妙覺寺

法姿園
法姿園
濡縁に腰掛けて静けさに包み込まれた庭園を眺めていると、ゆっくりとした時が流れていくのを感じます。
本堂より。

室町後期の武将斎藤道三(さいとうどうさん)・織田信長(おだのぶなが)所縁の寺、妙覺寺(みょうかくじ)。

本堂前の苔むした庭園「法姿園」(ほうしえん)に根を下ろす楓の色づきは、秋の深まりにつれて苔の緑との美しいコントラストを創り上げ、見る人の目を引き付けます。

開創、そして度重なる移転

南北朝時代の永和(えいわ)4年(1378)、妙顕寺(みょうけんじ。日蓮宗(法華宗)。)第四世の後継をめぐって候補に挙がっていた日実(にちじつ)が妙顕寺を出、支援者であった豪商の小野妙覚(おのみょうかく)の寄進した四条大宮の邸宅を寺に改めて開創したのが始まりといいます。日実は妙顕寺在往時に備前(びぜん。現岡山県東南部。)・備中(びっちゅう。現岡山県西部。)への布教活動で信者を得ていたこともあり、日実の妙覺寺創建に当たっては備前・備中の妙顕寺末寺等の多くが妙覺寺へ移ったといいます。

応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)が収束して6年が経った文明15年(1483)、室町幕府第9代将軍足利義尚(あしかがよしひさ)の命により北東方向に位置する二条衣棚(ころものだな)へ移転。この頃には妙顕寺と並び京都での地位を確立していたようです。

天文(てんぶん)年間(1532〜1555)には、京都では六条本圀寺(ほんこくじ)をはじめ妙顕寺、妙覺寺などの日蓮宗寺院を中心に、日蓮宗の信仰が多くの町衆(京都の裕福な商工業者)に浸透し、強い勢力を誇るようになり、日蓮宗徒の町衆は「法華衆」として京都市中の警衛などにおける自治権を得て、地子銭(じしせん。地子(地代)として納める金銭。)の納入を拒否するなど、約5年間にわたり京都で勢力を拡大したのです(法華一揆)。

日蓮宗徒は天台宗総本山延暦寺(えんりゃくじ)に対しても挑戦的であったようで、延暦寺との間に天文初年から対立が続いていたといいます。そのような中の天文5年(1536)2月、法華衆が延暦寺に対して宗教問答をすることを呼びかけたのです。延暦寺はこれに応じ、延暦寺の僧と日蓮宗の一般宗徒とが問答することになりました。ところが日蓮宗の一般宗徒が延暦寺の僧を論破したことからこれが噂で広まり、面目を潰されたと感じた延暦寺は様々な対抗手段を講じた挙句ついには京都法華衆の撃滅を決議、両宗派の武力衝突にまで発展していくことになるのです。

同年7月、延暦寺はその僧兵集団に加え近江の大名の援軍を得て総勢6万人を動員して京都市中に押し寄せ、法華衆2万人と交戦します。戦闘は一時法華衆が有利に進んでいたようですが、次第に劣勢となり、結果、延暦寺側が法華衆に勝利することとなったのです。京都洛中洛外にあった妙覺寺を含む日蓮宗二十一本山はことごとく焼き払われ(天文法難)、兵火による被害規模は応仁・文明の乱を上回るものであったといいます。

こうして、隆盛を誇った京都の法華衆は壊滅し、以後6年間、京都においては日蓮宗は禁教となったため法華衆徒は洛外に追放されることとなり、移転していった先が堺でした。妙覺寺にとっては二度目の移転となります。

そして天文11年(1542)、朝廷から日蓮宗の京都帰還を許す勅許が下り、天文16年(1547)には延暦寺と日蓮宗との間に和議が成立しました。その後、日蓮宗二十一本山のうちの15か寺が再建されたといいます。妙覺寺は天文17年(1548)、二条衣棚の旧地に再建され、3度目の移転となりました。後に織田信長の入京時には妙覺寺を常宿所とする時期がありましたが、それはこの3度目の移転後のことです。

下記の図(下記の【境内概観図】(「旧跡」として表示)より画像として抜き出したもの)は、当時の妙覺寺(在二条衣棚)、妙顕寺(みょうけんじ)、本能寺(ほんのうじ)、信長の時代に建てられ京都におけるキリスト教と南蛮文化の中心となった南蛮寺(なんばんじ)、そして信長が入京の際に御座所とするため天正(てんしょう)4年(1576)に造営しその3年後には正親町(おおぎまち)天皇の皇太子誠仁親王(さねひとしんのう)に進上した二条新御所(二条御新造)の位置関係を表示したものです。これを見ると信長に縁のあった妙覺寺と本能寺とは近くにあったことが分かります。

今日では妙覺寺、妙顕寺、本能寺の所在地は変わって受け継がれています。一方、南蛮寺と二条新御所については現存していません。

なお下記の【境内概観図】には内裏(だいり)と信長が足利義昭(よしあき)のため永禄(えいろく)12年(1569)に築城した将軍御所(旧二条城)があったところも掲載(「旧跡」として表示)しています。将軍御所(旧二条城)は当時は「武家御城」とか「公方之御城」などと呼ばれていたようです。

妙覺寺が二条衣棚にあった時の他の寺等との位置関係【妙覺寺が二条衣棚にあった時の他の寺等との位置関係】

天正10年(1582)に本能寺の変で信長が倒れた時、妙覺寺には信長の嫡男・信忠(のぶただ)主従が宿していました。本能寺が既におちた知らせを受けた信忠は妙覺寺の東隣にあって防御能力の高い二条新御所へ移り、誠仁親王を脱出させます。そして二条新御所・妙覺寺周囲を取り囲んだ明智光秀勢と奮戦しますが、信忠らは討ち死にし、二条新御所とともに妙覺寺は灰燼に帰した(妙覚寺は焼失どころか無傷であったという見解もあります)といいます。

翌年の天正11年、妙覺寺は豊臣秀吉(とよとみひでよし)の洛中寺院整理令の一環により4度目の移転をすることとなりました。その移転先が現在地ということになります。

当時の妙覺寺の寺地の広さは洛中では東寺相国寺・妙顕寺に次ぎ、また地方の末寺も多かったことから隆盛を誇ったといいます。

信長の京都における常宿所

戦国時代の永禄11年(1568)、足利義昭が織田信長に擁立されて入京し、義昭はかねてよりの念願であった室町幕府第15代将軍に就任します。これ以後しばらくの間、信長には入京時の定まった陣宿というものがなく、東寺・清水寺知恩院・妙覺寺・相国寺・本能寺などが転用されたり、はたまた明智光秀の京都邸に泊まるといったこともあったようです。

信長が生きていた時代は群雄が割拠して互いに戦っていた戦国の世。戦国大名が出先で大寺院を宿所に利用することはごく一般なことで、その利点としては、境内が十分な広さをもっていた上に高い築地塀に囲まれていたためです。そのため大勢の配下の者を収容でき、塀はいざというときの防御壁ともすることができたのです。また、特に格式の高い寺院ともなると、貴人を迎える客殿を備えており、体面を保つことにも役立ったとみられます。

ただ当の信長自身は入京した時の常宿所が無いことに不便を感じてはいなかったようです。

そのような中、信長が入京時に宿所として数多く使った所として挙げられるのが妙覺寺です。特に天正3年(1575)10月に妙覺寺に寄宿(※)して以降1年半程の間は、信長入京の際の常宿所となったようです。

※天正3年(1575)10月に妙覺寺に寄宿
翌月の11月に信長は昇殿し大納言(だいなごん※)に任じられ、さらには右近衛大将(うこんえのだいしょう。右大将。※)を兼任することになります。その記念すべき日に備え、宿所とするに相応しい先を妙覺寺とし、10月、信長は京都に入ったと思われます。この時、妙覺寺では茶会も催しています。
※大納言、右近衛大将
大納言は左大臣・右大臣の次に位置した役職で、左・右大臣とともに政務を審議し、天皇への奏上や宣下をつかさどることをその任としました。
一方、右近衛大将は、左近衛大将(さこんえのだいしょう。左大将。)とともに宮中の警固や行幸(ぎょうこう)時の供奉(ぐぶ)などにあたった長官職です。

妙覺寺のリーフレットによると、妙覺寺が信長入京の際の常宿所となっていった理由として次の2つが挙げられています。

一つは、斎藤道三との関係です。斎藤道三は、子供のころ妙覺寺で得度を受け僧となるも、その後還俗して油商人となり(※)、ついには美濃(みの。現岐阜県南部。)の国主となった下克上大名の典型とされる人です。信長は斎藤道三の娘である帰蝶(きちょう。濃姫( のうひめ))を妻(通説では正室)に迎えています。また、妙覺寺19世住職日饒上人(にちじょうしょうにん)が斎藤道三の遺児であったという縁があったことです。

※子供のころ妙覺寺で得度を受け僧となるも、その後還俗して油商人となり
これは道三の父のことで、妙覺寺の僧だった道三の父は還俗して油商人となり、たびたび美濃へ行商に行くうち美濃の守護土岐氏(ときし)の有力家臣長井氏(ながいし)に仕える機会に恵まれ、やがて頭角を現すようになって長井氏を名乗るようになります(『六角承禎条書』(ろっかくじょうていじょうしょ))。つまり、成り上がったのは道三の父で、道三のスタートは美濃の名のある武士・長井氏から、ということになります。道三の国盗(くにとり)の過程は、実際には道三の父と道三との2代にわたったことになります。

そしてもう一つは、信長が、浄土真宗や比叡山を中心とする天台宗と対立していたということもあり、妙覺寺はその両者に対抗できるだけの力を持った日蓮宗寺院であったということが挙げられています。

当時の妙覺寺は濠を穿ち、土塁と塀をめぐらした城塞としての機能を有した大規模な寺院であったということも、信長が入京した際の常宿所として適っていたものと思われます。

信長の20回を超えるとみられる入京時の滞在の中で、本能寺の変で知られる本能寺に信長が宿泊したのは3回とされ、これに対して妙覺寺には18回宿泊したと言います。ちなみに、信長が本能寺に宿泊した3回目に本能寺の変に遭い倒れました。本能寺は、織田信長という戦国時代の覇者の京都での住まいとしての「御座所」としては防備もなく、一町四方(約110m四方)の狭い敷地であったといいます。

ところで、先述したように織田信長は足利義昭を擁して入京し、義昭は参内して室町幕府第15代将軍となります。が、信長との確執の果てに義昭は信長を討つべく挙兵しました。これに対して岐阜から軍勢を率いて信長が入京し、京都から義昭を追放します。この時信長が本陣を置いたのが妙覺寺でした。

従来、義昭を頂点とする室町幕府は信長の傀儡政権にすぎない、との見方が主流のようでしたが、義昭が将軍職についてからの4年ほどの間は義昭と信長は相いに補完しあうといった関係にあり、政権は二人による「連合政権」といった様相を呈していたとする見方もあります。義昭と信長は二人三脚で仲良くやっていた・・・かのようだったのですが・・・。

そこで、信長と義昭がどうして対立するようになったのか、そしてその結果とそこに至る過程に興味を惹かれ、調べてみました。

信長、義昭を擁して入京

尾張(おわり。現愛知県西部。)をほぼ統一した織田信長は、永禄2年(1559)、約500名の軍勢を率いて入京し、室町幕府第13代将軍足利義輝(よしてる。第15代将軍足利義昭の同母兄。)に謁見しています。当時の義昭は仏門に入っていて覚慶(かくけい)と名乗り、奈良・興福寺(こうふくじ)の塔頭一乗院(いちじょういん)門跡となっていました。

ところが永禄8年(1565)、第13代将軍であった兄・義輝が暗殺されます。このとき、覚慶も捕縛され、興福寺に幽閉・監視されてしまいます。幸運にも、覚慶は義輝の側近らに助けられましたが、各地を転々とすることを余儀なくされます。この間、覚慶は上杉輝虎(謙信)(うえすぎてるとら(けんしん))らに対し、自分を将軍職に就け、室町幕府の再興を依頼するといったこともありましたが、実現しませんでした。翌永禄9年、覚慶は還俗して足利義秋と名乗りますが、永禄11年(1568)4月には「秋」の字は不吉であるとし「義昭」と改名しています。

その2か月後の6月、当時越前国(えちぜんのくに。現福井県北東部。)にいた義昭から「京都へと上り、予を将軍にしてもらいたい」と打診された信長はこれを受け、同年9月26日、義昭を擁して入京したのです。この時、信長は東寺に本陣を張り、義昭は清水寺に着陣します。当時の正親町天皇や公家には織田信長という武将は馴染みがなく、正親町天皇は信長に対して綸旨(りんじ。天皇の仰(おおせ)を奉(うけたまわ)った側近が、その意を体して発信する書状形式の命令文書。)を発給させ、禁中(きんちゅう。天皇の御所。禁裏。宮中。皇居。)の警護と京都の治安の維持を命じました。

信長がこれに対応したことで織田軍の統制はとれ、戦につきものの乱暴・狼藉は起きなかったといいます。そして信長が東寺に陣を構える際に配下に向けて、東寺境内で乱暴・狼籍や陣取、放火などをしてはならないと命じた文書「織田信長禁制」(「東寺百合文書」(とうじひゃくごうもんじょ)(国宝)所収)が残されています。これは東寺に残る信長文書の唯一の正文(しょうもん。写しや控えに対して、もとになる文書。原本。)であること、そして書面の末尾には「永禄十一年九月日 弾正忠(※)」の署名に信長の「天下布武」印のあるものです。

※弾正忠(だんじょうのちゅう)
「弾正忠」とは、京都の警察や、親王および大臣以下朝臣(ちょうしん)の非違(ひい。法に背くこと。)を検察(犯罪を捜査し、事情を明らかにすること)する機関である弾正台(だんじょうだい)のなかで、上から三番目に当たる官途(かんと。官吏(一般に役人)としての職務または地位。官職。官位。)。この場合「忠」は「じょう」と読まれるのが本義に沿ったものですが、信長の時代においては「ちゅう」と読んでいたといいます。
そもそも信長の家系は奉行の家であったということもあって、代々「弾正忠」の官名を名乗ることが多かったようです。ただ、「弾正忠」は当時においては本来、室町幕府を通じて朝廷から叙任を受けた者が称するところでしたが、信長が叙任を受けたことの証となるものはなく、私称であったとみられています。
信長は義昭を擁して入京する直前の8月、尾張の支配者であることを示す「尾張守」(おわりのかみ)から「弾正忠」に改めています。これは朝廷から好印象を持たれることを狙ってのことであったともみられています。

10月18日、義昭は参内して念願だった征夷大将軍(第15代)の宣下を受けます。そして、信長が京都を離れるに際しては、10月24日付で宛名を「御父織田弾正忠殿」(おんちちおだだんじょうのちゅうどの)と書いた2通の御内書(ごないしょ。将軍が発給した文書(将軍の書状)。)を信長に送っています。信長は天文(てんぶん)3年(1534)生まれ、義昭は3年後の天文6年生まれ。この時の義昭にとって、自分を将軍の座へと導いてくれた信長は、父のように敬うべき人であったことが窺えます。

信長と義昭、最初の対立

翌永禄12年(1569)2月には織田信長は二条に将軍御所(下記【境内概観図】に示した「内裏」の南に位置するところに「将軍御所(旧二条城)」と表記したもの)の普請を開始させています。時に、内裏についてはその建物などは古くなって傷みがはなはだしく、朝廷としての面目も威容も失われていたこともあって、信長はこれまた修理を命じています。

それから半年後の8月、信長は伊勢国(いせのくに。現三重県の大半と愛知県・岐阜県の一部。)の国司(こくし)北畠具教(きたばたけとものり)・具房(ともふさ)親子の領内への侵攻を開始します。結果、織田家と北畠家は和睦、10月4日北畠親子は城を退去するという出来事がありました。北畠具教は戦国時代の剣豪塚原卜伝(つかはらぼくでん)にまなび、剣客としても知られる人で、のちの天正4年(1576)一族とともに信長に謀殺され、北畠氏は滅びました。

信長は伊勢一国を平定した次第を将軍足利義昭に報告すべく京都に入ります。そしてこの時のことが『多門院日記』(たもんいんにっき)に次のように記されています。

永禄12年10月11日条

十一日、信長出京、人數三万騎云々、

永禄12年10月19日条

信長十二日ニ上洛、十六日ニ上意トセリアヰテ下了ト、

(16日に上意と競り合いて下(くだ)り了(おわんぬ)と)

10月11日に信長は3万の軍勢を率いて出京し(京都に向かって発ち)、翌12日には上洛(義昭のいる将軍御所を訪問)、16日には「上意」(主君の考え・意見)則ち将軍義昭と「何らかの件」で意見が衝突したことで信長は京都を出てしまった事が記されています。

信長が京都を去ってしまったことはあまりにも突然のことと受け止められたようで、正親町天皇をはじめ公家たちも何事があったのかと驚いたようです。

信長はどうも腹を立て突如として京都を去ったことが推測されるのです。

この「何らかの件」について定かなことが言えるものはないようですが、信長が今回の入京直前に国司北畠具教・具房の父子が治める伊勢を攻め落としたことと何らかの関係があるようで、そのことについて信長と義昭との衝突となってしまった、と考えるのが自然なことのようです。

北畠氏は第62代村上天皇の第七皇子である具平親王(ともひらしんのう)を祖とする鎌倉・室町時代の公家で、南北朝期には南朝方の主力となって、足利政権(室町幕府)が擁立した北朝方と戦った伊勢国の国司(※)でした。南北朝が統一(1392年)されると北畠氏はその「国司」任命権者であった南朝の後ろ盾をなくすことになりましたがその後も代々国司としての地位を保ち、室町幕府の体制下に入って南伊勢地域を統治することは室町幕府から「守護」と同等の権限で認められました。さらに後には伊勢国の「国司」としての地位に加えて伊勢国の「守護」職に任命され、当地域を兼任して統治することが室町幕府から認められたこともありました。義昭にしてみれば室町幕府を支えてきたそのような北畠氏をなぜ攻め落としたのか、といった信長に対する反感がでてしまったのかもしれません・・・。

※国司と守護
国司は、奈良時代に貴族を中心とした朝廷によって、中央集権国家をつくるために制定された律令制のもとで、諸国を治めるために設置された役職です。
これに対し、鎌倉時代以降の武家政権である鎌倉幕府、室町幕府によって、諸国の治安維持や、武士の統制を主な役割とする役職としておかれたのが守護です。これによって国司の力は弱まり、室町時代からは名ばかりの役職になりましたが、江戸時代までは存在しました。

ともかくも『多門院日記』永禄12年10月19日条に記されていることを信長と義昭の最初の衝突として、以後、信長と義昭との仲は一挙にというわけではなくじわりじわりと険悪になっていくこととなるのです。

それから3カ月ほどが過ぎた翌永禄13年(この年の4月、元亀(げんき)に改元)1月23日付で信長は五ヵ条からなる条書を義昭に提出しています。そこでは、天下のことは信長に任せたのだから、将軍(義昭)は朝廷のことに専心してください、といったことが綴られています。これからは天下のことには将軍風を吹かしてしゃしゃり出て来ないで欲しい、との信長の考えが見て取れ、信長の将軍義昭に対する牽制とも言えるようです。

破局

ところで、軍事的にも経済的にも圧倒的に有利な織田信長率いる織田軍と、浄土真宗本願寺派の顕如(けんにょ)との間で、元亀元年(1570)から天正8年(1580)までの10年以上にわたって激しい攻防が繰り広げられたことで知られる石山合戦(いしやまかっせん)があります。

その期間における元亀3年7〜8月頃、将軍足利義昭は武田信玄(たけだしんげん)を仲介役として、信長と本願寺顕如とを和睦させようと信玄に依頼しています。信玄は、信長とは姻戚関係にある一方で顕如とは相婿(姉妹の夫同士)の関係にあり、加えて、当時、信長に対抗できる最有力大名と目されたのは信玄だったという背景があったことによるものと思われます。この頃までは、信長と義昭との間は仲が良いというわけでもないようですが、対立して険悪な状態に陥っているというわけでもないといった状態が続いていたようです。また信玄の信長に対する明らかな敵意もなかったようで、信玄による調停も始まったのでした。

そして元亀3年9月、本願寺顕如は信玄の調停に応じる旨を伝えようとしたのですが、その回答が信玄に届く前に、将軍義昭に対する信長の十七箇条の異見書が出されたのです。

その内容は、信長と義昭の政策上の対立に関するものでもなければ義昭の失政を糾弾したものでもなく、義昭の将軍としての資質・品格・人間性を問うたものとなっていて、これを読んだ将軍義昭にとっては耐え難い内容だったろうと容易に想像できます。特に最後の第十七条には次のように記されています。

諸事に付て御欲かましき儀。理非も外聞ニも不被立入由其聞候。然間(しかるあいだ)不思儀の土民百姓に至迄も悪御所と申成由候。普光院殿をさ様に申たると傳承候。其は各別の儀候。何故如此御影事を申候哉。爰(ここ)を以て御分別叅(まい)るへき歟(よ)の事。

※1.理非も外聞ニも不被立入由其聞候(理非も外聞にも立入られざる由其聞え候(そうろう))
道理も外聞もかまわないのだといわれている。
※2.普光院(ふこういん)
正しくは普広院。第6代将軍足利義教(よしのり)。義教が将軍となった当初は、前代の例を踏襲して管領(かんれい)以下宿老の意見に従いながら政務を行っていましたが、しだいに将軍専制を志向するようになり、その意に従わぬ者に対しては、寺社、廷臣、大名を問わず峻厳な態度をもって臨んだといいます。そのため大名たちの不満、不安を招いており、幕府内の長老格として権勢を振るうも職を罷免させられた赤松満祐(みつすけ)に謀殺されています。
法号は「普廣院殿善山道恵」(ふこういんでんぜんざんどうえ)。
※3.影事(かげごと)
陰口(かげぐち)。
※4.分別
思慮。考えめぐらすこと。
※5.歟(よ)
「強意」則ち禁止・命令の意を強めるもの。

将軍は何事に付けても欲深く、道理も外聞も構わないのだと、世間では言っています。ですから、思慮のない農民さえもが将軍を「悪しき御所」と呼んでいるそうです。むかし普広院殿をそのように呼んだと聞き伝えておりますが、そのようなことは普通では考えられないことです。なぜこのように陰口を言われるのか、今こそよくお考えになられるべきでございましょう。

これを契機に信長と義昭との間は一気に険悪な状態になってしまったのです。

『永禄以来年代記』(続群書類従第29輯下巻第862)元亀3年条に次の記載が見られます。

九月武家ヘ信長ヨリ為御異見。十七箇條一書進上。是ヨリ御中悪クナリ候。

元亀3年9月、武家(将軍義昭)へ信長より御異見として、十七箇条からなる一書が進上され、これによって義昭と信長の仲が悪くなった、と明確に記されています。先述した「義昭が信玄を仲介役として、信長と本願寺顕如とを和睦させようとしていた」ことは必然的になかったことになります。

なお『當代記』(とうだいき)(巻1)の元亀3年条には、信長が十七箇条の異見書を義昭に提出したことに関して次の記述が見られます。

此冬、信長十七ヶ條之以書付、義昭へ被諫言、此諫言の書、信長記に有之、右何も忠言也、後武田信玄是を見て、信長をたゝ人ならすと云れけると也、

この冬、信長が十七箇条の書付を将軍義昭に進上し義昭の至らないところを指摘して忠告した。信長が書いたこの諫言の書はその一つ一つがすべて「忠言」(ちゅうげん。まごころからいさめることば。)で、後に信玄がこれを見て信長はただの人間ではないと評したという。

信長が義昭に対して進上した十七箇条の異見書の写しは各地に残っていることから、あちこちに配られたようで、上記の記述から、信長の十七箇条の異見書は信玄の目にも触れたことが分かり、信長の観察眼の鋭さをもって義昭の将軍としての至らぬ点をズバリと指摘していることに信玄の唸る様子が目に浮かびます。

さらに時期を同じくするように、元亀3年8月〜9月にかけて信玄の反信長の気持ちが固まっていき、元亀3年10月3日、信玄は信長を倒すべく甲斐(現山梨県)から出陣したのです。これによって信長と信玄との間も決裂することになります。そのいきさつは次のようです。

元亀2年(1571)9月12日の信長による比叡山焼き討ちが行われた時、天台座主(ざす。天台宗の統率者。)であった覚恕(かくじょ。正親町天皇の弟。)は比叡山にいなかったために難を逃れていましたが、比叡山抵抗の責任を信長から追及されたため、信玄を頼り亡命していました。この後、覚恕の尽力により、信玄は権僧正(ごんのそうじょう)の僧位を得ています。信玄が反信長の姿勢に切り替えたのには、その覚恕の「信長を討って欲しい」との求めに応じ、信玄は信長を倒すべく軍を動かすことになったものとみられています。

『甲陽軍鑑』(こうようぐんかん〜第39目録巻第12〜)には信玄・信長、そして将軍義昭それぞれの発給文書が収録されていますが、その中の元亀4年1月付の信長と信玄の文書には、二人の間における紛れもない互いの中傷合戦が繰り広げられ、各々が自分の正当性を将軍義昭に訴えるといった内容のものがあります。その中に信玄が信長を中傷して「・・・比叡山を焼き討ちして仏法・王法を破滅させただけでなく、・・・」といった内容の記載が見られます。

一方、元亀3年10月3日に信玄が信長打倒に向けて出陣したことに、信長の信玄に対する怒りはなんともすさまじかったようです。2年半後の長篠の戦では信玄の次男武田勝頼(かつより)率いる武田軍を破り、ついには武田氏滅亡へと追いやったのでした。

義昭挙兵

織田信長の妹の市(いち)を妻とし信長と一時は同盟関係にありつつも元亀元年(1570)、信長が越前国の戦国大名朝倉義景(よしかげ)征伐に動いたことから信長と敵対関係となった北近江(近江国(おうみのくに。現滋賀県。)の北半)の戦国大名浅井長政(あざいながまさ)が元亀4年(1573)2月26日付で出した書状に

將又當月十三日公方様被立御色、義景・拙身江被成下御内書候

(はたまた当月十三日、公方様御色を立てられ、義景・拙身へ御内書を成し下され候)

※1.公方
くぼう。将軍則ち義昭。
※2.御色
みいろ。「色」は怒りを顔に表す、むっとする、の意。
※3.義景・拙身
「義景」は朝倉義景。
「拙身」(せっしん)は自分を謙遜していう語で、この場合書状を書いた浅井長政。
※4.御内書
ごないしょ。将軍が発給した文書(将軍の書状)。

との文言があります。これから義昭が公然と反信長の意思を固めて立ち上がったのが元亀4年2月13日のこととされ、これに相前後して義昭は信長を討つべしとの御内書を朝倉義景、浅井長政、武田信玄、そして松永久秀(まつながひさひで)をはじめとする畿内の諸大名に発給しました。畿内では反信長の勢力が多数を占めていたこともあり、義昭は信長に対して強硬姿勢に出たものとみられます。

義昭も幕府軍を組織して行動を起こしました。が、信長の素早い動きによって阻まれたのです。信長は義昭の要求を謙譲に振る舞って辛抱強く聞くという姿勢で講和に臨み、交渉が進められたといいます。

そのころ(元亀4年2月中旬)、信玄の進撃も病状の悪化により、信長と同盟を結んでいた徳川家康(とくがわいえやす)の領国である三河国(みかわのくに。現愛知県東半部。)の野田に侵攻したところで止まってしまっていました。

さて、2月13日から半月が経った頃になると『尋憲記』(じんけんき。『大日本史料第10編之14』所収。)の元亀4年2月28日条には次の記載が見られます。

京都ヘハ自信長サクマ・藤吉・明智召上(めさぐ)、依如何様子細、信長ヲ御テキニ被臥候哉、是上意ニハ不可有御存知候、則水淵兄弟ハ不存儀候、其外内衆仕事候條、悉以可致成敗トテ、人數五千計有之由也、

※1.サクマ
佐久間信盛(さくまのぶもり)。信長の重臣。
※2.藤吉
藤吉郎、則ち木下藤吉郎、後の豊臣秀吉。
※3.明智
明智光秀。
※4.上意
将軍義昭。
※5.水淵兄弟
正しくは三淵藤英(みつぶちふじひで)・秋豪(あきひで)父子。義昭の重臣。
※6.内衆(うちしゅ)
義昭の側近。
※7.仕事
悪事をしたり、企んだりすること。

信長は佐久間信盛・木下藤吉郎・明智光秀を呼び寄せて京都へ差し向け、(信長が出した十七箇条の異見書をみた義昭が腹を立てたとはいえ)いかなる子細によって将軍義昭が公然と自分(信長)を敵とするよう企てられたのか調べさせた。その結果、義昭は関与しておらず、また義昭の重臣である三淵藤英・秋豪父子も関与していない。外に関与しているとなると内衆の企てということになる。信長が義昭の内衆はことごとく成敗すべきとして、5,000ばかりの兵が有るのはこのためである。

義昭が公然と反信長の意思を固めて立ち上がったのは義昭の内衆の企てで、信長は内衆を成敗すべく兵を動かした事が記されています。

ともかくも信長と義昭との間で講和交渉が進められていたところでしたが、『公卿補任』(くぎょうぶにん。『国士大系第10巻公卿補任中編』。)の元亀4年の条には

三月七日彈正忠信長自大樹被補御敵。

(三月七日、弾正忠信長、大樹より御敵に補さる。)

※1.大樹(たいじゅ)
将軍則ち義昭。
※2.補さる
将軍の敵となった過ちを改め正される。

とあり、信長と義昭との間で重ねられていた講和交渉は大詰めの段階にまで至っていたものの、元亀4年3月7日に突然に破断となり、義昭はまたもや信長を敵としたのです。畿内では、信長を妬んでいたとみられる松永久秀もまた義昭を扇動し、加えて反信長の勢力が多数を占めていたことも義昭の信長に対する強硬姿勢の後押しをすることとなったものとみられます。

3月25日、ついに信長は岐阜を出陣し京都へ向かいます。

3月29日、京都に到着した信長は知恩院に本陣をすえます。

この時、義昭、信長、明智光秀、木下藤吉郎、細川幽斎(ほそかわゆうさい。細川藤孝(ふじたか)。)などと交友関係が広かった吉田神社の神主、吉田兼和(よしだかねかず。後、兼見(かねみ)に改名。細川幽斎の従兄弟。)は知恩院の本陣に信長を訪ねています。そしてその著『兼見卿記』(かねみきょうき)の元亀4年4月1日条には信長との間で次のような内容の話があったことが記されています。

文学に精通した兼和の父兼右(かねみぎ)が「南都(興福寺)滅ぶ時は北嶺(延暦寺)も滅び王城(禁裏のある都)にも災いが及ぶ」と言ったことの真否を信長が兼和に尋ねると兼和は「確かな根拠となるものはなく、それを書き留めた文書もありません。」と答えた。信長はこれを聞いて安心した。

続いて次のような問答が信長と兼和との間でなされています。

今度洛中放火治定也、次又大樹所行之事、禁裏其外之沙汰如何、公義・万民中〃無是非次第之由申也、

(信長は義昭の態度を改めさせるべく)この度洛中に火を放つつもりである事を兼和に伝えると、兼和に尋ねた。

「大樹(将軍義昭)の行いについてだが、禁裏やそのほかのところでは、どのように受け止められているのか」

兼和が信長に答える。

「天皇・公家ばかりでなく、庶民たちの評判もよろしくありません」

兼和との問答に信長は大いに満足したといいます。信長は2年前に比叡山を焼き討ちしており、今回都に火を放つことによって信長が仏法を害し、人心を悩乱して世の平穏を妨げる者との目で人々から見られることは、天下の支配を目指す信長にとってはどうしても避けなければならないことだったために、兼和とのこのような問答を通して確認したかったものと思われます。

義昭に対する攻撃として先ず、信長は4月2日から3日にかけて洛外に火を放ちます。その目的は義昭と義昭に与する者に対して脅しをかけることです。しかしその一方で義昭に和平交渉の使者を遣わしています。が、義昭はこれを拒否したといいます。

続いて4日の未明(午前2時前後)にはかつて永禄12年、信長が義昭のために二条に普請させた将軍御所を包囲し、その周囲一帯の上京(かみぎょう)に火を放ちます。

幸いにもこの放火によって将軍御所、そしてその近くにある内裏に類火することはなかったようですが、上京に火を放った4日の夕方から和議への道が開けていったようです。それは義昭が放火に怖気づいたからではなく、正親町天皇の仲介則ち義昭と信長に対する勅命によるもので、4月7日(『信長公記』では6日)に和議が成立したのです。御湯殿上日記(おゆどののうえのにっき。続群書類従 補遺3‐[7]所収。)の元亀4年4月7日条には次のような記載があります。

世上の事かふけへくわんはく。三てう大納言。にわた三人御つかゐにまいらせらるゝ。のふなか御事によりて。御心え候との御事にて候。又この三人やかてのふ所へ御いり候て。このよしおほせらるゝ。くわらくになりてめてたしゝ。

※1.ふけ
武家、則ち将軍義昭。
※2.くわんはく
関白、則ち二条晴良(はるよし)。
※3.三てう大納言
三条大納言、則ち三条西実澄(にしさねずみ)。
※4.にわた
中納言庭田重保(にわたしげやす)。
※5.のふなか
信長。
※6.のふ所
信長の陣所(当時は知恩院)。

世上の事(則ち信長と義昭との対立の件)で、正親町天皇は将軍義昭のもとへ関白二条晴良、大納言三条西実澄、中納言庭田重保の三名を勅使として遣わし、信長と和議を結ぶようにとの勅命を伝えた。その後、勅使三人は、当時知恩院に本陣を置いていた信長を訪れ、義昭との和議に関する勅命を伝えるとともに、義昭がこの勅命を受諾したことを信長に伝えた。苦(心配事)は消え去り、楽(安心できる状態)となって(則ち、信長と義昭との間に和睦が成立して)めでたい、めでたい。

信長は7日の当日のうちに義昭との和睦を成立させたのでした。そもそも両者の和睦に正親町天皇を巻き込んだのは信長だったといいます。和睦の勅命が下りれば、拒否し続ける義昭も受け入れるであろうとの読みが信長にあったようです。

そして翌日には信長は京都を離れました。

ところが、勅命であったとはいえ信長との和議そのものがどうしても義昭の意に添わなかったようで、『兼見卿記』4月13日条によると義昭は二条の将軍御所を出て宇治の平等院の近くにある槇島(まきのしま)城に移る、との噂が飛び交ったといいます。義昭が将軍御所を出ることは極秘に決まっていたようなのです。

5月になると、諸国の大名たちに御内書を発給して反信長連合を形成しようとする義昭の動きが露骨になってきます。

ところで三河国の野田に侵攻した後、同じ三河にあった長篠城(ながしのじょう)において療養していた信玄でしたが、ついに4月初旬、武田軍は本国の甲斐国への帰陣を始めました。信玄はその帰国途中の4月12日、ついに没したのです。

室町幕府の滅亡

元亀4年7月3日、足利義昭は二条の将軍御所を配下の者に任せて退城し、宇治平等院からもさほど遠くない所に築かれている槇島城に移って反織田信長の兵を挙げました。槇島城は、義昭の側近の居城で、宇治川が流入してつくられた巨椋池(おぐらいけ※)の中州に築かれていることから城の周囲が水域という立地となっていたところです。【下図参照】

※巨椋池
今日、池は存在せず、往時は周囲16キロメートル、水域面積は約8km2もあったという広大な池で、規模からいえば池と言うよりも「湖」と呼ぶ方が相応しいほどの池だったようです。今日「池」と付く湖沼の中で日本最大の広さを有する鳥取県の湖山池(こやまいけ)の面積が約7km2といいますが、それよりも広かったことになります。その広大な池は、宇治の平等院から西北西へ3キロメートルも行かないうちに見えていたようです。
昭和8年(1933)から、国内初の国営干拓事業として巨椋池干拓の事業が着工され、昭和16年(1941)に完了。巨椋池の水は宇治川へと排水され、整然と区画された農地として生まれ変わりました。最近では宅地化が著しいようです。

ただ、信長は義昭のこのような動きを早くから察知していたようで、6日後の7月9日、信長は京都に入ります。そして本陣を置いたのが妙覺寺でした。すでに義昭が退城した後の将軍御所を織田軍がぐるりと取り囲むと12日には全員降参して退城し、空っぽになった二条の将軍御所は二度と使用されないように取り壊されたのでした。

次に7月16日から17日にかけて、信長とその軍勢は、義昭が立て籠もる槇島城のある宇治へと南下します。

当時の槇島城界隈当時の槇島城界隈
(薗場(えんば)児童遊園(京都府宇治市槇島町薗場)にある駒札より)
図の中央に見えるのが「槇島城」、その右上には「信長陣所」、右下には「平等院」が見えます。
なお、この3か所に付した赤線と青色で記した「宇治川」「巨椋池」そして宇治川の流れの向きを示す2本の矢印は、現地で撮った写真に筆者が付記したものです。
下記の写真は薗場児童遊園内に立つ「此の附近槇島城跡」と掘られた碑と「槇島城跡」と題して説明書きされている駒札です。
薗場児童遊園内
児童遊園の周囲には家屋が立ち並んでいます。

圧倒的な信長の軍勢に攻撃された槇島城は7月19日に開城。この時、義昭の降伏条件の中の一つに、以後義昭が京都に戻ることは許されない、と定められていたといいます。信長は義昭の命まで取ることもまた将軍であるその地位を剥奪することもせず、この日のうちに義昭は槇島城を追放されることになります。そして『信長公記』には、

河内国若江の城迄羽柴筑前守秀吉御警護にて送り届けらる。

との記載があり、義昭の妹婿の三好義継(みよしよしつぐ)の居城である若江城(わかえじょう。現大阪府東大阪市若江南町。天正11年(1583)破却。)まで、羽柴筑前守秀吉(はしばちくぜんのかみひでよし。後の豊臣秀吉。)の警護によって送り届けられたといいます。これをもって室町幕府は実質的に滅亡した、と一般に解釈されています。

時は過ぎて天正10年(1582)、信長が本能寺の変で倒れ、その後の天正15年、依然として将軍職にあって備後国(びんごのくに。現広島県東半部。)沼隈郡(ぬまくまぐん)の御所にいた義昭は、成人後の天皇を補佐して政務をつかさどる重職である関白(かんぱく)となっていて九州平定に向かう途中であった豊臣秀吉と、義昭の御所付近で対面しています。

後に義昭は京都に帰還後の天正16年(1588)、秀吉に従って参内し、将軍職を辞して出家。のち、朝廷からは准三后(じゅさんごう)の待遇(先々代の天皇の正妻(皇后)、先代の天皇の正妻(皇后)、今上天皇の正妻(皇后)に準ずる待遇)を受け、豊臣秀吉からは一万石の領地を与えられました。

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写真 
山門
堀川通(ほりかわどおり)と交差する上御霊前通(かみごりょうまえどおり)を東へ入って200メートルほど進むと妙覺寺の山門が見えてきます。この山門は、聚楽第の裏門を寛文(かんぶん)3年(1663)に移築したものといいます。聚楽第の遺構は西本願寺の飛雲閣(ひうんかく)、大徳寺の方丈(ほうじょう)・唐門(からもん)などにもみられますが、いずれにしても数少ない貴重なものです。
山門に近づくと・・・
≪関連情報≫
項目 内容
所在地 京都市上京区下清蔵口町(しもせいぞうぐちちょう)38
山号 具足山(ぐそくざん)
宗旨 日蓮宗
寺格 由緒寺院(本山)
本尊 十界曼荼羅
創建年 永和4年(1378)
開山 日実
開基 小野妙覚
文化財
重要文化財
盂蘭盆御書(うらぼんごしょ)(日蓮筆)、木造日蓮坐像(院興(いんこう)作)

【境内概観図】

【図中番号の説明】

  1. 山門
  2. 祖師堂
  3. 方丈
  4. 大玄関
  5. 書院
  6. 奥書院
  7. 本堂
  8. 法姿園
  9. 唐門
  10. 華芳堂
  11. 上御霊前通
  12. 小川通
  13. 堀川通(※1)
  14. 妙顕寺(※1)
  15. 京都御所(※2)
  16. 京都御苑(※3)
  17. 二条城(※3)
  18. 本能寺(※3)
  19. 旧跡(※3)
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近隣の観光スポット情報

上記の【境内概観図】をご参照ください。

posted by はんなり・ジャーニー at 06:42 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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