【境内概観図】をご参照ください。

posted by はんなり・ジャーニー at 21:50 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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