
法成橋と善女龍王社-神泉苑-
神泉苑(しんせんえん)は、延暦13年(794)の桓武天皇(かんむてんのう)による平安京遷都の最初において、大内裏の南に面する二条大路を挟んで南東に造営された禁苑(天皇のための庭園)で、王権の象徴の一つとされ、北が二条大路、南が三条大路に面し、東が大宮大路、西が壬生(みぶ)大路に面した南北4町、東西2町の8町(24,000坪=約80,000u)からなる、広い池を中心とした大庭園でした。その池の近くには清泉があり、湧水が滾々(こんこん)として尽きないところから、「神泉苑」の名が付けられたといいます。
現在は、南北約100m、東西約60mと規模は小さくなっていますが、池を中心とした東寺真言宗のお寺として、平安京造営の頃と変わらず同じ場所で、往時を今に伝えています。
神泉苑縁起
京都市街地は、京都盆地に囲まれて夏は蒸し暑く、冬は底冷えのする気候として知られています。地質学上数万年前の京都は断層によって陥没した湖底だったとされ、それが長い年月を経るうちにすりばち状の京都盆地が出来上がってきたなかで、池として残った所もありました。また京都盆地は湿潤な状態で、泉が湧く所も多くあったとされています。
神泉苑は、全てが人の手によって造営されたものではなく、もともと遷都以前から上述のように残っていた大きな池そして鬱蒼とした樹林や丘があるといった地勢が、平安京遷都にともなって造営された大内裏の東南に隣接するということから、平安京遷都に際して禁苑として設けられたものとされています。
大内裏の禁苑
善女龍王社-神泉苑-
行幸
平安初期における桓武天皇(第50代)、平城天皇(へいぜいてんのう。同51)、嵯峨天皇(同52)、淳和(じゅんな。同53)天皇にあっては、度々神泉苑に行幸したとされ、曲水の宴や吟詠(ぎんえい)の宴が開かれたりして、宴遊の地として重宝されました。
狩猟
池の畔には殿舎が設けられていました。池には魚が多く、小島もあり、鬱蒼とした樹林にはたくさんの鳥がいて、池の周りには水禽(すいきん)がやって来ては棲み付いていたといいます。また苑の中に鹿を放って飼ってもいたようです。そして時には、これらを狩っていたといいます。
祈雨の霊場
龍王船-神泉苑-
神泉苑は、祈雨(雨乞い)の霊場としても使われるようになっていきます。
例えば、その最初として、仏教伝来以来鎌倉後期まで700余年に及ぶ僧侶の伝記や仏教史を記し、鎌倉時代にできた『元亨釈書』(げんこうしゃくしょ)の空海伝には、「天長元年(824)干ばつが続き、淳和天皇は西寺を預かる守敏(東寺の僧空海とは何事にも対立していたとされる)に請雨法(しょううほう。雨乞いの儀式)を神泉苑で行わせたところ、わずかに洛中を潤すにとどまった。そこで東寺を預かる空海にも神泉苑で同じことを行わせると、これに応じて善女龍王(ぜんにょりゅうおう)が池中に出現して雨を降らせた。」という説話が載っています。
神泉苑は、その池中に善女龍王を祀って、祈雨の霊場として知られるようになりました。
平安時代も中期に入った天慶年間(てんぎょうねんかん。938年〜947年)の頃になると、神泉苑は、宴遊の地としてよりは祈雨に加えて止雨の霊場としても次第に知られるようになっていきました。
また、朱雀天皇(すざくてんのう。第61代)時代の天慶2年(939)7月の干ばつに際しては、山城国紀伊郡(やましろのくにきいぐん。都の南部(現在の京都市南部に位置する伏見区、南区、下京区)一帯に広がっていた地域)の百姓等の愁訴によって、農地を潤すために神泉苑の水を3日間放流したとあります。更に、続く村上天皇(同62)の時になると、請雨法が行われたり農地を潤すために神泉苑の水の放流が行われること、多々あったといいます。
このように当初は宴遊の地として設けられた神泉苑でしたが、平安朝中期頃から次第に祈雨・止雨の霊場および灌漑のための用水へとその位置づけが変わっていきました。
源義経と静御前
平安朝末期の寿永(じゅえい)元年(1182)、後白河法皇は都で日照りが続いたため、雨を降らせようと考えました。従来のやり方を踏襲するならば僧侶を呼んで雨乞いの祈祷を行わせる所でしょうが、そうはせずに、神泉苑に舞姫100人を集めて舞を舞わせ、竜神を感激させて雨を降らせようと考えたのでした。その集められた舞姫の中に、舞の名人として知られた静御前(しずかごぜん)もいました。99人まで舞っても雨は降りませんでしたが、最後の静御前が舞うと竜神は感激して雨を降らせたといいます。この時源義経は検非違使(けびいし。非違(ひい。非法、違法)を検察する天皇の使者(役人))として都に来ていて、後白河法皇について神泉苑に来ていたことから、これが二人の出会いとなった、と『義経記』(ぎけいき)は伝えています。
祇園祭発祥の地
平安朝初期における貞観(じょうがん)5年(863)、全国的な疫病の流行を受けて朝廷は、神泉苑で初の御霊会(ごりょうえ。思いがけない死を迎えた人の霊(御霊)のたたりを防ぐために行う鎮魂の儀式。)を行い、早良親王(さわらしんのう)以下六柱の御霊(六所御霊)が祭られました。
しかしその後も疫病は鎮まることなく蔓延したため、貞観11年(869)、当時全国にあった国の数を表す66本の鉾を造って神泉苑に集まり、その鉾に諸国の悪霊を移し宿らせ御霊会を行って諸国のけがれを拭い、行列したのが祇園祭の始まりといわれます。
神泉苑の荒廃と復興
平安朝も末期になってくると、皇位継承問題や摂関家の内紛により朝廷が分裂し、双方の武力衝突に至って終結した保元の乱(保元元年7月)、3年後の平治元年(1159)には再び政争が起こってこれもまた軍事衝突によって終結した平治の乱が起こるなど京の都は穏やかな状況ではなくなり、ひいては壇ノ浦の戦いを以って終結した治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん。治承4年(1180)〜元暦2年(1185))によって、鎌倉幕府という関東に本拠を置いた武家政権が樹立し、建久元年(1190年)の頼朝上洛により鎌倉幕府と朝廷の協調体制が確認されたとはいえ鎌倉幕府と朝廷の軋轢は依然残るという社会情勢もあって、神泉苑と皇室との関係も次第に薄くなり、神泉苑には人の手も行き届かなくなって雑草が茂るような有様となり、そして次の鎌倉時代になるといよいよ荒れていきました。
それから時が経って神泉苑の復興を起こしたのが、鎌倉時代も終わりに近づいたころ在位した後醍醐天皇でした。
- ※1大勧進職
- 寺社修造のために、一種の宗教的な募金活動に携わる職で、その責任者。道の辻に立って行う募金活動とは異なり、例えば、天皇から港(例:淀川沿いにある現在の大阪府枚方市の樟葉の関など)の経営を任されて、そこを通行する船から通行料を徴収して寺社を修造する任に当たります。
こうして後醍醐天皇によって復興を遂げた神泉苑でしたが、室町時代に入ると再び衰退していくことになりました。
二条城造営
慶長8年(1603)、徳川家康は京に滞在中の宿所として、聚楽第の南約1km程の所に当たる地に二条城を築城しました。二条城は、徳川家康の将軍宣下に伴う祝の儀式と第15代将軍徳川慶喜による大政奉還が行われ、江戸幕府の開始点となり終着点ともなった所です。二条城造営総奉行には、後に高台寺の建立にも携わった京都所司代の板倉勝重(いたくらかつしげ)が任ぜられ、その敷地は神泉苑の北の大半部の地域も割いて建てられました。これを機に神泉苑はその形状を殆ど変えることとなり、往古の景観は失われて今日に至っています。

法成橋-神泉苑-
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 所在地 | 京都市中京区御池通神泉苑町東入る門前町166 |
| 宗派 | 東寺真言宗 |
| 本尊 | 聖観音 |
| 創建年 | 天長元年(824) |
| 開基 | 空海 |
| 文化財 |
|
【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。
【マップ掲載番号の説明】
- ※
- 図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
- 大鳥居
- 方丈
- 本堂
- 弁天堂
- 稲荷社
- 恵方社(歳徳神)
- 善女龍王社
- 法成橋
- 龍王船
- 御池(法成就池)
- 浮島
- 北門
- 鐘楼
図の操作について
- 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
- 図の左にある+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
- 図の右上にある[地図]のボタンをクリックすると地図タイプを切り替えることができます。
- 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
- 最初の状態に戻すには、キーボードのF5キーを押下してください。
近隣の観光スポット情報
神泉苑の北を東西に走る押小路通を挟んで二条城があります。押小路通の地下には地下鉄東西線が運行していて、最寄駅として二条城前があり、交通の便も良くなっています。


