
紅葉に埋まる通天橋-東福寺-
東福寺は、摂政関白九条道家(くじょうみちいえ。藤原道家)の「顕密・性・相・大小権実等の教えを学び、以て国家の安寧を祈り、復(ま)た君臣の寿福を祝せん」(特定の宗派に固執することなく、仏教全体を活用して、国家の安寧を祈り、また君臣の寿福を祝う)という趣旨によって発願がなされました。そして造営しようとする寺の名は、「洪基(こうき)を東大に亜(つ)ぎ、盛業を興福に取る」(この大事業(即ち東福寺建立)のよりどころとした東大寺と隆盛を極めている興福寺から取って(あやかって))として、東大寺と興福寺の二大寺の名から各一字を採って名付けられたのでした。
東福寺の完成には、道家がその建立を思い立った嘉禎(かてい)2年(1236)から建長7年(1255)までの実に19年の歳月を要しています。工事半ばの寛元(かんげん)元年(1243)には、道家は宋から帰国して間もない円爾(えんに。後の聖一国師(しょういちこくし))を招いて開山に仰ぎ、同4年(1246)山内に普門寺(現在の普門院)を建てて常在所とし、円爾を迎え入れました。
東福寺は京都五山の一つに列せられ、同じく京都五山の一つである万寿寺は東福寺の塔頭(→建築用語)でもありました。
円爾
若き日
円爾は、建仁(けんにん)2年(1202)駿河国安倍郡藁科(静岡県安倍郡大川村字栃沢、現在の静岡市葵区栃沢)の米澤家の生まれで、5歳の時当時久能山(静岡市駿河区)にあった久能寺に母に連れて行かれ堯弁(ぎょうべん)法師に預けられました。15歳の時には、ある講座に出席した際に、その講師の僧侶が途中で説明に苦慮していると、円爾が代わって滔々(とうとう)と説明をしだしました。講師は円爾の説明に感心して「私は大変恥ずかしく思う」と言ったといいます。18歳になると近江の園城寺(おんじょうじ)で剃髪(ていはつ)し、その後東大寺に赴いて正規の出家となりました。
貞応(じょうおう)2年(1223)、22歳になった円爾は上野国世良田(こうずけのくにせらた。現在の群馬県太田市世良田)の長楽寺に赴いて、栄西禅師の法弟・栄朝に師事します。
寛喜(かんぎ)3年(1231)、鎌倉鶴岡八幡宮で行われた問答会(もんどうかい)に参加した円爾は、当時の能弁者として知られ「三井の大鏡」と敬称されていた頼憲僧正を論破し、出席していた僧徒らは円爾の才知に敬服したといいます。このことを機に円爾は、栄朝の許しを得て、宋に渡って修行をすることにします。
入宋
嘉禎(かてい)元年(1235)、33歳の円爾は肥前平戸(長崎県平戸)を出航し、入宋の途に就きました。それから6年後の仁治(にんじ)2年(1241)7月半ば、宋において径山(きんざん)にある万寿寺の無凖師範(ぶじゅんしはん。仏鑑禅師(ぶつがんぜんじ))の許で修行を行い、その法を継いだ円爾は博多に帰着しました。
湛慧
再会
当時大宰府の横岳山崇福寺(そうふくじ。仁治元年(1240)創建)に湛慧(たんえ)という僧がいました。湛慧は、かつて円爾と共に宋に渡り、無凖師範の許で禅門の修行をした人です。事情により湛慧は円爾より先に帰朝しましたが、その折円爾に対して、大宰府の横岳山に一伽藍を創建し貴僧の帰りを待つ、と約束していました。そして、円爾が博多に帰着した事を知ると、その約束どおり湛慧は円爾を横岳山崇福寺に迎え入れ、円爾から仏法を受ける一門下となりました。
道家に紹介
寛元(かんげん)元年(1243)1月、湛慧は京に上りました。とあることから湛慧は九条道家の二男、二条良実(よしざね)に面接する機会があったことから、良実を通して父の道家にも対面する機会を得ました。当時の九条家は、藤原一門ことごとく高位高官にある中で、特に道家はその中枢にあり、権勢並ぶ者がいませんでした。更に道家は、仏法を深く信奉し、禅門の帰依者であったことから、湛慧の名は知っていました。そしてその折の話の中で、道家が湛慧に「貴僧は何と申される禅師を師として道を開かれたのか」と尋ねると、湛慧は、「宋国・径山の無凖師範の法を継いだ円爾上人という帰朝僧の門弟となっています」、とこれに答え、加えて「その上人の智弁力量はとても拙僧に十倍する位ではありません」と紹介したのでした。先の延応(えんのう)元年(1239)7月に東福寺仏殿の立柱を行い、翌8月に上棟式を行って以来、開山とするに相応しい名僧を捜し求めていた道家は、是が非にでも京に迎えねばと固く心に決め、使いを大宰府に遣わして、円爾の上洛を請うたのでした。
聖一和尚
-東福寺-
翌2月、円爾は道家のひたすらな誘いに応じて京に上りました。そして円爾の法説を聞くにつれ湛慧の言ったとおり、その奥の深さ、幅の広さに感嘆し、法悦のあまり道家は円爾に僧正の法位を与えようとしたり日本国総講師に任じようとしたりしましたが、円爾は固辞したのでした。そのため道家は、聖人中の第一人者の意から「聖一和尚」の四字を書いて円爾に贈りました。これは、唐の代宋帝が径山の法欽(ほうきん)という僧に「国一」と贈った故知に倣(なら)ったものと伝えられています。
こうして円爾は道家が建立を進めている東福寺の開山となるのです。
円爾への尊信は道家にとどまらず、道家の正室で准后太夫(じゅんこうだゆう)である西園寺綸子(さいおんじりんこ)、二条良実、藤原兼経、相国藤原実氏(さねうじ)、衣笠の内府藤原良家以下文武官人など、当時権勢の中枢にあった藤原一門にあまねく及んだのでした。またこの頃(1243年)、日蓮が訪れて円爾を表敬しています。寛元2年(1244)秋8月、円爾がかつて師事した上野国長楽寺の栄朝に帰朝報告に赴くに際しては、道家は道中の身辺に配慮して備中国主行範(ゆきのり)を警護のために同行させたほどでした。その後も次第に円爾は、後嵯峨天皇、亀山天皇、後深草天皇、執権北条時頼など朝廷・鎌倉幕府の帰信をも次第に深めていきます。更には、延暦寺の天台座主慈源や東大寺の円照らを教導したことからその学徳は広く称えられて世の知るところとなり、円爾は一躍脚光を浴びることになったのでした。
東福寺落慶
ところで、仏殿の規模があまりにも広大であったことから東福寺の造営工事は容易に捗りませんでした。そのような中、建長4年(1252)2月、道家は東福寺の完成をみずにこの世を去ってしまいました(60歳)。その遺志は嗣子頼経(道家四男で鎌倉4代将軍)、一条実経(さねつね。同三男)、二条良実らによって引き継がれ、3年後の建長(けんちょう)7年(1255)6月2日、ついに藤原丞相実経(一条実経)によって東福寺は落慶開堂するに至ったのでした。
別れ
二階の天井には、東福寺の傑出した画僧明朝の絵画が描かれています。
三門の手前は思遠池。
弘安(こうあん)3年(1280)、円爾は79歳になっていました。2月初めに円爾は軽い病にかかりましたが、一日として勤行を怠ることはありませんでした。しかし10月17日の早暁、円爾は死期を悟ったのか、「現世に別れるときが来た。早く行ってこの事を藤原丞相実経に知らせよ。」と、傍に仕えていた僧・峻顕に告げました。そして一番鶏の鳴いた卯の刻(午前6時)頃に、参集した一山の大衆の前で、円爾は坐禅を結び、それから、用意された筆をとって末期の一句(遺偈(ゆいげ))を鮮やかにしたためると筆を投じ、79年の生涯の幕を静かにおろしたのでした。
利生方便
七十九年
欲知端的
佛祖不伝
弘安三年十月十七日
東福老珍重
(利生方便すること
七十九年。
端的に知を欲せんとすれば
仏祖は伝えず。)
(わしは、世の人々が、仏の教えに従って幸福と恩恵が得られるように願い、仏道に精進してはや七十九年の歳月が過ぎてしまった。性急に仏法を知ろうとしても、仏祖(釈尊)は導き教えてはくれなかった。)
この遺偈は現存するものとしては、わが国最古のものとして伝わっています。
円爾の没後、応長(おうちょう)元年(1311)に、花園天皇から聖一国師の勅諡号(しごう)が宣下されました。これはわが国で最初の国師号です。
明朝
吉山明朝(きちざんみんちょう)は正平(しょうへい)7年(1352)淡路国津名郡物部村(現在の兵庫県洲本市塩屋町)の大神家に生まれました。後に傑出した東福寺の画僧として、その才能を開花させます。 幼い頃から東福寺の大道一以(だいどういちい)に師事し、仏殿の清掃や香灯の管理、仏具の調達を受け持つ殿子(でんす)という低い階層に属し、終始兆殿子(ちょうでんす)と呼ばれていたといいます。また生来画を好んだとされ、画を描くのを好むあまり禅の修業を怠ったため師から破門され、それにちなんで破草鞋(はそうあい。破れわらじ)という号を自らつけたとも伝わっています。
明朝の描いた画は、龍を描けば天に飛び、不動明王を描けば火焔が燃え立つなどといわれ、また明朝が用いた絵具は世にも絶妙なものとされ、その色どりは当時の世の絵師も知らないものが多かったといわれます。分けても朱色が際立って優れているとされています。 明朝57歳の時の作と伝わる、縦15m、横8mもの大きさの「大涅槃図」は、現存する涅槃図のうちわが国最大の画幅を持つものとして知られています。これは毎年3月15日の涅槃会で公開されています。
明朝が描いた作品には室町幕府第4代将軍足利義持も驚かされ、明朝に「望むところがあれば何でも申し出るがよい」と言ったところ、「東福寺の宗徒が桜を愛するあまり、境内に多くの桜の木を植えれば東福寺は後世おそらく遊興の場となってしまうでしょう。よって、願わくばこれを禁じられたい」と答えたので、義持は大いに感激し、桜の木を切らしめたといいます。今日でも東福寺境内には細い桜の木がわずかに2,3本ある程度と言います。
明朝の描いた作品はそのほとんどが東福寺に今日にも引き継がれて残っており、東福寺と共に歴史を刻んだ彼の画家としての偉大さを伝えています。そのような明朝について、数年をかけて完成したとされる「五百羅漢図五十幅」の制作を始めた頃に郷里の母の病を知らされた時、仕事を中断して見舞いに帰ることができなかったために、自らの姿を水に映して描き、母への見舞いとして送った、というエピソードが言い伝えられています。
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紅葉に染まる渓谷・洗玉澗(せんぎょくかん)を東西に流れる三ノ瀬川
-東福寺-
【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。
【マップ掲載番号の説明】
- ※
- 図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
- 北門(図の左斜め上に隠れていますので、右斜め下にドラッグして下さい。)
- 仁王門(図の左斜め上に隠れていますので、右斜め下にドラッグして下さい。)
- 同聚院(どうじゅいん)
- 月下門
- 愛染堂
- 普門院
- 常楽庵(開山堂)
- 龍吟庵
- 三ノ瀬川
- 偃月橋(えんげつきょう)
- 通天橋(僧が本堂(図中番号18)から開山堂(図中番号7)に行くのに渓谷(洗玉澗)を渡ることから解放する為に架けられた橋。)
- 臥雲橋(がうんきょう)
- 洗玉澗(本堂(図中番号18)から開山堂(図中番号7)に至る途中にあって三ノ瀬川に沿って走る渓谷。)
- 中門
- 日下門
- 殿鐘楼(でんしょうろう)
- 経蔵(きょうぞう)
- 本堂(仏殿兼法堂)
- 方丈
- 庫裏(くり)
- 鐘楼
- 十三重石塔
- 五社成就宮
- 浴室
- 三門
- 禅堂
- 東司(とうす。禅宗式の便所で雪隠(せっちん)とも言われます。)
- 六波羅門(北条氏の六波羅政庁にあったものが移されたものです。)
- 勅使門
- 南門
図の操作について
- 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
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近隣の観光スポット情報
東隣には泉涌寺(せんにゅうじ)、東福寺の中門(上記「境内概観図」の図中番号14)或いは南門(同図中番号30)を西に少し出た所で南北に通る道を南へ行くと伏見稲荷大社、同じ道を北へ少し行き九条通に沿って西に行くと東寺があります。


