写真集(3枚の写真が表示されます。)
平安時代後期、仁和寺(にんなじ)の御堂(子院)として造営された法金剛院(ほうこんごういん)。その広い敷地には浄土式庭園が造られ、庭園の一角には「青女(せいじょ)の滝」と呼ばれる、日本最古の、石で組まれた人工の滝(滝石組)も造られました。
現在の庭園は昭和年代に発掘・復元されたもので、法金剛院の広さも往時の半分足らずになっているといいますが、浄土式庭園は引き継がれ、青女の滝は平安時代後期に造られたものがそのまま今日に伝えられています。
平安京の京域の決定に際し、その西辺を限定したとされる双ヶ丘(岡)(ならびがおか)。
今日、法金剛院も位置する名勝・双ヶ丘(「雙ヶ岡」として国の名勝に登録)のなだらかな丘陵の麓は、古来より景勝明媚の地とされ、平安京が定められると双ヶ丘を背景として貴族たちが山荘を営み、また天皇の狩猟地ともなっていたといいます。
それら山荘の中で最も著名なものとして知られるのが、平安時代の初めの天長(てんちょう)7年(830)、大納言清原夏野(きよはらのなつの)が営んだ山荘です。双ヶ丘を含め、今日法金剛院のある双ヶ丘の東南麓の地が「双丘大臣」と称された清原夏野の山荘地だったといいます。
そして後年、ここ双ヶ丘の東南麓の地にあった清原夏野の山荘の跡に法金剛院が造営されることになります。
『日本後紀』(※1)には、双ヶ丘東南麓の景勝の地に大納言清原夏野が新しく建てた山荘に淳和(じゅんな)天皇が行幸し(天長7年9月21日条(下記参照))、3ケ月足らずの内に北野へ行幸の折、良い機会なので大納言清原夏野の山荘へも足を延ばした(天長7年閏12月2日条(下記参照))ことが記されています。更に、承和(じょうわ)元年(834)には嵯峨(さが)上皇が、2年前の天長9年(832)に右大臣となった清原夏野の山荘を訪れて水木を鑑賞していることも記されています(『續日本後紀』(※2)承和元年4月21日条(下記参照))。
- 『日本後紀』天長7年9月21日条
- 壬辰、天皇幸二大納言清原眞人夏野新造山荘一、
- ※天皇
- 淳和天皇。
- ※幸
- 天皇の外出。行幸 (ぎょうこう) 。
- ※清原眞人(きよはらのまひと)夏野
- 「清原眞人」は氏姓(しせい)で、「清原」が血縁関係を示す氏(うじ)、「眞人」が朝廷内の立場を示す姓(かばね)。「眞人」は、天武(てんむ)天皇13年(684)に天武天皇が制定した八色の姓(やくさのかばね)の第一位。最高の爵位で天皇の子孫に与えられました。
清原夏野は舎人親王(とねりしんのう)の孫の子(曾孫)で、はじめ繁野(しげの)王と言いましたが、延暦(えんりゃく)23年(804)6月、父の桓武(かんむ)天皇への上表によって「清原真人」を賜姓され「清原真人繁野」となるところですが、『日本後紀』延暦23年6月21日条に次の記述があります。
-
- 又繁野名語觸二皇子一。改レ繁曰レ夏。
- 「繁野」の名を語るのは桓武天皇の皇子を汚(けが)すことになる、ということのようなのですが、「繁野」と書かれるか「しげの」と読まれる皇子はいないようです。一方、桓武天皇の皇女についてはというと、「滋野内親王」(しげのないしんのう)の名があります。そこで、この名と読みが重なることを避けるために「繁」を「夏」に変え、「夏野」に改名したことが伺えます。
- 『日本後紀』天長7年閏12月2日条
- 閏十二月壬申、天皇幸二北野一、便幸二大納言清原眞人夏野之雙岡宅一、
- ※天皇
- 淳和天皇。
- ※北野
- 平安京大内裏の「北の野」の意で、北野の他に紫野・蓮台野など平安京の北方域外にあった7つの野として知られる「七野」(しちの)の一つ。天皇や貴族の別荘地や狩猟地となっていました。北野は現在は北野天満宮一帯を指す地名。
ちなみに北野天満宮から法金剛院までは直線で2km余りの距離。
- ※便
- せっかくの機会。ついで。
- 『續日本後紀』承和元年4月21日条
- 〇辛丑。先太上天皇降-二臨右大臣清原眞人夏野双岡山庄一。愛-二賞水木一。
- ※先太上天皇
- 嵯峨上皇。
- ※愛賞
- 風景や物などを愛でて、ほめたたえること。
さて、淳和天皇の勅により、法制に通じていた清原夏野を筆頭に『令義解』(※3)が撰述されましたが、これが清原夏野を有名たらしめることになります。清原夏野はまた日本後紀の編纂にあたるなどその学識の高さや政治・経済に対する確かな見識をもっていたこともあり、朝廷・民間双方からの信任が篤かったといいます。
その故もあってか、清原夏野の山荘には、嵯峨・淳和・仁明の諸帝の行幸もしばしばあったようで、ことに承和14年(847)10月、仁明天皇は遊猟の途中、双ヶ丘の東に位置する墳(墳墓のある丘(今日の五位山))(※4)に登って四方を眺めるとその景勝を称賛し、その墳に従五位下(じゅごいげ)の位を授けるといった興味ある出来事もありました(『續日本後紀』承和14年(847)10月19日条(下記参照))。
時を下って江戸時代中期に発刊された『山城名勝志』(下記参照)では、「雙岡ノ東ノ墳」というのは、法金剛院の境内にあり、五位山(ごいさん)と呼ばれ、また内山(うちやま)とも称されていることを伝えています。
- 『續日本後紀』承和14年10月19日条
- 〇辛亥。授二雙丘東墳從五位下一。此墳在二雙丘東一。天皇遊獵之時。駐-二蹕於墳上一。以爲二四望地一。故有二此恩一。
- ※天皇
- 仁明天皇。
- ※駐蹕(ちゅうひつ)
- 天子が行幸の途中、一時乗り物をとめること。また、一時その土地に滞在すること。駐輦 (ちゅうれん) 。
- ※四望(しぼう)
- 天子が遠く望んで祭るもの。
- 『山城名勝志』
(宝永(ほうえい)2年(1705)序、正徳(しょうとく)元年(1711)刊)
- 〇雙岡ノ東ノ墳 在二法金剛院ノ境内一、號二五位山一、又稱二内山一、續日本後紀伝、承和十四年十月辛亥、授二双ノ丘ノ東墳ニ從五位下一、此墳ハ在二双ノ丘ノ東一、天皇遊獵之時、駐-二蹕於墳上一 以爲二四望ノ地一、故有二此恩一、
清原夏野没後、この山荘は寺に改められ、土地に因んで双丘寺(ならびがおかでら/そうきゅうじ)と呼ばれました。『日本三代實録』天安(てんあん)2年(858)10月17日条(下記参照)には、この双丘寺は元は清原夏野の山荘であり、今では天安寺となっていることが記されています。双丘寺は文徳(もんとく)天皇の御願により伽藍が整えられ、「天安」という当時の年号をとって寺号が「天安寺」に改められています。
その後、天延(てんえん)2年(974)に宝蔵が焼失した頃から天安寺は次第に衰退していったとみられています。
- 『日本三代實録』天安2年10月17日条
- 令レ住二雙丘寺一。元是右大臣清原眞人夏野之山荘。今所謂天安寺也。
- ※1.日本後紀(にほんこうき)
- 平安時代初期に編纂された勅撰国史。平安京を開いた桓武天皇の延暦11年(792)正月から淳和天皇の天長10年(833)2月に至る桓武、平城(へいぜい)、嵯峨、淳和の4天皇42年間の国の歴史を記載。
弘仁(こうにん)10年(819)の嵯峨天皇の勅に始まり、続いて淳和天皇が詔して清原夏野らに続行を命じ、仁明(にんみょう)天皇の代になってさらに詔して遂行を命じて開始から21年経った承和7年(840)に完成。
→戻る
- ※2.続日本後紀(しょくにほんこうき)
- 天長10年(833)2月から嘉祥(かしょう)3年(850)3月に至る、仁明天皇在位18年間の出来事を記した勅撰国史。
貞観(じょうがん)11年(869)成立。
→戻る
- ※3.令義解(りょうのぎげ)
- 養老(ようろう)2年(718)、藤原不比等(ふじわらのふひと)らが大宝律令(たいほうりつりょう)を一部改修して編纂した新しい律・令の法典の施行が、養老4年(720)の藤原不比等の死により一旦中断していましたが、その新律令が基本法令である養老律令として天平宝字(てんぴょうほうじ)元年(757)に施行されました。
「律」は現在の刑法に当たる法であり、「令」は行政法、訴訟法、民法、商法など、刑法以外の法律に当たります。
その養老律令のうちの令の部分である養老令に関する官撰の「注釈書」が令義解です。
「義解」は文章(ここでは法文)の意味をときあかすこと、明らかにすること、の意。
律令政治の根本法典である養老令の解釈は、大変に乱れ、政治を行っていくうえでも、大きな障害となっていたようです。
令義解は、淳和天皇の勅により、養老令の適用において、官僚による恣意的な解釈・適用の混乱を防いで法治国家の確立を目的として、養老令の解釈の公的規準を示して法解釈の統一を図るため、本文である養老令に準ずる規制力(法的効力)をもつものとして編纂されました。
天長10年(833)成立。
→戻る
- ※4.墳(墳墓のある丘(今日の五位山))
- 「墳」には、はか(墓)、おか(丘)の意があり、また、五位山の頂には古墳時代(3世紀半ば〜7世紀末)にできたとされる古墳(円墳)があることから、ここでは「墳」を「墳墓のある丘」としています。
尚、五位山の頂にある古墳は、今日「五位山古墳」と呼ばれていますが、保存状態としては全壊となっています。
→戻る
平安時代後期の大治(だいじ)4年(1129)、鳥羽天皇の中宮(ちゅうぐう。皇后の別称で天皇の正妻。)であった待賢(たいけん)門院(藤原璋子(ふじわらのしょうし/たまこ))が、皇室とゆかりの深い寺(門跡寺院)である真言宗仁和寺の御堂(子院)造営に動き出します。
釈迦の死後千年の間の「正法」の時代、次の千年の間の「像法」の時代を経た以降は「末法」とされますが、待賢門院が仁和寺の御堂を建てようしていたこの頃は、末法思想が盛んになっていた時期で、現世は無情であっても、死後は阿弥陀仏のご利益により、美しい蓮の花が咲く楽しい極楽に往生させてもらおうという浄土信仰が盛んになっていた時代でした。待賢門院はその極楽浄土をこの世に実現させ、併せて自身の御所(邸宅)も建てよう、との思いがあったようです。
そこで待賢門院はどこに建てるのか、その候補地として3箇所を占わせます。その3つの候補のうち1番と3番、則ち池田と天安寺の2つの地が「吉」と出たことから、この2つの候補地を明日にでも視察に行ってくるようにと待賢門院が源師時(みなもとのもろとき)(日記『長秋記』(ちょうしゅうき)の筆者)に命じます。源師時は権守(ごんのかみ)と連れ添って出向きます。池田はこれから造営しようとしている御堂の敷地としては狭いことが分かります。一方、天安寺の方はというと、東西には川が流れ、背後(北)には山(五位山)があり、南は広々としていて果てがないほどに見晴らしがよく、とりわけ空を覆うほどの雲が視界に入ってくる、という地形であることがわかりました。源師時は此の旨を待賢門院に報告します。
これを受けて待賢門院は関係者を集めた評議の場を設け、天安寺の見取り図2枚を提示し、仁和寺御堂を造営する場所の評決(決定)を求めたのでした。
ただ天安寺は文徳天皇の御願により造営されたものという経緯があることから、新しい御堂の造営は差し控えるべきか否かという観点から意見が交わされたようです。この件に対して待賢門院は、天安寺の旧跡を新御堂の候補地に決めても特に問題は何もないし、また、現在の正式な所有者は民部卿定委知候である、と述べると、列席の者たちは論議し、それなりによしとするべきであろう、との結論に至り、御堂の候補地として天安寺の跡が決まったのでした。ただ、列席していた大僧正は、「天安寺は諸帝の御骨藏を置きし地である」等々と言いつつ、不本意ながら承知したようです。
(『長秋記』大治4年9月(下記参照))
天安寺の造営から300年足らず経ったときのことです。
- 『長秋記』大治4年9月10日条
- 女院仁和寺御堂可立處三ヶ所占申、御堂地一三吉由申、明日行向見定可申由仰退出、
- ※女院
- 待賢門院。
- 『長秋記』大治4年9月12日条
- 參女院、池田天安寺委可見、相具師能可見廻、相具權守行向池田、地窄、天安寺東西得河後有山、南方所茫眼精迷、雲尤有、歸申此旨、
- 『長秋記』大治4年9月13日条
- 參女院、天安寺指圖二枚給之、評定可申、申云、地形神妙也、但天安寺、文コ天皇御願歟、如此御願之跡可有憚否條、被問人々、有沙汰歟、參院御方、仰天安寺跡可憚否、奏云、非彼舊跡何事候乎、又本主民部卿定委知候歟、仰、問人々可一定、大僧正有不請氣、諸帝御骨藏置地也云々、
- ※指圖(さしづ)
- 見取り図。
- ※本主(ほんしゅ)
- 正式な所有者・持ち主。
こうして、『中右記』(ちゅうゆうき)の大治5年(1130 )2月29日条に
- 今日又女院仁和寺御願寺棟上云々、院司治部卿能俊卿依仰參内、播磨守基隆朝臣造營也、是昔天安寺之舊跡云々、
とあり、天安寺の跡に待賢門院が待ちに待った仁和寺の御堂の棟上げが行われたのでした。
寺号を決めるに際しては、多くの参列者の中、候補となる複数の名称が出た中で、法金剛院と實勝院がよろしい、ということになり、更に、この二つの名のうち重んずる方はどちらか、ということで最終的に「法金剛院可宜歟」、ということとなり、皆も賛同したことから、寺号は「法金剛院」を用いることに決まったのでした。
(『中右記』大治5年10月14日条(下記参照))
- 『中右記』大治5年10月14日条
- 天晴、參院御所白河、依有召也、殿下治部卿、民部卿、新源中納言師ョ、束帶、左衛門督、別當、皇后宮權大夫、新中納言、師時、左大辨、雅兼、束帶、但新任人々先被聽還昇、兩中納言申慶之後、被參殿上、左衛門督以文被奉殿下、可定申殿下御□給、予披見處、仁和寺宮二人、僧正二人被撰申女院仁和寺御堂法名也、五通籠一懸紙、一々見下、左大辨讀上、各四五寺號、左大辨發語少々申上、人々一々申上、予申云、實勝院、殊勝院、蓮花藏院、殿下令申給云、法金剛院、蓮蕐藏院等中、以別當被奏、仰云、書付可進、以左大辨、人々申旨令書、又以別當被奏、重仰云、法金剛院與實勝院宜也、件二名之中重可申、殿下令□給云、法金剛院可宜歟、人々同申、仰云、用法金剛院者、長屋宮撰申給、及申時退出、
さて、法金剛院の造営は大治5年の阿弥陀堂(西御堂)の建立に始まるといいます。境内の中央には舟を浮かべることができる程の分銅形をした大池が掘られ、阿弥陀堂が大池の西側に建てられ、本尊として阿弥陀如来(現本尊・国宝)が祀られます。これに相対するように、大池の東側に待賢門院常住の寝殿造の御所が建てられます。この御所は西方を眺望できるような構造になっており、大池を隔てて、阿弥陀堂に祀られる西方浄土の阿弥陀如来を拝む、という構成になっていたとみられています。
その5年後の長承(ちょうしょう)4年(1135)には御所の北に北斗堂が、その翌年には阿弥陀堂に隣接して経蔵と釈迦如来をまつる三重塔が、さらに3年後の保延(ほうえん)5年(1139)には大池の南に南御堂そして五位山の中腹に三昧堂が建てられたようです。
また、五位山の麓には滝石組(青女の滝)(後述)が造られ、その出来栄えは絶賛されたといいます。滝の水は、定かではないようですが、双ヶ丘の東麓にあったという双ヶ池(現在は住宅地)から五位山を経て導かれていたのではないか、とみられています。
次の図は、法金剛院の諸堂を配置したイメージ図です(東御堂については後述)。
≪図1.諸堂配置のイメージ図≫
諸堂の落慶ごとに、譲位して上皇となった鳥羽上皇や崇徳(すとく)天皇、関白藤原忠通(ふじわらのただみち)、内大臣藤原頼長(ふじわらのよりなが)らも訪れて豪華な法要が営まれ、また、和歌・管弦などの催しも再々行われたといいます。
『中右記』の大治5年10月25日条には、
- 天晴、仁和寺女院御願寺供養、
- ※女院
- 待賢門院。
- ※御願寺
- 法金剛院。
との記載があります。
この同日のことについて、『山城名勝志』には次のように記されています。
- 大治五年十月廿五日、待賢門院供-二養法金剛院一、
法金剛院の造営を祝し、仁和寺・覚法法親王(かくほうほっしんのう)を導師として、内大臣以下多数の参列のもと盛大な落慶供養が行われたといいます。
造営開始後、法金剛院の敷地は徐々に拡大していき、北限は近江大路末、南限は春日小路末、東限は西京極大路、西限は西京極大路から西に約220mの幅を有していたものとみられており、南北3町(約330m)、東西2町(約220m)の広い規模になったといいます(上記≪図1.諸堂配置のイメージ図≫参照)。現在の法金剛院の広さの2倍を超える敷地を有していたものとみられています。
以下の2図は、法金剛院の平安京との位置関係を示したものです。
≪図2.現代のマップに平安京の主な条坊を重ねた図≫
マップ上のピンク色で塗られている上部の四角いエリアは平安京の大内裏、その最下部にあるピンク色で塗られている四角い2つのエリアは、東寺(右側)と西寺。
大内裏の左側に見られるオレンジ色で囲まれた四角いエリアを拡大したものが次のマップで、法金剛院の伽藍が整った時期の寺域が示されてあります。
≪図3.伽藍が整った時期の法金剛院の寺域≫
康治(こうじ)元年(1142)、待賢門院は法金剛院にて落飾(断髪して出家すること)、その3年後の久安(きゅうあん)元年(1145)に三条高倉第で亡くなりました。遺言によって遺骸は、法金剛院の内山である五位山の東山麓に保延5年(1139)に建立されていた三昧堂の下に葬られたといいます。現在の「鳥羽天皇皇后璋子 花園西陵」です。
待賢門院が亡くなって後は、娘の上西門院統子(じょうさいもんいんとうし)が入寺し、承安(しょうあん)元年(1171)、寺域の北東に東御堂を建て、落飾し、亡くなると東御堂の傍らに葬られたといいます。現在では「鳥羽天皇皇女 尊称皇后統子内親王 花園東陵」として、花園西陵から直線で100m余り東へ行った、現法金剛院の境内の外に祀られています。
法金剛院は鎌倉時代に入って盛衰を繰り返しながら次第に衰微してしまったようで、鎌倉時代中期の弘安(こうあん)2年(1279)に奈良・唐招提寺(とうしょうだいじ)より入寺した律宗の僧円覚上人(えんがくしょうにん)により再興され、律宗に改められました。
先述のごとく待賢門院の没後は娘の上西門院統子が入寺しましたが、平安時代末期の文治(ぶんじ)5年(1189)に上西門院が亡くなった後は、天災・戦災等により盛衰を繰り返し、長い年月が過ぎていくうちに大池も埋まり、その出来栄えを絶賛された滝石組(青女の滝)もほぼ土に埋まっていったようです。
時は流れて明治30年(1897)、民営鉄道である京都鉄道により二条〜嵯峨間(現在のJR嵯峨野山陰線のうち、嵯峨野線の区間に相当する路線)が開通し、花園駅が設置されたのですが、この路線の開通が法金剛院の寺域を南北に両分するように通り(≪図3.伽藍が整った時期の法金剛院の寺域≫参照)、いつしかこの路線(現JR嵯峨野山陰線)より南側の土地は法金剛院の寺領から離れてしまったといいます。
昭和40年(1965)代になると法金剛院の南に接するように丸太町通(まるたまちどおり)の西への延伸と拡張工事に伴い、道路に接する法金剛院の境内の南側の一部が破壊されることとなったのでした。これに伴い、新たにつくられる道路下の発掘調査が行われています。
往時建造されていた待賢門院常住の寝殿造の御所の建物と遣水の遺構が、現在のJR嵯峨野山陰線の花園駅北側の広場となっている場所で発見されるなどしています。
更に延伸と拡張される丸太町通の新設道路と法金剛院の本堂が接するようになることから、本堂を境内の中で移築し、併せて本尊を安置する仏殿や庫裏を新設するなど、寺観が一変することに伴い、荒れるままになっていた境内全体が整備され、また発掘調査も行われることになりました。
この整備・発掘調査の過程において、滝石組(青女の滝)の大部分は土に埋もれてしまっていて、滝石組の上端部のみがわずかに顔を出している状態であることが判明します。昭和45年(1970)に行われた調査の結果、上端部のみが見えていた滝石組の下にさらにもう一段石組が確認され、上下二段の大きな石組による滝が確認されます。また高さも約4.2mであることが確認され、滝石組が完全な姿で残っていることが明らかになったのでした。更に、滝つぼとそこから大池へと続いていた遣水も発掘されています。
こうして滝石組や流れが復元され、今日目にする池や植栽の整備も行われます。こうして滝からは850年ぶりに水が落とされたのでした。
整備は昭和45年に完了。寺域は往時の半分足らずに縮小してしまいましたが、平安時代の面影を偲ばせる浄土式庭園が復活することになりました。翌年には「法金剛院青女滝附(つけたり)五位山」として国の名勝に、昭和62年には特別名勝に指定されています。
「地形優美にして眺望極まり無し」(『長秋記』大治5年5月17日条)と褒め称えられた法金剛院。
その庭園は、作庭の名手としてひときわ名高かった仁和寺の石立僧(※5)徳大寺法眼静意(とくだいじほうげんじょうい)が池庭を、同じく仁和寺の石立僧伊勢公林賢(琳賢)(いせのきみりんけん)が水を引いて滝(青女の滝)を造り(『長秋記』大治5年5月17日条(下記参照))、極楽浄土を表現した浄土式庭園が作庭されます。その滝つぼから大池へと続く遣水も設けられました。
庭園の築造が終了したのはこの大治5年5月のことといいます。
- 『長秋記』大治5年5月17日条
- 陰晴不定、時々雨、依女院仰、見仁和寺御願、地形優美、眺望無極、就中新瀧水不謂人力、偏是林賢所爲也、入夜參院申子細、
この条は、待賢門院の仰せにより、日記『長秋記』の筆者である源師時が法金剛院建設工事の進捗状況を視察に行った時のことを日記に残したもので、新しく造られた滝を水が流れ落ちる様は人の力で造られたものとは言えない程に素晴らしく、ひとえに林賢の技術の為すところである、と絶賛しています。
和歌に通じ、賀茂祭の牛車(ぎっしゃ)の飾り付けの意匠等の考案・設計をするような器用さを持ち合わせ、造庭のみならず建築にも優れた技術を持ち、また絵師としても傑出した存在であり、風流な石立の巧みな僧であったという林賢は、
- 衣もてなつれとつきぬいしのうへに
よろつよをへよたきのしらいと
- (衣もてなづれどつきぬいしのうへに
よろづよをへよたきのしらいと)
- 林賢法師
と詠んだ(『長秋記』大治5年11月1日条)札を滝(「青女の滝」)の傍らに立てたのでした。
白糸のようになって水が流れ落ちる、完成した滝石組の上に座り、愛着を感じる巨石を幾度となく自分の衣で撫でながら、この白糸の滝が万代までも残ってくれるように、との思いを込めたものなのでしょうか。
林賢が造ったこの滝石組に待賢門院は非常に満足していたようなのですが、滝の高さを次第に低いと感じるようになったのか、3年後の長承2年(1133)、待賢門院は徳大寺法眼静意を召して、さらに「5、6尺」滝石組を高く築くように命じます(『長秋記』長承2年9月14日条(下記参照))。静意は仁和寺の作庭も手掛け、世評もよかったようで、鎌倉時代末期から室町時代頃に作成されたとみられている庭園に関する秘伝書『山水並野形図』(さんすいならびにのがたのず)の系図では、「仁和寺徳大寺法印靜意」から「琳實」(正しくは「琳賢」とみられています)にこの秘伝書が相承された事になっていて、林賢の造園上の師の如き立場にあった人だったのでは、との見解もあります。
- 『長秋記』長承2年9月14日条
- 陰、女院御覧瀧、乘御舟、又渡御々堂、召得大寺法眼、瀧事可令感之由有仰、仍遣召、其次瀧今五六尺許可上高之由示合、申可安之由、又南御堂南北御寺司等申請事、
林賢の造った滝の石組は上下二段に巨石が重ねられていたといい、静意は下段の石組はそのままにして、上部の巨石を組み替えて2m余り高くし、結果、上下合わせて高さが約4.2mの今日見られる滝にしたのでした。この高さは待賢門院の望んでいた以上だったことから、非常に満足したといいます。
こうして完成した滝は都中に聞こえていたといいます。
時が下った長享 ( ちょうきょう )元年(1487)、室町幕府第8代征夷大将軍の座から退いていた足利義政(あしかがよしまさ)が法金剛院に詣でた際の様子が『蔭凉軒日録』(いんりょうけんにちろく)に次のように記されています。
- 文明19年7月29日条
(文明19年7月20日、長享に改元)
- ・・・自二梅津一御-二成寶金剛寺一。瀧頭御覧云々。・・・次往二寶金剛寺一。寺家殿堂悉歴覧。瀧首一見奇快々々。自二北方路一歸。・・・
この日、足利義政は複数の寺を観て回っていたようで、その中に寶金剛寺(法金剛院のこととみられています)も予定に入っていました。殿堂を歴覧した後、滝石組(青女の滝)を見て「奇快々々」とその珍しくも優れた出来栄えを見て非常に関心したようです。
ただ、滝石組のことはこの『蔭凉軒日録』を最後に以後文献に現れることもなくなったといい、また大池も寺運の衰微とともに埋まっていったことは既にみたとおりです。
ところで、法金剛院の滝石組がいつ頃から「青女の滝」と呼ばれるようになったのかは定かではないようですが、天下統一を果たしていた豊臣秀吉(とよとみひでよし。1537年〜1598年。)に寺観の整備を願うためにかつての盛況を復元的に描いたものという古図(法金剛院所蔵)には「青女の滝」の表記が見られます。なお、「青女」というのは、法金剛院に伝来していた待賢門院の肖像画を見た里人から生まれたものではないか、との見解もあります。
「青女の滝」と呼ばれる滝石組は、背丈ほどもある大石が上下2段に組まれた立派なもので、作庭の経緯は、当初林賢が組んだものを、後に静意がその上段を入れ替えたものとなっていますが、上下2段の間に違和感は全くないといいます。こうした巨石ともいえる大石を用いた滝石組は平安時代特有のものとされ、当時の作庭技術の水準の高さを窺わせるとともに、林賢と静意という、当代随一の石立僧により作庭されたことがわかる貴重な作例となっているといい、日本最古の、石で組まれた人工の滝(滝石組)とされています。
- ※5.石立僧(いしたてそう)
- 作庭技術に優れた僧侶。現在でいう造園の専門家。
平安時代後期から鎌倉時代初めにかけて、僧侶の中に庭園を造ることを半ば専門職として、他の社寺からも依頼を受けて造庭をする僧が現れるようになったといい、特に仁和寺に多くいたといいます。庭園に石を配置したり、築山(つきやま)を設けたり、植栽を施したりすることで、自然の風景を構築し、そこに仏教的な世界観を表現したといいます。
→戻る
写真集(9枚の写真が表示されます。)
≪関連情報≫
| 項目 |
内容 |
| 所在地 |
京都市右京区花園扇野町49 |
| 山号 |
五位山 |
| 宗派 |
律宗 |
| 寺格 |
別格本山 |
| 本尊 |
阿弥陀如来 |
| 創建年 |
天安2年(858) |
| 中興年 |
大治5年(1130 ) |
| 文化財 |
- 国宝
- 木造阿弥陀如来坐像
- 重要文化財
- 木造地蔵菩薩立像、蓮華式香炉、厨子入木造十一面観音坐像、木造僧形文殊坐像ほか
- 特別名勝
- 法金剛院青女滝附五位山
|
【境内概観図】
【図中番号の説明】
- 拝観受付
- 表門
- 鐘楼
- 中門
- 苑池
- 鶴島
- 阿弥陀堂(西御堂)跡
- 五位山
- 五位山古墳
- 青女の滝
- 玄関
- 庫裡
- 礼堂
- 釣殿
- 仏殿
- 花園西陵
- 花園東陵
- 丸太町通
- JR嵯峨野山陰線
- 花園駅
- 双ヶ岡
- 妙心寺
近隣の観光スポット情報
見頃の最盛期を迎えている嵐山そして嵯峨野へと2週間ぶりに再びやって来ました。
写真集3には、下記の順に各地の紅葉を掲載しています。