
虎嘯(こしょう)の庭
弧で囲まれた中に敷かれた白砂の部分は大海を表現しているのでしょうか。
そしてその中に見られる複数の筋は荒波を模したものなのでしょうか。
白砂の右側に縦長の石とそれに寄り添うように見える横長の石の2つが見えます。縦長の石で大海に浮かぶ島を表現し、その島を目指してやっとの思いで辿り着いた舟を横長の石で表現してあるように見えます。その解釈は観る人それぞれなのでしょうね。
なお庭園は締め切られたガラス戸を介しての観賞となっていました。
本堂より。
弘源寺(こうげんじ)は天龍寺の塔頭(たっちゅう)で、天龍寺の総門から入り、中門(ちゅうもん)をくぐって参道を進むと右手に「西山弘源禅寺」(せいざんこうげんぜんじ)の寺標と山門が見えてきます。
本山である天龍寺の曹源池庭園(そうげんちていえん)は嵐山や庭園西に位置する亀山(かめやま)を取り込んだ借景式にして池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)庭園となっていますが、弘源寺の本堂に立てば、嵐山を借景とした枯山水庭園が目に入ってきます。
創建
南北朝合一から37年経った室町時代中期の永享(えいきょう )元年(1429)、武将細川持之(ほそかわもちゆき)が、玉岫英種(ぎょくしゅうえいしゅ)を開山に迎えて創建したといいます。
細川持之は、摂津国(※1)・丹波国(※2)・讃岐国(※3)・土佐国(※4)の守護(※5)職を世襲したと同時に、代々室町幕府の管領(※6)職に任命を受けた細川氏の宗家・嫡流の出身です。これら4国の守護であった兄で嫡男の持元(もちもと)の早世により次男の持之は正長(しょうちょう)2年(1429)、家督を継いでおり、その3年後の永享4年(1432)には室町幕府の管領に就任し、室町幕府将軍の下で幕政に参画しました。その時の将軍が、性酷薄で残忍を極め、廷臣や諸将をその些細な過失を以て大量に処分したりしたことから「悪御所」などと呼ばれて恐れられたことで知られる室町幕府第6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)でした。
なお、持之の嫡男である細川勝元(かつもと)は龍安寺(妙心寺の境外塔頭)を創建しています。
- ※1.摂津国(せっつのくに)
- 現大阪府北西部と兵庫県南東部。
- ※2.丹波国(たんばのくに)
- 現京都府中部と兵庫県東部。
- ※3.讃岐国(さぬきのくに)
- 現香川県。
- ※4.土佐国(とさのくに)
- 現高知県。
- ※5.守護(しゅご)
- 国ごとの軍事行政を統轄。
- ※6.管領(かんれい)
- 室町幕府において将軍に次ぐ役職で、将軍を補佐する政務( 政治上の事務)の責任者として権限をもち、幕政を統轄。
一方、開山に迎えられた玉岫英種は天龍寺第93世を務めた人で、天龍寺の開山である夢窓疎石(むそうそせき)の法嗣徳叟周佐(とくそうしゅうさ。天龍寺第20世。)に師事して法を嗣いでいることから夢窓疎石の法孫にあたります。
弘源寺が創建された時は、小倉山(おぐらやま)の麓に位置し、北は二尊院から南は亀山に至る広大な寺領を有していたといいます。亀山は小倉山の南東にあって天龍寺の西に位置する山(丘陵地)で、現在の京都府営嵐山公園亀山地区に相当するとみられます。
この「小倉山の麓」というのがどこなのかということですが、小倉山の東南東に位置する現在の落柿舎(らくししゃ)がそのヒントを与えてくれます。
俳人向井去来(むかいきょらい。1651〜1704年。)の閑居跡として知られる落柿舎は、当初は下嵯峨川端村(かわばたむら)の臨川寺(りんせんじ)西辺にあったとされますが次第に廃れ、江戸時代中期の明和(めいわ)7年(1770)に、去来の外戚にあたる俳人・井上重厚(いのうえじゅうこう)が弘源寺跡に再興したものとされています。つまり、この落柿舎を含む地に弘源寺の堂宇があった、ということになります。
後で見るように、井上重厚による落柿舎再興に先立つ正保(しょうほう)2年(1645)、弘源寺は堂宇を天龍寺境内へ移していました。
落柿舎から二尊院方面の北へ100mほど行った裏手の道沿いには墓地があり、そこに自然石を用いて「去来」とだけ刻まれた簡素な向井去来の墓があります。この墓地は弘源寺の墓地で、墓の入り口近くにある石標には「弘源寺」と彫られた文字を見ることができます(→写真集参照/記事「落柿舎」参照)。
嘉吉(かきつ)2年(1442)6月24日、持之は病のために管領を辞すると出家して常喜(じょうき)と号し、それから2か月も経たない8月4日に世を去りました。
『南方紀伝』(なんぽうきでん。『南朝紀伝』とも。南北朝時代における南朝の盛衰とその後胤(後南朝)を扱った史書・軍記。江戸時代前期の成立とみられていますが、作者は不詳。)の嘉吉2年条に
- 秋八月四日、細川持之卒ス。年四十三。號弘源院。男勝元跡ヲ繼グ。
との記述があり、細川持之が8月4日43歳で亡くなり、弘源院(弘源寺)と号したことが記されています。また、後に龍安寺を創建する嫡男勝元が細川家を継いだことが記されています。
そして、寺号「弘源寺」は、細川持之の戒名「弘源寺春岳常喜」(しゅんがくじょうき)から院号「弘源寺」をとったものといいます。
開山の玉岫英種は、持之が没して4年後の文安(ぶんあん)3年(1446)に世を去っています。
どちらが先?
さて、持之は正長2年に家督を継ぎました。一方、永享元年に弘源寺を創建したわけですが、正長2年9月5日「永享」に改元されており、「正長2年」と「永享元年」の年は西暦1429年の同年に当たります。
そこでふと知りたくなったのが、持之がこの年に、家督を継いだのが先か、弘源寺を創建したのが先か、ということです。
ここで『満済准后日記』(※7)の正長2年7月の項に次の記述があります。
- ※7.『満済准后日記』(まんさいじゅごうにっき)
- 室町時代の僧侶であった満済の応永(おうえい)18年(1411)〜永享7年(1435)の日記。
満済の母が3代将軍足利義満(よしみつ)の正室日野業子(ひのなりこ)に仕えていた縁で義満の猶子となり、醍醐寺報恩院(ほうおんいん)隆源(りゅうげん)の門に入り得度、応永2年(1395)11月、わずか18歳の若さで、醍醐寺における法脈の中心として同寺の塔頭にして本坊的な存在である三宝院(さんぼういん)25世門跡となり、翌12月には醍醐寺第74代座主、更に大僧都(だいそうづ)に任命されました。その際、義満から「満」の一字を自身の上の字として譲り受けて「満済」と号するようになったといいます。
満済はその資質によって義満に寵され、当時強大な権勢を誇った義満の絶大な庇護を受けることになります。
正長元年(1428)には三宝院門跡として初めて准后(准三后。皇后・皇太后・太皇太后に准ずる格別の待遇を受ける。)を宣下されました。
歴代の三宝院門跡は将軍の政治顧問格となる伝統もあり、満済は足利将軍家に重用され、義満とその子である4代将軍義持(よしもち)そして6代将軍義教の信任が厚く、政務についてしばしば重要な献策をし、その権威は甚だ高かったことから「黒衣の宰相」と称されたといいます。
したがって『満済准后日記』は単なる僧侶の日記にとどまらず、むしろ室町時代初期に於ける足利将軍側近者の日記としての位置づけが高いものとされ、24年間に亘る日記は政治史研究の重要資料として位置づけられています。
- 十四日。晴。雷鳴。今朝入堂。細川右京大夫今日申終他界。生年卅一歳也。天下重人也。旁周章驚歎。只愁涙千萬行計也。此事酉終經祐法眼參申也。遺跡事舍弟中務少輔相續。存命中案堵御判等拜領云々。
正長2年7月14日、晴れ、雷鳴あり。今朝は仏を拝む。細川右京大夫(※8)持元(持之の兄)が今日終(つい)に他界したという。生年31歳。国の政治に重きをなした人であった。持元の死を知った人々はあまねく慌てふためくと同時に嘆き、只々つらい悲しみのあまり多くの涙を流した。そういうこともあり夕刻(午後6時前後)には終に経祐法眼(※9)が儀式の奉行として訪れたという。遺跡(ゆいせき。ここでは兄持元ののこした領地、官職など。)は弟の中務少輔(なかつかさのしょうゆう/しょうふ。職名。ここでは持之を指す。)が相続した。持之に相続された所領の領有権は兄持元の存命中に承認され、印なども受け取ったという。
- ※8.右京大夫(うきょうのだいぶ)
- 律令制で、京都の司法・警察・民政などをつかさどった行政機関は京職(きょうしき)と呼ばれ、南面する天皇の玉座より見て左に位置する京師(けいし)(みやこ。帝都。)の東側を「左京」、右に位置する西側を「右京」と呼び、それぞれに左京職(さきょうしき)、右京職(うきょうしき)が置かれました。これらの長官は大夫(だいぶ)と呼ばれ、左京職の長官は左京大夫(さきょうのだいぶ)、右京職の長官は右京大夫(うきょうのだいぶ)と称されました。
- ※9.経祐法眼
- 「経祐」(けいゆう/きょうゆう)は僧名、「法眼」(ほうげん)は房官の敬称。
「房官(坊官)」(ぼうかん)とは、三宝院門跡満済に近侍した僧侶なるも、剃髪し法衣を着るが、肉食妻帯し、帯刀を許された在俗の僧侶で、これ故に、房官であった経祐法眼は門跡経営などの「俗的な部分」に携わったといいます。具体的には、門跡の堂宇や門跡領の管理、財務の管理をはじめとして、儀式の奉行や出仕、法会における行事僧、供奉・陪膳・使者などを勤めたとみられています。
兄持元が存命中にその所領や印などは弟持之に引き継がれ、家督を継いだことがわかります。
一方、弘源寺が創建されたのは永享元年とされていますが、この年の何月に創建されたのかを知ることはできませんでした。そこで、創建が文字通り「永享元年」ということであれば改元されたこの年の9月5日以降に創建されたことになります。そうであれば、この年の7月14日には持之は既に家督を継いでいることから寺の創建に必要十分な経済基盤を有しており、何ら不思議ではないと考えられます。
次に、どういう意図があって創建したのか、ということがふと脳裏に浮かんできたのですが、それは兄持元の菩提を弔うことがその一つにあったのではないか、と考えることもできそうです。
例えば、天龍寺が創建されたのも、足利尊氏(あしかがたかうじ)が擁立した北朝に対立する南朝を樹立するも大和(奈良県)の吉野で没した後醍醐(ごだいご)天皇の「菩提を弔う」ために、夢窓疎石の勧めによって尊氏・直義(ただよし)の兄弟が創建した寺であることを考えると納得できるところでもあります。
このような背景から、弘源寺は、正長2年7月14日より前の兄持元存命中に持之が家督を継いでその経済基盤が確かなものとなり、その後2か月足らずのうちに「永享」と改元された9月5日以降に兄持元の菩提を弔うことを含めて創建されたのではないか、と考えることもできそうです。
明治初年における吸収合併
明治(めいじ)初期、それまで武士階級が保持していた権限が剝奪され、中央新政府にその権力を集中させるべく、廃藩置県や秩禄処分などの諸政策が実行されましたが、その波及として、社寺の境内地処分も行われました。それは、明治4年(1871)正月5日の太政官布告第四に
- 社寺領現在ノ境内ヲ除クノ外上地被仰出土地ハ府藩縣ニ管轄セシム
と出され(「上知」ではなく「上地」と表記されています)、社寺の領有する土地のうち「現在の境内」とされる以外の土地(境外所有地である畑、藪、山林など)は上地(あげち。上知。)し(国が土地を没収する)、上地した土地は府藩県に管轄させる、旨の通達(上地令/上知令)により実施されますが、その施行では十分に成し得なかったために明治8年6月、二度目の上地令が通達されます。
この2度の上地令と関係法令によって寺社の境内地処分が行われたわけですが、例えば、最初の上地令(第一次上地令)による処分として、安土桃山時代から江戸時代を通じて天龍寺が支配していた嵐山・亀山などが上地され国有化されています。
天龍寺では、境内地処分が行われた明治期初頭から明治10年代後半にかけて、塔頭の統廃合が盛んに行われたようです。こうした状況は、同時期の他の寺院にも共通しています。
そして天龍寺の塔頭である弘源寺もその一つでした。現在の弘源寺のある地には天龍寺の末庵であった維北軒(いほくけん)がありましたが、明治17年10月に弘源寺の維北軒への合併が許可され、同年12月に維北軒から弘源寺へと寺号が改称されました。
なお、今日目にする弘源寺は、明治初年における吸収合併の結果なのですが、その合併時期については相違があり、次の3つが見られます。
| 合併時期 | 資料 |
|---|---|
| 明治15年 |
|
| 明治16年 |
|
| 明治17年 |
|
ところで、江戸時代最末期の慶応(けいおう)3年(1867)から昭和(しょうわ)22年(1947)までに京都府および管内郡役所等の行政機関で作成された京都府行政文書(ぎょうせいぶんしょ。重要文化財。)の中に史料として「寺院明細帳」(じいんめいさいちょう)というものがあります。「寺院明細帳」は、各寺院が本尊・由緒・本堂や境内の面積・境外所有地の内訳・境内図などについて記載し、住職や信徒惣代らの署名・捺印が入ったものを行政機関に提出し、これらが纏められた大部な記録類で、中でも明治15年の「寺院明細帳」は、昭和14年の宗教団体法公布まで公認寺院台帳として位置づけられていました。
この「寺院明細帳」の中にある『葛野郡寺院明細帳』−作成完結年次(年号)明治16年度−に弘源寺と維北軒について次の記載があり、双方の記事に目を通すと両寺の関係がみえてきます。更に、これらの記載から両寺の移転・改称の推移を知ることができます。
『葛野郡寺院明細帳』より(記載されているのは青文字の部分)
- 【弘源寺について】
-
-
當寺者永享元年細川右京太夫持之公建立ナリ夢窓國師三世之孫玉岫禅師ヲ請メ開祖ト為ス嘉吉弐年八月四日持之公卒去弘源寺殿ト号ス文安三年六月廿五日玉岫禅師示寂(途中割愛)竊ニ弘源ノ濫觴ヲ尋ルニ昔小倉山ノ麓ニ在テ應仁年間ノ兵燹ニ嬰テ灰烬ス其後永正二年住持薀秀禅師堂宇ヲ再興シ門派ノ者代々相續テ住職ヲ勤ム正保二年諸宇ヲ本寺ノ門内ヱ移シ元禄年中住持乾仲禅師堂宇ヲ再興ス其後天保九年住持南海禅師本堂ヲ再建ス當寺ノ記録中ニ見ヘタリ明治元年事故アリ右堂宇其侭維北軒ト改称シ境内ノ傍ニ之レ有ル維北軒建物ヲ以テ猶亦小倉山ノ麓當寺ノ𦾔趾ニ移シ弘源寺ト称ス現在建物是レナリ
-
- 当寺は永享元年細川右京大夫持之公が建立した。無窓国師三世の孫玉岫禅師を請じて開祖とする。嘉吉2年8月4日持之公が世を去り、弘源寺殿と号した。文安3年6月25日には玉岫禅師も世を去った。(途中割愛)竊(※10)に弘源寺の濫觴(※11)を尋ねる(※12)に、昔小倉山の麓にあって、応仁(おうにん)年間(1467〜1469年)の兵燹(※13)に嬰(※14)て灰燼に帰した。その後、永正(えいしょう)2年(1505)住持の薀秀(うんしゅう)禅師が堂宇を再興し、門派の者が代々相続けて(※15)住職を勤めた。江戸に幕府が置かれて40年ほどが経った正保2年(1645)、弘源寺は堂宇を本寺(天龍寺)の門内(境内)へ移し、元禄(げんろく)年中(1688〜1704年)住持乾仲(かんちゅう)禅師が堂宇を再興した。その後、天保(てんぽう)9年(1838)住持南海(なんかい)禅師が本堂を再建した。このように当寺の記録に残っている。明治元年(1868)、事故が起こって弘源寺の堂宇はその侭(まま)維北軒と改称し、天龍寺境内の傍らに残った。そして中院町(※16)にあった維北軒の建物を、小倉山の麓にある当弘源寺の𦾔(旧)趾に移してこれを弘源寺とした。現在小倉山の麓にある建物がこれである。
-
- ※10.竊(ひそか)
- そっと。人に知られない。
- ※11.濫觴(らんしょう)
- (物)事の初め。
- ※12.尋ねる
- おおもとなどを明らかにしようと調べたり考えたりする。
- ※13.兵燹(へいせん)
- 戦争による火災。兵火。
- ※14.嬰(かかり。かかる(罹)。)
- 病気や災難などを身に負う。
- ※15.相続け(あいつづけ)て
- 次々とあとに従って。継続して。
- ※16.中院町(ちゅういんちょう)
- 今日、清凉寺の西隣には、その西門から二尊院方面へと続く道の北側に北中院町、南側に南中院町があります。
- 【維北軒について】
-
-
當寺者大永年間建立夢窓國師五世之孫悦岩禅師ヲ開祖ト為ス其昔小倉山ノ下中院町ニ在リ民家ノ類焼ニ嬰テ癈壊ス其後寛永年間本派弘源寺住持大叔禅師我カ寺ノ傍ニ再興シテ維北軒トス記録中ニ見ヘタリ明治元年事故有テ右建物ヲ小倉山ノ麓弘源ノ旧趾ニ移シ弘源寺ト称シ素ト弘源寺建物ヲ以テ其侭維北軒ト改称ス現在ノ建物是也
-
- 当寺は室町時代後期の大永(だいえい)年間(1521〜1528)に建立された。夢窓国師5世の孫悦岩(えつがん)禅師を開祖とする。その昔、小倉山の下中院町にあり。民家の類焼に嬰(上記※14)て廃壊した。その後江戸に幕府が置かれて20年ほどが経った寛永(かんえい)年間(1624〜1644)本派弘源寺住持大叔(だいしゅく)禅師が、我が(燃え尽きた)寺の傍らに再興して維北軒と称した。このことは記録の中に見られる。明治元年に事故があって、(中院町にあった)維北軒の建物を小倉山の麓弘源寺の旧趾(この時弘源寺は現在と同じ天龍寺境内にあった)に移して弘源寺とし、素(も)と(天龍寺境内にあった)弘源寺の建物を以て其の侭(そのまま)維北軒と改称した。現在天龍寺境内にある建物がこれである。
この移転と改称の推移を図示したものを『弘源寺と維北軒の創建地と移転・改称の推移』(PDFファイル)として作成しました。
「虎嘯」
弘源寺には嵐山を借景にした「虎嘯の庭」と称される枯山水庭園があります。「虎嘯」は「こしょう」と読まれ、「虎嘯の庭」と読むと第一印象としてその意味も分からず、さすがに禅の奥深い境地に足を踏み入れるような感じがして何だか近寄りがたいイメージを持ってしまうのですが、そもそも「虎嘯」ってどういう意味なんだろうと興味が湧いてきました。
弘源寺のHPを見ると
-
虎嘯(こしょう)とは、「龍吟雲起、虎嘯風生」(龍吟じて雲起こり、虎嘯きて風生ず)と言う語句から名付けられております。この出典は『碧巌録九十九則』によるもので、「龍吟」は枯れ枝の間を抜ける風の音を表し、「虎嘯」は大地より涌出る朗々たる響きを表す、すなわち禅の悟りの境涯を表しています。
- ※『碧巌録』(へきがんろく)
- 中国、宋(そう)代の仏教書で、優れた祖師の言葉や行動から、求道者が悟りを目指すための手だてとする課題(公案)を集めたもの。禅の教科書とされ、その思想は現在に伝わり、日本の禅に計り知れない影響を与えたとされるものです。
- 960〜1127年における中国の王朝だった北宋(ほくそう)初期の禅僧で雲門宗4世の雪竇重顕(せっちょうじゅうけん)が、過去の禅僧が残した数多くの言行(問答)の中から選んだ百個の言行(問答)について自ら韻文のコメントを加えた頌(じゅ。詩句。)から成る『雪竇頌古』(『雪竇百則頌古』(せっちょうひゃくそくじゅこ)とも。)に、北宋晩期の臨済宗11世の圜悟克勤(えんごこくごん)が前文と批評を加えたものから成っています。
雪竇重顕が選んだ百個の言行(問答)は、『碧巌録』では「本則」として記載されています。『碧巌録』第九十九則の冒頭には、雪竇重顕の提示した本則と頌の内容をふまえながら、圜悟克勤があらかじめ彼一流の問題提起を試みた「垂示」(すいじ)が付されており、これに続いて「本則」が記されています。先の「龍吟雲起、虎嘯風生」はその「垂示」に記載されています。
とあります。「虎嘯の庭」とは禅の悟りの境涯(悟りの域に達した心の状態)を表した庭、ということなのですね。記事冒頭の「虎嘯の庭」の写真に関するコメントの中で、白砂で表現された大海に浮かぶ島を目指して荒波の中を乗り越えて辿り着いた舟のことを述べましたが、目指した島に辿り着いたことが悟りの境地に達したことを表現している、ということのように思えます。
ところで、「龍吟雲起、虎嘯風生」という語句の解釈にはいくつかあるようです。
先ず「虎嘯」の「嘯」則ち「嘯(うそぶ)く」と言えば「とぼけて知らないふりをする、豪語する」などといった意味がありますが、ここでは「 猛獣などが吼える」といった意味として解釈されます。
そして「吟」と「嘯」の語意は「うめく、うなる(獣が低く吼える)、吼える、(鳥獣などが)なく、うそぶく」という風にほぼ同じようなものです。
そこで「龍吟雲起、虎嘯風生」には次のような解釈もあります。
龍は水中とか地中に棲むとされることが多い想像上の動物ですが、龍が吟じる、則ち龍のうなりによって雷雲や嵐が呼び起こされ、竜巻となって天空に昇り自在に飛翔すると言われるように、龍と雲はつきものとされます。
一方虎は、ひとたび吼えればまるで風を吹き起こすようなその凄まじさに小獣はおののき一瞬にして逃げ出してしまう迫力をもっています。
つまり「龍吟雲起、虎嘯風生」は、龍がうなることで雲が湧き立ち、虎が吼えることで風が吹き起こるような「凄まじさの情景」を表す言葉としての解釈です。
このことから、禅門では、互角にして卓越した力量をもった禅者同士による禅問答で、一方を龍にたとえ、もう一方を虎にたとえて、勢いや迫力のある龍虎対決という表現に用いられ、緊迫したぶつかり合いの世界、そこに漂う「凄まじさの情景」を表現したもの、とする解釈です。
このようにみてみると、「虎嘯の庭」を、龍虎と呼ばれる禅者同士が凄まじいまでのぶつかり合いの果に感得した禅の悟りの境涯を表した庭、と解釈することもできそうです・・・。
さて、虎嘯の庭に面する本堂の柱を見ると「長州藩兵の刀傷」と案内される文字が目に入ってきます。幕末、長州藩兵と幕府との京都御所付近における戦闘として知られる禁門の変(蛤御門(はまぐりごもん)の変)に際し、長州藩の軍勢が陣を構えた一つが天龍寺でした。長州藩兵は天龍寺の塔頭などに分かれて駐屯することになるのですが、その塔頭の一つである弘源寺に見られる「長州藩兵の刀傷」は、血気に逸る長州藩兵が試し切りなどをしたことによるものといいます。禁門の変では京都市中は大火災に見舞われましたが、長州藩兵が陣を構えたことで天龍寺とその塔頭等も甚大な損害を被ることになりました。
幕末、長州藩が禁門の変へと向かった顛末と長州藩兵が陣を構えたことで天龍寺にふりかかった厄難を追ってみました。
幕末における長州藩の動向
江戸時代も終わりに近づいていた嘉永(かえい)6年(1853)、日本開国の使命を与えられて軍艦4隻を率いて来航したアメリカ東インド艦隊総司令長官ペリーの来航を機に日本は開国か鎖国かで揺れる中、孝明(こうめい)天皇のいる京都では長州藩が中心となって唱えていた尊王攘夷に賛同する志士や公卿が暗躍して朝廷を支配、孝明天皇は軟禁状態とされる一方で、京都市中では「天誅」(てんちゅう)と呼ばれる血なまぐさい事件が頻発し、治安は乱れていました。
孝明天皇は元々外国人に対して強い嫌悪感を持つほどの極度の攘夷主義者であったものの、長州藩が推し進めようとする急激かつ過激な方策は孝明天皇の忌避するところとなり、文久(ぶんきゅう)3年(1863)8月18日、会津藩・薩摩藩を中心とする公武合体(※17)派による政変(八月十八日の政変)で、急進的な尊皇攘夷論を掲げて京都政局を主導していた長州藩、および長州藩と動きを共にしていた過激派公卿らは京都から追放され、長州藩主親子は国許へ謹慎を命じられることになりました。
- ※17.公武合体(こうぶがったい)
- 「公」は公家すなわち京都の朝廷を、「武」は武家である江戸の幕府を指し、朝廷(公)と幕府(武)が協力して外敵の難を処理し、同時に幕府の体制の立て直しを図ろうとした構想。
京を追われて以降不満が渦巻いていた長州藩で注目を集めたものがあります。
「進発論」(しんぱつろん)です。
これは、長州藩が兵を率いて上洛し、八月十八日の政変後、入京を禁じられた長州藩主親子の赦免を朝廷に訴え失地回復を図る、というものです。しかし長州藩内では、その方策はあまりに無謀で、兵を率いて上洛するとなれば朝廷の敵、則ち「朝敵」になりかねないとして当時藩政を主導していた桂小五郎(かつらこごろう。木戸孝允(きどたかよし)。)や久坂玄瑞(くさかげんずい)らが進発論に反対し、長州藩内の不満分子を抑えていました。
そのような中、元治(げんじ)元年(1864)6月5日、京に潜伏していた長州藩をはじめとする尊王攘夷派志士たちが新撰組によって襲撃されます。池田屋事件と呼ばれるものです。その一報が4日後の6月9日、長州藩に届きます。これは長州藩にとっては衝撃的なことで、これを機に長州藩士の怒りが爆発し、長州藩内の状況が急変します。長州藩の大勢は進発論一色となり、悪しくもこの時進発論を抑え込んでいた桂小五郎らは不在だったことから、6月15日、ついに、京への進軍が始まったのでした。この時、桂小五郎らと進発論を抑え込んでいた久坂玄瑞も進軍に加わりましたが、その目的は朝廷と冷静に交渉することにあったといいます。
一方、長州軍が京に向かって進軍を始めたという情報は幕府の耳にも届き、京の警護が固められることになります。
京へ向かった長州軍は3か所に布陣し、この3方向から京の御所をうかがう体制をとります。
伏見の長州藩邸、京の入り口にあたる山崎の宝積寺(ほうしゃくじ)、そして天龍寺の3か所です。
長州藩兵、天龍寺を占拠
天龍寺から御所へは、丸太町通(まるたまちどおり)に出て東に向かって行けばほぼ一直線の9キロメートルほどの距離。『淀藩家士在京日記』の元治元年(1864)6月27日の項に
-
一、右長藩鳥羽道より四塚より嵯峨天龍寺へ七つ半時ニ参り候由ニ而、先静ニ相成申し候
一、右天龍寺は是迄長藩旅館ニ借受候事、・・・
との記述があります。
鳥羽街道から四塚を経て6月27日七つ半(午前5時頃)、天龍寺に、密かに長州藩兵がやってきたのでした。その数400名ほどだったといいます。そして、これまで長州藩の者が京都にやってきたときには天龍寺を旅館(宿泊所)として借受けていたことがわかります。実は、長州藩は朝廷の警護のためとして3年前の文久元年(1861)に天龍寺を宿舎としていたのです。
さらに翌6月28日には、夜が明けるよりも早く、長州藩兵およそ1,000人あまりが突如として押しかけるように天龍寺に来て、大方丈(おおほうじょう)を本陣とし、藩兵は塔頭などに分けて駐屯させ、天龍寺の周囲には幕を巡らして、陣取ってしまったのでした。
寺の外側には竹棚を巡らせ、三門前には大砲2門を、山内から外に向けては大砲8門を据え、夜ともなれば赤々と篝火が焚かれて警備は厳重を極め、数日にして戦(いくさ)の準備を整えたのでした。日が経つと長州藩兵の数も更に増えて、天龍寺に止まらず、北は清凉寺界隈から、南は渡月橋を渡って法輪寺、松尾神社(現松尾大社)辺りまでの約3キロメートルを越えて長州藩兵が見られたといいます。
『淀藩家士在京日記』7月4日の項に次の記述があり、長州藩兵らの活動状況の一端を垣間見ることができます。
一、天龍寺後山虚空蔵山えハ奥殿程之もの取建候由、右は雨露凌と相見へ申候、四五十人も交代致し詰候由、尤小具足着用候由、同所山より遠眼鏡を以京地之動静を伺居候よし、材木等買込候由
「天龍寺後山虚空蔵山」は天龍寺から南へ向かい渡月橋を渡った先の高地にある「嵯峨の虚空蔵(こくうぞう)さん」と呼ばれる法輪寺(ほうりんじ。京都市西京区嵐山虚空蔵山町。)を指すと見られますが、ここに雨露凌ぎのための仮兵舎とみられるものが建てられて小具足を身につけた40〜50人の長州藩士が詰め、遠眼鏡を使って御所方面の動静を伺っていたことが分かります。
今日でも、法輪寺にある見晴らし台に立てば、眼下の渡月橋はもちろん、遠く北東方面に位置する比叡山まで望むことができ、その比叡山までの中間点ほどのところには御所があります。
やがて起こった禁門の変により法輪寺はお堂の大半が焼失したといいます。
さて、次第に天龍寺山内の僧侶は若干名を除いて三門の外へ追い出され、山内の出入りさえできなくなっていったのでした。
こうして天龍寺の閑寂な禅刹の姿は消えてしまったのです。
今日、弘源寺本堂の柱に見ることができる刀傷はこのような状況の中で、血気盛んな長州藩兵によって試し切りをされたものとして残っているものなのです。
余談ながら、長州藩は嵯峨の地では天龍寺の他に清凉寺、それに天龍寺から東へ3キロメートルほど離れた太秦(うずまさ)にある広隆寺(こうりゅうじ)等も借受けていました。広隆寺は、御所から天龍寺までの距離に比べて3分の2程のところにあって、その分御所の近くに位置しています。
御所を目指して進軍
長州藩兵が天龍寺から御所を目指して進軍を開始したのは7月19日午前2〜3時頃とみられています。伏見長州藩邸の兵、山崎の長州藩兵も進軍しています。
そして天龍寺では、長州藩兵が出ていくと、長州藩兵の残した痕跡はすべて取り払って境内を掃き清め、速やかに寺院としての本来の姿に戻したといいます。
さて、3方からの長州藩兵が御所に向かって進軍を開始し、戦端は伏見方面において切られましたが、この時点でも、長州勢を迎え撃つ勅命が朝廷から幕府に対して下されていないどころか、7月18日の午後10時頃から、昨年の八月十八日の政変によって失墜した長州藩に寛大な取り計らいを求めるための入京と長州藩が京都守護職・松平容保(まつだいらかたもり)の京都からの追放を求めていることに対する辛辣な議論が朝議において親長州藩側と反長州藩側との間でなされているという状態で、日が変わった7月19日午前2時頃に一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ。徳川慶喜。)がその紛糾している朝議に呼び出されます。既に慶喜の耳には伏見方面で戦端が開かれた旨の報告が届いており、至急、長州藩追討の勅許が下されることを求めて、慶喜は形相を変えて(※18)朝廷に迫ったのでした。武事をもって孝明天皇に仕える家臣たる慶喜が朝議を取り仕切った格好となり、ここに至って朝廷は長州攻撃の勅命を発します。「禁門の変(蛤御門の変)」の始まりとなります。
- ※18.慶喜は形相を変えて
- 『鹿児島県史料 忠義公史料(ただよしこうしりょう) 第3巻』に、その時の慶喜の様子が次のように記されています。
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此時若シ一橋カ押切リタル言ナキ時ハ、暴論ノ堂上中尚ホ勢ヲ得テ天窓ニ上リ、種々ノ奸論ニモワタルヘカリシヲ、一橋カ其時ハ眼差モ平日トカワリ奮発ノ様子言外ニ顕ハレタリト、
- この時(紛糾している朝議の最中に)もし一橋慶喜が親長州藩側の主張を押し切る発言がなかったならば、親長州藩側の公家衆からはますます勢いに乗って正当な道理から外れる様々な暴論とも言える発言まで飛び出したであろうが、その時一橋慶喜の眼差しは明らかにいつもと違って気力を振り絞り形相を変えて親長州藩側の公家衆を説き伏せようとする様子が言外に顕れていた。
蛤御門や堺町(さかいまち)御門など御所九門は長州藩の数倍もの幕府側の兵力で固められていましたが、決死の覚悟で攻め込む長州勢の勢いは凄まじく、中でも蛤御門を守っていた松平容保率いる会津勢との攻防は大砲の撃ち合いなどで熾烈を極めたといいます。勢いのある長州勢に加勢が加わったことでさすがの会津勢も浮足立とうとしていた時、乾(いぬい)御門を守っていた薩摩勢が駆けつけて会津勢に加勢します。これを機に、長州勢の指揮官の一人が討たれたこともあり、優勢を保っていた長州勢の旗色が一気に悪化するや総崩れとなり、「朝敵」の烙印を押された長州勢はちりぢりに敗走を始めたのでした。
禁門の変では御所がある京都の中心部が激戦地となり、丸太町通沿いの堺町御門から入ったところにある前関白・鷹司輔煕(たかつかさすけひろ)の邸に長州藩の久坂玄瑞らが逃げ込んで立てこもったことから幕府軍が火を放ちます。これにより御所周辺は炎に包まれていきます。鷹司輔煕は、文久3年(1863)1月に関白を辞した近衛忠煕(このえただひろ)の後を受けて関白となりますが、長州藩を主体とする尊攘派に利用されることが多く、同年に八月十八日の政変が起こると、この年の12月関白を免ぜられており、その翌年(1864)7月の禁門の変では長州藩と気脈を通じているとの嫌疑をかけられて参朝を停止され謹慎処分となっています。
一方、南北に走る河原町通(かわらまちどおり)を挟んで現在の京都市役所の東隣にある地(現京都ホテルオークラのある界隈)には、江戸時代初期に長州藩の藩邸が置かれ、幕末維新期には重要な政治的拠点となった長州藩邸がありましたが、禁門の変で会津、薩摩を中心とする朝廷、幕府側に敗れた長州藩は、自らこの邸内に火を放ち、京都を逃れたといいます。
このように鷹司邸や長州藩邸などから出た火に加えて、敗走する長州勢への追討・炙り出しのための度重なる砲撃、放火も行われ、折からの風にも煽られて、結果、猛炎となって現在の中京区(なかぎょうく)・下京区(しもぎょうく)のほとんどの地域に広がり、2日間にわたって燃え続けるという京都大火につながりました。7月21日には鎮火したといいますが、この大火により、2万8000戸の家屋は言うに及ばず東本願寺・本能寺・六角堂といった寺社なども焼失し、周辺の街道には避難民があふれたといいます。御所そのものは火がすぐ近くまで迫ったようですが焼失は免れました。二条城や西本願寺も間一髪というところで焼失は免れたといいます。
この手のほどこしようもなく燃え広がる有様を京都の人たちは「どんどん焼け」「鉄砲焼け」などと呼びました。
7月19日早朝より始まった禁門の変の戦闘は午前10時頃には大勢が決します。
長州の敗残兵の中には、この日7月19日の午前8時を過ぎた頃には天龍寺に逃げ延びようとした兵もいたようですが、天龍寺は境内へ入ろうとする長州藩兵を拒んだため、敗残兵は渡月橋を渡って、南の方角にあたる山崎方面に去っていったといいます。
薩摩藩による残党狩り
翌7月20日になると更なる災難が天龍寺に降りかかることになります。
『鹿児島県史料 忠義公史料 第3巻』の『薩藩天龍寺討伐ノ概況』の項に次の記述があります。
七月廿日、我カ藩兵ハ天龍寺屯在ノ賊ヲ討ント、昧爽二本松邸ヲ進発ス、案内者ニハ今熊野ノ伴左衛門ト云ヘル者ニシ此者常ニ藩邸出入ノモノナリ、此日ニ公子先鋒タラント争ハル、国老小松帯刀中裁シテ自ラ先鋒ニ進ム、而シテ、双ヒカ岡ヲ越シ、廣澤ノ池辺ニ沿フテ嵯峨ニ出、天龍寺ニ押寄セタリ、
7月20日、我が薩摩藩兵は天龍寺に多数集まっている賊(長州藩兵)を討とうと、夜が明けかかっているほの暗い時に、薩摩藩が京屋敷の一つとして構えていた二本松邸(※19)を出発した。道案内には今熊野(※20)の伴左衛門という、薩摩藩邸に常に出入りしている信頼のおける者に依頼した。この日には貴族の子弟らが部隊の先頭に立ち我進もうとしてもめたが、薩摩藩家老の小松帯刀(※21)がその間にはいってとりなして、自らが部隊の先頭に立って進んだ。そうして部隊は双ヶ丘(ならびがおか)を過ぎて、広沢の池辺りに沿って嵯峨に出、天龍寺に迫った。
- ※19.二本松邸(にほんまつてい)
- 今出川通(いまでがわどおり)を挟んで御所の北に位置する相国寺の南にあった、京都における薩摩藩邸の一つ。現在は同志社大学のキャンパス。
- ※20.今熊野(いまくまの)
- 京都市東山区の地名。「いまぐまの」とも。
- ※21.小松帯刀(こまつたてわき)
- 文久2年(1862)3月、薩摩藩主の父である島津久光(しまづひさみつ)が藩兵を率いて上洛のとき、家臣の筆頭として供をし、久光を助けて、寺田屋事件、幕府政治の改革、生麦事件などの難局を乗り切って、同年12月家老に進み、京都の藩邸に多くとどまって薩摩藩を代表して諸事にあたっています。
こうして長州藩兵の残党狩りを始めた薩摩藩兵が天龍寺に押し掛けると、既に天龍寺が長州藩兵の入寺を拒否していたこともあり、長州藩兵はすでに天龍寺を後にしていて特段の戦闘もなかったようです。ところが薩摩藩兵は、長州藩兵が天龍寺に残した武器類や米300石などに加えて天龍寺の寺宝の類まで持ち出してしまったといいます。そして最後の分捕り品を積んだ荷車が天龍寺の門を出てしまった午前11時ごろ、今度は薩摩藩の大砲が渡月橋方面からとみられますが、天龍寺へ向けて砲撃を始めたのです。法堂(はっとう)、大方丈、庫裏(くり)、多宝殿(たほうでん)、塔頭5か寺など、主要伽藍はことごとく焼失し、火は28日まで燃えつづけたといいます。
そもそも薩摩藩が何故長州藩兵がいなくなった天龍寺に砲撃を加えるようなことをしたのか気になるところですが、『西郷隆盛全集第一巻』に、当時京都にいた西郷が鹿児島にいる大久保一蔵(いちぞう)(利通(としみち))に宛てて禁門の変の状況を記した7月20日(禁門の変の翌日)付の手紙に次の記述があります。
今日は又々天龍山へ攻め懸け・・・巣穴を破り置く賦にて火を懸け焼き崩し申し候。
- ※巣穴(そうけつ)
- 敵対する者や盗賊などの隠れ家。
- ※賦(つもり)
- 事前の考え。
長州藩兵の残党狩りのために天龍寺へ向かい、・・・敵対する長州藩兵が陣を構えていた天龍寺を原形をとどめぬほどにするために火をつけた(※22)、というのですが、天龍寺にとってはまったくもって迷惑千万な話です。
- ※22.火をつけた
- 天龍寺に残る『天龍寺の歴史』という史料(寿寧院の住職が残した日記)には次のような内容が記されているといいます(『長州と京都〜幕末維新の歴史巡り〜』より)。ここには薩摩藩兵が天龍寺を砲撃したことが記されています。
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二十日の午前八時頃、薩摩軍数百名が長州軍を討つためといって山内を調べたが、長州軍は勿論(もちろん)のこと僧もおらず、無人の有り様であった。
このとき、薩摩軍は数台の荷車をかき集め、長州軍が残した兵器や米およそ三百石(こく)(約九千三百キログラム)と、寺が日常に使う道具など山ほど集めて薩摩藩邸へ持ち去った。そして寺の土蔵(どぞう)を打ち破り、日用品まで持ち去るのを見て年長の執事が止めようとするが、薩摩軍はこれを無視して持ち去ること、実に白昼(はくちゅう)の強盗(ごうとう)というべき有り様であった。
こうして奪い取った物を持ち去ると、およそ午前十一時頃、薩摩軍は天龍寺に向けて大砲数門(すうもん)を発砲し、法堂・客殿(きゃくでん)・大小の庫裡・書院・開山堂・侍真寮(じしんりょう)・土蔵四ヵ所・僧堂(そうどう)(雲居庵(うんきょあん(正しくは「うんごあん」)))・多宝院(たほういん)、塔頭では松岩寺(しょうがんじ)・妙智院(みょうちいん)・真乗院・永明院(えいめいいん)・三秀院(さんしゅういん)から火災が起こり、洗心亭(せんしんてい)や三軒屋(さんげんや)にも延焼(えんしょう)して大半の建物が焼失し、この火災は二十七日(正しくは二十日)から二十八日まで燃え続けたという。
そのため火災から免(まぬが)れた禅堂(ぜんどう)を仮の本堂とし、臨川寺(りんせんじ)を仮の方丈として仏事(ぶつじ)を行っていた天龍寺にとって、明治新政府の廃仏(はいぶつ)政策はさらに大きな痛手となった。
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天龍寺は創建以来、大きなものだけで8回の火災・兵火に見舞われており、その8回目が禁門の変に端を発した兵火に見舞われたのです。
この時天龍寺は、文化(ぶんか)12年(1815)に被災し、その再建途中での重なる伽藍焼失に遭った、ということになります。
ただ、弘源寺を含む3か寺は兵火を逃れたといい、室町様式あるいは徳川期のものが残っているものです。
禁門の変の余波で天龍寺の被った痛手はあまりにも大きく、伽藍の再建は、明治の半ば以降までかかることになります。
ところで、薩摩藩が天龍寺から持ち出した米(長州藩兵の兵糧米)は、京都市中の大火によって罹災した難民救済に当てられ、市民から大歓迎を受けたことが『鹿児島県史料 忠義公史料 第3巻』の『舊邦秘録』(きゅうほうひろく。「舊邦(旧邦)は「古くからある国」の意。」)の項に次のように記述されています。
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七月廿二日
天龍寺長賊陣営ニ於テ分捕米施与ノ掲示
- 真米五百俵
- 右長賊天龍寺江貯置候処、致分捕候ニ付、此節兵火
ニテ致類焼候洛中難渋之者共江乍聊遣候間、明早朝
錦屋敷我藩邸 江罷越、掛役々江引合可請取者也、 - 七月廿二日薩州
右板札ニ記シ、三條・四條・五條等ノ橋詰其他数ケ所ニ掲示シタリ、依テ洛中・洛外ノ男女老若当日朝ヨリ錦街藩邸ニ来集シ、各拝戴セリ、其形況実ニ盛ニシテ、各雀躍恩旨ヲ謝シタリ、
- ※聊(いささ)か
- すこしばかり。わずか。
- ※遣(や)る
- 与える。
- ※候間(そうろうあいだ)
- 〜でありますので(理由)。
- ※錦屋敷
- 錦小路通東洞院東入にあった薩摩藩京屋敷の一つ。
- ※罷越(まかりこす)
- まいる。参上する。
- ※掛(かけ)
- 「やく【役】 に 掛(か)かる」で「役目、任務などを受け持つ。」
- ※役々(やくやく)
- それぞれの役目。めいめいの分担の役。
- ※引合(ひきあい)
- 取引の前に条件などを問い合わせること。
- ※雀躍(じゃくやく)
- こおどりして喜ぶ。
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七月二十二日
長州藩が陣を構えていた天龍寺における没収米を施与する旨の掲示
- 真米(白米)五百俵
- この米は長州藩兵が兵糧米として天龍寺に保管していたものを没収したものであるが、この米を、この度の戦(禁門の変)の火事で焼け出されて困り果てている洛中の人々に、わずかではあるが配給するので、明日の早朝、薩摩藩の錦屋敷まで罷り越し、係の者へ申し出の上受け取ること。
- 七月二十二日薩州
この御触れ(案内)を板札に記して、三条、四条、五条等の橋詰やそのほか数か所に掲示した。これを見て洛中・洛外の老若男女が当日の朝から薩摩藩の錦屋敷にやって来ては謹んで受け取っていった。その様は実に活況を呈し、受け取った者はこおどりして喜び、薩摩藩のこの度の厚意に感謝した。
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渡月橋北詰から200メートル余り北へ行ったところにある天龍寺前へとやって来ました。
さらに北へ50メートル足らずのところにある天龍寺総門から入って行くと・・・
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 所在地 | 京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町(すすきのばばちょう)65 |
| 山号 | 西山 |
| 宗旨 | 臨済宗天龍寺派 |
| 寺格 | 塔頭 |
| 本尊 | 観世音菩薩 |
| 創建年 | 永享元年(1429) |
| 開基 | 細川持之 |
| 開山 | 玉岫英種 |
| 文化財 |
|
【境内概観図】
【図中番号の説明】
- 天龍寺総門
- 天龍寺中門
- 天龍寺勅使門
- 天龍寺放生池
- 山門
- 毘沙門堂
- 本堂
- 虎嘯の庭
- 天龍寺法堂(選佛場)
- 天龍寺大方丈
- 天龍寺曹源池庭園(※1)
- 嵐山公園亀山地区(※1)
- 臨川寺(※1)
- 渡月橋(※1)
- 法輪寺(※2)
- 松尾大社(※4)
- 落柿舎(※2)
- 弘源寺墓地(去来の墓あり)(※2)
- 二尊院(※2)
- 清涼寺(※2)
- 広隆寺(※4)
- 丸太町通(※2)
- 京都御所(※6)
近隣の観光スポット情報
上記の【境内概観図】をご参照ください。


