
紫雲の庭
平安時代も終わりに近い今から850年ほど前、法然(ほうねん)が比叡山(ひえいざん)を下りて初めて草庵を結んだ地にたつ金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)。
今日では小高い丘の広大な敷地に堂宇が建ち並んでいます。
秋の特別公開で、大方丈(おおほうじょう)に隣接する紅葉に彩られた庭園は訪れた人の目を楽しませ、また、時として時代劇の一場面でも目にする所でもあります。
幕末には京都の治安維持のため、新選組も指揮下に置いた京都守護職の本陣が置かれています。
浄土宗開宗
平安時代末の長承(ちょうしょう)2年(1133)、法然9歳の時、土地の治安維持にあたる押領使(おうりょうし。現在の警察相当の職で、暴徒や盗賊の追捕にあたった。)だった父が、土地争論がもとで不意討ちにあい、臨終の際に法然を枕元に呼んで、この度のことを決して恨みに思ってはいけない、恨みを報いるに恨みをもってすれば、永久に恨みは絶えない、早く俗をのがれ家を出て、ただひたすら父の冥福を祈り、自らが解脱を求めよ、と言って息を引き取ったといいます。
法然は父のこの遺言に従い、父の菩提寺で修学後、15歳(一説には13歳)で比叡山に登って天台の学問を修めます。久安(きゅうあん)6年(1150)18歳の秋、念仏者として名を高めていた比叡山延暦寺(えんりゃくじ)の西塔(さいとう)黒谷(くろだに)の叡空(えいくう)の弟子となり勉学に励みます。
しかし、師・叡空と念仏の解釈を異にするようになった法然は43歳にして、ついに承安(じょうあん)5年(1175)春3月、25年間に亘り修行究学した比叡山の黒谷を下りたのです。そして永観(えいかん)2年(984)に創建されている真如堂(しんにょどう)にたどり着いた法然は本尊の阿弥陀如来に参った後、真如堂の南に隣接する地(今日の金戒光明寺のある地)に立ち寄ります。真如堂や法然が立ち寄った地は小高い丘の頂上に位置していて、当時は眺めも良かったものと思われます。そして、法然はそこにあった大石に腰かけ、沈む夕日に向かって念仏を称えます。すると夕日の沈む方角から「紫雲がにわかにわき上がり、金色の光が赫赫(かっかく)と輝き、あたりには芳香が漂ってきた」といいます。この瑞相(ずいそう)を目の当たりにした法然は「これぞ念仏有縁の地なり」と感じ、この地に初めて草案を結んだのでした。このためこの地は比叡山の「黒谷」に対して「新黒谷」と呼ばれましたが、その後、新黒谷とは呼ばず「黒谷」(くろだに)と呼ぶようになります。
法然が草庵を結んだ承安5年は浄土宗開宗の年とされています。
そして、法然が腰かけた大石は「紫雲石」(しうんせき)と呼ばれるようになったのです。今日この紫雲石は金戒光明寺の塔頭西雲院(さいうんいん)にあり、当時とは異なる場所に移されているといいます。
法然の法を継いだ5世恵(えぎ。生没年不明。鎌倉時代後期の徳治(とくじ)3年(1308)までは生存していたとみられています。)の時、初めて仏堂や御影堂(みえいどう)が整えられて寺基がなり、法然が草庵を結んだ開創の際の瑞相により「紫雲山光明寺」と命名されたものとみられています。
続く南北朝時代、後光厳(ごこうごん)天皇(1338年生〜1374年没)が8世運空(うんくう)の徳風を聞き、金剛宝戒(※)を受けたことから、「金戒」の二字を賜って現寺号の「金戒光明寺」となったといいます。
- ※金剛宝戒(こんごうほうかい)
- 「金剛」は、金剛石すなわちダイヤモンドを指し、その意は、金剛石の性質が不変的な完全性、強さを有して堅固であり、その上、金剛石は無色透明で太陽の光にあたるとキラキラと輝きを放っていろいろな色を現し、逆に暗がりの中では蛍光を放つことからはたらきが自在、であることにあります。
- 「宝戒」は、大切な戒め。
- つまり、金剛宝戒とは、堅固にしてはたらきが自在とされる大切な戒め、ということでしょうか・・・。
今日、金戒光明寺の公式サイトのURLには「kurodani」が使われて「浄土宗大本山・くろ谷金戒光明寺」との表記がなされており、通称「くろ谷さん」(くろだにさん)と呼ばれています。
知恩院とともに境内改造
安土桃山時代の文禄(ぶんろく)4年(1595)、後陽成(ごようぜい)天皇の綸旨(りんじ。天皇の命令。)により、知恩院第29世となった満譽尊照(まんよそんしょう)は、熱心な浄土宗徒であった徳川家康(とくがわいえやす)と師檀(しだん。師僧と檀那(だんな)。寺僧と檀家。)の契約を結びます。そして慶長(けいちょう)8年(1603)、征夷大将軍となった徳川家康は知恩院を香華院(こうげいん。菩提所。菩提寺。)と定めたことから、江戸時代の知恩院はコ川将軍家の菩提所となりました。満譽尊照は知恩院を浄土宗「総本山」としてその基礎をかため、知恩院中興の祖といわれています。
徳川家康が知恩院を菩提所と定めてから始めた知恩院伽藍の拡張工事とそれに伴う諸堂の造営は2代将軍徳川秀忠(ひでただ)に引き継がれ、寛永(かんえい)10年(1633)には火災にあうも、3代将軍徳川家光(いえみつ)のもとでただちに再建が進められ、寛永18年(1641)までにほぼ完成しました。
慶長12年(1607)には知恩院に宮門跡を置き、元和(げんな)元年(1615)には浄土宗法度を定めました。ここに知恩院は、幕府の保護のもとに、京都では金戒光明寺、知恩寺(現百萬遍知恩寺(ひゃくまんべんちおんじ))、清浄華院(しようじようけいん)、江戸では増上寺(ぞうじょうじ)などをはじめ他の「大本山」を超えて浄土宗の「総本山」たる地位を不動のものとしたのです。
さらに、徳川家康は江戸幕府を盤石なものとするために、天皇が住まう京都には特に力を入れ、御所を見下ろし朝廷を牽制すべく、直轄地として二条城を造り、京都所司代を置きます。そして、重大事態が起こった時に備えて軍隊が配置できるように、小高い丘に位置して敵からも攻め込まれにくい「自然の要塞」とも見做せた知恩院と金戒光明寺をそれとわからないように城郭構造に改修したといわれます。先に見た徳川家康から始まった知恩院の拡張工事の際、城郭構造への改修も行われたものとみられ、同じ浄土宗の金戒光明寺もまた江戸初期に城郭構造に改修されたといわれています。
ところで、幕末に会津藩主松平容保(まつだいらかたもり)が京都守護職となって京都に赴任してきましたが、京都には会津藩(現福島県会津若松市に藩庁をおいた藩)の屋敷がなかったため、高台の地にたつ金戒光明寺がその本陣とされました。寺の正門にあたる高麗門(こうらいもん)から丸太町通(まるたまちどおり)に出て西へまっすぐ2キロメートルほども行けば京都御所、御所を過ぎて更に1.5キロメートルも行けば二条城、と要所にも近かったこともあります。
松平容保に京都守護職就任の要請が幕府から来た時には、当時幕府にとって向かい風となっていた情勢下において要請を受けるべきか否かで会津藩内では議論がなされ、結果、要請を受ける決定が出されました。が、この決定は、不運にも6年後の会津藩を悲劇へと導いてしまいました。
京都守護職松平容保を追ってみました。
京都守護職設置の時代背景
さて、江戸時代も終わりに近づいていた嘉永(かえい)6年(1853)、江戸湾(東京湾)の入口に位置する浦賀沖に、日本開国の使命を与えられて軍艦4隻を率いて来航したアメリカ使節ペリーは米国大統領フィルモアの国書を浦賀奉行に手交し、開国を要求します。幕府に翌年までの猶予を求められたペリーは一旦退去します。
そして翌嘉永7年、ペリーが今度は軍艦7隻を率いて来日すると,武力を背景に幕府に開国を迫ります。幕府は、これまでの鎖国制度は維持したいものの、ペリー率いる艦隊の武力に対抗する自信がなく、日米和親条約(国家どうしが和親を結ぶため則ち仲良くつきあうために取り交わす条約)を結ばせられてしまいます(嘉永7年(1854)3月3日締結)。この時、幕府は条約締結の旨を約2カ月後の4月29日、事後とはなったものの、奏聞(天皇に政治上のことで勅裁を仰ぐために、口頭または文書で上申すること)し、当時の孝明天皇は承認の勅旨(天皇のおぼしめし。天皇の意思。)を出しています。
ペリーは日本の開国を実現させたのです。
これが、本来幕府政治への発言を許されない一部の下級藩士の若者の不満を巻き起こし、野蛮な外敵(夷)の侵入を追い攘(はら)う、とする「攘夷」の考えが彼らを幕閣批判の行動へと駆り立てる力となりました。そして幕藩制の矛盾を切実に感じていた彼ら下級武士が、政治行動を行う際、盾とした理念が「尊王論」でした。そしてこの「尊王論」と「攘夷」の考えが結びついて尊皇攘夷運動として展開されていくことになります。
日米和親条約により初代日本総領事に赴任したタウンゼント・ハリスは通商条約(国家間の経済交流を促進するために結ばれる条約)の締結を計画します。そして、ハリスの強請に屈した幕府は通商条約の締結を決意するに至ったのです。しかし、幕府にも政治に関するすべての権限があったわけではなく、先の日米和親条約の時のように外国と条約を締結するには朝廷の許可が必要でした。そこで幕府は通商条約の勅許を朝廷に求めます。これに対し公卿(くぎょう)を動かして勅許を阻止しよう、則ち、通商条約を取り消させようとする動きも出てきました。
そのような中、薩摩藩主島津斉彬(しまづなりあきら)、越前藩主松平慶永(まつだいらよしなが)は、病弱の13代将軍家定(いえさだ)の跡継ぎに一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ。後に15代将軍となる徳川慶喜。)をたてようと図り、勅旨を得てその実現を図るべく、腹心の西郷隆盛(さいごうたかもり)、橋本左内(はしもとさない)を京都に派遣して、公卿を説得すべく接近します。
こうして京都にいる天皇と公卿は、政局の焦点にたつこととなってきたのです。
こうした情勢をみた大老井伊直弼(いいなおすけ)は、安政(あんせい)5年(1858)、勅許を得ることなく日米修好通商条約に調印、また、13代将軍家定の跡継ぎを一橋慶喜ではなく紀州藩主徳川慶福(よしとみ)(家茂(いえもち))に決定すると、尊皇攘夷派・一橋慶喜擁立派の大名(徳川御三家の一つで前水戸藩主徳川斉昭(なりあき)等)・藩士・幕臣・浪人と公卿らを処罰する安政の大獄(戊午(※)の大獄)を断行しました。このため、開国に反対し、大老井伊直弼の違勅の罪を責める尊王攘夷運動は、幕閣の専制を非難する運動となり、諸藩の下級藩士だけでなく、郷士・地主・商人の子弟までも巻き込む全国的な規模に拡大していきました。
尊王攘夷派は、万延(まんえん)元年(1860)には大老井伊直弼を殺害し(桜田門外の変)、文久(ぶんきゅう)2年(1862)には老中安藤信正(あんどうのぶまさ)を襲って負傷させる(坂下門外の変)という事件を起こします。これらの事件に共通して関与していたのは水戸脱藩浪士でした。
- ※戊午
- 「戊午」(つちのえうま・ぼご )は安政5年の干支(えと、かんし )で、十干(じっかん)と十二支(じゅうにし)を順に組み合わせた60の組み合わせの干支の中の55番目。
- 広く知られる「戊午の密勅」(後述)も安政5年に発せられたことからこの名があります。
さらに当時の京都は、脱藩した尊王攘夷の倒幕派志士が続々と入洛して幕吏や佐幕派公卿の家臣に「天誅」(てんちゅう。天に代わって罰を与えること。)の名のもとにテロ行為を加えるなど暗殺の坩堝(るつぼ)と化し、また井伊直弼の懐刀だった長野主膳の妾(めかけ)村山たか(のち、洛外一乗寺の金福寺で出家)が三条河原で生晒(いきさら)しにされる(文久2年11月)といったようなことも起こっていました。倒幕の大きな原動力となっていた長州藩を中心とする尊皇攘夷派は侮りがたい勢力をふるうにいたり、それが朝廷の内部に潜り込んで反体制運動を起こし、京都政局を支配するまでになったのです。
本来、京都の治安維持は京都所司代の任務で、非常事態に際しては京都に近い近江彦根藩の井伊家が京都守護に当たるという慣行がありましたが、桜田門外の変以降井伊家の威権は衰退していて助力を期待できず、仮に京都町奉行の力を加えたにしてもそれらの警察力ではもはや京都の治安維持が不可能な状態なところまでいっていたのです。そこで幕府は京都の治安維持のための新たな役職として京都所司代の上層機関となる「京都守護職」を新設することにしたのです。そして京都守護職を大坂城代、京都所司代、京都・大坂・奈良・伏見の各奉行の上位に位置づけて大きな職権を与え、非常時は畿内諸藩の軍事指揮権を有するものとしたのです。
京都守護職には誰が適任か
大老井伊直弼が江戸城桜田門外で命を落としたことについて、『京都守護職始末』(※)に次のような記述があります。
- ※『京都守護職始末』
- 会津藩主松平容保が京都守護職についてから鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いまでの6年間を、容保を中心に据えて史料を引用しつつ叙述したもので、本書編纂の動機は、慶応(けいおう)3年12月9日(1868年1月3日)の王政復古の大号令を機に樹立された新政府(後の明治政府)から「朝敵」とされた会津藩と松平容保の復権にありました。
- 明治30年に稿が成るも、明治政府を憚って発行が見合わされていましたが、旧会津藩士にのみ配布するという形で明治44年(1911)11月に刊行されました。
- 著者は、松平容保の京都守護職拝命に伴って上洛し、京都守護職で公用方(【参考】)も勤めた会津藩士山川浩(やまかわひろし)ですが、自身は草稿段階で世を去ったため、実際は弟の健次郎(けんじろう。のち東京帝大(東京大学の前身)、九州帝大(九州大学の前身)、京都帝大(京都大学の前身)の総長を歴任。物理学者。)が完成させた、とされています。
- 山川浩は、慶応2年幕府樺太境界議定の派遣員に選ばれて露独仏3国を航海してまわる機会を得ており、その見聞から、当時の日本の軍事力では攘夷などとてもできるものではないことを悟ったといいます。
- 【参考】公用方
- こうようがた。容保の京都守護職着任に伴い、身分に関係なく俊英を集めて容保を補佐し、あらゆる問題に容保の手足となって動く機関として京都に新設された部署。
-
中にも水戸藩の如きは憤激最も甚しく、其藩士等概ね直弼朝臣を指して不倶戴天の仇となし、遂に萬延元年三月三日登城の途櫻田門に要して、之を殺害したり、そも此事たる實に未曽有の大珍事なる上に、三家の一たる水戸家臣の所為なるを以て、上下の驚愕はいふも更なり、殊に將軍家酷く其兇暴を怒り、・・・
| ※1.中にも 中でも |
※2.直弼朝臣 井伊直弼。『京都守護職始末』に「幕府の大老井伊掃部頭直弼朝臣」(いいかもんのかみなおすけあそん)との記述があり、掃部頭(かもんのかみ)と称しました。 |
※3.萬延元年三月三日 「安政」から「萬延」に改元となるのは安政7年3月18日。 |
| ※4.要して 「要」は「道の途中などで人を待ち受ける。待ち伏せする。」の意。 |
※5.三家 尾張・紀伊・水戸藩の徳川御三家。 |
※6.いふも更なり 今更言うまでもない。 |
これは、安政7年(1860)3月3日、桜田門外の変が起きたとき、井伊直弼の死を悼み、15歳の14代将軍徳川家茂(いえもち)が水戸藩に対して最も憤ったことを記したものです。井伊直弼暗殺に手を下した尊王攘夷派の水戸(17人)・薩摩(1人)の脱藩浪士らが起こしたこの事件は、260年以上続いてきた江戸幕府の最高の役職である「大老」(たいろう)がこともあろうに白昼、それも脱藩浪士とはいえ徳川御三家の一つ水戸藩に仕えていた者によって、徳川将軍家の居城として幕府の置かれた江戸城の門前で暗殺されるという、幕府の権威を失墜させるほどの衝撃的事件だったからです。
徳川将軍家の一族である御三家の一角を担う水戸藩は、御三家御三卿の中でも前水戸藩主徳川斉昭(なりあき)にみられるように尊皇攘夷論の強い藩であり、一方、ペリー来航(1853年)以来、伝来の鎖国方針を棄てて開国へと政策の大転換をはかった幕府の中にあって開国論の指導者であった井伊直弼は、尊王攘夷論者で幕府にも忌まれていた徳川斉昭の政敵でもありました。さらに後述する水戸藩へ降下されていた密勅(戊午(ぼご)の密勅)のこともあり、将軍家茂はこういった事情から水戸藩に対して「御三家の水戸が幕府に弓引くか」と怒りを爆発させて、尾張・紀伊両徳川家に命じ、水戸家に対して罪を問いただすための兵を出させようとしました。そこでにわかに溜間詰(※)の諸大名が招集され、将軍家茂の諮問に答えることになったのです。
- ※溜間詰(たまりのまづめ)
- 「溜間」(たまりのま)と称される江戸城黒書院にある控えの間に詰める幕政顧問の立場にある大名の家格を溜間詰といい、親藩、譜代大名の重鎮の中から四人選ばれました。彦根藩の井伊家、会津藩の松平家、高松藩の松平家の三家は定席とされていました。幕政顧問として、幕政の重要事項や老中の任命などについて将軍の諮問を受けることがあり、また老中と政治を相談することもあり、名誉とされました。
弘化(こうか)3年(1846)数え12歳の時、会津松平家の養子となり、若狭守(わかさのかみ)を兼ね、家格に従い溜間詰となり「容保」と名を改めていた松平容保は、この時数え26歳(数え18歳の時第9代会津藩主となる)。会津から直ちに江戸に赴いて、徳川家の宗支(そうし)の間で争いをするべきではないことを説き、容保みずから家茂と水戸家の間に立って調停にあたり丸く収めたことから、家茂は容保の尽力に甚く感謝したといいます。そしてこの年(万延元年)の12月、家茂は容保を左近衛権中将(さこんえごんのちゅうじょう。これにより容保は会津中将とも呼ばれる。)に昇進させることで嘉賞の意を示したのでした。
さらに容保は、安政5年(1858)8月以来懸案となって、安政の大獄の原因ともなり、大老井伊直弼暗殺の引金ともなった、水戸藩へ降下されていた密勅(※ )の返納問題を解決すべく取り組み、
- ※水戸藩へ降下されていた密勅
- 戊午(ぼご)の密勅。大老井伊直弼が勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印したことは遺憾である旨を記した勅諚で、安政5年 (戊午の年) 、孝明天皇が直接徳川将軍家の臣下であるはずの水戸藩(水戸前藩主徳川斉昭)に、幕政改革を指示した勅書。これは関白九条尚忠(くじょうひさただ)の参内を経てからという正式な手続を踏まずに、前例を破って、水戸藩に内密に下賜されたことから「戊午の密勅」といわれます。
- また、その副書では、勅諚を諸藩へも伝達するよう命じていたため、水戸藩では勅諚伝達の可否をめぐって藩論が分かれる中、幕府は諸藩伝達の禁止を厳命しました。さらに、翌安政6年(1859)には、朝廷が幕府の求めに応じて勅書返納を水戸藩に命令するに及んでさらに事態が紛糾し、翌安政7年3月3日の桜田門外の変へとつながったのです。
-
一滴の血を流さずして勅書を返上せしめ、事故なくおさまりぬ
(『京都守護職始末』)とすることができたことから、文久2年(1862)5月3日、家茂は容保を褒めたたえ、
-
自今以後時々登城諸事無遠慮、年寄共と可致相談と面命ありたり
今より以後、時々登城して、諸事遠慮なく、年寄(としより。幕府の大老、老中、若年寄といった政務の中心に位置する人。)共と相談いたすべし、と面命(めんめい。面前で言いつける。)があった
(『京都守護職始末』)と、今より後は時に応じて登城し、諸事遠慮なく幕政(幕府の政治)の相談にあずかるように、と家茂は容保に直接顔を合わせて「幕政参与」を命じたのでした。幕閣内で容保すなわち「会津中将」の名が一躍重きを加えたのはいうまでもありません。
こういった評価が、やがて容保をして京都守護職任命へとつながった、といわれています。
加えて、江戸幕府が始まって2世紀半の間に戦(いくさ)のない世が続いてきた中においてさえ、幕府の親藩の中で会津藩は、門閥・兵力共に頼れる勝れた備えを有していました。京都の治安維持には必要不可欠なものであり、この点からも、京都守護職の要職には会津藩主松平容保を措いて適任者はないとの判断から、京都守護職への誘いがやってくることになります。
京都守護職への誘い
将軍家茂が容保に幕政参与を命じた前月の文久2年4月、当年初頭から,京都での勢力を強めていた外様大藩の一つである薩摩藩の島津久光(しまづひさみつ)が建議書を携えて率兵上洛します。内容は幕府に藩政改革を要求するもので、その中に
- 将軍上洛して、朝廷とともに国政を討議する。
- 一橋慶喜を将軍後見職に、前越前藩主松平慶永(春嶽(しゅんがく))を大老職に任じ、幕政を補佐させる。
という内容がありました。
薩摩藩が朝廷を利用して幕政・人事に口出しをしたものですが、結局、幕府はこれに屈し、同年7月6日、一橋慶喜を将軍後見職とし、同9日、松平慶永を政事総裁職に任じました。将軍家茂は若年(満16歳)で病弱だったことから、一橋慶喜が将軍職に近い形で、政治をまとめることになり、政事総裁職は幕府内外の政務(政治上の事務)を総括し、慶喜を補佐するもので江戸幕府の最高の役職である「大老」に相当し、この将軍後見職と政事総裁職の二つの新役職の創設によって、実質的には、武家の政治組織としての江戸幕府の中に従来からの政府と新設された政府との二つの政府ができたようなものとなったといえます。
慶喜と慶永がまず取り組んだのが「京都守護職」の新設でした。
将軍上洛(翌文久3年(1863)、将軍としては第3代将軍徳川家光以来の229年振りとなる上洛)のためには、京都に雲集し京都の治安を揺るがしていた尊攘激派を抑える必要がありました。本来その役目は京都町奉行や京都所司代にあったのですが、その任を遂行するにはもはや力不足の状態となっていました。また、慶喜の一橋家、慶永の越前藩の軍事力にしても、尊攘激派さらにはそのころの反幕勢力の中心をなしていた外様大藩の薩摩藩・長州藩・土佐藩に対抗して京都の治安を守ろうとするには到底及ばなかったのです。
そこで白羽の矢をたてたのが会津藩でした。慶喜は、将軍の信任の厚い会津藩主松平容保であれば、当藩の門閥・兵力ともに優れていることもありこの任に当りうると考え、その意を体した慶永が会津藩主である容保に京都守護職就任への熱心な働きかけを始めたのです。
これに対し、容保は固辞します。
しかし、是が非でも容保から就任の承諾を得たい慶喜と慶永は執拗に食い下がり、会津藩の泣き所を突いてきたのです。それは、将軍家への忠勤一筋だった会津藩の藩祖・保科正之公(ほしなまさゆきこう。3代将軍徳川家光(いえみつ)の異母弟。徳川家康の孫。)が生きておられたなら必ずお引き受けになられるはず、というものです。
藩祖保科正之が寛文(かんぶん)8年(1668)、会津藩の立藩の精神にして徳川宗家への随順の精神を定めた「家訓十五カ条」(「家訓」を会津藩では「かきん」と読ませていたようです。「きん」と読むのは慣用音で、呉音、漢音、唐音には属さないが、わが国で従来より広く一般的に使われている漢字の音。「雑誌」の「雑」を呉音では「ぞう(=ざふ)」と読むのを慣用音では「ざつ」と読むなど。)にはっきりとそれが見られます。これは会津藩の藩是で、その第一条と第二条には次の文言が書かれています。
- 一、大君之義一心大切可存忠勤不可以列國之例自處焉若懷二心則非我子孫面々決而不可從
大君(たいくん)の義、一心大切に忠勤を存すべし。列国の例を以て自ら処(お/よ)るべからず。若(も)し二心(ふたごころ)を懐(いだ)かば則ち我(わ)が子孫に非(あら)ず。面々決して従うべからず。
- 一、武備不可怠選士可爲本上下之分不可乱
武備は怠るべからず。士(し)を選(えら)むを本(もと)と為すべし。上下(じゃうか)の分(ぶん)は乱(みだ)るべからず。
- ※1.選(えら)む
- 「選ぶ」に同じ。
- ※2.乱(みだ)る
- 「乱す」に同じ。
第一条は、「大君」すなわち将軍には一心をもって忠勤を励み、他藩の動向に惑わされることなく、会津藩自らの判断で将軍には忠節を尽くさなければならない。もし二心(ふたごころ)を懐く藩主があれば、もはや自分の子孫ではない。そんな藩主には、家臣たちは従う必要はない、というものです。
藩祖保科正之は家訓を通じて将軍(幕府)への絶対的な忠誠を将来の歴代藩主に求めたわけで、これは藩主である容保にとっては何よりも重かったものです。会津藩は幕府との運命共同体にあることを義務付けられていたのです。
この点を慶喜と慶永に突かれた容保は苦悶の末、辞退する言葉もなく京都守護職の任を受けることを決めざるを得なくなりました。
この知らせが国許の会津に伝わると、国家老の西郷近悳頼母(さいごうちかのりたのも)(筆頭家老)と田中玄清土佐(たなかはるきよとさ)は急いで江戸へ出向いて会津藩邸で容保に謁し、「幕府にとって向かい風となっている最近の情勢下で今は京都守護職という重大任務をお受けする時ではありませぬ。今お受けするということは、所謂、薪を負うて火を救うに等しく、恐らくは労多くしてその功はないでしょう。」と諫めた。容保はその席に江戸家老横山主税常徳(よこやまちからつねのり)、留守居堀長守七太夫(ほりながもりしちだゆう)らを呼んで、国家老の西郷と田中の考えを告げて、京都守護職を受けるべきか否かを諮ります。その折の様子が『京都守護職始末』には次のように記されています。
-
是れ實に余の初志なり、然るに台命頻に下り、臣子の情誼今や辭するに詞なし、且窃に聞く、初め予の固辭する再三なるに及び、或は是を一身の安を計るとなすものありと、抑も我家、宗家と盛衰存亡を倶に共にすべしとは、藩祖公の遺訓、加ふるに數代隆恩に浴せるを、予不肖と雖も豈一日も其報效を忘るべけんや、唯不才萬一の過失より、累を宗家に及ぼさん事を恐るゝのみ、素より他の批判に依りて進退を決すべきにあらずと雖も、苟も安を貪るとありては、亦決する所なかるべからず、さはれ斯る重任を拜せんも、君臣一致にあらざれば、其報效期すべからず、卿等宜しく審議を盡して、予の進退を決すべしとありしかば、常コを始め、何れも公の衷悃に感激して、此上は義の重き所を執り、他日の如何を論ずべき秋にあらず、君臣唯京師の地を以て死所となすべきなりと、議遂に決す、
| ※1實に じつに。 |
※2然るに しかるに。 |
※3台命 たいめい。将軍または左大臣・右大臣・内大臣などの命令。 |
| ※4頻に しきりに。 |
※5臣子 しんし。臣下。家来。 |
※6情誼 じょうぎ。人とつきあう上での人情や誠意。 |
| ※7辭する じする。 |
※8詞なし ことばなし。 |
※9且 かつ。 |
| ※10窃に せつに。 |
※11抑も そも。 |
※12宗家 そうけ。 |
| ※13隆恩 りゅうおん。大きなめぐみ。さかんなご恩。 |
※14不肖 ふしょう。 |
※15雖も いえども。 |
| ※16豈 あに。どうして〜か。決して…ない。 |
※17報效 ほうこう。恩に報いて力を尽くす。 |
※18素より もとより。 |
| ※19苟も いやしくも。 |
※20なかるべからず (〜し)なくてはならない。 |
※21さはれ しかし、それはそうだが。 |
| ※22斯る かかる。このような。 |
※23衷 ちゅう。まごころ。 |
※24悃 こん。まごころ。 |
| ※25他日 たじつ。将来における不定の日をさす語。いつか別の日。後日。 |
※26如何 いかん。事の次第。なりゆき。 |
※27秋 とき。特に重要なことのある時期。 |
| ※28京師 けいし。天子の都。京都。 |
これ(京都守護職の辞退)はじつに余(容保)の最初の考えであったが将軍後見職(一橋慶喜)、政事総裁職(松平慶永)からの要請(命令)がしきりに下り、臣下たる余(容保)の上役(将軍後見職・政事総裁職)に対して誠意をもって対応する上で、もはや辞する言葉がない。また、予(容保)が幕府からの京都守護職就任要請を再三に及んで断わっているのは、一身の安全を計っているためであると、密かに聞こえてくる。抑々(そもそも)わが会津藩は、徳川宗家と盛衰存亡を共にすべしというのが藩祖保科正之公の御遺訓である。藩祖以来数代に亘ってそのご恩に与(あず)かってきた中、予(容保)いまだ未熟にして不才といえども、一日たりともその恩に報いるべく力を尽くすことを忘れたことなどない。ただ、予(容保)の不手際から万が一にも過ちを犯した場合、その災いが徳川宗家にまで及んでしまうことを恐れるだけである。もとより周囲の批判を気にして自らの進退を決めるべきではないといえども、いやしくも自分の安全を守るため固辞しているのだ、などと言われては、腹を括って京都守護職就任要請の受諾を決めなくてはならない。しかし、京都守護職という重大な任務への就任要請を受けるとなれば、会津藩として君臣一致した上でなくては力を尽くすことなどできない。そなたたちは、この要請を受けるべきか否かについて審議を尽くし、予(容保)がどうすべきかを決めてくれ、と容保公は隠し立てをしないで、率直に心の中に思っていることをすっかり話したので、江戸家老横山主税常徳をはじめ同席していた者が皆、容保公の嘘偽りのない本心に感激して、この上は徳川宗家に対する義を重んじ、我が会津藩の将来のなりゆきの心配などしている時ではない。君臣、ただ、京の地を死に場所と心得るべきであると皆の思いが一致し、遂に京都守護職の要請を受けることに君臣一致して決まった。
そして第二条は、戦いの備えを怠ってはいけない。武道をもって主君に仕える者であることを基本とすべきである。上下の身分を乱してはいけない、というものです。
会津藩ではこの「家訓」に従って、幕末までの二世紀半ほどの間打ち続いた天下泰平の世の中においてさえも戦いの備えは脈々と受け継がれてきていたことを慶喜と慶永は承知していたものと思われ、この点からも京都守護職には会津藩が適任との考えに至ったことがうかがえます。
文久2年(1862)閏8月朔日(1日)、容保は京都守護職を拝命。容保満26歳。
容保は、慶応3年(1867)12月までの5年余りにかけて京都守護職の任に就くことになりました。ただ、任命から京都着任まで5ケ月程を要しているので、京都にいたのは正味5年ということになります。
京都へ
容保をはじめとする会津藩士らはすぐに京都に向かったのではありません。そもそも会津藩は京都に屋敷を持っておらず、容保以下会津藩士にとってはほとんど未知の地に等しかったのです。そこで、容保は京都に藩士を先に派遣して不案内な京都の情勢に関する情報の収集と京都守護職就任の準備にあたらせることになります。
総勢1,000名ほどの会津藩主従が江戸を出発したのは、文久2年(1862)の年も終わりに近づいていた12月9日。ただこの時点では、後年、今日の京都府庁のある地に建てられることになる京都守護職屋敷はまだなかったため、幕府は黒谷(くろだに)の金戒光明寺に対し、会津藩の宿所として境内を明け渡すよう命じます。先に、幕府は知恩院と金戒光明寺をそれとわからないように城郭構造に改修したことに触れましたが、幕府開設以来約2世紀半たってこれが思わぬ形で役に立つ日が来てしまったといえます。
容保ら会津藩主従が京都に向かって移動中の12月14日には、金戒光明寺の会津藩への引渡しが完了していたようです。このため金戒光明寺では本坊の本尊などはその塔頭寺院である栄摂院(えいしょういん)へ移したといいます。
容保らが京都に入ったのは、江戸を出発してから半月後の12月24日のことでした。容保らは金戒光明寺に本陣を置きます。金戒光明寺は、浄土宗徒であった徳川家康の帰依をうけた浄土宗総本山である知恩院とともに幕府の篤い保護を受けた寺院であり、境内には3代将軍家光の乳母(めのと)として名高い春日局(かすがのつぼね)が建立した2代将軍徳川秀忠の正室で3代将軍家光の生母であるお江与(おえよ)の方(お江(ごう))の供養塔、そして家光の乳母であった春日局(かすがのつぼね)の供養塔もありました。
約40,000坪(約132,000u)にも及ぶその境内は、小高い丘の上にあることから防御的軍事施設という点からみると自然の要塞と言える上に、城郭のような構造にもなっていることから、本陣を構えるのに適していたものと見られます。しかも大小合わせて52もの宿坊があったことから、容保に同行した藩士を駐屯させるのにも好都合でした。ただ、金戒光明寺だけではおさまらず、門前の町家にも分宿したといいます。
京都守護職には、京都市中に数ヶ所の広大な敷地が与えられました。
容保らが京都に入った翌文久3年(1863)、その中の一つである、北は下長者町通(しもちょうじゃまちどおり)、南は下立売通(しもだちうりどおり)、東は新町通(しんまちどおり)、西は西洞院通(にしのとういんどおり)に囲まれた広大な敷地(現在の京都府庁と京都府警察本部のある敷地)に、容保をはじめとする会津藩士らが京都の治安を守るため平常居住する京都守護職上屋敷の造営が開始されました。上屋敷内の四周は二階建ての長屋風の建物で囲まれていたといいます。そして、ここから京都御所へは400メートル足らず、また、二条城へは1キロメートル余りという近いところに位置していました。
京都守護職上屋敷は慶応元年(1865)に完成します。『京都守護職始末』の慶応元年の記載の中に
-
九月朔日京師下立賣の官邸落成するを以て、是日之に移る、
とあり、容保らが京都に着任して2年8か月後の「九月朔日」すなわち9月1日に、金戒光明寺から、完成した京師(けいし。京都。)の下立賣(しもだちうり)の官邸(京都守護職上屋敷)に移ったことがわかります。
京都守護職着任
容保が京都に入った時(文久2年末)には、先述したように、京都は尊攘激派浪士らによる暗殺の坩堝と化していました。毎晩のように、いや、ときには白昼から<天誅>の名のもとに、血なまぐさい事件が頻発していたのです。
しかし容保は、すぐにはその<天誅>騒ぎに狂奔する浪士たちの鎮圧にはとりかかりませんでした。その際の容保の対応が「『会津藩庁記録』元治元年第三 附・盤錯録(ばんさくろく)」に次のように記されています。
- 言路壅蔽下情否隔スルノ所致ナラン請フ前議ヲ施行セン因テ町奉行ニ命シテ布告セシム言國事ニ關スル者内外小大ヲ問ハス忌諱ヲ避ス執事ニ因テ建言セヨ若シ猶嫌ヲ避ル者封呈スル可ナリ面議スル可ナリ其状ヲ關白殿下ニ因テ奏聞ス
言路(げんろ)壅蔽(ようへい)下情(かじょう)否隔(ひかく)するの所致(しょち)ならん。請う前議を施行(しぎょう)せん。因(より)て町奉行に命じて布告せしむ。言(げん)国事に關する者、内外小大を問わず、忌諱(きい)を避(さけ)ず、執事に因て建言せよ。若(も)し猶(なお)嫌(けん)を避(さく)る者、封(ふう)呈(てい)する可なり、面議(めんぎ)する可なり。其状を関白殿下に因て奏聞(そうもん)す。
| ※1言路 君主や朝廷に意見を述べるための方法・手段。 |
※2壅蔽 ふさぎおおうこと。おおいかくすこと。 |
※3下情 下の階層の事情・実情。 |
| ※4否 ふさがる。とじる。 |
※5隔 へだてる。しきる。とおざける。うとんじる。 |
※6所致 「致」は「 ある状熊にたち至らせる。多く、よくない結果を引き起こす」ことをいう。「所」は「場面。局面。事柄。内容。こと。」。「所致」=「致す所」から、「(塞いで遠ざける/うとんじる)状熊にたち至らせる。よくない結果を引き起こす局面になる」。 |
| ※7ナラン 断定的な推量の意を表す。〜であろう。〜だろう。 |
※8請フ ねがわくは。どうぞ。 |
※9前議 前にとなえた議論。前に主張した意見。以前に唱えた議論。 |
| ※10施行 命令を実施すること。命令を伝達して実行させること。 |
※11内外 国内と国外。 |
※12忌諱 遠慮して口にすべからざる事柄。 |
| ※13執事 事務を受け持つ者。庶務万端を取り扱う藩の用人。 |
※14嫌 いやがる。欲しないさま。したくないさま。 |
※15封 手紙。上奏文。 |
| ※16呈 差し出す。 |
※17面議 面会して直接に話すこと。 |
※18奏聞 天子に申し上げること。奏上。 |
尊攘激派の者たちが何を考え、望んでいるのか、その意見を朝廷に述べる手段(場)を塞いでしまう(奪ってしまう)のは、彼らの主張を無視して遠ざけてしまうことになり、それでは不満がたまるだけであろう。よって以前に議論したことを実行する。こうして容保は京都町奉行に命じて
「申し述べたいことが国事に関することなら、国内外の大小にかかわらず執事を通して遠慮なく申し出よ。その際、望まない方法を避けたいのであれば、手紙で差し出しても構わないし、もちろん面談でも一向に構わない。その内容は関白を通して天皇に奏聞する。」
と布告させた。
この時容保には、「相手の言論を封じ込めて徹底的に取り締まる」といったようなことをするよりも、むしろ「話しあえばわかる。そうすれば鎮まる。」という姿勢で臨もうとしたことが伺えます。
ところが、文久3年(1863)2月22日の夜、尊攘浪士の一団が、足利氏の菩提寺であり、足利尊氏(あしかがたかうじ)の墓所である等持院(とうじいん)に乱入し、安置されている尊氏・義詮(よしあきら)・義満(よしみつ)三代の足利将軍木像の首を引き抜き、翌日の暁(明け方のやや明るくなった時分という現在の解釈と違い、太陽の昇る前のほの暗いころ)に
- 此三賊巨魁タルニ仍テ先醜像ニ天誅ヲ加ルナリ
此三賊巨魁(きょかい)たるに依(より)て先(まず)は醜像に天誅を加(くわう)るなり
と立札して、これを三条大橋の下に晒すという事件が起こりました。
その意味するところは、かつて足利三代の将軍は天皇家の権威を奪い、不忠の限りを尽くしたとし、間もなく上洛(文久3年(1863)3月4日)してくる14代将軍徳川家茂はその足利三代にみる三賊よりも奸悪(心がねじけていて悪いこと)にしてその罪悪は足利三代よりももっと重い、と主張したもので、徳川家を足利将軍になぞらえ、徳川幕府に天誅を加えんとするものでした。この行為は明らかに反幕府行為でした。
このことを見て取った容保は、足利三代の将軍木像の首を晒し天誅を加えるとした行為を
- 惨虐ノ所為墓ヲ發キ尸ヲ鞭ツニ均シ
惨虐(さんぎゃく)の所為(しょい)墓を発(あば)き尸(しかばね)を鞭(むちう)つに均(ひと)し
と激怒し、
- 木首ヲ梟スルニ至テハ生人ヨリモ重シ
木首(もくしゅ)を梟(きょう)するに至(いたり)ては生人(せいじん)よりも重し
- 暴行此ニ至テ敢テ容スヘカラス勉テ其人ヲ求メテ失フ勿レ
暴行此(ここ)に至(いたり)て敢(あえ)て容(ゆる)すべからず。勉(つとめ)て其人を求めて失う勿(なか)れ
(『会津藩庁記録 三』「鞅掌録(おうしょうろく) 巻一」)と、当初見せた容保の寛大さもその限界に達し、もはや尊攘浪士の考え・行いの低さは同列に扱う価値など微塵もない、と見限ったのでした。しかも彼らの「尊王攘夷」というものがもはや「倒幕」以外の何物をも意図していないことがはっきりと明らかになったからです。その結果、当初の「話を聞こう」という姿勢から、ついに「勉て其人を求めて失う勿れ」と、犯人を追いかけて必ず捕えよ、という厳しい姿勢へと変わりました。
一方、容保を京都守護職に引っ張り出した政事総裁職松平慶永は、尊攘激派たちとの暗闘に疲れ果てて、就任後わずか9か月しかたっていない文久3年3月21日、無理矢理辞表を出して国元の越前福井へ帰ってしまいました。
その後、京都の治安維持における容保の活動には目を瞠(みは)るものがありました。
容保は薩摩と手を握り、いわゆる「八月十八日の政変」(文久3年(1863)。七卿落ちの政変。)によって、尊攘激派の7人の公卿、およびこれを裏から操っていた長州藩攘夷派や諸藩からの脱藩過激浪士を、京都から追放することに成功したのです。これによって江戸幕府の外交政策と専制体制に対する反幕的で、外夷をしりぞける排外的政治運動として展開されてきた尊皇攘夷運動はいったん挫折の局面に移ります。
さらに、元治(げんじ)元年(1864。文久4年2月20日「元治」と改元)6月5日、京都守護職配下の新選組(※)による池田屋襲撃や、同年7月18日から19日にかけての蛤御門(【参考】)の変という名称でも知られる禁門の変の勝利などで、京都の治安は次第に回復されてきました。その結果、尊王攘夷派の中心を成していた長州藩はその意図に反して「朝敵」、則ち天皇(孝明天皇)の敵とされるに及んで尊皇攘夷運動は徹底的な敗北を喫することになったのでした。
これは、孝明天皇は元々外国人に対して強い嫌悪感を持つほどの極度の攘夷主義者であったにもかかわらず容保には揺るぎ無い信頼をよせていて、長州藩の尊皇攘夷策に対し、幕府が推し進める公武一和(こうぶいちわ。公武合体(こうぶがったい)。「公」は公家すなわち京都の朝廷を、「武」は武家である江戸の幕府を指し、朝廷(公)と幕府(武)が協力して外敵の難を処理し、同時に幕府の体制の立て直しを図ろうとした構想。)策を強力に支持したからで、孝明天皇の容保に対する信頼のほどが厚いものであったことが寄与しているといえます。
実際に孝明天皇は「八月十八日の政変」以後、容保の働きに対して、深く感動してうれしく思う、との内容をしたためた手紙や御製(和歌)、更には、「極密々禁多聞」(ごくみつみつにたぶんをきんず)として、容保の忠勤に対して深く悦服し深く頼みにしている、よって極く密々に書状をしたためる、との内容の「深秘の宸翰(しんかん)」をも下賜しているのです。容保は、これを竹筒に入れて大切に保管し、誰にも口外しないという孝明天皇との約束を守り、孝明天皇崩御後も誰にも見せることなく、世を去ったのでした。 それが公表されたのは容保が世を去って18年経った明治44年(1911)11月のこと。『京都守護職始末』が刊行されたときでした。
- 【参考】蛤御門(はまぐりごもん)
- 当時の御所は、天皇の居住地である禁裏(内裏(だいり))と、禁裏を囲むように宮家・公家の邸宅がぎっしり建て込んだ居住地(築地)から成っており、この御所への出入りには禁門と称される九つの門(御所九門)が構えられていました。蛤御門の変で知られる蛤御門は禁門の一つで、このことから禁門の変とも呼ばれます。禁門の多くは公家らの立ち並ぶ邸宅と邸宅との間に隙間がないように、しかも、例えば烏丸通(からすまどおり)などの通りから少しばかり入って行った所に構えられていました。当時の蛤御門の両側には公家の邸宅とみられる建物が、人の出入りできる隙間もなく隣接しており、その位置は、現在の烏丸通に面する位置よりも少しばかり入ったところ(東側)にありました。
- ※新選組
- 文久3年(1863)1月、幕府は出羽(でわ)庄内藩郷士清川八郎(きよかわはちろう)の建議をいれ、武芸にすぐれた浪士を取り立てて浪士組を編成し,3月に上洛する将軍家茂の警衛を名として、2月には上洛させました。ところが、浪士組の指導者の一人であった清川八郎が京都に着くなり本来の将軍の警衛のためではなく尊王攘夷派と結ぶ動きをしたため、これを知った会津藩公用方から幕閣に通報され、同年3月、清川八郎一派は幕府から江戸へ呼び戻されることとなり、浪士組は分裂することになりました。このとき、なおも京都に残った芹沢鴨(せりざわかも)、近藤勇(こんどういさみ)、土方歳三(ひじかたとしぞう)らは、京都守護職松平容保の配下に取立てられることとなります。『町頭南町文書』(まちがしらみなみまちもんじょ)には、同年8月付の京都町奉行による触書として、松平肥後守殿御預浪士(まつだいらひごのかみ(容保)どのおあずかりろうし)に対して、市中を昼夜見廻りするように肥後守が仰せ付けた事を、京都の町中に知らせるように、と正式に通達した内容がみられます。この文書に記されている「松平肥後守殿御預浪士」は当時壬生寺(みぶでら)に拠点を置いていた壬生浪士(壬生浪(みぶろ))に与えられた肩書で、これは一介の浪士が、京都守護職の任に当たる会津藩松平家の家臣になったことになります。
- そして文久3年8月、会津藩からこの「松平肥後守殿御預浪士」に与えられた名称が「新撰組」でした。そのきっかけは文久3年8月18日の政変でした。当時孝明天皇は、長州藩の尊攘派と結んで政治運動を展開していた三条実美(さんじょうさねとみ)ら尊攘強硬派公卿に取り巻かれて御所内において軟禁状態とされていました。そこで会津藩は薩摩藩と手を結び、御所から長州の息のかかった勢力を追い出し、孝明天皇を軟禁状態から解放すべく、武力手段に打って出たのでした。この時、近藤勇ら浪士組にも出動の命令が下りると勇んで駆け付けたといいます。そしてこの8月18日の政変を機に浪士隊の抜本的な改革が行われ、隊名が「新撰組」と決められたといいます。その名は、もともと会津藩に在った「新撰組」という隊名から取られたものといわれ、この時点では会津藩ではすでに使われていなかったこともあり、近藤勇らの浪士隊に一層の期待を込めて名付けたものでした。京都郊外の壬生村(みぶむら)に屯所をおき、壬生浪として恐れられていましたが、会津藩から隊名を与えられたことでれっきとした会津藩の部隊となったのです。京都の治安維持を任務とし、京都市中の尊王攘夷派志士の取締りや元治元年(1864)の池田屋騒動(池田屋事件)などで名を揚げました。
- なお「新撰組」の「撰」の漢字については、この名を与えた会津藩の記録には「撰」の漢字が使われていたようですが、いつの時点からどのようないきさつで「選」が使われるようになったのかについては定かではないといいます。『京都守護職始末』にはすでに「新選組」と記されています。
ところで、元治元年2月21日、長州征伐の準備のため幕府は容保の京都守護職の任を解き、陸軍総裁職(のち軍事総裁職と改め)に任じたことがありました。そして後任の京都守護職には松平慶永が任命されました。松平慶永は、容保に京都守護職に就いて欲しいと執拗なまでに説得した人です。 ところが京都守護職に新任した松平慶永には反対する者が多かったといいます。その背景には、容保が京都守護職に就いたのとほぼ同じころ政事総裁職に就いた松平慶永が、京都での尊攘激派たちとの暗闘に疲れ果てて、就任後わずか9か月しかたっていなかった文久3年3月21日、無理矢理辞表を出して京都を去り、国元の越前福井へ帰ってしまった、ということがありました。特に新選組に至ってはこのことを責め、松平慶永を、命を預けることができるほど信頼するに足る人物と認めなかったと思われ、京都守護職松平慶永の支配下に入ることを喜ばず、容保の下で働きたいと願って止まなかったといいいます。このことは幕府も受け入れざるをえなかったようで、結局、松平慶永は京都守護職解任の願書(ねがいしょ)を幕府に提出して、元治元年4月7日、解任され、松平慶永はふたたび越前福井に帰り、後任の京都守護職には容保がわずか50日にして復職する、ということもありました。
会津藩滅亡へと高鳴る足音
さて、禁門の変から3年過ぎた慶応3年(1867)10月14日、前年の慶応2年に15代将軍となっていた徳川慶喜は「大政奉還」の上表を明治天皇に上奏します。「大政」とは国家政治の運用にあたる権力=政権を指し、「奉還」とは天皇にお返しすること。則ち「大政奉還」とは政権を天皇に返上すること。この政権返上の申請を朝廷に願い出た翌15日には勅許が下りています。これによって鎌倉幕府の成立から約700年近くもの間続いてきた武家政権は終了したことになります。
このころの世の情勢はというと、今や飛距離、高い命中精度、破壊力を持った洋式兵器を入手して軍備の増強に努め、強力な力を持つようになった長州藩と薩摩藩を中心とした倒幕運動が進んでいました。
八月十八日の政変や禁門の変では互いに憎しみ相争う関係であった長州藩と薩摩藩は、欧米列強に伍してその圧力に対抗するため、幕府専制、幕府・諸藩割拠の体制を改め、統一国家を樹立する必要を認識し、そこから新しい反幕府勢力が生まれ、その反幕府運動はしだいに倒幕運動、武力による討幕運動へと展開していました。
そして岩倉具視(いわくらともみ)ら4人の公家や薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通(おおくぼとしみち)、小松帯刀(こまつたてわき)、そして長州藩の広沢真臣(ひろさわさねおみ)、木戸孝允(きどたかよし。桂小五郎(かつらこごろう)。)らが関与して作成された、いわゆる将軍徳川慶喜を「賊臣」(朝廷に背いた臣下)として追討を正当化するために発出された勅書が、秘密裏に、大政奉還が上表される前日の10月13日に薩摩藩主父子へ、翌14日に長州藩主父子へ手渡されました。「討幕の密勅」(※)と呼ばれるものです。それには慶喜を賊臣として殄戮(てんりく。刑罰として殺害する。)せよ、とあり、また、それとは別に容保と京都所司代松平定敬(さだあき)に対して速やかに誅戮(ちゅうりく。罪ある者を殺害すること。)を加えよ、と命ずる勅書も出されていました。
ただこの勅書は形式が異例な上に、明治天皇の自筆部分がなくまた連署者の花押(かおう)もなく、更に異例な用語(言葉)が使用されている、等の疑わしい点のあることが判明していることから、今日では天皇の了承を得た正規の勅書とは認め難いとされ、ほぼ「偽勅」と看做されています。
が、当時はこの「討幕の密勅」が「真勅」として機能することになります。つまり、薩摩藩や長州藩が武力討幕を計画していることを事前に察知していた慶喜はこの「討幕の密勅」のことを知ると真勅として受け取め、その衝撃から討幕派に先制するべく、長州藩主父子に「討幕の密勅」が手渡されたのと同じ日の10月14日に大政奉還を上表(※)したのでした。翌日、朝廷がそれを勅許したことによって、討つべき対象である慶喜は朝廷に政権を返還し終えており、武力攻撃を強行する大義名分がなくなり、従って、「討幕の密勅」の存在意義も無くなり、討幕派の計画は失敗に終わりました。
10月21日、薩長両藩にあてて「十四日之条々暫見合実行否可勘考」(14日に沙汰した件(討幕の件)、しばらく見合わせ、実行すべきか否かについてはよくよく思案することとする)と沙汰がおり、事実上、密勅は取り消されました。
- ※討幕の密勅
- 薩摩藩では、武力討幕計画が進んでいた京都と、地元薩摩との間に、武力討幕に対する温度差が発覚。地元薩摩では武力討幕に否定的な保守派の人が多数いたため、その保守派勢力を武力討幕へと説得する根拠として、大久保利通らは岩倉具視に相談し、「慶喜を討て」との天皇の勅(命令)を得ることを計画。その天皇の勅を大義名分に、薩摩藩の藩論を武力討幕に統一しようと図ったものとみられています。そして、岩倉具視の朝廷内での画策によって、「討幕の密勅」と呼ばれる天皇の勅命(前述の通り偽勅)が薩摩藩と長州藩に下されることになったのでした。
- ※10月14日に大政奉還を上表
- 慶応年間に入って薩摩藩・長州藩を中心とした討幕運動が勢いづいてきている中、2度目の脱藩の罪を許され海援隊の隊長を務めていた土佐藩の坂本龍馬が新国家体制の基本方針を起草した策(大政奉還と公議政体論を骨格とした「船中八策」)を基に、幕府が大政奉還して王政復古の世とし、平和裏に幕府独裁制を改革すべしとする意見書(土佐藩による大政奉還の建白書)が10月3日に前土佐藩主山内容堂(やまうちようどう)名で慶喜に提出されていました。さらに、10月6日には広島藩主も大政奉還を勧告しました。
- これを受けて幕府は二条城二の丸御殿にある大広間に在京10万石以上の40藩の重臣を集め、その可否を問います。しかしこの重大問題に対し、藩の重臣とはいえ藩主に相談もせず自らの判断で意見具申することなどできるはずもなく、6人を除いて退席。そこで大広間の上段に現れた慶喜に対し、残った6人は慶喜の英断を称え、大政奉還に対する賛意が伝えられたことから、慶喜は10月14日に大政奉還を上表するにいたったのでした。
- 坂本龍馬も慶喜の英断を知って喜んだといいます。が、その龍馬は約1カ月後の11月15日、暗殺されたのでした。
徳川慶喜が大政奉還を上表したことで一見朝廷に譲歩したかのように見えるのですが、慶喜の腹のうちは違っていました。
慶喜は必ずしも政権の全面的放棄を考えていたわけではなく、「そもそも政治から長きにわたって遠ざかっていた朝廷に政権を運営する力はない」との読みから、朝廷を名目上の統治者とし、そのもとで徳川氏を筆頭とする政権を樹立し、引き続き国政の主導権を握ることができる、とする構想を秘めていたといいます。
そしてその思惑通りに、突如として大政奉還により政権を返上されたものの、政治と長い間距離をおいてきた朝廷には政権を受け入れる体制ができておらず、朝廷は幕府から返上された政権を持て余す有様でした。そこで朝廷は政権運営の見通しが立つまでの当面の間、従来通り幕府に、政治そして京都の治安維持、京都守護職やその支配下に置かれた見廻組や新選組の仕事を継続して委ねることとなったのです。更に、慶喜は将軍職を辞する、と朝廷に申し出ます。そうなると軍事権は朝廷に移ることになりますが、これまで「攘夷せよ」と将軍徳川慶喜を責め立てていた朝廷自身が外国勢と相対して攘夷を行う必要に迫られることになるわけですが、そういった経験のない朝廷には到底できるものではありません。結局将軍職も、朝廷の体制が整うまでの間、慶喜に委ねることとなったのです。
こうして大政奉還が行われた後に明らかとなったことは、朝廷の無力さ、そして、政権運営能力・軍事権において幕府の力が必要とされる、ということでした。
「家康公の再来」とまで言われた慶喜の策士ぶりがまざまざと見せつけられたのです。
これに対し、徳川慶喜は大政奉還を上表したものの再起を企んでおり、そうなると徳川家が力を持ち続ける限り実権を掌握し、大政奉還は形だけになり、旧幕府と何ら変わらない政治体制が続いてしまう、とすれば名実ともに大政奉還を成し遂げるには、徳川の力を排除しなければならない、とする岩倉具視の考え方に賛同した長州藩・薩摩藩は、徳川慶喜の力を温存したままでの大政奉還を阻止するべく、新たな策を講じる必要性に迫られます。それが大政奉還が上表された慶応3年暮れの12月9日に王政復古の大号令として顕現した政治クーデターです。この宣言では 徳川家はもう政治に関わることはなく、これからは天皇家が政治を行う、という「徳川を排除した新政府樹立」のメッセージが込められていました。
しかし、岩倉具視や長州藩、薩摩藩の討幕派からすればこれまた、失敗に終りました。新政府を樹立したものの、政治を行ったことなどない新政府にその遂行能力はなく、結局、「旧幕府」の財力・組織力・軍事力を背景とした徳川の統治を続けることに朝廷が許可を与えてしまったのです。大政奉還の時の二の舞を踏むこととなってしまいました。
この状況に業を煮やした西郷隆盛は、戦(いくさ)を始めててでも徳川慶喜を排除しなくては、との考えから、徳川慶喜とその背後にある旧幕府勢力を「挑発」して、徳川方から新政府に対して戦を始めさせるように仕向けることを考えます。
西郷隆盛は、安政元年(1854)の薩摩藩主島津斉彬の江戸参勤の列に加えられ、江戸にて庭方役(にわかたやく)を命じられていました。庭方役というのは文字通り、屋敷の庭に控えて、庭の掃除などをする雑用係のことですが、島津斉彬に見込まれる機会を得た西郷隆盛は島津斉彬から密書を他藩の藩主らに届ける任務を担うようになり、時として二人は密事について長時間話し込むこともあったといいます。今日で言うスパイとしての諜報活動を西郷隆盛は担ってもいたわけです。
さて、「薩摩藩御用」と称する江戸の配下の者を使うようになっていた西郷隆盛は、将軍のお膝元である江戸で略奪・暴行・放火などを繰り返して治安を乱す作戦を始めさせました。その狙いは、治安を乱すことで幕府を怒らせて江戸薩摩藩邸を攻撃させ、それを口実に旧幕府に対する武力攻撃へともっていき、旧幕府、そして慶喜の息の根を止めることでした。
そしてついに、薩摩藩による江戸での様々な破壊活動に対して怒った旧幕府の庄内藩が、「江戸薩摩藩邸」に放火したのです。この知らせが当時大坂城にいた慶喜のもとに届くと、慶喜の家臣たちは、挑発を繰り返す「薩摩討伐」の声をあげ、慶喜は京都進撃を決意します。
「王政復古の大号令」から24日後の慶応4年1月3日(1868年1月27日)、徳川慶喜が大軍を率いて京都に向かって進撃します。これを薩長土芸の4藩を中心とした、慶喜率いる旧幕府軍の3分の1ほどの勢力の新政府軍が、西欧から取り入れた最新の小銃や大砲といった兵器を装備して迎え撃つべく鳥羽・伏見両街道で激突します。鳥羽・伏見の戦いです。
こうして鳥羽・伏見の戦いに端を発した戊辰戦争(ぼしんせんそう 慶応4年1月3日〜明治2年5月18日(1868年1月27日〜1869年6月27日))が始まったのでした。
鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍は敗れ、慶喜は大坂城に引き揚げます。1月6日深夜、慶喜は容保らわずかの重臣を従えて大坂城を密かに抜け出し、海路を伝って江戸城に逃げ帰りました。
この戦いで勝利した薩長を中心とする新政府軍は、朝敵として慶喜追討を発令し、江戸城のある東へと進軍することになります。
慶応4年4月11日には「江戸城無血開城」が実現。徳川慶喜は、勝海舟(かつかいしゅう)や天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)に説得された西郷隆盛により、命を救われて謹慎。260年以上続いた「江戸幕府」はこうして完全に滅亡したのです。
一方、会津藩主を辞任して江戸から会津に戻った容保は謹慎し、「朝敵」の汚名を着せられてもなお、孝明天皇から下賜された「深秘の宸翰」や御製の存在をもって自己弁護しようと新政府軍に申し出ることはなく、新政府に対する恭順の意を表して嘆願書を出し、新政府による罪を待つ姿勢をとりました。
しかし、無駄でした。
新政府は、容保を徳川慶喜に次ぐ「朝敵」として会津処分を決定し、会津藩の征討を命じたのです。新政府にとって容保は、討つべき旧幕府の重鎮で、京都守護職時代には会津藩兵や新選組を通して反幕府派志士の弾圧にあたった経歴から積年の恨みがあったためでもあります。 容保の新政府への嘆願書の斡旋に立っていた仙台藩、米沢藩は、新政府による会津征討の決定は恭順の意を表わす者に対して不当であるとして抗戦を決意し、仙台藩、米沢藩を中心とする東北諸藩はさらに北越諸藩を加えた奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)へと発展させ、新政府軍に対抗します。
こうして戦端が開かれたわけですが、会津藩を助けようとする同盟諸藩は相次いで新政府軍に降伏する結果となりました。その中でも、慶応4年8月23日から9月22日までの1ケ月にわたる会津若松・鶴ヶ城(会津城。若松城。会津若松城。)をめぐる攻防戦は「会津戦争」と呼ばれ、戊辰戦争最大の山場となりました。容保は城に入って籠城策をとります。この1ケ月にわたる籠城戦においては、会津全藩の戦闘員だけでなく、老幼婦女子といった非戦闘員まで、死力を尽くして総力戦を戦ったことは知られています。鶴ヶ城外での少年兵で構成された白虎隊(びゃっこたい)員の自刃という悲劇もこのときのことです。
鶴ヶ城の籠城戦は敗戦落城という過酷な現実となり、「悲劇」一色に塗りつぶされる結果となったのです。
鶴ヶ城開城後、容保は東京に送られ、因州鳥取藩池田慶徳(よしのり)邸に「永預け」(えいあずけ。終身、他家に預けて帰宅を許さない処置。)となりました。
容保の永預けが免ぜられたのは明治5年(1872)1月でした。
明治13年(1880)2月、容保は日光東照宮宮司に任じられています。
幕末、会津藩は「朝敵」として新政府の武力によって悲惨な最期を迎えたわけですが、後年容保が世を去って後、旧会津藩主・松平家の家政(日常の生活にかかわる諸事を処理し、治めること)顧問で『京都守護職始末』を完成させた山川健次郎が、明治政府側に、京都守護職の任に就いていた会津藩主松平容保に下賜された、孝明天皇の容保への信頼の厚さが伺える書簡と御製(和歌)を見せたことがありました。それは容保生前の折は孝明天皇の意向により誰にも見せなかったもので、もちろん、見せられた明治政府側は初めて目にすることになります。そこに書かれている内容は、会津藩を「朝敵」として討った当時の新政府(現在の明治政府)にとっては、公にされては非常に具合が悪いものであったことは論を俟ちません。
写真集《境内巡覧》(50枚の写真が表示されます。)
門の両脇に小さめのくぐり戸があります。似たような門の構えをどこかで見たような・・・と思っていてふと思い出したのが、妙覚寺(みょうかくじ)の山門です。妙覚寺の山門は城門特有の両潜扉と言われますが、この高麗門もそのことが言えるのかもしれません。そして、門の左側には石垣が組まれているのが見え、この先にある山門まで延びています。
この門は江戸時代末の万延(まんえん)元年(1860)に建立されたものですが、金戒光明寺は江戸初期、徳川によってそれとなく城郭構造に改修されたといいます。こうしてみていると、門構えといい、石垣といい、これからお城の見学か〜、なんて思わず納得してしまう光景です。
写真集2《秋・特別公開》(22枚の写真が表示されます。)
左側の築地塀と右側の神社との間に挟まれた、丸太町通沿いにある金戒光明寺の南門へとつながる入口です。道幅は意外と狭いです。
写真左側が西で、京都御所、二条城のある方角になります。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 所在地 | 京都市左京区黒谷町121 |
| 山号 | 紫雲山(しうんざん) |
| 宗旨 | 浄土宗 |
| 寺格 | 大本山 |
| 本尊 | 阿弥陀如来 |
| 創建年 | 承安5年(1175) |
| 開山・宗祖 | 法然 |
| 文化財 |
|
【境内概観図】
【図中番号の説明】
- 高麗門
- 北門
- 南門
- 山門
- 勢至丸像
- 御影堂(大殿)
- 阿弥陀堂
- 新経蔵
- 納骨堂
- 鐘楼
- 鎧掛けの松
- 大方丈
- 寺務所
- 清和殿
- 新清和殿
- 紫雲の庭
- 鎧之池
- 方丈北庭
- ご縁の庭
- 紫雲亭(茶室)
- 花峯庵(茶室)
- 極楽橋
- 蓮池(兜之池)
- 蓮池院
- お江供養塔
- 春日局供養塔
- 五劫思惟阿弥陀仏
- 法然上人御廟
- 熊谷直實供養塔
- 平敦盛供養塔
- 西雲院
- 紫雲石
- 會津小鉄之墓
- 西雲院東門
- 会津墓地
- 三重塔(文殊塔)
- 竹内栖鳳墓
- 栄摂院
- 真如堂山門(※1)
- 真如堂本堂
- 真如堂・金戒光明寺出入口
- 平安神宮(※2)
- 岡崎通(※1)
- 丸太町通(※1)
- 鴨川(※3)
- 京都御所(※4)
- 京都御苑(※4)
- 二条城(※4)
- 堀川通(※4)
- 知恩院(※3)
近隣の観光スポット情報
上記の【境内概観図】をご参照ください。


