龍吟庵

西庭(龍の庭)
西庭(龍の庭)
龍吟庵庭園は、本庭である方丈西庭、方丈正面にある方丈南庭そして方丈の東に位置する庫裡との間にある中庭の3庭からなっています。
西庭と南庭は、「龍吟の寺号をテーマ」として作庭されたものとなっており、西庭に見るこの写真は、黒砂から突き出た2つの尖った石で龍の角が、そしてその間から突き出た横たわる長石で龍の顔が表現されています。龍の頭の周りの黒砂は黒雲を表し、黒砂の周りの白砂は海波を表していて、龍が海中から、黒雲を呼び起こして天に昇ろうとする様が描かれたものとなっています。
方丈より。

鎌倉時代中期の東福寺(とうふくじ)第3世住持にして南禅寺(なんぜんじ)開山の無関普門(むかんふもん。以下「無関」。)の住居跡とされ、無関示寂後はその墓所(塔所(たっしょ))が営まれていた龍吟庵(りょうぎんあん)。

その方丈は、近世の標準的な方丈形式に達する前の古式を伝える現存最古の方丈建築とされ、国宝に指定されています。

ただ、今日目にする方丈は、無関が東福寺在住時の建物に復元されたものではなく、無関没後100年頃の室町時代前期の嘉慶(かけい)元年(1387)の状態に復元されたものとなっています。復元に際しての調査において、建物の平面構成には禅宗的な要素はあるものの、様式上からは当時の宮廷風、いわゆる寝殿造風なところがあったといいます。

また嘉慶年間といえば、時の将軍は室町幕府第3代将軍足利義満(あしかがよしみつ)。その足利義満から直筆の「龍吟庵」、「靈光」、「勅諡大明国師」(ちょくしだいみんこくし)の3額が龍吟庵へ寄進され、嘉慶元年12月9日、この3額が同時に掲げられたといいます。寺運も隆盛であったことがうかがえます。

扁額「龍吟庵」は今日でも方丈正面に掲げられ、扁額「靈光」は方丈の背後にある開山堂(かいさんどう)正面に掲げられ、扁額「勅諡大明国師」はその堂内に掲げられているといいます。また、開山堂内には木造大明国師坐像(重要文化財)が安置され、像下には無関の墓標である石造卵塔が安置されているといいます。

一方、庭園は昭和期の日本の作庭家として知られる重森三玲(しげもりみれい)が作庭したもので、東福寺本山庭園(方丈)の「八相の庭」を作庭してから25年後に作られています。

なお、龍吟庵で写真撮影できるのは庭園のみとなっていました。

東福寺第3世住持就任

信州(現長野県)出身の無関は13歳のとき出家して剃髪し、19歳のときに初めて禅を学び、その後、関東や北越の講席(書物の講釈や説教などの行なわれる集会所)を遊歴していた中で、臨済宗の禅宗寺院である東福寺の開祖・円爾(えんに)の名声を聞きこれに参じました。5年随侍した後円爾の下を離れ、建長(けんちょう)3年(1251)40歳にして海を渡って宋に入ると禅宗寺院を巡歴して参禅。弘長(こうちょう)元年(1261)に薩摩(現鹿児島県)に帰着。留まること2年ののち京に上り、東福寺を訪れて円爾に相見します。この時、円爾は無関に何を見たのでしょうか、円爾は自分のあとを嗣いで東福寺2世に就いてくれるよう無関に懇請しますが、無関は辞してまたも円爾の下を離れます。

弘安(こうあん)3年(1280)秋、円爾の病の重いことを聞いて東福寺を訪れていた無関は、円爾が遷化するとその嗣席として推挙されましたが、辞して、先輩の東山湛照(とうざんたんしょう)に第二世の地位を譲ると、摂津国(せっつのくに)四天王寺(在現大阪市)付近に赴いて光雲寺(こううんじ。現在は京都市にあり南禅寺(なんぜんじ)の境外塔頭(けいがいたっちゅう)。)を開創し、住しました。

翌弘安4年5月、東山湛照が第二世を辞したことから、光雲寺に住していた70歳の無関は、同年秋、一條実経(いちじょうさねつね)の招きに応じて東福寺に入り、以来足かけ12年を東福寺第3世住持として過ごすことになったのでした。

一條実経は、東福寺の開基にしてその大檀越でもある九条道家(くじょうみちいえ)の四男で、摂政・関白・左大臣などを歴任した五摂家の一つ一條家の祖です。

東福寺の創建工事が完了したことを祝って行なう落慶供養会は、開基の九条道家が没して3年後の建長(けんちょう)7年(1255)となったため、一條実経が挙行し、円爾が開堂しています。円爾の懇請を二度も固辞した無関でしたが、東福寺の将来を慮ると、開基・九条道家の血筋で大檀越の一條実経が東福寺第3世住持への招きをしてきたことには無関もさすがに固辞するわけにもいかなかったのかもしれません。

物の怪騒動が生んだ縁

さて、無関が東福寺第3世住持として10年余りが過ぎ去ろうとしている時に話を移します。

現在の南禅寺のある地に亀山天皇(1249生〜1305没)が、文永(ぶんえい)元年(1264)に離宮・禅林寺殿(ぜんりんじどの)を建て、文永11年(1274)譲位して上皇となった後に正応2年(1289)9月に禅林寺殿で出家して法皇となり政界から身を引きます。すると、その翌正応3年から正応4年の間に禅林寺殿で、なんとも奇怪で異常な事件がしばしば発生します。勝手に戸障子が開くかと思えば、得体の知れない何かの気配が感じられたりするので、物の怪(もののけ)が現れたのではないかと、禅林寺殿で働いていた人たちがそれに悩まされるという日々が続いていたのでした。

陰陽師(おんみょうじ)に占わせたところ、この地にかつて住んでいた僧の霊が残り、それが災いしていると言われます。実は、亀山天皇が離宮・禅林寺殿を建てる前にはこの地に、三井寺(みいでら)(天台寺門宗)の道智(どうち)という僧がこの地を愛して別院として建てた最勝院(さいしょういん)(最勝光院)があったといいます。道智は、東福寺の創建に際して開基として財政的支援を行った九条道家の子で、無関を東福寺に招じた一條実経の兄であり、禅林寺(永観堂)の住持もつとめ、また亀山天皇の父である後嵯峨天皇の護持僧も務めたことのある人です。その後最勝院は荒廃しますが、亀山天皇の離宮・禅林寺殿はその荒廃の跡地に建てられたものでした。

陰陽師のいう僧の霊とは道智の霊だったのです。その道智の霊が昼夜を問わず現れ、禅林寺殿にいる人々を悩ませているとみられたのでした。

亀山法皇は怪異を退治する法力(ほうりき)のあることで知られている奈良・西大寺(さいだいじ)(真言律宗)の叡尊(えいそん)を招いて祈祷(きとう)させます。しかし、効き目はありませんでした。

そこで亀山法皇は、宋より帰朝して名声の高かった無関を招いて、物の怪を退散させるように依頼します。

この時、無関は80歳と高齢ながらも、直ちに東福寺より弟子20名を率いて禅林寺殿に参じます。この20名の弟子の首座(しゅそ。住持の次席で、修行僧の中で第一の位の者。)を務めたのが、後に南禅寺第二世となる31歳の規菴祖圓(きあんそえん)でした。因みに東福寺は禅林寺殿から直線距離で南へ6キロメートル足らずの所にあります。

無関らは清規に則り、ただ二時(にいじ)の食事(じきじ)(粥・飯)と午後8時・午前2時・午前10時・午後4時に行う四時(しいじ)の坐禅をして静粛に行事するだけでしたが、物の怪の気配は全く消え去ったのでした。

江戸時代後期の寛政(かんせい)11年(1799)に刊行された通俗地誌『都林泉名勝図会』(みやこりんせんめいしょうずえ)にある南禅寺烏枢沙摩(うすさま。不浄を清める、の意。)には、坐禅中の無関と現れた物の怪の様子が描かれています。

物の怪を退散させることができたことを喜んだ亀山法皇は、以後無関に深く帰依して師事することを決意します。そして無関を開山として、離宮の禅林寺殿を禅宗寺院の禅林禅寺としたのでした。正応4年(1291)のことです。無関は、同年8月に止宿僅か数か月にして東福寺に帰山したのですが、12月、高齢の上に病を得た無関は、12日の子ノ刻(ねのこく。午前零時前後。)東福寺にて息を引き取ったのでした。

その後、禅林禅寺に代わる新しい名について思案していた亀山法皇が、無関亡きあと禅林禅寺(後の南禅寺)二世となった規菴祖圓に相談すると「わたくしどもの禅は南宗禅(なんしゅうぜん)であります」と答えたといいます。これによって亀山法皇は新しい名称を「南禅寺」に定めた、と伝えられています。

禅林禅寺が南禅寺と呼ばれるようになるのは、鎌倉時代末の徳治(とくじ)3年(1308)頃とみられています。

無関示寂の模様

無関が禅林禅寺(後の南禅寺)在庵中から亀山法皇の帰依は厚く、正応4年8月、無関が東福寺帰住ののち発病し、病が重いことを聞いた亀山法皇は自ら臨幸して数日間駐輦(ちゅうれん)し、手づから薬湯を煮て無関に進められたことは有名な史話となっています。

しかし高齢の無関は同年12月12日、ついに世を去ってしまいました。

無関示寂から100年余り経った応永(おうえい)3年(1396)撰述の『日本國五山之上瑞龍山南禪々寺開山大明國師行状』(『本朝僧寶傳』巻上 龍吟派下 所收)には無関示寂に関する部分が次のように記されています。

・・・師兼權東福 示疾丈室 龜山降臨 養侍劑藥 順寂之前一日 一條藤亟相駕至 慰問甚勤 師語曰 吾今日將行 特奉遞相公來 明旦行矣 公掩淚而去 打皷爲衆入室畢 諸弟子 繪師頂相請賛 語句精妙 筆力遒健也 至中夜 換衣安坐 龜山乞書偈 師頷之 龜山親研墨毫 師接而書曰 
來無所從 去無方處 畢竟如何 喝 不離常處
預嘱行者撾皷 大衆畢集 告別跏趺而化 閱世八十年 坐六十二夏 正應四年辛卯歳十二月十二日子時也 闍維收遺骨 塔于寺東北隅 今龍吟庵也 滅後十三年 嘉元元年癸卯 謚曰佛心禪師 塔曰靈光 元亨三年冬 敕謚大明國師、・・・

以下は上記の原文にどのようなことが書かれているのかを記述したものですが、上記の原文に記載されていない内容も補助的に一部付け加えています。

・・・正応4年秋、亀山法皇から賜った離宮改め禅林禅寺(後の南禅寺)に加えて東福寺の住持も兼ねている無関が東福寺に戻っていた中、東福寺本山丈室(方丈)で発病し病状が急に重くなった。これを聞いた亀山法皇が無関を慰問して数日間滞在し、法皇自ら薬湯を煮て無関に進められた。また後日には東福寺の大檀越一條家経(いえつね。五摂家の一つ一條家の祖一條実経の長男。)も無関の慰問に訪れたという。

このままいけば明日が最後かと思われたその(示寂)前日、一條藤亟相(※1)が馬に車をつけて無関の見舞いに訪れ、大いにねぎらった。無関が「拙僧は今日まさに逝こうとしておりましたが、せっかく一條殿(家経公)がお越しになられましたので、今日に代わって明朝夜明けに逝くことにいたします。」と言うと、一條殿は流れ出る涙を覆い隠して帰っていった。

程なくして鼓(つづみ)が打たれると、無関は弟子たちが待つ室へ向かった。弟子たちは、無関の頂相(ちんぞう。禅宗の高僧の肖像。)を描いて賛詞を求めた。弟子たちの要望に応えて書く無関の言葉は卓越していて、しかもその筆づかいは見事なものであった。

夜の中ほど(22時〜2時頃の間)になると、無関は衣服を換えて安らかにあぐらを組んだ。するとこの時亀山法皇が偈(げ。仏教の真理を詩の形で述べたもの。この場合、禅僧が末期に臨んで門弟や後世のためにのこす遺偈(ゆいげ)。)を書いて欲しいと頼んできた。無関はこれに承諾すると、亀山法皇は自ら墨をすり、筆に墨を含ませて清め、無関に手渡した。無関は筆を受け取ると書き綴って言った。

来るに所從なく、去るに方所なし。

畢竟如何(ひっきょういかん)。喝。

常所を離れず。

やってきても身の置き所は無く、去ろうにも向かうべき所もない。

結局どうしたらいいのか? 喝!

いつものここに居て離れることはない。

【参1】所從(しょじゅう)
所   ・・・より所。身のおきどころ。
從(従)・・・たよりとする。より所とする。より所。
【参2】常所(じょうしょ)
いつも住んでいるところ。定まっている場所。

と。

それから、予め行者(あんじゃ。寺院にあって諸種の用務に従事する給仕。)に頼んでおいた通り鼓を打たせ、僧たちが皆集まると、無関は別れを告げ、足を組んで坐ったまま寂した。壽齢80(※2)、臘(※3)62。正応4年12月12日午前零時前後没。

闍維(じゃい。荼毘。)して遺骨を収め、東福寺の東北隅に瘞(うず)めた。今の龍吟庵である。

無関没後13年の嘉元(かげん)元年(1303)には後二条天皇より「仏心禅師」(ぶっしんぜんじ)と勅謚され、塔(墓)は「霊光」と曰(い)う。元亨(げんこう)3年(1323)冬(正当忌(12月12日))には後醍醐天皇より「大明国師」と追謚された。・・・

※1.一條藤亟相(いちじょうふじきょくしょう)
「一條藤」は一條家の家紋、「亟」は人位の最高である君(きみ)、「相」は大臣を指すことから、「一條藤亟相」は摂政、関白、左大臣などを歴任した五摂家の一つ一條家の祖である一條実経(さねつね)を指しますが、一條実経は7年前に世を去っています。ここではその長男である家経(いえつね)の誤り。
※2.壽齢80
無関の壽齢については80歳とするものもあれば、81歳とするものもあるのですが、次に示す無関の[自賛](『本朝僧寶傳』巻上 龍吟派下 所收)をみれば自ら81歳であることを書いています。
自賛
八十一年 來而不動 坐禪經行 非他所作 
為玄珠書之 東福無關
八十一年、来れども動かず。坐禅経行、他の所作に非ず。[玄珠のためにこれを書く。]東福無關[判]
【参】経行(きんひん)
一定の箇所を往復歩行すること。そぞろ歩き。仏典には、閑処、戸前、講堂の前、塔下、閣下などにおいて、遅くなくまた速くなく、真直ぐに経行することを説いている。これは衛生のための一種の運動法で、インドでは広く一般に行われていたもので、仏教にも取り入れられたもの。
今日、禅宗では、坐禅の時、坐屈や睡眠を防ぐため、一定の時間坐より立って徐行緩歩すること。
〜『図説佛教語大辞典』〜
これを受けて、『禅宗編年史』では
[大明國師行状、同塔名、同碑銘、延寳録、本朝高僧傳]等に師の壽八〇夏六二と作せるも、師の[自賛]語に憑(よ)りて、八十一歳説を正とすべし。
とあり、また『東福寺誌』では
[元亨釈書]六[大明國師行状][同塔名][延寳録]等に無関の壽齢を八十歳と作すは誤なり。
としています。
※3.臘(ろう)
僧侶になってからの年数。ここでは、無関が禅僧であった年数が書かれています。坐夏(ざげ)、坐臘(ざろう)あるいは単に夏(げ)とも。

蛇足ながら、無関示寂2年後の永仁(えいにん)元年(1293)12月11日、かつて無関の言葉に流れ出る涙を覆い隠して別れた一條家経の位牌が龍吟庵に安置されています。

龍吟庵創建

荼毘に付された無関の遺骨は弟子が骨蔵器に収めて、無関の住居施設のあった東福寺の東北隅、則ち、現在の龍吟庵の境内に埋められました。

ここで、龍吟庵はいつ創建されたのか、ということについて記しておきます。

結論から言って、龍吟庵創建時期を特定できる確かな資料は無いようです。

そのため、龍吟庵が、無関の存命中から存在したのか、あるいは入寂後に開かれたのか、といったことについては分からない、ということになります。

ただ、前項の末尾で「一條家経の位牌が龍吟庵に安置」されたのが無関示寂2年後と記したように、少なくともこれが龍吟庵の存在を知る一番古い時期ということになっているようです。

またこの創建時期に絡んで、前項に掲載した漢文の中で一つの疑問が浮かび上がります。それは冒頭にある「示疾丈室」という記載です。ここに書かれている「丈室」(方丈)とは、東福寺本山の「丈室」を指しているのか、あるいは、当時龍吟庵が存在していたとするならば龍吟庵の「丈室」を指しているのか、どちらなのだろうかということになりますが、当記事では以下のことから「東福寺本山丈室(方丈)」と解釈しています。

ここでは、今日龍吟庵の創建についてどのように解釈されているのかについて記しておきます。

先ず、無関の遺骨が埋葬されている上に、やがて、卵形の石塔婆(塔身)を八角形の台座にのせた禅僧の墓標である石造卵塔(せきぞうらんとう。無縫塔。)を安置した塔所(墓所)が営まれます。併せて、無関の坐像(※4)も彫られます。そして、これらを納めて、国師を拝礼するに相応しい立派な昭堂(しょうどう)が建てられます。

更に、これらを守る弟子が止住するために、方丈(客殿)、庫裡などが建てられて庵が営まれ「塔頭龍吟庵」として成立した、とみられています。

以上のことから、龍吟庵は、無関示寂の後に塔所(墓所)として開かれたことから始まった、と解されています。

※4.無関の坐像
今日、「木造大明国師坐像」として重要文化財に指定され、龍吟庵開山堂に安置されています。
無関の彫像は、これがおそらく現存唯一の遺例とされています。

そして当記事冒頭でも述べた室町幕府第3代将軍足利義満から寄進された直筆の「龍吟庵」、「靈光」、「勅諡大明国師」の3額が、無陥没後96年経った嘉慶元年に掲げられていることから、これに伴って嘉慶元年以前から存在していた方丈に何等かの大規模な工事が行われたとみられています。また、嘉慶元年から3年後の明徳(めいとく)元年(1390)は無関の100年忌にあたり、それに備えて方丈の整備も行われているようです。 これらの工事の過程で、当時の宮廷風、いわゆる寝殿造風な要素が方丈に引き継がれたものとみられ、今日目にする方丈は、この時の方丈が調査され復元されたものとなっています。

無関は、亀山法皇の篤い帰依を受けていましたから、ひょっとすると、無関示寂後、龍吟庵創建の折、亀山法皇が無関を偲んで宮廷風の龍吟庵方丈を建てさせ、それが嘉慶元年の頃までの100年近く残っていたのでは、と想像することもできそうです。

なお、時が下って室町幕府の将軍も第9代となった長享(ちょうきょう)2年(1488)には、龍吟庵の昭堂が、龍安寺(りょうあんじ)へ売却されるということもあったといいます。国師の昭堂が売られるほどですから、当時の龍吟庵には経済状況の面で相当に厳しいものがあり、荒廃した時期が続いたようです。

昭堂を買い取った龍安寺ではこれを仏殿として使っていたようですが、のち焼失してしまったために今は残っていません。

墓の移転・改修

さて、時代も下って江戸時代後期の寛政2年(1790)は、無関の五百年忌を迎えることとなり、当時無関の法流を嗣いだ龍育、玄禎の二師は、相図って龍吟庵にある先師無関の墓塔を移転・改修することにします。

『枯木山龍吟禪庵開祖勅諡佛心大明國師靈光塔碑銘』の中で、無関の墓の移転・改修に関して次のように記載されています。

・・・越至寛政二年庚戌實丁五百祀之忌辰 龍吟之支曰南昌者 熙陽育主之 曰即宗者 龍河禎主之 於是骨議欲修-葺殿堂荘-厳祭筵 攄追遠之志酬垂裕之慈 而靈骨所藏在庵之北可三十歩 頗憂阻隔因北拓靈光丈餘 定宅兆將遷焉 往穿窀所果獲石龕 中安金瓶 靈骨存焉 恭舁至靈光之下改堋焉 極其窂固 上新造塔廟安眞像 儼然儀具矣 以初地爲置香燈所 ・・・

以下は上記の原文にどのようなことが書かれているのかを記述したものですが、上記の原文に記載されていない内容も補助的に一部付け加えています。

寛政2年はまさに無関の五百年忌に当たるので、当時無関の法流の分派である南昌庵の住持熙陽龍育と即宗庵の住持龍河玄禎の二師は、無関の遺骨の扱いについて相談し、無関の石造卵塔と木像が納められている祠堂(しどう)を修理し墓を整備して荘厳なるものとして遠忌を営もうとした。ところが、無関の遺骨を埋めてある所は龍吟庵方丈から北へ30歩ばかりの先(※5)にあり、方丈から随分と離れていて不具合だった。そこで方丈の北側のすぐ後ろを一丈(約3m)四方余り拓いて墓所に定めて移すことになった。こうして、その昔無関が手厚く葬られた、龍吟庵方丈の北へ30歩ばかり行った所にある石造卵塔を動かしてその下を掘ってみると、仏像を安置する石の塔である「石龕」(せきがん)が見つかり、中には「金瓶」(きんべい)が安置されていた。金瓶を石龕から取り出してみると、金瓶に蓋はあるものの密着していて開けられなかったので、この金瓶を振ってみると固い物がこすれ合うときの音がしたことから無関の霊骨が中にあることを知った。そこで金瓶を石龕の中に戻してから石龕を丁重に取り出し、これを龍吟庵方丈のすぐ後ろに接して新たに設けた牢固な埋納施設に納め、その真上に石造卵塔も移建し、さらに石造卵塔の下部の適当な高さの位置で床を張り、その上に覆屋を建てて無関の真像(坐像)(※4に同じ)を安置して、新しい廟塔を営むに至った。これにより、礼容の整った立派なものが出来上がり、喜びに包まれてお香を焚き燈明を供える所(香灯を供える施設)とした。つまり、この時、方丈の背後に移した無関の墓所の上に、弟子が守り拝礼する昭堂を建てて、方丈と一連の建物としたのでした。(この昭堂は、今日では「開山堂」として、方丈の背後に見ることが出来ます。)

※5.龍吟庵方丈から北へ30歩ばかりの先
187年前の慶長(けいちょう)8年(1603)に建立された龍吟庵の庫裡(くり)の背後(北側)になり、そこは龍吟庵の背後にある山の裾がせまっていた所に当たります。

『東福寺誌』の寛政2年9月12日条に

塔頭龍吟庵にて大明國師の五百年忌を預修す(南禪寺は之より五年の後に之を延修す)

とあります。無関の五百年忌が祥月命日(12月12日)より日を繰り上げて9月12日に龍吟庵で執り行われ、南禅寺では5年後に執り行われたことが記されています。

ということで、無関の五百年忌を迎えて無関の墓の移転・改修が終わった、かにみえたのですが、さらに時を下った昭和時代の前期に思いがけない発見が為されることになります。

昭和の大改修

昭和28年(1953)3月31日、龍吟庵の方丈は、方丈建築としてはわが国最古の実例として貴重な遺構である、という点から重要文化財の指定を受けました。また同時に、庫裡・表門(おもてもん)も重要文化財の指定を受けています。(方丈は昭和38年(1963)7月1日に国宝に指定されて今日に至っています。)

ただ、重要文化財の指定を受けたものの、方丈・庫裡・表門の3建物は、指定前からすでに相当荒廃していたといいます。方丈の背後においては雨漏りのために床が腐って歩けないとか、無住(住持がいない)のため不特定多数の人たちが方丈に同居している、等々、文化財保護の観点から由々しき事態となっていたようです。

そこで、国費修理が行われて整備されることとなります。

先ず昭和29年(1954)3月、建物保存のために方丈に素屋根の取付建設が開始されると同時にその後の工事の準備が進められます。本工事は昭和33年(1958)6月1日に着工され、昭和37年(1962)6月30日に、庫裡・表門も含めて工事が完了したといいます。そして、この工事において、方丈については、当記事冒頭でも述べた通り、無関没後100年頃の室町時代前期の嘉慶元年の状態に復元され、庫裡・表門については建立当初の形式に復されたのでした。

「偶然」に発見

改修工事途中の昭和35年、方丈の修理がほぼ完成すると、引き続き庫裡の解体に着手されたのですが、龍吟庵の背後には小さな山があり、その山裾が龍吟庵に迫っている為に排水が悪く、大雨でも降った時には山から流れ出てきた水が、方丈や庫裡の床下深く浸水するといった状況だったようです。これが建物の耐用年数を意外に早めていることが分って来たといいます。

そこで建物の保全の為には排水設備が必要で、そのためには龍吟庵背後一帯の山裾の必要な広さの地盤を全面に削平する必要に迫られ、これが認められて、昭和36年1月からこの削平工事が開始されたのです。

山裾を削平し、排水溝を作るなどして、ほぼ予定の工事が完成に近づいた3月下旬、山裾が迫っていた庫裡の背後(北側)の地中において、明らかに加工を施したとみられる四角い大きな花崗岩が埋まっていることが分かったといいます。

そこで急遽、その付近の地盤工事を一旦止めて、東福寺と協議の上発掘することとなったのでした。東福寺の立ち合いで、見つかった四角い大きな花崗岩の周辺を慎重に掘り下げていき、四角い大きな花崗岩の底部に達した所で、発掘を中止して調査したところ、四角い大きな花崗岩は上下二つの部分から成り、重ね合わされていることが分かったのです。このことからこの四角い大きな花崗岩は恐らく「石櫃」であろうという推定に立ち至ったといいます。これが3月29日のことです。

その石櫃が開かれると、中には、火葬骨がぎっしりとつまっている青銅色の骨蔵器があり、それはひどく傾いて、蓋も外れた状態で納まっていたといいます。

そして、石櫃の中にあった青銅色の骨蔵器が詳しく調べられます。すると、青銅色の骨蔵器の胴の周りに鋭利な刃物でキズをすりつけたといった程度の極めて細い針書銘(鏤刻銘(るこくめい))のあることが判明します。そしてその針書銘の解読の結果、以下の文字が、2文字もしくは3文字の縦書きで彫られていることが分かったのでした。

正   応
四   年
辛   卯
十 二 月
十 二 日
子   時
東   福
無   関
禅   師
霊   骨
竜   吟
補   □

最後の一字は解読が出来なかったようです。

以上のことから、龍吟庵背後にある山から庫裡の背後(北側)に延びている尾根の裾に近い所が無関を荼毘に付した場所で、その跡にすぐ、弟子によって無関の火葬骨がぎっしりと詰められた青銅色の骨蔵器を四角い大きな花崗岩でできた石櫃に納め、その石櫃を地中に埋めて塔所(墓所)を営んだのではないか、と考えられています。

無関らが生きた中世における火葬墓の地下の構造については、このような石櫃を伴った例は極めて少なく、まして骨蔵器に銘文を伴い、墓の沿革を考証し得るような好例は稀だといいます。

ところでここでふと疑問がわきます。それは、

上述した江戸時代後期の寛政2年の無関の五百年忌の時に、無関の墓は既に方丈の背後に移されたはずなのに、どうしてまた遺骨を納めたものが出てきたの?

ということです。

これには禅家の事情があるようです。

禅家においては、師が死没した場合、すぐに埋葬する「主体となる遺骨」とは別に、遺骨の一部を分割して保存し、弟子たちの懇請に応じて分骨用として次第に与えていく為に、この分骨用はしばらく埋蔵せずにおくのが常道となっているといいます。そして、七回忌とか十三回忌の頃に師の遺骨が残っていれば、既に主体となる遺骨が埋められている上に、重ねるようにして墓地に追納し、この時に正式の墓塔を刻んで、建墓一切のことが終わりを告げることになっている、といいます。

無関の五百年忌を迎えるということから寛政2年における墓の移転・改修の時に、石造卵塔の直下から遺骨が納められた「金瓶」が安置された「石龕」(石櫃)が得られたわけですが、実はさらにその下に、無関の遺骨の主体が埋められていることに気付かず、「石龕」の中に安置された「金瓶」に納められている遺骨が無関の遺骨の全てであると受け止められて、方丈の背後に移し替えられたものと考えられるのですが、この寛政2年に移した遺骨に関するものは、上述した分骨用の追納骨壺とその石櫃であったのではないか、とみられています。

その結果、無関の遺骨の主体は埋葬されてから寛政2年における墓の移転・改修の時の500年を過ぎて更にそのまま埋められた状態で200年足らずの時を経て昭和の時代に至り、龍吟庵の建物が重要文化財の指定を受けたことをきっかけとして始められた改修工事の最中に「偶然」に発見されることになったのでした。

また、方丈背後に移されている石造卵塔の下部の調査も行われ、寛政2年に旧墓地で発見された「石龕」とその中にあった「金瓶」の存在は、龍吟庵改修工事の最中の昭和36年7月に確認されることになります。

なお、「正応四年辛卯十二月十二日」銘のある無関の青銅色の骨蔵器(重要文化財)は東福寺のホームページ(2024年9月時点)によると東京国立博物館に保管されています。

龍吟庵方丈について

その特徴として次の3点が挙げられます。

【特徴1】
通常、方丈は正面3室・背面3室の2列で構成され、整形6室取りに間仕切りされています。龍吟庵方丈もこの点は同じとなっています。そのうち正面中央の部屋は室中(しつちゆう)と呼ばれ、双折(もろおれ)両開きの桟唐戸(さんからど)の入り口にして仏殿風とし、室内には仏壇が設けられて護持仏や祖師像、仏画や位牌などが祀られてあるのが近世の標準的な方丈となっています。
しかし龍吟庵方丈の場合、確かに室中入り口は双折両開きの桟唐戸の入り口にして仏殿風となっていますが、室中の正面は板壁で閉ざされており、仏壇がありません。この点は近世の標準的な方丈形式に達する前の古式を伝えるものとされ、他の方丈と著しく異なっているといいます。
【特徴2】
龍吟庵方丈の室中正面入り口の左右には「蔀」(しとみ)と呼ばれる格子の板戸(蔀戸)があり、室中の床(ゆか)は基本的に「板の間」となっています。そして室中正面の出入口にあたる部分を除き、「座ったり、寝たりするところ」とみられる室内の周囲にのみ「畳」が敷かれています。これらは「寝殿造」の特徴にも通じる構成で方丈の古い形式とみられます。
また、表門の少し東寄りにある玄関は、方丈とは独立した屋根が軒下に入り込む工法となっているといい、これは寝殿造の接続法の継承と考えられています。
【特徴3】
龍吟庵方丈の室中とその左右の間(ま)および左右の間の背面となる間とはそれぞれ「襖で仕切られ」、それらの間の床には「畳が敷き詰められ」ています。また室中の蔀戸の内側には「明障子」(あかりしょうじ)が使われていて、これらは「書院造」の特徴に通じる構成となっているとみられます。

このようなことから龍吟庵方丈は、敷地の中心に主人の居所として設けられた施設である「寝殿」を中心にして平安時代に完成した貴族住宅の様式である寝殿造と、寝殿造を母体として書斎を兼ねた居間を指す「書院」を建物の中心にして室町時代に始まった武家住宅の建築様式である書院造とが融合した、応仁の乱(1467〜1477年)以前の工法による方丈の古い形式を残すものとなっているといいます。

以上のことから、龍吟庵方丈はわが国現存最古の方丈とされています。

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写真 
2023年秋・・・
東福寺の日下門をくぐり、やがて見えてくる通天橋の拝観受付を左に見ながら通り過ぎて、東福寺本山庫裏の前を通った辺りで、写真に見る2つの案内が目に入ってきました。今回は写真奥に見える「特別公開 国宝龍吟庵」へと向かいます。
≪関連情報≫
項目 内容
所在地 京都市東山区本町15丁目812
山号 枯木山
宗旨 臨済宗東福寺派
寺格 塔頭
創建年 正応4年(1291)(推定)
文化財
国宝
方丈
重要文化財
表門、庫裡、木造大明国師坐像、銅無関禅師骨蔵器、石櫃(花崗岩製で、銅無関禅師骨蔵器の外容器)

【境内概観図】

【図中番号の説明】

  1. 龍吟庵・表門
  2. 龍吟庵・方丈
  3. 龍吟庵・開山堂
  4. 龍吟庵・庫裡
  5. 龍吟庵・南庭(無の庭)
  6. 龍吟庵・西庭(龍の庭)
  7. 龍吟庵・東庭(不離の庭)
  8. 即宗院
  9. 偃月橋
  10. 三ノ橋川
  11. 東福寺
  12. 東福寺・方丈
  13. 東福寺・庫裡
  14. 東福寺・本堂(仏殿)
  15. 通天橋拝観受付
  16. 通天橋
  17. 日下門
  18. 臥雲橋
  19. 月下門

近隣の観光スポット情報

上記の【境内概観図】をご参照ください。

posted by はんなり・ジャーニー at 12:43 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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