
楓のトンネル
写真奥が山門です。
大堰川(おおいがわ)(桂川)に架かる渡月橋(とげつきょう)の400メートルほど上流で、大堰川を挟んで嵐山(あらしやま)に相対する小倉山(おぐらやま)の東麓で風雅な佇まいを見せる宝厳院(ほうごんいん)。そのすぐ北にある天龍寺(てんりゅうじ)の塔頭(たっちゅう)です。小倉山は紅葉の名所として、また古くから歌枕としても広く知られているところです。
宝厳院はその美しい庭園に加え、昔懐かしい光景が偲ばれるところもあってか、時代劇の撮影にもよく使われているところでもあります。
宝厳院は通常非公開で、春や秋に特別公開されています。
平成の世に現地へ移転
宝厳院が室町時代中頃の寛正(かんしょう)2年(1461)に創建された当時は、現在地の東、今日の京都御所の北西に位置する京都市上京区(かみぎょうく)禅昌院町(ぜんしょういんちょう)の地にあって、広大な敷地を有していたといいます。
天龍寺の開山として知られる臨済宗(りんざいしゅう)の禅僧、夢窓疎石(むそうそせき)の第三世法孫にあたる聖仲永光(せいちゅうえいこう)を開山に迎え、室町幕府の管領(かんれい。将軍に次ぐ役職で、将軍を補佐して幕政を統轄。)を務めた細川頼之(ほそかわよりゆき)の昭堂(しょうどう。像・位牌を安置し、祭祀を享(う)ける堂(享堂(きょうどう))。)を寺として創建(※)されたといいます。頼之は、南北両朝分裂後、足利尊氏(あしかがたかうじ)に従って戦功をあげ、室町幕府第2代将軍義詮(よしあきら)の死去に際しては幼少の第3代将軍義満(よしみつ)の補佐を託され幕府管領となってその重職を全うした人です。
- ※創建
- 一般に、宝厳院は寛正2年(1461)に細川頼之を開基として創建されたとされますが、頼之はその69年前の1392年に亡くなっています。
創建6年後から応仁の乱(1467〜1477年)が勃発するとその兵火に遭って廃壊してしまったようです。
その後、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の恩顧によって天正(てんしょう)年間(1573〜1592年)に再興されたと見られています。
時は下って明治時代になると河川工事のため、寺域が買い上げられ、移転することとなりました。移転先は、現在地の近くの天龍寺塔頭弘源寺(こうげんじ)内でした。
そして平成14年(2002)になって、天龍寺曹源池(そうげんち)の南側に位置する現在地を購入して移転し、現在に至ることになります。
『雍州府志』にみる宝厳院縁起について
ところで、江戸時代中頃の貞享(じょうきょう)年間(1684〜1688)に、近世京都百科ともいうべき、山城国(やましろのくに。現京都府南部。)に関する最初の総合的地誌といわれるものが刊行されています。それは、儒医黒川道祐(くろかわどうゆう)が著した『雍州府志』(ようしゅうふし)と題された書物で、山城国 の地理、沿革、寺社、風俗、産物、古跡、陵墓について記されたものです。
この『雍州府志』には宝厳院についても触れられています。以下はその全文です。
-
天龍寺之末寺而在二本法寺之前町一有二寺産少許一傳言寳嚴院元細川ョ久入道常久之昭堂而始在二谷地藏院一開基天龍寺夢窓國師之弟子兩度入唐僧觀中三諦也中世廢壞近世三叔和尚有レ故得二豊臣秀吉公之恩顧一依レ之再二興此寺一自レ茲寄二寺産三十石一
「天龍寺の末寺にして、本法寺(ほんぽうじ)の前の町に在り。寺産少し許(ばか)り有り。伝え言う、宝厳院は元(もと)、細川頼久入道常久の昭堂にして、始(はじ)め、谷の地蔵院に在り。開基は、天龍寺、夢窓国師の弟子にして両度入唐の僧、観中三諦(かんちゅうさんたい)也(なり)。中世、廃壊す。近世、三叔(さんしゅく)和尚、故(ゆえ)有りて豊臣秀吉公の恩顧を得。之(これ)に依りて此(こ)の寺を再興す。茲(こ)れ自(よ)り寺産三十石を寄す。」
ここでは上記の内容について、参考までに下記の4点を付しておきます。
- 1.「本法寺之前町」
- 今日の京都市を南北に走る小川通(おがわどおり)を挟んで本法寺の東に位置する京都市上京区禅昌院町を指しています。
- 2.「細川ョ久入道常久」
- 正しくは「細川頼之」とみられ、「常久」は頼之の法号。
- 3.「谷地藏院」
- 洛西にあって西芳寺(さいほうじ。苔寺。)や華厳寺(けごんじ。鈴虫寺。)がほど近くにあり、通称「竹の寺」として、また「谷の地蔵」としても知られる地蔵院(じぞういん)。地蔵院の開基は細川頼之で、頼之の墓があります。
- 4.「夢窓國師之弟子兩度入唐僧觀中三諦」
- 夢窓国師(夢窓疎石)が生存したのは1275〜1351年です。一方、その弟子にして両度入唐の僧との記載がありますが、「唐」が存在したのは618〜907年であることから歴史上のつじつまが合わないものとなっています。また、開基の名として挙げられている「観中三諦」は、夢窓国師の直弟127名の中には見当たらず、夢窓国師の直弟の一人である「観中中諦」(かんちゅうちゅうたい。1342〜1406年。)を指しているのではないかと考えられます(※1)。観中中諦は、中国の元(1271〜1368年)末期、入元するも、紅巾の乱(こうきんのらん。1351〜1366年)に遭って直ぐに帰国。のち、細川頼之は永泰院(えいたいいん)を建てて観中中諦を請しています。ちなみに細川頼之の戒名は法号「常久」を用いて、永泰院殿桂巌常久大居士。
そして、その観中中諦の弟子の一人に、夢窓国師の第三世法孫にあたる聖仲永先(せいちゅうえいせん。寛正6年(1465)没。)がいます。この聖仲永先の塔所(たっしょ。僧の墓地。)は宝厳院となっています(※2)。今日、宝厳院の開山は前項に記載の通り「聖仲永光」とされていますが、最後の一文字が異なる「聖仲永先」との関係は・・・。- ※1
- 『禅学大辞典』(大修館書店1985年出版)の「禅宗法系譜p-47」より。
- ※2
- 『夢窓国師〜中世禅林主流の系譜〜』(平楽寺書店1958年発刊)の「夢窓門徒一覧(略出)p-237」より。この「夢窓門徒一覧(略出)」に記載している前提として「本表には夢窓疎石の直弟は、現在知られたもの悉くを列挙した。三世の孫以下は塔所・寮舎を開創したもの、著書のあるもの、賜謚号をもつものを採り、その他は殆ど省略に従った。(以下割愛)」とあります。これによると、宝厳院は聖仲永先が開創し塔所となったとみられます。
獅子吼の庭
さて今日では、宝厳院には「獅子吼(ししく)の庭」と呼ばれる、嵐山を借景として巧みに取り入れた回遊式庭園があることで知られています。獅子吼とは、仏の説法を、獅子がほえて百獣を恐れさせ従わせるほどの威力に例えて使われますが、ここ「獅子吼の庭」では、閑静な庭園を心静かに散策することでいつしか無言の説法を受け心が癒される、とされています。
庭園は紅葉の名所としても知られ、古来著名な大きな奇岩として知られる獅子の形をした獅子岩をはじめ、岩から生えている破岩の松(現在は株と根のみ)などを観ることができます。
ところで、宝厳院が移転してきたこの地は、元は、同じ天龍寺塔頭の妙智院(みょうちいん)があったところだといいます。妙智院は、宝厳院が創建される少しばかり前の享徳(きょうとく)年間(1452〜1455)頃に創建されたのではないかと見られます。当時の妙智院については知られるところが少ないようですが、その第三世を務めたのが策彦周良(さくげんしゅうりょう)で、今日宝厳院に見られる「獅子吼の庭」はこの策彦が妙智院に住持していたとき作庭したものだといいます。
江戸時代後期、京都の名所名園を収録した 『都林泉名勝図会』(みやこりんせんめいしょうずえ)(寛政(かんせい)11年(1799)刊)には当時の妙智院の名園として紹介(⇒妙智院)されており、そこには「策彦和尚」の名が見られるとともに、「策彦和尚開山堂」や「獅子吼の庭」の借景となっている「嵐山」も描かれています。
現在妙智院は、天龍寺総門を入って参道を挟んだ勅使門の向かい側にあります。宝厳院の山門前からは道なりに行って400メートル足らずのところです。
策彦、大内義隆の請に応じて
策彦は、師である妙智院二世の心翁等安(しんのうとうあん)が大永(たいえい)2年(1522)に入寂すると、妙智院三世となって受け継ぎます。京都に生まれた策彦には幼児から詩文の才があったとされ、等安の訓導によってその才にますます磨きがかけられ、五山文学史上末期の巨匠としてその名を残しています。
天文(てんぶん)6年(1537)、周防国(すおうのくに。現山口県の東南半分。)の戦国武将大内義隆(おおうちよしたか)の請に応じて京都を去って向かいます。2年後の天文8年には遣明船(けんみんせん)の副使として入明。
任を終えて京都に戻った策彦の名声は大いに上がり、当時、空位であった天龍寺住持の職に推挙されようとしましたが、策彦はこれを固辞。
さらに最初に周防国に赴いてから10年の歳月が流れた天文16年(1547)には再び義隆より二度目の渡明を命じられ、今度は正使として入明、天文19年(1550)に帰国しています。策彦50歳。
二度にわたる遣明船往来の詳細は、策彦自筆の旅日記『初度(しょと)集』(天文8年時の記録)および『再度(さいと)集』(天文16年時の記録)として克明に記録され、当時の外交のみならず明の風俗・文化を知るうえで貴重な記録として残されています。
策彦、信玄の厚遇を受けるも・・・
京都に戻った策彦はその後妙智院に住して、専ら詩作に耽り、隠棲をこととしていたようですが、弘治(こうじ)元年(1555)ごろ戦国武将武田信玄(たけだしんげん)に招かれて甲斐(かい)(現山梨県)の恵林寺(えりんじ)に下ります。恵林寺は、夢窓疎石を開山として元徳(げんとく)2年(1330)に創建された臨済宗の巨刹として知られ、その9年後に同じく夢窓疎石を開山として天龍寺が創建されています。永禄(えいろく)7年(1564)には、信玄自ら寺領を寄進し恵林寺を菩提寺と定めています。
信玄は、策彦が自らの剃髪の師となることを願っていたようです。
ただ策彦には恵林寺にて住持する意はさらさらなかったようですが、信玄の懇請を断り切れなかったようです。ならば、ということでしょうか、富士山を見に行こうという目的をもってやむを得ず甲斐に赴いた、といったところのようです。1年ほどの長い滞在とはならなかった中、策彦が是非とも見たいと思っていた富士山は飽くまで眺めていたようで、その時詠んだ漢詩文も残されています。
信玄は、ついに策彦が自らの剃髪の師となってくれなかったことには深く恨みとなしたといいます。
- 余談1
- 恵林寺といえば、後に甲斐武田氏が滅亡すると、織田信長(おだのぶなが)の軍勢による焼き討ちにあいます。信玄(しんげん)に招かれて恵林寺の時の住持をしていた快川紹喜(かいせんじょうき)は百人以上ともいわれる僧侶等とともに炎に包まれた三門楼上で、
-
安禅不必須山水、滅却心頭火自涼
「安禅(あんぜん)は必ずしも山水を須(もち)いず、心頭(しんとう)を滅却すれば火も自(おの)ずから涼し」
と唱え、焚死したことは広く知られているところです。
ちなみに、快川は策彦が生まれた翌年に生を受けています。 -
- 余談2
- 武田晴信(たけだはるのぶ)は永禄2年(1559)に出家し、「徳栄軒信玄」(とくえいけんしんげん)と号しています。これから「武田信玄」の名として知られるようになります。この道号を授けたのは同じ甲斐国にある長禅寺(ちょうぜんじ)住職の岐秀元伯(ぎしゅうげんぱく)で、晴信の学問の師を務めた人だといいます。この岐秀、実は策彦の推挙によって京都より下向した妙心寺(みょうしんじ)の禅僧でした。「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり。」という信念に徹し、仏教に帰依した信玄がとりわけ臨済宗妙心寺派の名僧を京都から甲斐へ招致したことは顕著な事実です。「余談1」に挙げた快川紹喜も妙心寺派の禅僧です。
策彦はそのあたりのことを考慮した上で、同じ臨済宗でも天龍寺派の流れを受け継ぐ自分の立場をわきまえ、信玄の剃髪の師とはならなかったのかも知れません・・・。
信長から篤く帰依された策彦
もう一人、策彦に興味を持った戦国武将がいました。織田信長です。
永禄(えいろく)8年(1565)、信長は自己の妹夫婦の娘を養女として、信玄の長男勝頼(かつより)に嫁がせることで友好的関係を結んでいます。この縁もあって信長は信玄から策彦のことも耳にしていたのではないかとみられています。異国文化にも深い興味を示していた信長は、城に策彦を招いては明の風物などについて尋ね、妙智院にも足を運んでは親しくその話を聞いたといいます。
策彦の生涯を詳細に記しまたその法系を論じた、法曾孫蘭室玄森(らんしつげんしん)の撰になる「前住圓覺策彦良禪師行實」(ぜんじゅうえんがくさくげんりょうぜんじぎょうじつ)には、策彦と信長との交流について次のように記しています。
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織田信長公久感服師之道徳。於茲歸依轉深。執鈞輔之後。或時招師於城裏。聆異朝政治人物勝境等之新話。或時顧師於草堂裏終日道語。一日入師寝室。見架上麁衲紙衣各一領。更有收僧衣凾櫃一箇而無長物。公撫掌嘆美眞善知識。
又甲州武田信玄歸敬特深。・・・
これによると、「信長は、策彦の善悪・正邪を判断し、正しく行為するための規範となりうる道徳感にすこぶる感服し、ますます帰依の念を深くした。親しく触れ合うようになると、或る時、信長は師・策彦を城に招き、異国の政治や人物をはじめ景色の良いところのことなど、初めて耳にする話を聞いた。また或る時には信長が妙智院を訪れ策彦と終日語り合った。ある日、信長が策彦の室に入ると、そこには麁衲(そどう。粗末な僧衣。)や紙衣(かみこ。紙で仕立てた衣服。)の外(ほか)には凾櫃(かんひつ。ふたつきのはこ。)が一つ置かれていただけで、それ以外の余分な物は無かったのを見ると、手をたたいて感心し、策彦を真の善知識(徳の高い僧)だと褒め称えた。」としています。
ちなみに、「岐阜」の地名は、策彦に篤く帰依していた信長からの要請を受けて策彦が撰したことで知られています。
「又甲州武田信玄歸敬特深。」以降は信玄が策彦を恵林寺などに請じて厚くもてなした話が続きます。そして、新しく寺を創建し策彦を住持として迎え入れようとしたところ、策彦はこれを固辞し赴任しなかったことから、信玄が憤ったという内容が綴られています。こうして、
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應大内招而拒我請。殆乎以有差別。心深以爲恨。
「策彦和尚は、大内義隆の請いは受けながら、自分(信玄)の請いは拒んだ。自分は差別され、このことは心に深く恨みとなって残った。」
との記述が残されています。
西山隠棲
前述のごとく策彦は義隆、信玄、信長といった戦国大名に信任された人でしたが、いわゆる、世に出て名をあげたい、といった性分ではなかったようで、天龍寺をはじめとした巨刹にさえ住持することを喜ばず、むしろ自然のままに静居し、専ら詩文をもてあそんでは酒をたしなむといったようなことが最大の楽しみであったようです。策彦はその晩年、専ら妙智院に隠棲して、花鳥風月を友としての日々を送ったといいます。
室町時代後期の文亀(ぶんき)元年(1501)に生を受けた策彦は、安土桃山時代となった天正7年(1579)に老病をもってその清純な生涯を妙智院において終えたといいます。79歳。そして前掲の「前住圓覺策彦良禪師行實」は
-
葬全身於西山草堂之後。
「全身を西山草堂(せいざんそうどう。妙智院。)の後ろに葬る。」
と記しています。が、今日、策彦の墳墓の地は定かではありません。もしかすると、もと妙智院があったという現在の宝厳院の境内地のどこかで、「獅子吼の庭」を酒をたしなみながら愛でる時間を飽くことなく送っているのかもしれません・・・。
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写真集(29枚の写真が表示されます。)
宝厳院の山門前は今でも古の雰囲気が漂っています。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 所在地 | 京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町36 |
| 山号 | 大亀山 |
| 宗派 | 臨済宗天龍寺派 |
| 本尊 | 十一面観世音菩薩 |
| 寺格 | 天龍寺塔頭 |
| 創建年 | 寛正2年(1461) |
| 開山 | 聖仲永光 |
【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。
【マップ掲載番号の説明】
- ※
- 図中の[地図]のボタンをクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
- 山門
- モミジのトンネル
- 宝厳院垣
- 三尊石
- 苦海
- 龍門瀑
- 破岩の松
- 無畏庵
- 永代供養堂
- 亀石
- 本堂
- 碧岩
- 豊丸垣
- 獅子岩
- 羅漢像
- 青嶂軒
- 嵐山羅漢
- 天龍寺(※1)
- 妙智院(※2)
- 渡月橋(※2)
- 嵐山(※2)
- 禅昌院町(※3)
- 本法寺(※3)
図の操作について
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近隣の観光スポット情報
上記の【境内概観図】をご参照ください。


