
傍花閣
京都駅北側より烏丸通(からすまどおり)に沿って500メートル足らず北上すると東本願寺(ひがしほんがんじ)があります。そしてその御影堂門(ごえいどうもん)前の正面通(しょうめんどおり)を東へ200メートルばかり行くと見えてくるのが渉成園(しょうせいえん)です。渉成園は東本願寺(浄土真宗大谷派)の飛地境内です。
江戸時代後期に刊行された京都に関する名所・街道・寺社などの来歴・伝説・名物などを絵入りで説明した通俗地誌『都名所図会』(みやこめいしょずえ)(1780年刊行)に「東本願寺別荘なり」と記載されているように、当時の人々からも、四季折々の美しい自然を楽しめる庭園と雅な建築物のある別荘である、と認識されていたようです。
家光から土地を寄進されて
安土桃山時代の文禄(ぶんろく)元年(天正(てんしょう)20年)(1592)、本願寺第11世顕如(けんにょ)が世を去ると、その長男・教如(きょうにょ)が本願寺を継承します。ここにいう本願寺とは、七条堀川の地にあって今日「西本願寺」と通称されるものです。
が、教団内の対立により、教如は豊臣秀吉(とよとみひでよし)によって退隠させられ、本願寺の一角にあった隠居所に入ることになります。
慶長(けいちょう)3年(1598)秀吉が世を去り、慶長5年の関ヶ原の戦いの後、かねてより徳川家康(とくがわいえやす)に通じていた教如はさらに家康に接近し、ついに慶長7年(1602)、家康から、「本願寺」のすぐ東の烏丸(からすま)六条に四町四方(よんちょうしほう)(1町は約109メートル)の寺領が寄進されることになります。教如は七条堀川の本願寺の一角にあった隠居所から堂舎を移し、十二代宗主として本願寺教団を設立して、ここを本拠とすることになります。東本願寺の始まりです。
ここに本願寺は「西」と「東」に分裂することになります。
それから40年ほど経った寛永(かんえい)18年(1641)、教如の後を継いでいた13代宣如(せんにょ)が3代将軍家光(いえみつ)から東本願寺の東側に約10,600坪(35,200平方メートル)の土地を寄進されます。その後、宣如は承応(じょうおう)2年(1653)に退隠すると、自らの隠居所をそこに定めます。そして、すでに寛永18年に京都の洛北に詩仙堂(しせんどう)を自ら建てて終の棲家とし、ここで清貧を旨として学問に没頭し、隷書、漢詩の大家などとしても知られ、また庭園設計にも精通していた石川丈山(いしかわじょうざん)を迎えて庭園を築き、別邸とします。「渉成園」と名付けられたこの地は、以後、近世・近代を通じて門首の隠退所や外賓の接遇所として用いられるなど、東本願寺の飛地境内地として重要な機能を果たすことになったのです。
園内の諸殿は安政(あんせい)5年(1858)、元冶(げんじ)元年(1864)の二度にわたって焼失しています。現在の建物は明治初期から末年ごろに至る間に順次再建されたものとなっています。
名の由来
園名の「渉成園」は中国六朝(りくちょう)時代の詩人陶淵明(とうえんめい。365年生〜427年没。)の散文作品である『歸去來兮辞』(ききょらいのじ)の一節から採られたものといいます。
『歸去來兮辞』は、淵明の家が貧しかったことから身近な人に勧められて生活のために官職についたものの、本来自然率直な自分の本性を曲げてまで職に励むことには馴染めなかったことからわずか八十余日で官職を辞して帰郷し、自分に合った、自然を友とする田園生活に生きようとする淵明の心境・決意を格調高くうたいあげた六朝散文文学の最高傑作の一つとして挙げられる作品です。淵明は、「少(わか)きより俗に適(かな)う韻(しらべ)なく、性は本(も)と邱(おか)と山とを愛す」、「關テ(かんせい。ものしずかなこと。閑静。)にして言すくなし」、あるいは「性(しょう)は剛にして才は拙(つた)なく、物(ひと)と忤(たが)うこと多し」というタイプの人であったようで、こういったことからも今風に言えば組織の中で人と協調して働くということは、淵明の性に合わなかったと見られます。
『歸去來兮辞』は4段で構成されています。第1段は「歸去來兮」(ききょらいけい)に始まります(「兮」(けい)は助字(感嘆詞)。訓読では読まれません。)。「歸去來兮」とは「さあ、帰ろう」の意で、日本では「帰りなんいざ」と読み慣わされています。この読み方は菅原道真(すがわらのみちざね )に始まるとされており、以後この訓読が定着したとされています。この段では淵明41歳の405年11月に官を辞して、はやる心で田園の広がる郷里に帰る心境を述べ、第2段は故郷の家に帰り着き、わが子らに迎えられた喜びと身が落ち着ける我が家でくつろげる嬉しさが述べられます。第3段は再び「歸去來兮」と述べて、世俗とは絶縁した田園生活の喜びを述べています。これは年が明けた春のことです。第4段は自然の流れにわが身を合わせ、生命の終りの日まで天命に従って生の道を歩もう、という気持をうたいあげています。
さて、園名の「渉成園」は、この第2段にある「園日渉以成趣」から採られたものです。先述の通り第2段では故郷の家に帰り着き、身が落ち着ける我が家でくつろげる嬉しさが述べられますが、退隠した宣如にとっての隠居所が、それまでの重責から解放されて身が落ち着けるところとなるという心境と重なったのか、ふと『歸去來兮辞』が思い起こされてその一節から当園の名が付けられたのかもしれません・・・。
【「歸去來兮」原文】
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歸去來兮、田園將蕪、胡不歸。既自以心爲形役、奚惆悵而獨悲。悟已往之不諫、知來者之可追。實迷途其未遠、覺今是而昨非。舟遙遙以輕颺、風飄飄而吹衣。問征夫以前路、恨晨光之熹微。
乃瞻衡宇、載欣載奔。僮僕歡迎、稚子候門。三徑就荒、松菊猶存。攜幼入室、有酒盈吹B引壺觴以自酌、眄庭柯以怡顏。倚南窗以寄傲、審容膝之易安。園日涉以成趣、門雖設而常關。策扶老以流憩、時矯首而遐觀。雲無心以出岫、鳥倦飛而知還。景翳翳以將入、撫孤松而盤桓。
歸去來兮、請息交以絕遊。世與我而相違、復駕言兮焉求。ス親戚之情話、樂琴書以消憂。農人告余以春及、將有事於西疇。或命巾車、或棹孤舟。既窈窕以尋壑、亦崎嶇而經丘。木欣欣以向榮、泉涓涓而始流。善萬物之得時、感吾生之行休。
已矣乎、寓形宇內復幾時。曷不委心任去留、胡爲乎遑遑欲何之。富貴非吾願、帝鄉不可期。懷良辰以孤往、或植杖而耘耔。登東皐以舒嘯、臨清流而賦詩。聊乘化以歸盡、樂夫天命復奚疑。
【訳文〜『陶淵明全集(下)』(岩波書店)より〜】
さあ、帰ろう。故郷の田園がいまにも荒廃しそうなのに、どうして帰らずにいられようか。みずから求めて精神を肉体の奴隷と化してしまっているのに、ひとりくよくよと嘆き悲しんだところで、どうなるものでもない。過ぎ去ったことは、今さら悔んでもしかたがない。これからのことは心掛けひとつでどうにでもなる。人生の進路をたしかに踏みまちがえたが、まだそれほど遠くへは来ていない。役人をやめた現在こそ正しく、かつての生活があやまりだったことにやっと気づいた。
舟はゆらゆら揺れて軽く上下し、風はひゅうひゅうとわが衣を吹きつける。行きあわせた旅人に故郷までの道のりをたずねるが、朝の光はまだ薄暗く、見通しのきかないのが残念である。
やがてわが家が見え、うれしさのあまり思わず駆け出した。召使いがうれしそうに迎えてくれ、幼な児も門で待っていた。庭を見わたせば小道は荒れかけているが、松や菊は昔のままに残っている。幼な児を伴って部屋に入ると、酒が樽いっぱいに用意されている。さっそく徳利と杯をひきよせて手酌をはじめ、庭の木々の枝ぶりをながめやれば、顔が自然とほころんでくる。南の窓にもたれてくつろぐと、狭くとも身が落ちつけるところはわが家であることをしみじみ感じさせられる。
以後、庭は日ましに味わいのある庭となり、門を閉じて世俗との交渉をすっかり絶ってしまった。杖をついて気ままに歩きまわったり、立ち止まったり、時に頭をあげて遠くを見わたしたりする。雲は山の峰から自然とわきいで、鳥は飛び疲れてねぐらにもどっていく。あたりがほの暗くなって夕日が沈もうとしているが、こんな時は、ひょろりと立った一本松をなでながら、いつまでも立ち去りがたい。
さあ、帰ろう。世俗との交遊は謝絶したいものだ。世間とわたしとはそりがあわないのに、また仕官して何を求めようというのか。親戚の者たちのうちとけた話を喜び、琴や読書を楽しみにして余生を送れば、心のうさは晴れようというものだ。
農夫がやって来て、春が来ましたよ、そろそろ西の田で仕事がはじまりますよ、と告げる。ときには幌車(ほろぐるま)を出すように命じ、ときには小舟に棹さして田んぼに出かける。奥深い渓谷に入り込み、あるいはけわしい丘を越えて行く。木々は欣(よろこ)ばしげに花を咲かせようとしているし、泉はさらさらと流れはじめている。万物がよい季節にめぐりあったのを喜ぶとともに、わたしの生命がそろそろ終わりに近づくのを感じ取るのである。
ああ、いかんともしがたい。肉体がこの世にあるのは、あといくばくもないというのに、なぜ自らの願うところに従い、自分の出処進退をそれに合せないのか。一体このわたしは、どこへ行こうとして、かくもあわただしくしているのだろう。富や地位はわたしの願いではない。また、神仙の世界などというのもあてにならない。
晴れた日が来れば、ひとりで歩き回り、杖を傍らに突き立てて農作業の真似ごとをする。また、東の丘に登ってのんびりと口笛を吹き、清流を前にして詩をつくる。自然の変化にわが身をあわせ、生命の終わるのを待ちうける。天命を素直に受け入れて楽しむ境地に入れば、もはや何の迷いもなくなってしまうのだ。
ところで渉成園は当時、枳殻(からたち)の生垣に囲まれていたことから枳殻邸(きこくてい)とも称されています。
枳殻(からたち)には鋭い刺があることから外敵の侵入を防ぐための生垣としてよく使われたといいます。『都名所図会』(巻二)には「東殿(とうでん)」と題して当時の渉成園の景観が描かれていますが、この図の下部を見ると人の往来が描かれた通りが左右に走っています。この通りは南北に走る河原町通(かわらまちどおり)です。そしてこの通りに面した築地塀の手前に生垣が描かれています。枳殻の生垣です。このような形で渉成園が枳殻の生垣に囲まれていたことがうかがい知れます。が、今では渉成園の南を限る通りである下珠数屋町通(しもじゅずやまちどおり)沿いにある門前の一部で見られるだけとなっています。
頼山陽も訪れて
渉成園には多くの著名人が訪れたといいます。儒学者で漢学者でもあった頼山陽(らいさんよう)もその一人でした。山陽が来遊したのは江戸時代後期の文政(ぶんせい)10年(1827)。渉成園を巡り歩いた山陽は『渉成園記』を記し、園内の風雅な様を讃え、主な建物や景物を「十三景」に分けて紹介した『渉成園十三景詠』を記しました。
山陽は来遊した際、現在と同じく間之町通(あいのまちどおり)沿いの西門から入っており、『渉成園記』で紹介した十三景について記した順番は、最初に案内された滴翠軒以降、次の通りとなっています(回遊経路上、重複したものは除きます)。
- 滴翠軒(てきすいけん)
- 傍花閣(ぼうかかく)
- 印月池(いんげつち)
- 臥龍堂(がりゅうどう)(南大島)
- 五松塢(ごしょうう)
- 侵雪橋(しんせつきょう)
- 縮遠亭(しゅくえんてい)(北大島)
- 紫籐岸(しとうがん)
- 偶仙楼(ぐうせんろう)
- 双梅檐(そうばいえん)
- 漱枕居(そうちんきょ)
- 回棹楼(かいとうろう)
- 丹楓渓(たんぷうけい)
中でも気を引くのは、北大島にある茶室縮遠亭で茶会が設けられた時です。この時は、まず客を印月池の南西の畔にある漱枕居に留め置いていたようです。しばらくして茶の用意ができると、南大島にある臥龍堂の鐘楼(現在は礎石のみが残る)を鳴らして知らせます。そして、漱枕居の横(『渉成園記』の原文では「亭下」と記述。「下」には「ほとり、そば」の意もあり。)に浮かべてある舟に客を乗せ、印月池に浮かぶ南大島から北大島へと舟を巡らせて縮遠亭へと向かった、としています。なかなかの風情ある粋なもてなしがなされていたようです。
写真集(46枚の写真が表示されます。)
西門をくぐると咲き誇る桜が目に飛び込んできました。
写真右奥には何やらユニークな石垣が見えます。渉成園で興を添える珍しい石垣の高石垣(たかいしがき)です。
【近隣観光マップ】※マップの操作については下記をご参照ください。
【マップ掲載番号の説明】
- ※
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- 西門
- 高石垣
- 庭園北口
- 臨池亭
- 滴翠軒
- 檜垣の燈篭
- 代笠席
- 亀の甲の井戸
- 傍花閣
- 園林堂
- 偶仙楼(推定位置。現在はありません。)
- 蘆菴
- 蘆菴の春日燈篭
- 閬風亭
- 双梅檐
- 漱枕居
- 印月池
- 臥龍堂
- 源融ゆかりの塔
- 塩釜の手水鉢
- 五松塢
- 侵雪橋
- 縮遠亭
- 碧玉の石幢
- 塩釜
- 紫籐岸
- 回棹廊
- 獅子吼
- 丹楓渓
- 庭園南口
- 大玄関
- 河原町通
- 東本願寺(※1)
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近隣の観光スポット情報
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