
紅葉に包まれた心字池の蓬莱島-等持院-
等持院は夢窓疏石を開山として、足利尊氏の創建になる天龍寺派の禅宗寺院で、足利家歴代の墓所でもあります。
紅葉に包まれた等持院の庭園の美しさには目を見張るものがあります。
等持院創建
芙蓉池と清漣亭(正面奥)-等持院-
暦応(りゃくおう)元年(1338)8月、光明天皇によって征夷大将軍に任ぜられ室町幕府を始めた足利尊氏は、足利氏一族の菩提寺の建立着手の第一歩として、暦応2年(1339)洛中にあった尊氏の京屋敷北側に、夢窓疏石を開山として等持寺(室町時代末期に廃寺となり、現在では「足利尊氏邸・等持寺跡」の石碑が残っています)を創建しました。同年8月26日、後醍醐天皇崩御により、その2ヵ月後に尊氏は天皇追善の寺として暦応資聖禅寺(りゃくおうしせいぜんじ)(天龍寺)を建立しています。
暦応4年(1341)、尊氏は足利氏としての立場から、元弘(南北朝時代の開始年、1331)以来の戦没者の冥福に資する為にと、洛西の衣笠山麓に夢窓疏石を開山として、等持寺別院を創建しました。当初は北等持寺と呼ばれていましたが、延文3年(1358)4月30日、尊氏の逝去によりその戒名「等持院殿贈大相国一品仁山妙義大居士」にちなんで以後『等持院』と呼び改められました。余談ながら、尊氏の戒名に「院殿」とあり、「殿」の字がつく戒名を付けたのは尊氏が最初ということです。これは天皇がその戒名に「院」の字をつけることに遠慮したものだそうです。武士よりも身分が格上である上級貴族や皇族が付ける「院」の尊称に、武家に対する尊称である「殿」を付け足すことで、へりくだった気持ちを表した、ということのようです。
宝篋印塔
足利尊氏の墓-等持院-
尊氏の遺体はここ等持院に葬られ、この年に尊氏の墓である宝篋印塔(ほうきょういんとう)が、等持院の東と西にある二つの庭園を区切るようなところに建立されています。
二つの庭園
芙蓉池-等持院-
等持院には、東側と西側に二つの庭園があります。
西側の庭園は方丈の背後にあって、ここには芙蓉池(ふようち)があります。この庭園は夢窓疏石の作庭とされていますが、室町時代後期以降、将軍家の衰退とともに寺勢の衰えで寺観も荒廃した時期があり、現在の庭園は江戸時代中期ごろに整備されたものとされています。
東側の庭園は夢窓疏石が造った池の面影が残されているとされています。ここには心字池(しんじいけ)があり、芙蓉池と同様に池中には蓬莱島が造られています。
方丈(ほうじょう)は、安土桃山・江戸時代初期の武将福島正則(ふくしままさのり)によって創建された妙心寺塔頭(たっちゅう)である海福院(かいふくいん)の客殿として建てられたものですが、その後の火災によって焼失したため、海福院の方丈を移築したものです。この方丈は現存する建物のうち最古のものだとされています。

紅葉に映える心字池より霊光殿、方丈を望む-等持院-
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名称 | 等持院 |
| 所在地 | 京都府京都市北区等持院北町63 |
| 山号 | 萬年山 |
| 宗派 | 臨済宗天龍寺派 |
| 本尊 | 釈迦牟尼仏 |
| 創建年 | 暦応4年(1341) |
| 開基 | 足利尊氏 |
| 開山 | 夢窓疏石(むそうそせき)→庭園作家参照 |
| 文化財 |
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【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。
【マップ掲載番号の説明】
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- 清漣亭
- 書院
- 芙蓉池
- 方丈
- 足利尊氏の墓
- 霊光殿
- 心字池
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