
三宝院唐門(国宝)-醍醐寺-
真言宗醍醐寺派総本山醍醐寺は、今から1100年以上も前に遡る平安時代前期、理源大師聖宝(しょうぼう。832〜909)によって笠取山(京都市伏見区東部にある現在の醍醐山)の山上に創建されました。山岳寺院として始まった醍醐寺は、その後、自らの尽力と時の権力者の支援を受けながら山の麓までその伽藍が拡張され、壮大な寺域を誇る寺院へと発展しました。現在では、山上の寺域を上醍醐、山麓一帯(山下)を下醍醐として大別し、これらを総称して醍醐寺と呼びます。
下醍醐の建立
-醍醐寺-
下醍醐の建立の背景
山上を以って開創の原点とし、聖宝の私寺として建てられた醍醐寺でしたが、聖宝が真言宗を代表する僧となり、宮中の仏事でも大きな役割を果たすようになってくると、聖宝の名は広く知られるようになりました。 そして延喜7年(907)、醍醐寺が醍醐天皇の御願寺となると、醍醐山上に薬師堂、五大堂が建立され、薬師三尊像が造立されました。その後、開山堂(御影堂)なども建立されていきました。
醍醐寺の名も広く知られてゆくにつれ、山上に詣でて礼拝する人々も増えていきましたが、山上であるがゆえに大きな堂塔を建てる平地もなく、多くの人々が行事などで集まるに足る十分な広場もありませんでした。また、山上への登り道は急な所も多く、人によっては平地で詣でるのと同じわけにはいきませんでした。そこで参詣に便利な平地に、下醍醐の大伽藍の建設が始められることになりました。
金堂、五重塔の建立
延長4年(926)には下醍醐における最初の堂宇として釈迦堂(金堂)が建立されました。醍醐天皇の皇子である朱雀・村上両天皇の時代には、さらに大寺院へと発展することになりました。下醍醐に建設された五重塔は、この両天皇の時代に着工・完成されたものです。途中、建設の中心人物が亡くなるなどして工事が思うようにはかどらない時期もあり、完成したのは着工から20年を経た天暦(てんりゃく)5年(951)でした。
このようにして醍醐寺には次々と堂塔伽藍が建立され、山上山下にまたがる広大な寺院へと発展することになりました。
衰微と再興
発展を遂げた醍醐寺は、最も殷賑(いんしん)を極めた鎌倉時代から室町時代にかけては、山上に27院、山下に60余院が存在したと伝えられます。
しかし一方では悲劇も起こりました。
永仁3年(1295)には、衆徒の争乱により釈迦堂(金堂)が焼失してしまいました。再建されたのはその7年後の乾元元年(1302)でした。
時が下って応仁元年(1467)には、8代将軍足利義政の継嗣争い、室町幕府の中枢にあって将軍家を補佐していた畠山・斯波(しば)の両管領家の家督争い、更には幕府の実権を握ろうとして争っていた幕府実力者の細川勝元(かつもと)と山名持豊(もちとよ。宗全(そうぜん))がこれらの家督争いに介入したことから対立が激化し、京において両軍が激突し、ついに戦国時代の幕開けとなる応仁・文明の乱(応仁元年(1467)〜文明9年(1477)の11年におよぶ内乱)が始まると、文明2年(1470)には、下醍醐の堂塔伽藍は兵火のあおりを受けてことごとく灰燼(かいじん)に帰しました。そのような状況の中で、奇跡的に残ったのが五重塔、南大門、東門だけと伝えられています。
加えて、往時は数多くあった諸院も盛衰を繰り返しながら次第に姿を消していきました。
以来約130年間、下醍醐は焼失、上醍醐は荒廃していたと伝えられています。
そのような状況の中、転機が訪れます。慶長3年(1598)3月15日、豊臣秀吉が催した絢爛豪華にして最後の宴ともなった『醍醐の花見』が醍醐寺で執り行われることとなり、再興への道が開かれるチャンスが巡ってきたのです。
醍醐の花見
総門-醍醐寺-
義演と秀吉
応仁・文明の乱に始まる戦国時代の長い戦乱で荒れるにまかされていた醍醐寺が復興に向けて動き出したのは、義演が、晩年の豊臣秀吉の帰依を受けたことに始まります。義演は関白二条晴良(はるよし)の二男で、15代将軍足利義昭の猶子(ゆうし)となり、上醍醐寺で修業を積み、弱冠19歳の若さで醍醐寺第80世座主となり、21歳で大僧正に任ぜられた人です。
義演の俗兄である二条昭実(あきざね)は天正13年(1585)7月10日に関白に任ぜられましたが、その翌11日には関白職を秀吉に譲りました。その結果、秀吉は関白に任ぜられて従一位に叙せられました。そして翌12日、義演は僧侶の極位である准三后(じゅさんごう)に任ぜられ、破格の経済的優遇を受けることになりました。このことは、秀吉が二条昭実の好意に報いんとしてその弟・義演を推挙した結果と考えられます。このことが縁となって、以降秀吉は事あるごとに義演を表に立て、その関係は密接なものとなっていき、やがて醍醐寺の復興支援に力を貸すようになっていきます。
醍醐の花見跡の槍山(やりやま)
-醍醐寺-
当時はここから五重塔や三宝院が見通せたといいますが、現在は樹木に覆われて見渡すことはできません。(※案内版から先は立入・火気厳禁となっています。)
復興と花見
たびたび醍醐寺に参詣し、醍醐寺境内を観察していた秀吉が、ここでの花見を思いたった時には、寺院の荒廃もさることながら、戦禍をくぐりぬけてきた五重塔も、天正13年(1585)晦日の大地震により、塔の五重目の東方の軒は落ち、かつ南方の軒が落ちたことで南側は五重共に屋根まで落ちてしまい、その上九輪までが弓なりに西北方に傾いてしまっているという、悲惨な姿をさらし続けていたといいます。秀吉は義演に修理はどうするのか聞いたことでしょうが、醍醐寺に経済的余裕がないことを慮った秀吉は、慶長2年(1597)、五重塔の修理料として多額の寄進をすると同時に、配下に命じて修理に当たらせました。同年12月17日足場が組み始められるや、工事は急ピッチで進められたといいます。
翌慶長3年2月になると秀吉は、9日、20日、23日と重ねて醍醐寺を訪れ、五重塔の修理工事の進捗状況を視察するとともに、花見の準備に向けて女人堂から槍山までの間に趣向を凝らした茶屋や仮店となる殿舎8宇の建築や境内に桜樹700本の移植などを命じ、更には金堂の再建、 仁王門の修理、三宝院殿舎・庭園の造築、岳西院・光台院・金蓮院・成身院・西往院・阿弥陀院の6坊の再興など、下伽藍を復興すべく次々と命じて準備をさせました。
一方、五重塔の修理工事は着々と進められ、醍醐の花見が近付いた3月6日には、全ての足場は取り除かれて工事が完了し、五重塔は再びその荘厳な雄姿を現したのでした。
3月13日から続いた大風雨は翌14日にはおさまり、花見当日の3月15日は晴れ、秀吉は予定通り花見を催しました。秀吉が、秀頼、北政所、淀殿、松の丸、三の丸ら一族をはじめ、秀吉側近の武将の妻女たち1300人を招いて催した花見は、贅を尽くした絢爛たるものだったと伝えられています。
この醍醐の花見がつつがなく終わった後、応仁・文明の乱以来長きにわたり衰微し荒廃していた醍醐寺の伽藍は、義演の尽力と秀吉の支援によって、金堂の再建を皮切りにかねてよりの計画に従って本格的に工事が進められました。醍醐の花見から5ケ月経った8月18日、秀吉は波乱に満ちたその生涯を閉じましたが、その後の醍醐寺の造営・改修は秀頼が支援を引き継いで、次第に往時の景観を取り戻し始めたのでした。
五重塔(国宝)-醍醐寺-
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名称 | 醍醐寺−下醍醐− |
| 所在地 | 京都市伏見区醍醐東大路町22 |
| 山号 | 醍醐山、深雪山(上醍醐寺) |
| 宗派 | 真言宗醍醐派 |
| 本尊 | 薬師如来座像 |
| 寺格 | 総本山 |
| 創建年 | 貞観18年(876) |
| 開山 | 聖宝 |
| 文化財 |
|
【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。
【マップ掲載番号の説明】
- ※
- 図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
- 旧奈良街道
- 総門
- 修証殿
- 表書院
- 奥宸殿
- 純浄観
- 護摩堂
- 三宝院庭園
- 唐門
- 桜馬場
- 西大門(仁王門)
- 鐘楼
- 金堂
- 不動堂
- 真如三昧耶堂
- 五重塔
- 日月門
- 鐘楼堂
- 林泉
- 弁天堂
- 万千代川
- 上醍醐登山口
図の操作について
- 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
- 図の左にある+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
- 図の右上にある[地図]のボタンをクリックすると地図タイプを切り替えることができます。
- 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
- 最初の状態に戻すには、キーボードのF5キーを押下してください。
近隣の観光スポット情報
下醍醐を東へ抜けると醍醐山への登り口である女人堂に出ます。醍醐山には醍醐寺開創の原点であり、世界遺産に認定されている醍醐寺−上醍醐−があります。女人堂横の登山口から開山堂のある山頂までは約2.6q、徒歩60分の道のりです。
一方、下醍醐の総門を出て前の通り(醍醐道)に沿って北(総門を出て右方向)へ行くと小野小町ゆかりの寺として知られる随心院(小野御霊町35)があります。


