
流れ橋(上津屋橋)
写真手前に見られるのは茶園です。
八幡市上津屋宮前川端より。
流れ橋の起源は、川幅の狭いところを渡るために板を渡し、川の水かさが増えた時にはその板が流されてしまわないように紐などで結んでおいたところにある、と考えられています。
その後様々な工夫が重ねられていくわけですが、流れ橋の基本は、最初から流されることを想定して造られているところにあります。流れてもかまわない構造にしておいて、流れたらその流れたものを元に戻す、という発想です。こうすることにより、初めから頑丈に造ると多額の経済的負担や多くの資材が必要となることを避けることができることにもなります。
さて、日本に100基以上あるといわれる流れ橋の中でも、京都府の木津川(きづがわ)に架かって左岸側の八幡市(やわたし)と右岸側の久御山町(くみやまちょう)を結ぶ流れ橋の全長は356.5mと最長を誇り、流れ橋の代表格として知られています。本来の橋の名称は「上津屋橋」(こうづやばし)です。
この上津屋橋は、増水時や洪水時には川の流れの抵抗を受けやすい橋の上部構造である橋桁・橋板は、隣り合う橋脚の間に渡されて、橋脚に固定されずに乗せられているだけの(あるいは、橋脚から容易に離脱する程度の強度で固定されるにとどまる)橋桁・橋板を1ユニットとした3ユニットを1組としてワイヤーロープで橋脚に連結(写真集の写真10参照)されています。そして、川の水に押し流されて橋脚から外れても、浮力と安定性を保たれた筏のように川面に浮かぶようにしておきながら、橋脚は流されずに残る、という構造に設計されています。その後、川の水が引いたタイミングを見計らって、橋脚から外れた橋桁・橋板は再び回収されて橋脚の上に戻され、橋自体は継続して再利用されるということになります。流された橋桁・橋板は、ワイヤーロープで橋脚に括りつけられているため、どこに流されたのかと捜索する必要もありません。
- 【参考】
- 川底から垂直方向に柱のように建てられた橋の下部構造である橋脚と橋脚の間に渡されるのが橋桁(はしげた)で、その橋桁の上を通行できるように敷き並べられた板が橋板(はしいた)です。
- 上津屋橋の1枚の橋板は、床木(ゆかぎ)と称される奥行3.30m×高さ0.075m×幅0.2mの板を敷き並べて構成され、幅約9mとなっていて、橋桁と一体化されているとみられます。この幅約9m、奥行(幅員)3.30mの橋桁と橋板が一体化したものが上述の「1ユニット」となっています。
流れ橋として上津屋橋が架設されたのは昭和28年(1953)3月で、京都府の職員だった技術者の設計になるものといいます。比較的近くには石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)もあってか、当時は往来が頻繁で渡し船を利用して木津川を渡っていたため、橋梁設置の強い要望があったことから橋が建造されることになったといいます。ただ竣工から5カ月が経った同年8月の豪雨で橋桁・橋板が流出し、早速1回目の復旧工事が行われています。
蛇足ながら、上津屋橋のある地区は、江戸時代から明治の中頃まで木津川をはさんで両岸が上津屋村と呼ばれていたといい、現在でも木津川左岸に位置する八幡市のこの辺りの地名には「上津屋」が冠された地名等が見られます。
そしてこの上津屋橋に大きな転換点が訪れます。
欄干もなければ橋上灯もなく、丸太で組んだ橋脚の上に木製の橋桁・橋板を渡しただけの素朴な姿の木造橋である上津屋橋は、何百年も前に架けられた古き時代の、郷愁感のある橋のような面影があることから、『水戸黄門』、『暴れん坊将軍』、『桃太郎侍』、『必殺仕事人』、『座頭市』、『銭形平次』等々、多くの時代劇の恰好のロケ地として、絶大な人気を集めるようになったのでした。
その結果、上津屋橋の醸し出すその景観は全国に知れ渡るようになり、「上津屋橋」はいつしか、「流れ橋」とだけ呼ばれるようになったといいます。
上津屋橋は建造以来、20回以上に及ぶ流出を繰り返してきたといいます。特に平成26年(2014)8月の台風で壊滅的ダメージを受けた流れ橋は、安全性や経済性の面から存廃議論の対象ともなったといいます。しかし、それを知った幅広い層から、存続要望の声が寄せられたことから、「流れにくく強化しての存続」が決定し、今日まで受け継がれてきています。
写真集(20枚の写真が表示されます。)
案内が目に入ってきました。せっかくなので見てみることに。
【界隈概観図】
【図中番号の説明】
- 上津屋橋(流れ橋)
- 木津川
- 旧上津屋橋休憩所
- 京奈和自転車道
- 茶園
- 八幡市上津屋宮前川端
- 石清水八幡宮
- 宇治川(淀川)
- 桂川
- 淀川(※1)
- 嵐山(※2)
- 和歌山港(※3)
近隣の観光スポット情報
上記の【界隈概観図】をご参照ください。


