桂春院

書院前庭を望んで
書院前庭を望んで
夏の候であればさぞやセミの鳴き声で賑やかであろう庭先も、若葉に包まれだして爽やかな春風そよぐ頃は静けさに包まれ、ふと時の過ぎ去るのを忘れてしまいます。
当写真の大形版もご覧ください。

臨済宗(りんざいしゅう)妙心寺派の大本山妙心寺(みょうしんじ)の塔頭(たっちゅう)、桂春院(けいしゅんいん)。

桂春院は、一条通沿いにある妙心寺北総門から入ると左へと向かう石畳に沿って300メートル程行った所に位置し、一方、妙心寺道(みょうしんじみち)沿いの南総門から入って行くと、石畳に沿って600メートル程の所に位置しています。どちらもひっそりと静まり返り、綺麗に掃き清められて塵一つない凛とした妙心寺境内の中を進みます。

江戸時代初期に作庭されたという桂春院庭園は、国の名勝・史跡に指定されています。

おもむろに書院に座ってじっと庭園を眺めているといつしか静けさの中に心が和む雰囲気に包まれ、このまましばらく座っていよう・・・、ついそんな気に囚われてしまう不思議な空間と時間の流れがそこにはあります。

創建〜武将の帰依〜

禅宗(臨済宗・曹洞宗(そうとうしゅう)※1)は鎌倉時代に伝えられたとされ、以降、武士や庶民に広まりをみせ、各地に禅宗の寺院が建立されるようになります。

※1.禅宗
臨済宗、曹洞宗と並ぶ日本禅宗三派の一つに黄檗宗(おうばくしゅう)もありますが、これは江戸前期に伝えられています。

室町時代になると武家層に更にその勢力を広め、禅宗の中でも臨済宗においては五山制度が設けられるなどして室町幕府によって保護されるようにもなったりしました。

教義を説き、「他力」の教えに救いを求める宗派に対して、坐禅の修行を通して「自力」で悟りを得ようとする禅宗の教えは、自力によって物事を解決しようとする武士の精神的な風土とも合致して武家層に急速に広まっていった要因の一つとみられています。

室町時代の前期、則ち南北朝時代の暦応(りゃくおう)5年(1342)に創建された妙心寺は、安土桃山時代以来とくに戦国武将の帰依をうけ、七堂伽藍(※2)は整備され、山内に多くの塔頭が建立され、大いに栄えました。

※2.七堂伽藍
寺として具備すべき七種のお堂の建物。なお七堂は宗派によって種類が異なっています。

今日世界文化遺産の一つに挙げられる龍安寺(りょうあんじ)は、室町幕府で足利将軍を補佐した武将細川勝元(ほそかわかつもと)が開基となって創建した妙心寺の境外塔頭として知られているところですが、桂春院もまた武将が開基となって創建されたもので、妙心寺山内に建てられた多くの塔頭の中の一つとなっています。桂春院は豊臣秀吉(とよとみひでよし)が没する2ヶ月前に創建されています。

さて、安土桃山時代の慶長(けいちょう)3年(1598)、織田信長(おだのぶなが)の長男、信忠(のぶただ)の次男である秀則(ひでのり。津田秀則。「津田」は織田家連枝が使っていた姓。)が開基となって妙心寺73世水庵宗掬(すいあんそうきく)を開山とし見性院(けんしょういん)が創建されています。

江戸初期の寛永(かんえい)2年(1625)に秀則が没した後は、美濃(みの。現岐阜県南部。)の武将、石川貞政(いしかわさだまさ)が、亡き父光政(みつまさ)の五十年忌にあたる寛永9年(1632)、追善供養のために桂南守仙(けいなんしゅせん)和尚を請じて、見性院に、前年の寛永8年に造立した書院、茶室に加えて方丈、庫裡(くり)等の建物を完備したといいます。そして、石川貞政の父の法名、天仙守桂大禅定門(てんせんしゅけいだいぜんじょうもん)の「桂」と母の法名、裳陰妙春大姉(しょういんみょうしゅんだいし)の「春」の二文字をとって桂春院とあらためたのでした。

それから22年後の承応(じょうおう)3年(1654)、石川貞政は隠居し、桂春と号するようになったといいます。

石川氏と妙心寺

ここにいう石川氏は、鎌倉時代初期の承久(じょうきゅう)3年(1221)、朝廷方が後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)を中心に皇権回復を目的として、鎌倉幕府執権の北条義時(ほうじょうよしとき)に対して討幕の兵をあげるも鎌倉幕府軍に鎮圧された、日本史上初の朝廷と武家政権との間で起きた武力による争いである承久の乱で勲功のあった石川光治(みつはる)が、美濃国市橋庄(みののくにいちはしのしょう)の地頭となって美濃に住したのに始まると伝えられています。

時を下って石川光延(みつのぶ)の時には織田信長に仕え、その子光政・光重(みつしげ)は豊臣秀吉(とよとみひでよし)に従ったといいます。

併せて下記「美濃石川氏系図」(PDFファイル)もご参照下さい。

【参考】PDFファイル
記載内容は、表示枠内に表示される+(拡大)ボタンをクリックすることで大きくすることができますが、表示が枠内からはみ出してしまった場合、上下左右に表示を移動させるスクロールバーが表示されないのであれば、表示枠内の「白い背景」部分の任意の箇所を一度クリックした後、キーボードにある上下左右の矢印(↑↓←→)のキーを使うことによって表示内容を移動させることができます。

光政の子である石川貞政は、はじめ、豊臣秀吉に馬廻衆(うままわりしゅう※3)として仕えています。

※3.馬廻衆
主君・大将の乗った馬の周囲(廻り)にあって警護をする騎馬武者。武芸に秀でた者が集められたエリートから成る武家の職制のひとつ。

その後、徳川家康(とくがわいえやす)の上杉征伐(慶長5年(1600)。会津征伐、会津攻め。)に従軍。そしてこの上杉征伐が新たな戦いの幕開けとなります。それは、石田三成(いしだみつなり)の挙兵による関ヶ原の役です。この役で石川貞政は家康側の東軍として奮戦することとなります。

役後、石川貞政は豊臣秀頼(ひでより)に仕えて大坂城に詰めていた中、慶長19年(1614)、方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)が起こると秀頼の母である淀殿(よどどの)の側近たちから、片桐且元(かたぎりかつもと)と共に徳川家康との内通を疑う讒言(ざんげん※4)を受けたことから大坂城を離れ、高野山に入り剃髪したといいます。

しかしその後、大坂の陣が始まると徳川家康率いる関東方に属して戦い、以後徳川幕府に仕えました。

※4.讒言
事実を曲げたり、ありもしない事柄を作り上げたりして、その人のことを悪く言うこと。

さて、石川貞政属する美濃石川氏ゆかりの妙心寺塔頭は桂春院の他に養徳院(ようとくいん)、大雄院(だいおういん)があります。しかもこれら三塔頭は広大な妙心寺境内の中で近接して建っています。(下記境内外観図参照)

養徳院は、石川貞政の父光政の弟である光重が功沢宗勲(こうたくそうくん。妙心寺67世。)を開山として天正(てんしょう)11年(1583)に創建したものといいます。

大雄院は、光重の孫にあたる光忠(みつただ)が10歳の折、叔父の石川貞清(さだきよ。宗林(そうりん)。)を介して請じた慧南玄譲(えなんげんじょう)を開山として慶長8年(1603)に創建したものといいます。

石川貞政が見性院を桂春院とあらためた際に請じた桂南守仙も美濃石川氏の出身で、養徳院二世を務め見性院(けんしょういん)の開山となった水庵宗掬の法嗣(はっす)でした。 併せて上記「美濃石川氏系図」もご参照下さい。

武将・美濃石川氏が妙心寺に関わりが深かったことが窺えます。

なお余談ながら、「石川」姓は「石河」姓へと改められていますが、その経緯について付しておきます。

石川貞政が寛永9年(1632)に桂春院と名を改めた9年後の寛永18年(1641)に3代将軍徳川家光(いえみつ)の命により、諸大名および旗本諸氏のそれぞれの家譜が『寛永諸家系図伝』(かんえいしょかけいずでん)として2年後の寛永20年に編纂され家光に献上されています。この時、石川氏は姓を「石河」として提出し、その読みは「いしかふ(わ)」「いしこ」の二通りの読みが付されています。

それから約170年後、第2回目の系譜編纂事業が行われ『寛政重修諸家譜』(かんせいちょうしゅうしょかふ)が編纂されました。その中では、「石河(いしこ)」として掲載されています。そこには

・・・今の呈譜に、元は石川と稱す。子孫貞政にいたりて寛永十八年系譜(※5)を捧(ささげ)るのとき、これを正して石河に改むといふ。・・・

※5.寛永十八年系譜
前回編纂された『寛永諸家系図伝』。

との補説が付されて「貞政」の名が記され、「石川」姓から「石河」姓へと改められたことが記されています。

庭園のこと

書院に座ってその前庭である「侘(わび)の庭」を眺めていると、周囲の草木生い茂る光景にしっくりと溶け込んだ屋根の付いた簡素な風情ある門が目に入ってきます。桂春院のリーフレットには

侘の庭は、書院前提より飛石づたいに既白庵茶室に通じる露地庭である。露地は梅軒門と猿戸によって内露地、外露地にわかれ、・・・

との記載があります。先ほどの「屋根の付いた簡素な風情ある門」と書いたのが「梅軒門」(ばいけんもん)のことなのですが、茶室や露地のことについては何も知らないということもあって、初めてリーフレットを読んだときは「ふ〜ん!?」と読み流しただけ。

ただ、「侘の庭は・・・既白庵茶室に通じる露地庭」という文言に気を引かれて桂春院の庭園について調べてみました。

先ずは「露地」(ろじ)の基本について。

露地は茶室に付属して設けられる庭のことを指しますが、その区分の仕方により、その入口から茶室に向かって多い場合で外(そと)露地、中(なか)露地、内(うち)露地の3つから構成されます。

そしてその仕切りとしてあるのが庭門(にわもん)と呼ばれる門です。庭門には露地門、中門(ちゅうもん)または中潜(なかくぐ)り、木戸または猿戸(さるど。簡素な造りの木戸。)と呼ばれるものがあります。

露地門は、露地への入口となる門で多くは外露地に構えられます。

中門または中潜りは、外露地と内露地の間、もしくは外露地と中露地の間に構えられます。

桂春院にある梅軒門は中門のカテゴリーに含まれる門の一つです。

木戸または猿戸は、中露地と内露地の間に構えられます。

そして露地には寄付(よりつき)、腰掛待合(こしかけまちあい)、雪隠(せっちん)、石灯籠(いしどうろう)、蹲踞(つくばい)、飛石(とびいし)といったものが配されます。

これらのことから露地には一重(いちじゅう)露地、二重露地、三重露地の3つの基本構成があります。

一重露地は、露地門を入って腰掛待合・蹲踞を経て茶室に至るという最もシンプルな露地です。

二重露地は、露地門を入って茶室に至るまでの露地の中に仕切りのための垣が設けられてそこに中門あるいは中潜りが構えられたものです。これにより露地が二つに区分され、露地門を入って中門に至るまでが外露地、中門を入って茶室に至るまでが内露地と呼ばれています。

三重露地は、外露地と内露地に加え、その両者に挟まれた中露地との三つの区分によって構成されたものです。この場合、外露地と中露地との間には中門あるいは中潜りが構えられ、中露地と内露地との間には木戸または猿戸が構えられます。

茶事の露地作法は見ていると実に内容豊富なものですが、三重露地を簡略化したイメージを描いてみると以下のようになります。

三重露地イメージ図

次に桂春院庭園そのものについて。

昭和を代表する作庭家として知られる重森三玲(しげもりみれい)とその長男の重森完途(かんと)の共著『日本庭園史大系〜江戸中末期の庭(四)〜』によると、

・・・(桂春院の)方丈から裏の書院にかけての東側のこの露地は、あまりに雑然としすぎていて、まとまった景観が見られない。それは方丈や書院や茶亭の露地が一緒に作庭された結果として、そうした区別がないためであろう。

しかしやはり茶亭の露地付近だけは、茶亭というものを重点としてあるために、躙口付近や、近くの蹲踞の付近が最もよくまとまっている。したがって全体的には、一般の庭と露地とが一緒になった景観が強い。(下記に続く)

と評しています。

桂春院のリーフレットにも記載されているように、当院の庭園には梅軒門と猿戸が構えられているということからも桂春院の庭園は則ち露地そのものであり、それも三重露地構成に当てはまるようですが、今日、石灯籠、蹲踞、飛石は見られても寄付、腰掛待合、雪隠といったものは見られません。

そして『日本庭園史大系〜江戸中末期の庭(四)〜』で著者は、

(上記より続く)このような様式となったのは、実は他に理由のあることである。

実は妙心寺では、開山関山慧玄(かんざんえげん)の禅風が甚だきびしいものがあって、すくなくとも山内の寺院では、茶の湯に凝ることは、参禅得道の邪魔になると主張して、茶亭などの建立を厳しく中止させた(※6)関係もあって、茶亭を作る場合は本院のように裏側の人目を避ける場を選んだ由である。このような関係から、露地を作る場合も、一見直ちに露地と見えぬように作庭することを重点としたので、実はこのような、一見露地でない露地が出現したことにもなるのである。

※6.茶亭などの建立を厳しく中止させた
『日本庭園史大系〜江戸中末期の庭(四)〜』で著者は、
茶の湯も江戸中期以後では、本来の筋から外れたことによって、妙心寺あたりでは、茶の湯を禁じたといわれるのである。しかし実はそれを裏付ける文献もないので、果して妙心寺で、そのような主張があったかどうかは判然としない。
と付記しています。
【参考】
江戸時代前期までの茶の湯人口は、主に大名・豪商などが中心のごく限られたものであったようですが、江戸中期になって町人階級が経済的に勃興するとともに茶の湯人口が日本全国に広く普及していくことになります。ただ、同時に茶の湯のあまりの大衆化に拍車がかかり、茶の湯が本来の「道」から外れて遊芸化が進んでいったという弊害も生まれたようで、このことが「妙心寺あたりでは、茶の湯を禁じた」といわれる由縁となったものと思われます。

としています。ただ既白庵茶室の躙口付近では

躙口の踏石や落石の手法も入念な手法を見せていて、いかにも侘茶席の露地としての手法を用いてある。

との見解を示しています。そして、

それにしても、この露地のように、目立たない手法を用いることは、寺院の場合でないと、不可能だともいえる。

と述べています。

ところで、露地には露地入口の門にして外露地に構えられる露地門がありますが、桂春院の場合これがどこにあるかについては写真集をご覧ください。

茶室のこと

茶室は、桂春院と名を改められる前年の寛永8年(1631)、石川貞政が江州(ごうしゅう。現滋賀県。)長浜城より書院とともに引き移して造立させたものといいます。

その後、茶室も書院も改造されたようで、茶室は寛保(かんぽう)年間(1741〜1744)以後に改造されていたことが判っているようです。

ここで大徳寺(だいとくじ)塔頭聚光院(じゅこういん)にある閑隠席(かんいんせき)(重要文化財)が関係してきます。閑隠席は、千利休(せんのりきゅう)150回忌の寛保元年(1741)に追善茶会のため千宗左(せん(の)そうさ。表千家7世・如心斎(じょしんさい)。)が聚光院に寄進した利休好みの秀作とされます。

今日「既白」の扁額が掛けられた桂春院の茶室は、この閑隠席によく似ているとされ、閑隠席を参考にして改造されたものではないかとの見方があるのです。

また桂春院の茶室・既白庵は藤村庸軒(ふじむらようけん)流の茶室と伝えられます。藤村庸軒は千利休を祖父にもつ千宗旦(せん(の)そうたん)門下の四天王の一人とされた人です。茶室・既白庵には、その露地の様式的な面や細部の手法に庸軒流としての特色がみられるといいます。

以上から桂春院の茶室・既白庵は、閑隠席を参考にして庸軒流の茶室として改造されたものと見ることもできそうです。

さらに藤村庸軒の流れを汲む系譜(下記「庸軒流系譜」(PDFファイル。上記「【参考】PDFファイル」参照。))を見ていくと、7代にあたる桂春院月山(けいしゅんいんがっさん。文化(ぶんか)14年(1817)生〜明治19年(1886)没。)という名が見られます。桂春院月山は妙心寺537世で、桂春院に住し「既白軒」と号していたといいます。このことから、現在みられる桂春院の既白庵と称される茶室およびその露地ができたのはこの桂春院月山の時と見られています。

ところで、桂春院の茶室は書院の背後に隠れるようにしてあります。茶室に隣接する書院との間は二重襖で仕切られ、一方、外露地から内露地に至るまでは植栽が多く、露地庭の蹲踞も茶室の壁に接して植栽に遮られて目立たないようにしてあります。

妙心寺境内には、桂春院と同じように公開されている退蔵院(たいぞういん)にも茶室がありますが、退蔵院もまたその書院の裏に隠れるようにして茶室が設けられています。

話は少しばかり変わって、大徳寺(だいとくじ。臨済宗。)の一休(いっきゅう)に参禅して「仏法も茶湯の中にあり」の語を得てからは、茶の湯(の修行)と禅(の修行)とは一体とする「茶禅一味」(ちゃぜんいちみ)の境地に達した村田珠光(むらたじゅこう)に始まり、その道を更におしすすめて次代の千利休らに深い影響を及ぼした武野紹鷗(鴎)(たけのじょうおう。大徳寺派南宗寺(なんしゅうじ)で参禅。)を経て、千利休が完成した茶の湯が侘茶(わびちゃ)といわれています。千利休もまた大徳寺で参禅しています。茶の湯(侘茶)の大成に多大な貢献をした彼らは臨済禅を通してその道を深めていったともいえます。

千利休によって茶の湯(侘茶)が大成に向かう歴史的瞬間を千利休の高弟であった山上宗二(やまのうえそうじ)が書き残した茶道の秘伝書『山上宗二記』に、次のような一文があります。

茶湯は禅宗より出でたるによりて、僧(そう)の行(おこな)いを専らにす。珠光、紹鷗、悉く禅宗なり。

茶の湯(侘茶)は禅宗(臨済宗)(の修行の中)から生まれたものであるから、禅僧が行うようにその修行に専心する。村田珠光も武野紹鷗も、禅宗の修行を通して茶の湯の道を深めた。

と、臨済宗と茶の湯との深い結びつきが記されています。

そういうことであれば、安土桃山時代には京童(きょうわらべ※7)が都の臨済禅院の性格に応じて巧みにつけた「茶づら(面)」の愛称で知られる大徳寺がそうであるように、同じ臨済禅院である妙心寺においても茶室や露地は堂々と作られていてよいようにも思われます(ちなみに妙心寺に至っては、その厳重な経理制度から「そろばんづら」と呼ばれたといいます)。

しかし桂春院では茶室とその露地が人目を避けるかのように設けられています。これには、妙心寺内で茶の湯が厳しく中止された歴史があったことによるものとの指摘もあるものの、捉え方によってはむしろ、妙心寺における茶室・露地の作り方には、その禅風に、茶の湯に対する妙心寺流とでもいえる「侘」の概念が織り込まれて生み出されたことによるものではないのだろうか、という見かたをすることも一つの解釈としてあり得るようにも思えます。その具現化された一つとなったのが妙心寺塔頭桂春院なのでは・・・。

※7.京童
京都市中の物見高くて、他人や事物のことをあれこれ口うるさく批評するのが好きな無頼の若者たち。
写真集写真集(23枚の写真が表示されます。)
写真 
桂春院山門
一条通沿いにある妙心寺北総門から入ってきました。妙心寺境内は静けさに包まれています。
写真奥へと延びる石畳に沿って南下すると妙心寺南総門へと出ます。ちなみに石畳の先の正面に白壁が小さく見えます。大雄院です。
≪関連情報≫
項目 内容
所在地 京都市右京区花園寺の中町11番地
宗派 臨済宗妙心寺派
寺格 妙心寺塔頭
本尊 薬師如来
創建年 慶長3年(1598)
開基 津田秀則
文化財
重要文化財
無明慧性(むみょうえしょう)墨蹟
名勝・史跡
桂春院庭園

【境内概観図】

【図中番号の説明】

  1. 山門
  2. 庫裡
  3. 清浄の庭
  4. 書院
  5. 既白庵(茶室)
  6. 侘の庭
  7. 梅軒門
  8. 本堂
  9. 思惟の庭
  10. 坐禅石
  11. 真如の庭
  12. 地蔵尊
  13. 庸軒好み井戸
  14. 津田秀則の墓
  15. 大雄院(※1)
  16. 養徳院(※1)
  17. 一条通(※2)
  18. 妙心寺北総門(※2)
  19. 退蔵院(※3)
  20. 妙心寺南総門(※3)
  21. 妙心寺道(※3)
  22. きぬかけの道(※5)
  23. 仁和寺(※4)
  24. 龍安寺(※5)
  25. 等持院(※4)
  26. 金閣寺(鹿苑寺)(※6)
  27. 北野天満宮(※5)
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近隣の観光スポット情報

上記の【境内概観図】をご参照ください。

posted by はんなり・ジャーニー at 15:47 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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