
芭蕉庵を望んで
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四明山下の西南一乗寺村に禅房あり、金福寺といふ。
これは、芭蕉(ばしょう)、一茶(いっさ)と肩を並べる俳諧の巨匠として知られる江戸時代中期の俳人であり画家であった蕪村(ぶそん)の著した『洛東芭蕉庵再興記』(らくとうばしょうあんさいこうき)の導入部です。
山頂が滋賀県大津市と京都市左京区の県境に位置する主峰の大比叡(おおひえ、標高848メートル)とそのすぐ西の左京区に位置する四明岳(しめいがたけ、標高838メートル)の2峰からなる比叡山(ひえいざん)。金福寺は、その一峰の四明岳から西南へ直線距離で4キロメートルほど離れた麓に位置しています。また、「一乗寺」の名は、江戸時代初期、宮本武蔵(みやもとむさし)が吉岡一門と行った決闘の舞台として伝えられる「一乗寺下り松」(いちじょうじさがりまつ)の名称で広く知られるあの「一乗寺」です。
『洛東芭蕉庵再興記』は、芭蕉を敬慕した蕪村とその一門によって禅宗の寺、金福寺(こんぷくじ)に廃墟と化していた芭蕉庵の再興の計画が成った安永(あんえい)5年(1776)に蕪村が書き残したものです。
今日、金福寺の小高い後丘にある芭蕉庵からさらに奥へと山道を少しばかり登った先は、蕪村をはじめ蕪村門下が静かに眠っているところでもあります。
また、金福寺は、江戸時代末期の安政の大獄(あんせいのたいごく)にかかわった井伊直弼(いいなおすけ)の側近長野主膳(ながのしゅぜん)と共に直弼の政敵を探索(スパイ)するも、勤皇の志士によって捕縛後は尼として入寺し、その生涯を閉じた村山たか所縁の寺として知られるところでもあります。
創建・荒廃
平安時代前期の貞観(じょうがん)6年(864)、慈覚大師(じかくだいし。円仁(えんにん)。天台座主(ざす)3世。)の遺志により弟子の安慧(あんえ。安恵(あんね)。)が創建し、大師自作の観音像を安置、天下太平宝祚(ほうそ)長久を祈ったことに始まるといいます。
安慧は、大同(だいどう)2年(807)13歳の時、幼少よりの師である広智(こうち)に伴われ比叡山に登って最澄(さいちょう)の弟子となっています。弘仁(こうにん)13年(822)に最澄が没すると円仁に師事し、貞観6年正月に円仁が没するとその翌2月に天台座主(4世)を継いでいます。
時は流れて創建から300年余りが経った平安時代末期の治承(じしょう)4年(1180)に始まる治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)の兵火にさらされてしまったといいます。この乱は平清盛(たいらのきよもり)を中心とする平氏政権に対する反乱で、当時の日本の国土のほぼ全域を巻き込んだ日本最初の全国的な内乱とされるものです。最終的には、元暦(げんりゃく)2年(1185)に平氏一門が壇ノ浦で滅亡するまでの内乱となっています。
これにより寺観は退廃し、以後数百年の間、一堂宇だけが残って兎径(兎の通る道)を通じるのみで、山林との境も、寺門の名称も長い間跡を絶ってしまっていたようです。
安土桃山時代の天正(てんしょう)年間(1573〜1592)の初め、堂司(どうす。僧が坐禅をする場所である僧堂(そうどう)を司る役僧。)の僧が霊夢に感じて再興に志し、佛日山(ぶつにちざん)金福寺と名付けたといいます。豊太閤に至ってはその賦税を免除し、徳川氏に至っては、旧趾並びに山林等を返還して本尊の供養に充てさせたようです。こうして寺禄は次第に旧に復するまでに至ったのです。
江戸時代中期の貞享(じょうきょう)年間(1684〜1688)の頃になると、金福寺からほど近い臨済宗南禅寺派の圓光寺(えんこうじ)の住持、鉄舟宗珠(てっしゅうそうじゅ)和尚が金福寺四世となり住僧(じゅうそう)として入ると、堂宇の再興にのりだしたのでした。その後も再興の努力が重ねられて南禅寺派の一支刹となるまでになったのです。
芭蕉庵
さて、その鉄舟和尚が金福寺に住んでいた時、寺の奥にある丘に草庵を構えます。鉄舟和尚はここにこもると和尚を訪ねてきた客は断り、自ら炊事・洗濯を行っては貧を楽しんでいたといいます。鉄舟和尚はこの草庵に世俗を逃れ、同じ時代を生きる芭蕉の句を口ずさんでは涙を流して感慨にふけり、また、無我・寂静の境に入り禅定(ぜんじょう)の世界に遊ぶことができたことに満足されていたようです。
そのような中の元禄(げんろく)7年(1694)、芭蕉が亡くなります。これを知った鉄舟和尚は深く嘆き、芭蕉の風趣を慕い、忘れることのないようにと、この草庵を芭蕉庵と名付けたのだろうと伝えられています(下記『洛東芭蕉庵再興記』参照)。
鉄舟和尚は芭蕉が世を去った4年後の元禄(げんろく)11年(1698)に没しています。
芭蕉見直しの高まり
その後鉄舟和尚が芭蕉庵と名付けた草庵はいつのころからか荒廃してしまったようです。
また芭蕉が世を去って後は芭蕉のことはあまり顧みられないままに時が過ぎていきます。
そうした中、芭蕉が没して49年が経った寛保(かんぽう)3年(1743)には、芭蕉50回忌がめぐってきました。それにあわせて、追善集がいくつか編まれたりしたようです。これをきっかけに、芭蕉の遺徳をしのび、その俳業を顕彰する、さまざまな営みが企画されるようになってきたのです。芭蕉再評価・再認識の機運が俳壇全体に萌(きざ)しはじめたのがこのころだったようです。
この芭蕉50回忌をこえると、ドッとというほどの勢いで、芭蕉関連書が刊行されていったようです。芭蕉の発句集・文集はもとより、『鹿島詣』(かしまもうで)や『嵯峨日記』(さがにっき)といった芭蕉の紀行文も、次つぎと世に送り出されていくことになります。
明和(めいわ)7年(1770)、かの『おくのほそ道』も、もとの元禄版に跋文(ばつぶん。書物・文書などの終わりに書く文。あとがき。)を新たにつけて再版され、他にも埋もれていた芭蕉作品の発掘も、地道におこなわれ、一つひとつ紹介されていったのです。
また、ただ作品を読むだけでは飽きたらず、芭蕉の筆跡を味わいたいという願望といったものも募ってきたようです。明和元年(1764)に刊行された、『芭蕉翁真蹟集』(ばしょうおうしんせきしゅう)というのがそれです。
芭蕉の俳論書として著名な『去来抄』(きょらいしょう)や『三冊子』(さんぞうし)なども、はじめて出版されるようになります。『去来抄』が安永4年(1775)、『三冊子』が翌5年の刊行となっています。
こうした芭蕉文芸への知的関心の高まりとともに芭蕉の見直しが進むにつれ、芭蕉の存在を再確認し、そして芭蕉を慕わしく思う気分が募ってくるようになります。そこで、芭蕉を称えようというさまざまな動きが、各地に起こってくるようになったのです。
そのひとつに挙げられるのが、芭蕉庵再建の流行です。
明和8年(1771)、芭蕉(ばしょう)復帰を唱え、俳諧復興に大きく貢献し、江戸俳壇に確固たる地位を占めた蓼太(大島蓼太(おおしまりょうた))により江戸深川に芭蕉庵が再建されました。
大津(滋賀県)では、延享(えんきょう)4年(1747)に芭蕉ゆかりの義仲寺(ぎちゅうじ)境内に幻住庵(げんじゅうあん)が再興され、さらに明和6年(1769)には芭蕉堂が建立されています。
それからすこしのちの安永5年(1776)になって、蕪村たちが金福寺に芭蕉庵再興を発企し、その5年後の天明元年(1781)に竣工しています。
更にやや遅れて、天明3年(1783)には、京都東山の双林寺(そうりんじ)境内に芭蕉堂(記事西行堂・西行庵・芭蕉堂参照)が造られる、といった具合でした。
芭蕉庵再興
前項で「安永5年(1776)になって、蕪村たちが金福寺に芭蕉庵再興を発企」と述べましたが、詳細にみると、金福寺の芭蕉庵再興発企の主唱者は儒学者で俳諧を蕪村に学んだ道立(樋口道立(ひぐちどうりゅう))です。蕪村より22歳年少の道立と蕪村との関係は、道立自身
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友人阮(げん)道立、・・・。我、翁(蕪村)に師事することなしといへども、其知遇を荷(にな)ふこと二十有余年、頋許最厚し(※1)。
- ※1.頋許(こきょ)最(もっとも)厚し
- 目をかけ、願いを聞き入れてくれるなどしてとてもよくしてくれた。
(『から檜葉(ひば)』)と明言するように、道立は、蕪村の親密な友人であって師弟関係ではなかったようです。
芭蕉は道立の大祖父である儒学者の伊藤坦庵(いとうたんあん)に師事して漢学を学んでおり、その因縁もあってか、道立は「芭蕉」の名を冠した芭蕉庵に心惹かれていたようです。道立が初めて金福寺の芭蕉庵を訪問したのは明和5年(1768)の31歳の夏とみられていますが、この時すでに廃墟と化していた芭蕉庵を見た道立は必ずや再興することを心に誓ったものとみられます。
宝暦(ほうれき)年間(1751〜1764)から蕪村と交友が開けていた道立は、芭蕉庵の初訪から7年経った安永4年(1775)正月29日、蕪村の温厚忠実な弟子几董(高井几董(たかいきとう))と連れ立って金福寺を訪問しています。当時蕪村は俳諧の一派をなしていた夜半亭(やはんてい)二世を受け継いでおり、几董は、蕪村が亡くなると天明6年(1786)にその後を継いで夜半亭三世となった人です。
道立は、この几董とともに金福寺を訪れたのを機に、芭蕉庵再興及び一連の芭蕉顕彰事業に関する具体的な計画の大概について几董に持ち掛けたものとみられています。それが同年2月10日の蕪村らが開催していた句会において、几董から蕪村にその話があったようです。芭蕉を敬慕していた蕪村はその計画に賛同し、蕪村が開いていた句会を通して回りの人々からの賛同と経済的支援も得ることができて、芭蕉庵再興及び一連の芭蕉顕彰事業の計画が動き出すことになります。
安永5年4月に芭蕉庵再興が発企されるのと併せて「写経社」(しゃきょうしゃ)が結成され、以後4月と9月の年2回金福寺の残照亭(ざんしょうてい)(現本堂)で句会を開くことになり、その初会が安永5年4月26日に催されています。また『写経社集』が刊行されます。その巻頭に寄せられたのが蕪村の手になる『洛東芭蕉庵再興記』で、芭蕉の『幻住庵記』(げんじゅうあんのき)をモデルに書き上げたものといい、安永5年5月13日付で草されています。その中で蕪村は芭蕉庵の由来について次のように書き記しています。
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・・・
抑(そもそも)いつの比(ころ)よりさはとなへ来りけるにや。草かる童(わらべ)麦うつ女にも、芭蕉庵を問へばかならずかしこを指す。むべ古き名也けらし。さるを人其(その)ゆへをしらず。竊(ひそか)に聞(きく)、いにしゑ鉄舟といへる大徳(だいとく)、此寺に住(すみ)たまひけるが、別に一室を此ところに構へ、手自(てづから)雪炊(せっすゐ)の貧をたのしみ、客を謝してふかくかきこもりおはしけるが、蕉翁の句を聞(きき)ては、泪(なみだ)うちこぼしつゝ、あなたうと忘機逃禅(まうきたうぜん)の郷を得たりとて、つねに口ずさみ給ひけるとぞ。其比(そのころ)や蕉翁山城(やましろ)の東西に吟行して、・・・されば都径徊(けいくわい※2)のたよりよければとて、をりをり此岩阿(がんあ)に憩ひ給ひけるにや。さるを枯野ゝ(の)夢のあとなくなりたまひしのち、かの大徳ふかくなげきて、すなはち草堂を芭蕉庵と号(なづ)け、なほ翁の風韻をしたひ、遺忘にそなへたまひけるなるべし。雨をよろこぼひて亭に名いふなど、異(こと)くにゝもさるためし多かるとぞ。
しかはあれど、此ところにて蕉翁の口号(こうがう)也と、世にきこゆるもあらず。ましてかい給へるものゝ筆のかたみだになければ、いちじるくあらそひはつべくも覚えね。・・・
- ※2.径徊
- 経廻(けいかい。めぐり歩くこと。)の意か。
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そもそも、いつ頃から芭蕉庵と唱えてきたのであろうか。この辺りで草を刈る子供、また麦を打つ女にも、芭蕉庵はどこかと問えば、必ずあそこを指さして教えてくれる。なるほど古くからいい継がれてきた名だったらしい。ところが世間の人はその詳しい由来を知らない。私がひそかに聞くところではこういうことのようだ。
昔鉄舟という高徳の僧が、この寺に住んでおられた。この人が寺の建物とは別に一庵室(すなわち芭蕉庵)をこの場所(金福寺の小高い後丘)に造り、自分で洗濯や掃除もするという清貧を楽しみ、来客を断って深くこもっておられたが、芭蕉翁の句を聞くと、涙を流し流し、ああ、もったいない、おかげで無我・寂静の境に入り禅定の世界に遊ぶことができたといって、常に口ずさんでおられたということである。そのころ、芭蕉翁は俳句を作るため山城国(やましろのくに。現在の京都府南部の地域。)の景色のよい所や名所・旧跡のあちこちを訪ね歩いて、・・・そういう次第で、都をあちこちめぐり歩くのに便利だというので、時々金福寺の丘にあるこの岩の上で休息なさったのであろうか。ところが、芭蕉翁があの「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」という句を最後としてお亡くなりになったのち、かの鉄舟という僧は非常に嘆いて、すなわち草庵を芭蕉庵と名づけ、なお芭蕉翁の風雅の趣を慕い、のちの世まで忘れ去られることのないようになさったのであろう。雨を喜んで亭に「喜雨亭」と名づけるなど、よその国(中国)にもそのような例は多いということである。
そうではあるが、金福寺の小高い後丘のこの岩の上で芭蕉翁が休息なさった時に口ずさまれたものであると、世に聞こえる句もない。まして芭蕉翁の書かれたものが筆跡として残っているものもないから、芭蕉翁が金福寺のこの丘を訪れたんだとはっきりと論証できるとも思われない。・・・
芭蕉庵はその名が示すように芭蕉に所縁のある草庵との見方もあり、江戸時代後期の天明(てんめい)7年(1787)に刊行された『拾遺都名所図会』(しゅういみやこめいしょずえ)に掲載されている金福寺の項には
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・・・ばせを翁都往来の時、時々こゝに寄宿す、故に芭蕉庵(ばせをあん)と号す。・・・
との記載があります。「こゝに」とあるのは鉄舟和尚が金福寺に設け、芭蕉亡き後に芭蕉庵と名づけた草庵を指します。
しかし、蕪村も『洛東芭蕉庵再興記』で「はっきりと論証できるとも思われない」と述べ、また今日においても芭蕉がこの地を訪れたという確証はないようです。先述のように、「芭蕉庵」の名の由来は、鉄舟和尚が草庵を構え、芭蕉を偲んだことからこれに芭蕉庵と名付けたものとみられます。
尚、芭蕉庵の竣工なった天明元年には蕪村は『洛東芭蕉庵再興記』を新たに認め、この日付で金福寺に奉納しています。『洛東芭蕉庵再興記』には蕪村が安永5年に書いたものと天明元年に書いたものとの2つが伝えられていますが、語句の使用に若干の差があるだけで殆ど同じものです。
さて元に戻って、安永6年(1777)5月には芭蕉庵再興の一環で芭蕉の碑が造られました。そして同年の9月22日、金福寺にて建碑落成除幕の段取りとなり、同日催された写経社の第4回の句会において蕪村が次の句を披露しました。
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我も死して碑に辺(ほとり)せむ枯尾花(※3)
- ※3.枯尾花(かれおばな)
- 尾花は薄(すすき)の別名で、枯尾花は枯れたすすきの穂、枯れすすきを指します。
私が死んだ時には、枯れすすきが風にそよぐ金福寺丘状の、この芭蕉翁の碑のほとりに葬って欲しい。
自分(蕪村)の死後は、やがて金福寺境内に再興される芭蕉庵のすぐ横となるこの芭蕉の碑のかたわらに葬ってくれるように「遺言」したもので、そうすることで、死してなお自分(蕪村)は芭蕉のそばで仕えることができるから、というものです。この時蕪村は62歳で、その6年後に世を去りますが、亡骸はこの句の通りに葬られたのでした。蕪村がいかに芭蕉を慕っていたかが感じられます。芭蕉庵がその発企から5年後の天明元年5月、蕪村が亡くなる2年前に竣工したのにともなって年2回の写経社の句会はこの芭蕉庵で開かれることになりました。
蛇足ながら、明治の俳人正岡子規(まさおかしき)はその著『俳人蕪村』で
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几董は師號を繼ぎ三世夜半亭を稱(とな)ふ。惜むべし、彼れ蕪村歿後數年ならずして亦歿し、蕪村派の俳諧玆(ここ)に全く絶ゆ。
と結んでます。
蕪村『平安人物志』に掲載
江戸時代後半期以降に『平安人物志』(へいあんじんぶつし)というものが刊行されています。これは、当時における市井の各方面の文化人の職業別著名人名録で、明和5年(1768)の第一版にはじまり、以降、慶應(けいおう)3年(1867)の第九版まで、ほぼ10年おきに増補改訂されています。
この『平安人物志』に蕪村の名も掲載されています。ただし蕪村は絵画を生業としていたことから「謝長庚」(しゃちょうこう)の名で「画家」の部に掲載されています。ちなみに「長庚」は画号、「蕪村」は俳号で、これらの外にも複数あります。
大坂に生まれた蕪村は20歳のころ江戸に下って俳諧の世界へ足を踏み入れたようです。27歳の時に江戸を離れ、芭蕉を最も敬愛していた蕪村は、芭蕉に憧れて東北地方を周遊するという長い旅にでたこともあったといいます。それから約10年後の36歳の時京都に上がって知恩院(ちおんいん)の近くに住して3年近く経つと今度は天橋立のあることでも知られる丹後(京都府北部)宮津へと旅立って本格的に画の勉強に取り組んだようです。
そして42歳になったときに再び京都に戻った蕪村は姓を谷口(たにぐち)から与謝(よさ)に改め、画を描いて生計を立てる決心をし、45歳のころ妻帯します。蕪村の多くの作画活動の中で、同じ京都に居を構えていた池大雅(いけのたいが)との競作として知られる十便十宜図(じゅうべんじゅうぎず)(国宝)では蕪村が十宜図を、池大雅が「十便図」を描いています。
蕪村は、芭蕉のように「俳諧の道ひと筋」ではなく、「俳諧と絵のふた道」を歩んでいます。絵画を生業とする蕪村にとって俳諧はいわば趣味を同じくする者同士の高雅な遊びであって、俳壇において一門の拡大を図ろうとするような野心はなかったようです。
そして『平安人物志』の「画家」の部には藤応挙(とうおうきょ。円山応挙(まるやまおうきょ)。)、滕汝鈞(とうじょきん。伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)。)、池無名(いけのありな。池大雅(いけのたいが)。)といったよく耳にしたことのある名も見られます。この4人は明和5年の初版、安永4年(1775)の二版と掲載されていますが、天明2年(1782)の三版には池無名(池大雅)の名が無くなっています。 安永5年(1776)に亡くなっているためです。
『平安人物志』には掲載している人の当時の所在地も記載してあります。蕪村が掲載された最後の天明2年版には「仏光寺烏丸西入町」(ぶっこうじからすまにしいるまち)となっています。蕪村の最後の住みかとなったところです。ちなみに、明和5年の初版には「四条烏丸東ヘ入町」、安永4年の二版には「佛光寺烏丸西江入町」(天明2年版に同じ)とあり、これによると蕪村は南北に走る烏丸通を東西に走る四条通から南の仏光寺通へと引っ越していることが分かります。
蕪村は安永3年に「仏光寺烏丸西入町」へ引っ越したようです。蕪村は、芭蕉庵が再興される前から句会等で金福寺を訪ねていました。ここから金福寺まで直線距離にしておよそ6キロメートルほどですので、道なりに歩いていけば結構な距離になるといえます。当時の人たちは遠距離を歩くのを厭わなかったと思われますが、蕪村は芭蕉庵再興が発企された安永5年にはすでに61歳、通うのは大変だったろうと思われます(場合によっては今日でいうタクシー代わりに駕籠を使っていたのかも・・・)。
実際、蕪村63歳の安永7年、写経社の第五回の句会以後会頭をつとめた百池(寺村百池(てらむらひゃくち))宛に蕪村が認めた書簡の中に
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明日の金福雨と相見え候。雨天にてはとても老足及びがたく候。・・・
とあるのがみえます。百池は俳諧を蕪村に師事し、画を円山応挙に学んだ人で、蕪村の百池に対する信頼はあつく、多くの百池宛書簡が伝わっています。芭蕉庵再興発企以後は、写経社会以外の句会もしばしば金福寺で催されたことも考えられ、老いの兆しが見え始めた当時の老蕪村には、自宅から遠く一乗寺村の金福寺まで歩を運ぶのがおっくになってきていた様子が窺えます。
写真集≪山門〜本堂≫(22枚の写真が表示されます。)
東西に走る曼殊院道(まんしゅいんみち)の一つ南の通りを白川通(しらかわどおり)から東へ入って道なりに300メートル余り行くとやがて佛日山(ぶつにちざん)金福寺の寺標(写真右)が見えてきます。
ちなみに、白川通から曼殊院道を東へ入って150メートル余り行ったところにあるのが「一乗寺下り松」です。
写真集2≪芭蕉庵≫(23枚の写真が表示されます。)
枯山水庭園の南側に沿った小登りの石段を奥へと進みます。その先には瑞々しい緑に包まれた建物の屋根が見えます。芭蕉庵です。
写真集3≪芭蕉庵背後の小高い丘≫(15枚の写真が表示されます。)
さらに上へと歩を進めます。参道脇に「与謝蕪村の墓」の案内が見えます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 所在地 | 京都市左京区一乗寺才形町(さいかたちょう)20 |
| 山号 | 佛日山(ぶつにちざん) |
| 宗派 | 臨済宗南禅寺派 |
| 本尊 | 観世音菩薩 |
| 創建年 | 貞観6年(864) |
| 開基 | 安慧(安恵) |
| 中興年 | 貞享年間(1684〜1688) |
【境内概観図】
【図中番号の説明】
近隣の観光スポット情報
少し離れていますが曼殊院(上記マップ中番号13)、参観(無料)には事前に宮内庁への申し込みが必要ですが、修学院離宮(同番号14)があります。
ちなみに、道なりに行って、金福寺から詩仙堂までは約400メートル、詩仙堂から圓光寺までは約150メートルです。そして金福寺から曼殊院へは道なりに行って約1.3キロメートルです。


