酬恩庵(一休寺)

方丈より望む
方丈より望む
方丈(ほうじょう)庭園(南庭)に隣接して見えるのは一休禅師廟(写真左)と茶室「虎丘庵」(こきゅうあん)です。
虎丘庵は一休の居室として使われていたもので、一休に参じた茶道の祖・村田珠光(むらたじゅこう)をはじめ能楽師の金春禅竹(こんぱるぜんちく)などたくさんの文人が集う文化サロンだったといいます。
一休は廟の中で静かに眠っています。

室町時代中期、臨済宗(りんざいしゅう)大徳寺派の禅僧、一休(いっきゅう)が、当時としては高齢の63歳のとき、洛南の地、山城国(やましろのくに)綴喜(つづき)郡の薪(たきぎ)村(現京都府京田辺市薪)を訪れて一庵を建てたのが酬恩庵(しゅうおんあん)。一休後半生の拠点となったことにより「一休寺」の通称で知られているところで、一休が500年余りも前に歿し、その墓所があるところでもあります。

ところで一休さんといえば、アニメや童話などで知られる「頓知の一休さん」としてウィットやユーモアにあふれたクリーンなイメージの青頭の小坊主が思い浮かびます。が、その99%は江戸時代以降時代ごとに再創造された作り話といえます。

実際の禅僧一休は、足利将軍を筆頭とする権力に対して恐れることもまた与することもなく、禅界にあっても誰にも遠慮しませんでした。人々に慕われていたのも事実です。一方、一休は法衣(ほうえ)をまといながら平気で仏業の戒律を破って酒を飲み魚肉を食らい、恋愛もして赤裸々な艶詩も詠み、遊郭へも上がっています。

一休より12歳若くして6年早く世を去った連歌師心敬(しんけい)は、その著『ひとりごと』で一休について次のように記しています。

同じく禅門修行の明匠とて数を知らず聞こえ侍(はべ)れども、今の世に行儀も心地(しんじ)も世の中の人に変はり侍ると聞こえぬるは一休和尚なり。よろづのさま世の人にははるか変はり侍ると人々語り侍り。

「同じように、禅宗を修行した明匠として、数を知らず名が聞えている方々がありますが、今の世に行いも心構えも世間の人と異なっていると評判なのは、一休和尚です。すべての様子が世間の人とははるかに変っていると人々は語っております。」

一休については清浄無垢な高僧或いは聖僧といったイメージからかけ離れているともみられるなど、見る人によってさまざまの見解がありますが、その生前から社会各層の多くの人々と交友・道交を持って親しまれ、示寂してからも今日に至るまでの500年余りの間に、人々から忘れ去られることのなかった一休は尋常一様の人物ではなく、他の禅僧と違ってその個性・深み・重みにおいて傑出した僧として、また、異色の詩人(漢詩)として高く評価されています。

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迷信否定・偶像破壊

仮名草子『一休咄』に「関の地蔵供養し給ふ事」と題された次の咄が載っています(現代文に置き換えています)。少し長いですが、思わず笑いが込み上げてくる内容・・・です。

関(三重県関市)の地蔵を初めて作ったときのこと、土地の人びとがより集まって、「このお地蔵さんの開眼(かいげん)を誰に頼んだらよかろう」と口々に評定(ひょうじょう)した。そのうちの一人が言うのに、「われわれがこのあいだ京都見物に行ったとき、京都の人びとが今の世に紫野(むらさきの。大徳寺所在地。)の一休さんにまさる僧はいないだろうと言っていた。これほど立派な地蔵をこしらえたのだから、そこらあたりの凡僧を招くよりも、一休和尚にお願いすべきだ」と言った。そこで衆議一決、さっそく何人かの代表者を選んで都の紫野へ送った。代表者らが一休に対面の挨拶をして訪ねてきた旨を伝えると、「さいわい関東方面へ行脚(あんぎゃ)に出かけるから、そのさい立ち寄って開眼いたそう」と快く承諾してくれた。一同は大いに喜んで帰り、「一休和尚が来てくれる」と和尚を迎える準備を万端整え、村の衆一同沿道を掃き清め、待った。そして一休がただひとりふだんの身なりですたすたとやってきた。村の衆が先ず礼を述べた。一休が「お地蔵さんはどこかね」と尋ねた。案内されてみると、さしもみごとな地蔵が作ってあって、供物を供え香花(こうげ)をたむけ、荘厳をつくしてあった。では「開眼をお願い致します」と言って一休を招いた。その様子を見ようと村びとたちが押しあいへしあいする中、背のびし、あるいはつまづきなどして見ているところへ、一休がつかつかと走りより、その地蔵の頭から小便をかけたかと思えばあっという間に廬山(ろざん)の滝(廬山は中国江西省北部の名山で、仏教の霊山として有名。そこにある瀑布。)のごとし。釣りのうきが水に浮いて流れるように、種々の供物が流れるほどに小便をしかけて、「開眼はこれまでなり」と言って、一休は関東へと向かうべく東に向かって急いだ。 村の衆はしばしあっけにとられて見ていたが、「なんというけしからんことだ、わざわざ京都の気違い坊主をつれてきて、この尊い菩薩様に小便をかけさせるとはなんと腹立たしいことか、あの気違い坊主をにがすな!」と、村の衆は我も我もと歯がみして追いかけた。あとに残った尼僧たちも、「さても勿体ないことをしてくれよった、あの一休坊主め!」と口々にののしりながら、かわるがわる清水を汲んできては地蔵に注ぎかけ小便を洗い流してこれを浄め、また供物や香花を整え直して、なにとぞお許し下され、と礼拝しているうちに、さきに一休を追いかけた若者たちは、どうしたことか途中で道ばたにぶっ倒れて動けなくなってしまった。一方、一休の小便を洗い流していた尼僧たちの身体には震えがきて止まらなくなった。みんなが狂乱状態になって手におえなくなり、「天下の老和尚一休様が開眼してくださった地蔵様をどうして洗い落としてしまったのか」と、こんどは狂ったように大声でののしりあうありさま。この状況に驚いた家族や村の衆たちが「急いで一休和尚のあとを追いかけ、もう一度開眼をお願いしてまいれ!」と叫ぶと同時に、我も我もと一休のあとを追いかけ始めた。一休が桑名(三重県桑名市)の渡し舟に乗ろうとするところに追いついた村の人は事情を詳しくうちあけ、これより引き返してもう一度開眼してもらえないでしょうかと懇願に及んだところ、一休、「それはお気の毒なことだ。しかし、わしが戻るにも及ばない」と言って、自分が着けていた、まるで八百年も使い古したと思われるほどの古褌(ふるふんどし)をその場でとりはずし、「これを持ち帰って地蔵の首に巻いて置くがよい。そうすれば病は即座に治る」と申された。村の者たちは怪しみながらも先ほど起こった不思議なことに恐れをなしていただけに、それをおずおずと頂いて急ぎ村に帰った。そして一休は関東へと急いで向かった。

一休の古褌を持ち帰った村の人が一休の言った通りお地蔵さんの首へその古褌をおそるおそる巻きつけたところ、途端に、みんなの物怪が一度におちて、震えはあっというまに止まってしまった。これに驚いた村人たちは何とも名誉なことだと思い、以来、地蔵の首に巻き付けた一休の古褌を外さなかった。その後、一休が関東での用事を終えて京の都へ上る途中に、再び関の地蔵のところへ立ち寄って、地蔵の首に巻き付けてあったかの一休の古褌を外すと、鉦(かね。鈴。)の緒にかけて、一休は都へと上って行った。

以来、こんにち地蔵堂の前の鉦(鈴)に吊ってある布の長さが六尺(ろくしゃく。約180センチメートル。)であるのは一休和尚の六尺褌からその長さ(180センチメートル〜300センチメートル程度)が定まったという。思いもよらぬことである。

『一休咄』(4巻。作者不詳。)は一休が世を去って180年以上経った江戸時代前期の寛文(かんぶん)8年(1668)に発刊されたとみられており、多々ある一休の逸話集の中でも一番古く成立したものです。史実とは言い難い一面はありますが、当時の人々には笑話本として歓迎されたようで(今日でも十分通用すると思われますが・・・)、一休の伝説化に果たした役割は大きいとされています。

禅宗は偶像崇拝の宗教ではなく、坐禅によって自己の力で悟りの境地を開くものとされますが、上記に掲載した咄は、偶像、迷信、神話を否定する一休の精神がその根底に流れているものとみられ、笑い話にしてどっと笑わせることで、当時の一般民衆の偶像破壊・迷信否定の思いを発散させたものとみられています。

参禅求道の前半生

さて、一休の人生を眺めてみると大きく2つに分かれることが分ります。骨身を削って真面目に修行し求道する前半生と、自由奔放に教化し楽天的で逆行(ぎゃくぎょう)三昧の後半生です。そして一休は、前半生の21歳のときと後半生の54歳のときとの2回、自殺を図っています。

室町幕府第3代将軍足利義満(あしかがよしみつ)の斡旋で、三種の神器を持参した南朝の後亀山(ごかめやま)天皇が吉野(よしの。現在の奈良県南部。)から京都に帰還し、北朝の後小松(ごこまつ)天皇に神器を譲って退位したことで南北朝の合一(1392年)が図られました。

一休はその2年後に生を受けています。一休の父はその北朝最後の後小松天皇、母は藤原氏、南朝方の公家花山院家の娘と伝えられています。ところが、「彼女は南朝の義を守り、後小松天皇の命を狙っていつも剣を袖にしのばせている」と讒言(ざんげん)されたため、御所を追われるように出て、洛西嵯峨にある天龍寺(てんりゅうじ。臨済宗。)地蔵院の近くの民家で一休を産んだと言われています。地蔵院は、室町時代の武将・細川頼之(ほそかわよりゆき)が開基となって創建されたもので、亡き天龍寺の開山である夢窓疎石(むそうそせき)を勧請開山としています。

母と庶民的な暮らしを送っていた一休は、6歳のとき京都安国寺(あんこくじ。臨済宗。今日その跡形はありませんが、京都市下京区四条坊門の辺りに東西一町(約109メートル)、南北半町もの寺域をもっていたといいます。)に入って出家します。安国寺は、足利尊氏(たかうじ)・直義(ただよし)兄弟が元弘(げんこう)の変以来の戦歿者を供養するために康永(こうえい)4年(1345)に創建したもので、全国六十余州の国々にそれぞれ末寺を持つ臨済宗の大寺院だったといいます。

12歳のころは安国寺を出て嵯峨の天龍寺地蔵院にあったようです。ある時、一休はここからそう遠くはない宝幢寺(ほうどうじ。現鹿王院(ろくおういん)。)へ清叟仁蔵主(せいそうじんぞうす)の維摩経(ゆいまぎょう)の講義を聞きに行く機会がありました。大人でもわかりにくい維摩経を熱心に聴き入っていた一休の様子を見た同席の大人たちは

少年有老成去就、前程未可量也

「少年にして老成の去就有り、前程(ぜんてい)、量るべからざるなり」

「この子は少年といえども相当の経験を積んで、熟達しているオーラがにじみ出ている。将来どえらいものになる。」と、その様子に驚き入ったといいます。

13歳のとき、一休は遊学の志を立てて天龍寺地蔵院を出て、東山(ひがしやま)にある建仁寺(けんにんじ。臨済宗。)に移り、詩名が高かった慕哲龍攀(ぼてつりゅうはん)のもとで作詩(漢詩)の法を学び始めます。当時、詩人として名高かった祥球(しょうきゅう)が、日ましに磨きをかける一休の才にはすでに作者としての風格が備わっていると激賞したといいます。

17歳のとき、妙心寺(みょうしんじ。臨済宗。)三世住持、無因宗因(むいんそういん)の法統を受け継いだ西金寺(さいこんじ)の謙翁宗為(けんおうそうい)に師事します。謙翁宗為は、無因宗因が左券(仏法の免許皆伝の認定書。印可証。)を授けようとしたとき謙遜して受け取らなかったことから「謙翁」と呼ばれていました。謙翁宗為は権門にこびず、純粋禅を守った人として知られ、それ故か、檀家には経済的に恵まれた人はおらず、寂しいものだったようで、その西金寺は極貧の破れ寺であったといいます。左券を出世の糸口として使おうとする当時の堕落した禅界にあって、左券に目もくれなかった謙翁宗為こそが真の禅者だと考えた一休は、謙翁宗為のもとで真剣に修行を積んでいきます。一休が師謙翁から残らず学びとったとき、師謙翁が「自分は師(無因宗因)から左券を受け取らなかった。だからお前(一休)にも左券を授けることはしない」と伝えます。これに感銘を受けた一休はこれまでの周建(しゅうけん)という法名を改めて、宗純(そうじゅん)と名乗ることになります。「宗」は謙翁宗為の一字にあやかったものです。師謙翁が亡くなったときは、その清貧さの故に葬儀を行う金もなく、近在の人々の情けによって、ようやく野辺のおくりをすませることができたといいます。このとき一休21歳。

22歳のとき、峻厳で鳴る華叟宗曇(かそうそうどん)が住持する近江堅田(おうみかただ)の大徳寺派禅興庵(ぜんこうあん。現祥瑞寺(しょうずいじ)。滋賀県大津市。)を訪れ入門を請います。が、一休は、華叟宗曇から一言のもとにはねつけられて玄関払いをくわされます。禅寺では、入門を願い出た僧に対して重い試練を課してその求道心を試し、容易に入門を許さないといわれますが、華叟宗曇においてはそれが殊に厳しく、水をかけ杖でたたいて追い出すという対応をしていたようです。しかし、門前で屹然として端座する一休の牢固たる態度に数日後には華叟宗曇は入門を許したのです。華叟宗曇は、大徳寺7世言外宗忠(ごんがいそうちゅう)より左券を授けられ、大徳寺派においては「この人」と知られた高僧で、自らも大徳寺22世となるも大徳寺に住したことはなく、その天性高潔なところから、権力と繋がる官寺と化しつつあった大徳寺を嫌って去り、小庵を転々とした後、禅興庵に住していたのでした。この禅興庵も先の西金寺に優るとも劣らない名だたる貧乏寺だったようです。本来禅寺における修行僧の衣食については寺が負担するものだとされますがそれができなかったのです。そのため、一休ら修行僧は食うものにも、着るものにも困る状態だったといいます。一休は漁師の情けで飢えをいやし、手内職に励んでは都に出て売り、それを生活の資とするといった有様だったようです。

25歳のとき、師華叟から道号「一休」を受け、27歳で大悟。師華叟から左券を授けられましたが、一休はこれを投げ捨てて受取りませんでした。そこで師華叟は、一休の捨てた左券を拾い上げ、大切にしまっておいたようです。翌年の応永(おうえい)28年(1421)、師華叟は、一休が受取らなかった左券を再び一休へ渡すために、一休の法友で尼僧の華林宗橘(かりんそうきつ)に託したようです。これが一休の手に渡される機会が訪れるのは師華叟歿後のこととなります。

29歳のとき、大徳寺如意庵(にょいあん)で華叟の師言外宗忠の三十三回忌があり、師華叟が一休を伴って参じています。参列した一山の僧が皆盛装している中、一休だけは色のあせた黒染めの衣に尻切れ草履という、よれよれのいでたちだったようです。その身なりについて師華叟から注意された一休は

餘獨潤色一衆

「余(よ)独り一衆を潤色す。(自分一人がこういう身なりをすることによって参列している皆さんを飾り立てているのです。)」と昂然と言い放ったといいます。その真意は、にせ坊主どもが外見ばかりはきらびやかな法衣で飾り立てやがって、とけなすところにあったようです。

法要のあと、師華叟が如意庵の西軒というところに席を移して休息していると、言外宗忠の法嗣(はっす)で師華叟とは兄弟弟子になる光日照(こうにっしょう)(大徳寺30世日照宗光(にっしょうそうこう))という僧が来て

和尚百年之後、付法誰人、

「あなたの(亡くなった)後に、あなたの法を嗣ぎ伝える者は誰ですか」と聞くと、華叟が

雖道風狂、有箇純子

「世間では風狂(ふうきょう。すこし風変わりで、気違いじみている。)などと言われているが、ここにいる純子(一休)こそ、わしの後継者なのだ」と、答えたといいます。一休は、自分でも「風狂」であることを認識していました。師華叟の弟子には、一休より18歳年長だった法兄(ほうひん)で後に大徳寺住持となる養叟宗頤(ようそうそうい。以下、養叟。)がいましたが、この時、その名はでませんでした。

さて、師華叟が一休の法友・華林宗橘尼に託していた一休への左券は、華林宗橘尼が逝去する前にその一族である源宰相(げんさいしょう)土御門定長(つちみかどさだなが)に託されていたようです。そして左券が一休の手に渡されたのは、一休がその土御門邸にしばらく寄寓していた時で、師華叟の歿後9年経った、一休44歳のときでした。その左券の末尾には、次の一節が書き添えてあったといいます。

純藏主悟徹後、與一紙法語、道是甚麼繫驢橛、拂袖去、可謂瞎驢邊滅類也、臨濟正法若墮地、汝出世來扶起此、汝是我一子也、念之思之、應永二十七年五月日 華叟

「純蔵主(じゅんぞうす)悟徹の後、一紙の法語を与えしに、是(こ)れ甚麼(なん)の繫驢橛(けろけつ)ぞと道(い)いて、払袖(ほっしゅう)して去る。謂(いい)つべし、瞎驢(※1)辺に滅するの類(たぐい)なり、と。臨済(りんざい)の正法(しょうぼう)、若し地に堕ちなば、汝、世に出で来(きた)りて此れを扶起(ふき)せよ。汝は是れ我が一子なり。之を念(おも)い、之を思え。応永二十七年五月日 華叟」

※1.瞎驢(かつろ)
「盲目の驢馬(ろば)」の意。禅の師匠が未熟な弟子を叱咤激励して、禅の正道(しょうどう)へと導くために吐く激しく厳しい言葉の一つで、臨済宗の開祖、臨済義玄(ぎげん。中国・唐(とう)末の人。)の末期の一語に由来。
臨済義玄は、その臨終の間際に弟子と交わした最後の言葉として「誰知吾正法眼藏、向這瞎驢邊滅卻」(豈図らんや、吾が正法眼蔵(しょうぼうげんぞう。仏法の正しい教え・真髄。)が這(こ)の盲目の驢馬(臨済義玄の弟子)のところで滅びてしまおうとは!)と言い終わると、端然として亡くなったといいます。(この臨済義玄の臨終のことばは、腑甲斐無い弟子を責めて、正法が絶えてしまうことを嘆いているようにも受け取れますが、その裏には「滅却しようにも滅却できない正法眼蔵を明(あき)らめて、正しい法を広めてくれ」との臨済義玄の思いがあり、そしてそうできるように弟子の眼が明いてほしいという期待と願いが込められたものだといいます。)

「純蔵主(純は一休宗純。蔵主は禅院で経蔵を管理する僧の役職名。)が悟りの境地に入った後、わし(師華叟)は一枚の法語(左券)を一休に与えた。すると一休が、左券を受取ればまるで驢馬が棒杭に繋がれて身動きできなくなるようなもので邪魔物でしかない(左券に執着して挙句の果てには束縛されるだけだ)、と言って、左券を袖で払い捨てて去ってしまった。このままでは臨済和尚が臨終の間際に言われた「瞎驢辺に滅却」することになる(盲目の驢馬のようにもののわからぬ未熟者の代で法統を途絶えさせてしまうことになる)。だが、臨済の正しい教えがもし地に堕ちるようなことになれば、一休よ、汝が世の前面に出てこれを立て直せ。汝は我が法統を嗣ぐ者、これができるのは汝をおいてほかにない。このことをよくよく心に留め置き、考えよ。応永二十七年五月日 華叟」

師華叟がいかに一休に望みをかけ、大事を託したか、その期待の大きさが窺えます。一休は師華叟の手蹟を見て懐かしく思ったであろうことが容易に想像できます。しかし、一休はこれを引き裂いて燃してしまったようです。それは決して師華叟をないがしろにしたものではなく、当時の禅界の堕落、即ち、左券が出世の道具にされていることに対する一休なりの憤りの表れだったようです。

なお、師華叟から左券を授けられた人に、一休の法兄・養叟がいました。一休は左券を受取りませんでしたが、養叟は受け取っています。師華叟の養叟への言葉は

吾道至你大行于世

「吾が道、你(なんじ)に至りて大いに世に行われん」というものだったといいます。その後、養叟は大徳寺の住持へと昇りつめます。

一休はのちに、この法兄・養叟及びその一派に対してすさまじいまでの罵倒を繰り返すことになります。

さて、清貧で戒律を厳重にまもる厳しい修行の日々をおくって師華叟のもとで悟りを得た一休は、29歳の時に大徳寺の如意庵で営まれた言外宗忠の三十三回忌に出た後あたりから師華叟のもとを離れたようです。一休は、栄達を望まず、また一寺に住持することも好まず、蓑笠(さりゅう)の客(旅人)となって、都そして田舎の各地の住む人のない民家や破れ草庵を借りては仮寓し、文字通り「一所不在」の漂泊する巡歴へと旅立ったのです。

その間に一休は、武士や町人、農民、遊女、文人、茶人、演芸者といった社会各層の多くの人々と交友・道交を持ち、彼らから慕われるような存在になっていくことになります。

一休の風格については、幕末の歴史家飯田忠彦(いいだただひこ)の『大日本野史(だいにほんやし)』(嘉永(かえい)4年(1851)完成。漢文。)に、その記述がみられます。『譯文大日本野史』〜巻の二十五列伝第四〜には次のように記載されています。

宗純、心機快活(かいかつ)、談諧戯謾(だんかいぎまん)、物我(ぶつが)相(あい)忘れ、貴賤一視、志慈恵(じけい)に存し、随(したが)って得れば随って施す。児童馴れ愛し、鳥雀(ちょうじゃく)就(つ)いて啄(つい)ばむ。

「一休宗純は、大らかで明るく、機転がきいて、しゃれや冗談が上手い。欲がなく、物に執着などせず、貴賤に分けへだてがない。相手を思いやる気持ちは仁愛に富み、得たものはそのまま人に施してしまう。子供はなつき、雀などの小さな鳥までもが一休の後についてきては餌を啄むほどに慕われている。」

子供と手毬をつき、おはじきをして、悠々と時の経つのを忘れるという光景を想起させる良寛(りょうかん。江戸時代後期の曹洞宗の禅僧。)のイメージとどことなく重なってしまいます。

法兄・養叟との不和公然化〜一休61歳〜

一休が生まれたのは、足利義満による北山文化の象徴・金閣が成る3年前の明徳(めいとく)5年1月(1394。同年7月に応永と改元。)、そして歿したのは、足利義政(よしまさ)による東山文化の象徴となる銀閣の造営がはじまる前年(1481)でした。一休存命中、南北朝合一直後の最初の応永年間(1394〜1428)の34年間は、この時期が室町幕府の全盛期であり、内面的には多くの問題を抱えながらも表面的には泰平の意識が大勢を支配していたことから平穏な世を迎えたようでした。が、それ以降を見渡すと総じて、利殖と権勢欲の権化とみられる日野富子(ひのとみこ。足利義政の妻。)に代表される賄賂政治の横行、また、将軍職の相続問題をめぐる抗争が起き、足利義政の時には、将軍の権力は守護大名の実力の強大化によって地に落ち、一方では、大風洪水、疫病、飢饉、一揆が相つぎ、日本中が未曾有の混乱に陥った時代でした。

禅宗にも荒波が押し寄せます。禅宗はその最大の支持者だった武士政権の不正や腐敗に蝕まれて、次第に本来の恬淡(てんたん)素朴さや深玄幽寂さを喪失していきます。そして次第に行き詰まってきた財政を補うため、室町幕府は、五山・十刹そして全国的に数を増やした諸山の住持認可の官銭増収をはかり、あるいは官銭を幕府に納めればその寺に入住しなくても官寺住持の名儀を認める、といったようなことをやるようにまでなったのです。もはや禅宗そのものは室町幕府の莫大なお金もうけに利用されるといった状況で、完全に武士政権の銭箱に変質してしまったのでした。

このような状況は、禅林大刹の内部においては自ずと腐敗・堕落の道へと歩ませることになります。

禅宗では悟りの境地に達したことの証明として、師匠より弟子に愛用の品物や筆蹟を与える慣例がありますが、これは左券、左証、印可状、印書などと呼ばれています。左券は、頗る厳重にして真にその資格ある師弟間の誠実な認証であるがゆえに神聖なもので、授かる者にとってはこの上もない名誉なこととして扱われます。左券は、私情による授受など決して許されるものではないのです。

ところが、当時の禅界ではこれが形骸化し、偽物が多く出され、いわゆる盲判(めくらばん)が横行したといいます。師は左券を安売りして利益を獲得し、左券を得た弟子は大きな顔をして世渡りの道具にする、といったことが横行したのです。曲がったことが嫌いな一休は、この悪質で偽善的な行為を心底憎んでいたとみえ、このことから禅宗の慣例に抗して、師華叟からせっかく授かった左券には目もくれなかったものと見られています。

一休が日頃書いた偈(げ。禅僧の詩。)を弟子たちが編纂した『狂雲集』(きょううんしゅう)に次の句が見られます。

戒參玄僧名利

参玄(さんげん)の僧の名利を戒む

迷道衆生劫外愚

迷道の衆生、劫外(こうげ)の愚(ぐ)、

人々涙不識窮途

人々涙して、窮途(ぐうと)を識(し)らず。

諛官只願佳名發

官に諛(へつら)ひ、只、佳名の発するを願ふ、

眞菩提心一點無

真の菩提心、一点も無し。

「禅の玄奥に参ずる僧(禅の奥深さに入ろうとする僧)が名利を追うことを戒める

道を見失い迷いつづける人々(僧)は、何と愚かなことか、人々(僧)は涙を流して道を探すが、解決のためのてだてに行き詰まることを知らぬ。
(なぜなら)役人にへつらって、ただ自分の名声が上がることだけを願っている(からだ)、本当に悟りを求めようとする心などひとかけらもない。」

室町幕府第8代将軍足利義政の治世(在職:1449(一休56歳)〜1473(一休80歳))になると、五山の腐敗、凋落はもちろん、いままで盲目的な権力追従を喜ばず権力に迎合することを避けてきた大徳寺や妙心寺といった山林(※2)でも、急に俗化して名利を漁(あさ)り、結果、室町幕府(=権力)との結びつきが強かった叢林(※2)も山林も頽廃の色を濃くして、禅宗そのもの全体が地に堕ちてしまったのでした。 一休が作った道歌に次の歌があります。

みな人は慾をすてよとすすめつつ
後で拾ふは寺の上人(しょうにん)

この歌は、檀家に対しては、高雅で偉そうにいばりながら「欲を捨てなさい」ともっともらしく説教するかたわら、人目につかないところではその金品を巧みに自分の懐に取り込んで巨利を貪る高僧らを辛辣に風刺したものです。一休が、堕落した僧の俗物性を、いかに忌み嫌っていたかが窺える歌です。それにしてもこの歌はかみしめればかみしめるほどじわじわと笑いがこみあげてくるのですが・・・。

※2.叢林、山林
室町幕府(=権力)の保護下(五山十刹制)にあって京都・鎌倉にある五山派の官寺系大禅院(南禅寺、天龍寺など)は「叢林」(そうりん)と呼ばれ、この五山派に対し、室町幕府(=権力)に迎合せず自力で教団を維持し、布教に努めようとする在野的な大禅院(大徳寺(永享(えいきょう)3年(1431)十刹から離脱)、妙心寺など)は「林下」(りんか)または「山林」(さんりん)と呼ばれました。

さて、師華叟から左券を授けられた一休の法兄・養叟は、師華叟が歿した翌年の正長(しょうちょう)2年(1429)、大徳寺第26世の任に就いています。さらに文安(ぶんあん)2年(1445)、後花園(ごはなぞの)天皇の勅旨により大徳寺住持に再任すると、その政治的手腕と生来の世渡り上手(世俗的)な辣腕家ぶりを発揮して財力のある檀家や多くの信者を獲得するなどして、まれに見る有能な経営型の禅僧として大徳寺派の勢力の普及に多大な功績を残したのでした。やがては大徳寺を紫衣勅許の出世道場にまで押し上げています。その盛況ぶりは、五山をはじめとする官寺をも圧倒する勢いをみせたのです。これについて、一休は「題養叟大用庵」(養叟の大用庵(だいゆうあん)に題す)と題し、次の二首を詠んでいます(『狂雲集』所収)。

叢林零落殿堂疎

叢林零落して殿堂疎(そ)なり、

臨濟宗門破滅初

臨済の宗門破滅の初め。

大用栴檀佛寺閣

大用(だいゆう)は栴檀(せんだん)仏寺の閣、

崢エ林下道人居

崢エ(そうこう)たり林下道人(どうにん)の居(きょ)。

「叢林は皆衰えて、その殿堂は荒れている。臨済宗の宗門は、いよいよ破滅し始めた。しかし、養叟が建てた大徳寺塔頭(たっちゅう)の大用庵のみは栴檀づくりの立派な仏寺の御殿を保っている。この一段と高くそびえる大用庵は、実は外形は立派だが、内容浅いわが大徳寺内の修行者の住いなのだ。」

山林冨貴五山衰

山林は冨(ふう)貴、五山は衰ふ、

唯有邪師無正師

唯だ邪師のみ有って正師無し。

欲把一竿作漁客

一竿(いっかん)を把(と)って漁客と作(な)らんと欲すれば、

江湖近代逆風吹

江湖(ごうこ)近代逆風吹く。

「五山以外の禅寺である山林派(ここでは養叟の大徳寺大用庵)は富んで位が高くなり、五山は衰微している。ただ禅の本質に対して、邪(よこしま)な師家(しけ。一般の禅僧に対して、坐禅の指導者としての学徳・資格を有する禅僧。)ばかりいて、禅の本質を正しく伝え得る師家がいなくなった。
自分(一休)は竿をかついで釣人となろうとするのだが、川や湖では逆風が強く吹くので、釣りがなかなか思うようにできない(禅界は堕落して逆風ばかり吹いているために、自分がいくら正統の禅を説いても多くの人が自分の禅を受け入れてくれないのだ)。」

この二首は、大徳寺開山宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)以来、峻烈な修行に清貧枯淡を禅風としてきた大徳寺派の禅を、法兄・養叟によって堕落させられたと罵っているのです。

一休と法兄・養叟との反目は師華叟のもとで共に修業を積んでいる頃からその兆しがありましたが、一休57歳の宝徳(ほうとく)2年(1450)の頃までは潜在的であまり表面には現れなかったようです。ところがその翌年の頃から二人の反目がじわりと顕在化し激化するようになったのです。

その一つの契機となったのが、僧禅興(ぜんこう)が撰した「大燈国師行状」(だいとうこくしぎょうじょう)を一休が目にしたことに始まります。すなわち、大燈国師(宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう))が嗣法の後、約20年草庵にあった時、五条大橋辺りで乞食行(こつじきぎょう)を行ったことが記されていないのを知った一休が

風飡水宿無人記第五橋邊二十年

「風飡水宿(ふうさんすいしゅく。乞食の生活をして長養する)人の記する無し、第五橋辺の二十年」という句を含む一偈を添えたのです。これを聞いた法兄・養叟が大燈国師の行状を記すのにそういったことは書く必要はないと言って非難し嘲笑したのです。これによって、大徳寺の禅風に対する二人の認識には埋めることのできない深い溝があることがはっきりしたのです。

師華叟に至るまで連綿と受け継がれてきた清貧枯淡・孤絶峻厳な禅風に私淑していた一休には、法兄・養叟が行っていることは禅を渡世の道具にして最大限に利用し、すっかり名聞利養の奴隷になってしまった結果だと映ったのです。一休にとってこうしたやり方を認めることは到底できるものではありませんでした。法兄・養叟に対する一休の怒りは並大抵のものではなく、一休は法兄・養叟を、権門勢家への卑屈とへつらい、高い寺格への権勢欲、蓄財心、善知識(知識すぐれて人を導く力ある人)ぶり、そして得法(とくほう。悟ること。)の安売り等を代表する人物と見、仏法を毒する栄衒(えいげん。自分をひけらかして売り込み栄華を求めること。虚栄心、支配欲のかたまり。)僧の総代表として、その栄衒心、名利心(名誉心)に対して滑稽とも思えるほどに罵詈雑言(ばりぞうごん)を尽くして口ぎたなく猛烈に攻撃し続けることになるのです。

一休61歳のとき、弟子たちが止めるのも聞かず無沙汰のあいさつをしようと法兄・養叟を訪ねたところ、大徳寺の清貧枯淡・孤絶峻厳にして正統な禅風と法統という根本的な問題に関わる「百丈餓死」、「霊山和尚示栄衒徒法語」及び「左券」をめぐって大激論となったようです。その内容は次のようなものです。

養叟が一休に向かって「聞くところによると、おまえさんは、百丈餓死(ひゃくじょうがし)の話と霊山(りょうぜん)和尚(徹翁義亨(てっとうぎこう))の『栄衒の徒(自分をひけらかして売り込み栄華を求める学徒)に示す法語』(※3)を徒弟に教えているらしいが、先師(華叟宗曇)存命の折にはおまえさんの言うようなことを話されたことを聞いたことがないぞ」と苦言を呈した。これに対し、一休は「わしは百丈餓死の話をべつに作り上げたわけではない。一日作(な)さざれば一日食わずという事は、虚堂和尚(虚堂智愚(きどうちぐ))の普説にはっきりと詳しく見られるではないか。又、霊山和尚の法語は、先師(華叟宗曇)が、毎日、厳しい諫めの言葉として口が酸っぱくなるほど話されていたではないか。貴公は忘れっぽいお方じゃ。貴公は自ら先師(華叟宗曇)の顔に泥を塗っているようなもんだ。」と応対すると、養叟は怒りのあまり顔色を変えて「私には左券がある。おまえさんにみだりに抗議されることはない。」と言った。一休は「わしにも左券はある。しかし貴公の左券とは比べものにならん。」と嘲った。そこで養叟が「おまえさんは左券を燃してしまって持っていないではないか。私はそのことで『一休和尚は師華叟から確かに左券を授けられた』と言って助け舟なんか出さんぞ。」と言うと、一休は相手にせずあざけって笑いながら出て行った。

※3.『栄衒の徒に示す法語』
「吾は善知識なりと称して杖払(じょうほつ)をフ(ささ)げ、衆を集めて法を説き人家の男女を魔魅し、心に名利を好んで学者(修行者)を室中に招き・・・仏法を以て度(渡)世の謀(はかりごと)と為す、是れ世上栄衒の徒なり」という一節を含む法語で、栄衒の徒となることを戒めた言葉。

これによって二人は徹底的に決裂し、二人の不和は公然化することになります。それにしても最後には左券のあるなしで一休とその法兄・養叟ほどの二人が言い争う辺りは子どもの喧嘩みたいで滑稽な感じがしないでもないのですが・・・。

以後、法兄・養叟に対する一休の毒舌は滑稽なまでに執拗痛烈となっていくのです。

一休が62歳から68歳までの間に、一休自身および弟子たちの筆になるものを整理した作品集の一つに『自戒集』(じかいしゅう)があります。これは、法兄・養叟率いる一門に対する批判を中心とする詩文集で、そこには、例えば、次の記述がみられます。

・・・今ヨリ後ハ養叟ヲハ大膽厚靣禪師ト云ヘシ。養叟カ門ニ入ル者ハ道俗男女ヤカテ推参ニナル。五日十日之内ニヤカテ得法ツラヲ仕候。靣皮厚シテ牛ノ皮七八枚ハリツケタルカ如シ。紫野ノ佛法ハシマツテヨリコノカタ、養叟ホトノ異ノヌスヒトハイマタキカス。比丘尼ニ法門ヲオシユル事モ比丘尼ノ得法タテモ、養叟ヨリサキハソウシテナシ。・・・

「・・・今より後は養叟をば大胆厚面禅師と云(いう)べし。養叟が門に入る者は道俗(僧俗)男女やがて推参になる。五日十日の内にやがて得法面(づら)を仕(つかまつ)り候(そうろう)。面皮厚(あつく)して牛の皮七八枚貼り付けたるが如し。紫野の仏法始まってよりこのかた、養叟ほどの異高(いたか。金儲け。)の盗人はいまだ聞かず。比丘尼(尼僧)に法門を教ゆる事も比丘尼の得法だても、養叟より前(さき)は総じてなし。・・・」

「・・・今より後は養叟のことを大胆厚面禅師と云うべきだろう。養叟の門に入る者は僧俗男女皆、歳月をかけての大した修行もしないまま、五日から十日の内にはさも悟りを得た顔をしておでましになるだろう。養叟はまさに面(つら)の皮厚く、牛の皮を七八枚は貼り付けているようなものだ。紫野で大徳寺の仏法がはじまって以来これまで、養叟ほどの金儲けの盗人はいまだかつて聞いたことがない。尼僧に法門を教える事も、尼僧が悟りを得ることも、養叟の前にはなかったことだ。・・・」

一休が65歳のとき法兄・養叟が歿して後は、一休の罵倒はその法嗣春浦宗煕(しゅんぽそうき)らに向けられます。

法兄・養叟が亡くなる前年、一休が大徳寺の塔頭瞎驢庵(かつろあん。朱雀大路(現千本通)の東で、四条通の北に位置。)にいた時と思われますが、路上で偶然にも春浦宗煕に出会い、口論となり、一休が春浦宗煕に対して「法中の姦賊(かんぞく)」などと痛罵したことから、一休はこの一派から害せられようとしたこともあったようです。

一休は、師華叟が一休に授けようとした左券の末尾に書き添えていた言葉を一休なりに実行したのです。

酬恩庵創建〜一休63歳〜

一休の弟子墨斎(ぼくさい。没倫紹等(もつりんじょうとう))の筆になるとされる『東海一休和尚年譜』(元漢文)康正(こうしょう)2年(1456)の条に次の記載があります。

師六十三歳、薪之妙勝乃大應國師之道場、而祖堂未塑祖像、僉曰、缼典、師募木工以安焉、薪人拜如在也

「師(一休)六十三歳、薪の妙勝は乃ち大応国師の道場、而るに祖堂に未だ祖像を塑(そ)せず。僉(みな)曰く、典を欠く(礼を失する)と。師、木工を募り以て安んず。薪の人、拝すること(大応国師が目の前に)在(いま)すが如くす也。」

中国、南宋の禅僧虚堂智愚に学んだ南浦紹明(なんぽしょうみょう)(大応国師(だいおうこくし))は臨済禅の法脈を受け継いで帰国後、鎌倉時代後期の正応(しょうおう)年間(1288〜1293)、洛南の薪村の地に禅道場の妙勝寺(みょうしょうじ)を創建します。則ち妙勝寺は、虚堂智愚の直系であり、後に大徳寺開山となる宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)の師である南浦紹明を開山としています。

一休宗純法系略図

それから時は流れて、一休が近畿一円を放浪巡錫(じゅんしゃく)していた最中の永享年間(1429〜1441)の一休36歳〜47歳の頃、薪村に足を向け、妙勝寺に立ち寄ったようです。ところが、すでに見る影とてなく荒れ果てていた妙勝寺を目の当たりにした一休は心を痛め、必ずや再建することを志したといいます。

木工を募り、南浦紹明(大応国師)の木像を造って開山堂に安置し、ようやく完成したのが一休、63歳のときでした。薪の人たちがそれを礼拝すると、まるで南浦紹明(大応国師)がこの世に生きておられるかのようだった、と伝えています。

一休は薪の地がよほど気に入ったのか、その傍らに自らの退隠所としての草庵を設けます。そして、先師・南浦紹明(大応国師)の恩に酬(むく)いるとの意で酬恩庵と名づけたのです。当時は六畳と三畳の二間くらいの、文字どおりの小庵であったといいます。

以上は酬恩庵草創に関して知られる内容ですが、先に挙げた『東海一休和尚年譜』の康正2年の条には大応国師(南浦紹明)の像を造立したことは記述されていますが、酬恩庵のことについては何も触れられていません。そこで注目されるのが『大日本古文書 家わけ第十七 大徳寺文書別集 真珠庵文書之一』に「祖心紹越酬恩庵根本次第聞書案」と題された文書(もんじょ)です。「祖心紹越」(そしんじょうえつ)とは一休の弟子の一人で、この人が酬恩庵草創期を含めた諸事情について記載した内容となっているもので、京都の東山(ひがしやま)にあった虎丘庵を酬恩庵に移したこと、一休自身が鋤を取って地を三尺(約90センチメートル)掘り卵塔(らんとう。禅僧の墓などに用いられ、台座の上に卵形の塔身を据えた石塔。)を建てたことなども記されています。この卵塔は今日の一休禅師廟(一休の墓所。法華堂。宮内庁管轄。)の内にあり、その卵塔の下に一休が眠っているといいます。

尚、この「祖心紹越酬恩庵根本次第聞書案」は、「案」とありまたその末尾には

祖心御自筆ヲ、カリソメニウツシ申候也(もうしそうろうなり)

と記され、さらに、今日酬恩庵にあるというこの正文(しょうもん。形式・内容ともに整って、文書としての機能をはたしており、古文書の研究において最も重要な資料となるもの。)とは若干の差異があることから、祖心紹越が当文書の作成にあたって下書きしたものを他の弟子が写したものと見られます。下記は「祖心紹越酬恩庵根本次第聞書案」に記されている酬恩庵草創期に関する内容のもので、カッコ内は正文に記されている字句です。

・・・酬恩開基湖心禪師大應國師御弟子也、新大西ノ先祖也、、・・・酬恩根本此下虫クイ、見ヘス、(ノ坊主ハ古春ノ)弟道中也、依落墮庵追出ス、此時古春入道、歇叟ト御影四條ニ御座候時被進庵也、其時ノ看坊正兄、其後昭塔主(看坊也)、此時酬恩本坊建立也、・・・

「・・・酬恩庵は、妙勝寺を創建した大応国師(南浦紹明)の弟子湖心(こしん)禅師が開基となり創建された。・・・古春(こしゅん)入道の弟道中(どうちゅう)が住持をしていた時、道中が落堕(らくだ)に依り(還俗して)酬恩庵を出たため、古春入道は一休の弟子歇叟紹休(けっそうじょうきゅう)と相談して、酬恩庵を四条(の瞎驢庵)にいた御影(一休)に寄進することにした。その時酬恩庵には一旦留守僧が置かれて正兄(読み不明)が就き、その後二代目の留守僧昭塔主(しょうたっす)の時に酬恩庵の本坊(住持の住む僧坊)が建立された。・・・」

そしてこの正文の末尾には

永正(えいしょう)十一年(1514)九月廿一日 紹越(花押)

の記載があって、祖心紹越による日付・署名のはいった確かな文書となっているといい、重要な資料として見られています。

今日世に広く知られている酬恩庵草創の内容に比べるといささか味気ない気もしますが、これが実際のところのようです。

いずれにしても、一休門派は大応国師(南浦紹明)ゆかりの妙勝寺を中心に酬恩庵という拠点を洛南の薪に確保したことになったのでした。

さて、一休は一所にいることは少なく各地を転々と巡錫していたようです。応仁(おうにん)元年(1467)、一休74歳のとき応仁の乱が起こります。5月に京都市街戦が始まると、8月には一休は難を避けて当時いた瞎驢庵を出て東山(ひがしやま)の虎丘庵へと移ります。そして翌月の9月には酬恩庵に入ったといいます。この間に瞎驢庵は兵火に罹って焼失しました。酬恩庵に入った後も、応仁の乱の戦火が薪の地にまで及ぶようになると一休は大和(やまと。現奈良。)や和泉(いずみ。現大阪府南西部。)そして住吉(すみよし。現大阪市南部。)の諸所を巡歴することになりますが、この酬恩庵が、一休の後半生を支える拠点となっていたことに変わりはなく、88歳で示寂するまで、主としてこの薪の地に住みます。81歳で大徳寺(だいとくじ)の住持を務めることになったときも大徳寺へ移住せず、大徳寺に赴く時には高齢にもかかわらず酬恩庵からの長い距離を駕籠で通ったといいます。

そして一休の遺骨もこの酬恩庵に葬られたのです。

更に時が流れて元和(げんな)元年(1615)、大坂夏の陣において大坂に向かう途中、薪村に近い木津川(きづがわ)に陣をしいた加賀藩主前田利常(まえだとしつね)が酬恩庵に参詣したことがありました。その時、一休が86歳の文明(ぶんめい)11年(1479)に残した「酬恩庵法度」や「虎丘庵法度」といった「おきて」を見て意に適うところがある一方で、寺の荒廃を嘆いたといいます。それから35年が経った慶安(けいあん)3年(1650)、前田利常が方丈、庫裡(くり)などを造営して再建し、寺観が整えられたのでした。

大徳寺再興〜一休81歳〜

応仁元年に応仁の乱が勃発するとその年のうちに大徳寺は炎上しました。大徳寺は14年前にも炎上したばかりでした。応仁元年には相国寺なども炎上しています。

かつて法兄・養叟が室町幕府の援助を受けて隆盛を誇った大徳寺でしたが、応仁・文明の乱(1467〜1477)が始まった今となっては幕府の権威は地に堕ちてしまっており、大徳寺を再興しようにも幕府の援助を期待することができるような状況ではない時期が続きます。

そのような中、応仁・文明の乱が収束する3年前の文明6年(1474)、一休に大徳寺を再興する旨の勅命が後土御門(ごつちみかど)天皇から下されたのです。

これを受け一休は紫衣(しえ)を賜わり、大徳寺第48世住持の任に就くことになったのです。とはいえ、もとより名利・栄達といったものには全く執着心のない一休であり、加えて権門に近づくことや格式ばることも嫌いな一休であったので、喜んで大徳寺に入ったわけではなかったようです。勅諚であるから、謹んでお受けし、応分の責任を果たそうとしたにすぎません。当時、大徳寺の建物は応仁・文明の乱の兵火で焼け、何も残っていないという状況だったといいます。一休は就任の儀式は行わず、法語をつくったにとどまったようで、いちおう入寺の形式はとったのです。一休は朝廷から僧侶の最上の位として下賜された紫衣もついに着用しなかったといいます。一休にとっては全くの無用の長物にすぎなかったようです。

この時一休はすでに81歳。とはいえ、この老齢の名僧に住持となって大徳寺再興の使命が託されたのでした。室町幕府(=権力)の支援などなくとも、一休には在家の有力な外護があり、庶民にも深い親しみを抱かれ、味方もたいそう多かったのです。守護大名から医師、茶人、連歌師そして堺の豪商層など実に幅広い階層の、一休の徳望を慕う人たちが一休にはついていたのです。一休に私淑し、晩年は一休の住む酬恩庵の近くに移り住んだ能楽師の金春禅竹、堺の豪商尾和宗臨(おわそうりん。通称、四郎左衛門。)などもいました。一休に大徳寺再興の勅命が下されたのは、このような一休の個人的な声望に頼るほかなかったためと見られています。そしてこれらの人たちが大徳寺再建のための資金を調達したのです。

こうして方丈・法堂(はっとう)・庫裡といった堂塔が次々と再建されていきます。一休85歳の文明10年(1478)には方丈が落成し、翌11年には法堂が落成しました。しかし、格式ばること、自由を束縛されることが嫌いだった一休は、再建された大徳寺の大伽藍に移り住むことはしませんでした。それよりは、薪の村の小庵である酬恩庵へ出かけては村人と触れ合って楽しむことの方を採ったようです。

そして一休88歳となった文明13年(1481)、年来の持病瘧(おこり。マラリア性の熱病。)が悪化し、11月21日酬恩庵に坐逝したのでした。

『東海一休和尚年譜』の最後となる文明13年の条に次の記載があります。

生平意誓、縱雖得一箇半箇種草、吾必斷絶

「生平(せいへい)、意に誓う、縦(たと)い一箇半箇(いっこはんこ。極めて少ない。)の種草(後継者)を得ると雖も、吾れ必ず断絶せん。」

一休にはふだんから心に誓っていたことがある。それは、たとえ稀少な優れた後継者を得たとしても、自分の法は誰にも嗣がせる(左券を授ける)ことなく必ず自分の代で断絶させる、ということである。

実は一休は宝徳2年(1450)、57歳の時に絶法を宣言しています。当時の禅界での安易な左券の扱いに対して憤りを表したもので、自己を鞭打ち、門徒を戒めるために、一休は

わしはこれまでただの一人も印可していない。しかしわしが死んだ後には、一休の法嗣だなどと称する者が出てこないとも限らない。そのような者が出た時には、寛大な措置を取らずに役人に告げて獄につないでほしい。その者は法の賊であり、わしの敵である

と自ら書いた書面を、権限があって禅宗に理解のある幕府の複数の有力者に送るということがありました。

一休は、左券の扱いに対する憤りを最後まで貫き通したのです。

ところで、次の偈は一休の遺偈(ゆいげ)として知られているものです。

須弥南畔

須弥南畔(しゅみなんぱん)、

誰会我禅

誰か我が禅を会(え)す。

虚堂来也

虚堂来(きた)るも也(また)、

不直半銭

半銭に直(あたい)せず。

「いったいこの世界(須弥南畔)に、我が禅を会する(理解できる)者があろうか。たといわが最高の先師虚堂智愚がここへ来ようと、半銭の値打ちもない!」

禅では、自分の見識が師と同等であるならば、師の徳を半減するものだ、といわれるようです。一休はみずから虚堂七世(上記「一休宗純法系略図」参照)を名のり、やがて、自分は先師虚堂智愚の生まれ変わりであるとの自覚に立っていたといいますが、末期に臨んで一休は先師虚堂智愚を凌駕したとの認識に至ったのか、やっと虚堂智愚から解放されるとの安堵感を覚えたのかもしれません。

最後に、一休臨終の際の様子が、安土桃山〜江戸時代初期の芸術家本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)で知られる本阿弥家にのみ伝えられた家記である『本阿弥行状記』(※4)〜下巻362段〜に次のように記されているので、挙げておきます。

一休和尚臨終の時、死にとむないと弟子にのたまひける事、甚だ珍敷事にて、一休ならでかやうの事はの給ふまじ。夫故今の代までも尊み申事なり。此意味筆紙の及ぶ所にあらず。

「一休和尚が臨終の間際に、『死にたくない』と弟子にいったというのはたいへん珍しいことで、一休和尚でなければこのようなことは言わないでしょう。それ故に世間はいまでも尊んでいるということです。この意味は筆紙(ひっし。文章に書き表すこと。)の及ぶところではありません。」

※4.『本阿弥行状記』
『本阿弥行状記と光悦』(芸艸堂出版正木篤三著)によると、上巻・中巻・下巻から成る『本阿弥行状記』の製作者について、上巻は本阿弥光瑳(こうさ)・光甫(こうほ)の親子が纏め上げ、中巻以下を纏め上げたのは、江戸時代中期の宝暦(ほうれき)8年(1758)に歿した本阿弥治郎左衛門(じろうざえもん)であったとされています。
尚、ここに挙げた本阿弥家の人物関係についてみると、光瑳は光悦の従兄弟違、光甫は光悦の孫、治郎左衛門は光甫の孫にあたります。
写真集≪総門界隈ほか≫写真集≪総門界隈ほか≫(10枚の写真が表示されます。)
写真 
この道路は・・・
京都府道22号バイパスの山手幹線です。写真奥が南方面で、関西文化学術研究都市の地理的な中心にあたる京都府相楽郡精華町方面となります。
写真左側に見える標識には「一休寺⇒」の案内が見られ、次の信号を右折すると一休寺はすぐそこです。写真では一休寺は見えませんが、右側の山のすそ野に位置しています。
写真集2≪一休禅師廟・方丈庭園ほか≫写真集2≪一休禅師廟・方丈庭園ほか≫
(30枚の写真が表示されます。)
写真 
瑞々しい緑に包まれて・・・
小登りの石畳の参道を奥へと進みます。
写真集3≪本堂界隈≫写真集3≪本堂界隈≫(10枚の写真が表示されます。)
写真 
唐門
方丈から庫裡を抜けて中門を出ると右手に見えるのがこの唐門です。唐門を通して茶色っぽい建物が見えます。本堂です。
≪関連情報≫
項目 内容
通称 一休寺
所在地 京都府京田辺市薪里ノ内102
山号 霊瑞山(りょうずいさん)
宗派 臨済宗大徳寺派
本尊 釈迦如来坐像
創建年 正応年間(1288〜1293年)
開基 湖心禅師
中興年 康正2年(1456)
中興 一休宗純
文化財
重要文化財
本堂、方丈及び玄関、庫裡、木造一休和尚坐像、絹本著色一休和尚像ほか
名勝
酬恩庵庭園(方丈庭園と虎丘庭園)

【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。

【マップ掲載番号の説明】

図中の[地図]のボタンをクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
  1. 総門
  2. 一休墨蹟碑
  3. 参道
  4. 浴室
  5. 三本杉
  6. 参道
  7. 宗純王の墓(一休禅師の墓)
  8. 虎丘庵
  9. 虎丘庵庭園
  10. 中門
  11. 玄関
  12. 東司
  13. 庫裡
  14. 方丈
  15. 方丈庭園(南庭)
  16. 方丈庭園(東庭)
  17. 方丈庭園(北庭)
  18. 鐘楼
  19. 唐門
  20. 本堂
  21. 妙勝寺旧跡
  22. 少年一休像
  23. 開山堂
  24. 宝物殿
  25. 「このはし渡るべがらず」と掲示されている橋→橋の「端」ではなく「真ん中」を通って渡りましょう!
  26. 音阿弥の墓
  27. 駐車場
  28. 山手幹線(京都府道22号バイパス)(※1)
※1.−(マイナスボタン)を1回クリックすると表示されます。

図の操作について

  • 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
  • 図中の+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
  • 図中の[地図]のボタンをクリックすると地図タイプを切り替えることができます。
  • 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
  • 最初の状態に戻すには、キーボードのF5キーを押下してください。

近隣の観光スポット情報

上記の【境内概観図】をご参照ください。

posted by はんなり・ジャーニー at 11:26 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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