
龍安寺石庭
土塀の右上に枯れたように見える木はシダレザクラで、春になって満開の頃を迎えると見事な姿を見せてくれます。
龍安寺は、室町幕府で足利将軍を補佐した細川勝元が妙心寺第五世住持の義天玄承(玄詔)を開山として創建したものです。妙心寺の境外塔頭でもあります。
朱山をはじめとした山々を背にし風光明美な地にある龍安寺は、春の桜、夏の青葉、秋の紅葉、冬の降雪と四季折々の顔を見せ、一年を通じて多くの人が訪れます。
注目すべきは龍安寺には今日においても、基本的であるが故に重要な点で未解明の部分があることであり、特に方丈前の石庭は世界遺産として登録されていることからも世界的に有名である一方、謎に包まれた庭園であることでも知られています。
出会い
勅使門
細川勝元は、足利将軍を補佐し政務を総括する室町幕府の管領職も務めた父・持之(もちゆき)の死により13歳で家督を継ぎました。そして弱冠16歳で自らも管領職に就任しました。 そして管領職には畠山、斯波、細川の足利一門の三家が交代で就任していました。
- 管領職の変遷
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- 嘉吉2年(1442)〜文安2年(1445)
- 畠山持国
- 文安2年(1445)〜宝徳元年(1449)
- 細川勝元(16歳で就任)
- 宝徳元年(1449)〜享徳元年(1452)
- 畠山持国
- 享徳元年(1452)〜寛正5年(1464)
- 細川勝元
- 寛正5年(1464)〜応仁元年(1467)
- 畠山政長
- 応仁元年(1467)〜応仁2年(1468)
- 斯波義廉(しばよしかど)
- 応仁2年(1468)〜文明5年(1473)
- 細川勝元(死去)
細川勝元が16歳で八代将軍足利義政の管領職に就任した当時、畠山持国は48歳、後年「応仁の乱」で細川勝元と敵対関係になる山名宗全は42歳、その他、斯波、大内、京極、一色、六角などをはじめとして、そうそうたる守護大名がひしめいていました。中でも、畠山持国は細川勝元以上の力を誇っていたとされ、加えて犬猿の仲であったとも言われています。
そのような状況の中で、若い細川勝元が求めて止まなかったのが、自分を導いてくれる人生の師、とも言うべき人だったのです。その人こそが義天玄承でした。細川勝元は、若くして禅門に傾倒していたといいます。
宝徳2年(1450)、当時21歳であった細川勝元は父・持之の墓参に嵯峨天龍寺の塔頭弘源寺へ行った帰りに、義天玄承が妙心寺の塔頭養源院に住する事を聞いて急遽立ち寄ったといいます。義天玄承は、養源院などを建てて妙心寺中興の祖と称される第四世住持日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)の法嗣(はっす。師から仏法の奥義を受け継いだ者。)で、日峰が亡くなってからはその養源院に入って妙心寺を守っていたのです。そして細川勝元の父・持之は臨終の折、その日峰に生死(しょうじ)の一大事を問い、大安心(だいあんじん)を得て亡くなったという因縁があったのです。
父と日峰とのつながり、そして日峰と義天玄承とのつながり、こうしたつながりの中で細川勝元が義天玄承を訪問した事がきっかけとなって、細川勝元が義天玄承を次第に参礼するようになり、以後、細川勝元の義天玄承に対する尊敬の念は深くなっていったのでした。
龍安寺開創
龍安寺垣
紅葉と龍安寺垣
(写真下)庫裏の前の石段。石段の両脇には龍安寺垣が据えてあります。秋が深まってくると龍安寺の参道は紅く染まったモミジで覆い尽くされます。
龍安寺の寺地は、天元6年(983)、円融天皇が建立した円融寺の旧跡に当たります。円融寺は四円寺(しえんじ。円融寺、円教寺、円乗寺、円宗寺の四寺。)の一寺として知られています。その後円融法皇亡きあとは一時衰退しますが、風光明媚な所であったことから左大臣藤原実能(さねよし。1096年〜1157年)が山荘を営んで徳大寺を建立しました。この「徳大寺」の名が家名となり、後には権大納言徳大寺公有(きんあり)が所有していました。朱山を背にし、当時二十万坪あったといいます。そしてその広大な敷地を細川勝元が徳大寺公有から譲り受け、帰依していた義天玄承を開山として迎えて創建したのが龍安寺です。
ところで、『扶桑京華志』(ふそうけいかし。寛文5年(1665)成立)によると、
「寄セニ事ヲ於修善ニ一預修スニ要砦ヲ一今ノ龍安寺是也」
(修善に事寄せて、要砦を預修、今の龍安寺是なり)
とあり、細川勝元は自分を取り巻く状況、特に畠山持国との敵対関係から、当初龍安寺のこの地に戦闘に耐えうる砦(館(やかた))を築こうとしていたことがうかがわれます。この朱山の中腹に館を築けば、その地の利を生かして防御に最適な陣形とされる「鶴翼の陣形」をとることが出来るとの考えもあります。
しかし義天玄承との交流が深まるにつれて、細川勝元は義天玄承を迎えて一寺を築くことにしたのでした。
龍安寺の寺号
紅葉に覆われた鏡容池の畔の大珠院
細川勝元がいかに義天玄承に傾倒していたかを象徴する逸話に次のような話があります。
龍安寺建立後、細川勝元が義天玄承を開山として龍興寺(丹波)を建立した際、寺の普請に当たっては義天玄承と二人で畚(もっこ。竹・わら・縄などで網状に編み、四すみにつりひもをつけ、物を入れて運ぶ用具。)まで担ぎ、自ら土を運んだと伝えられています。また、義天玄承を紫衣(しえ。※)に奏請(そうせい)して勅許を取りつけることもしています。当時室町幕府の庇護を受けその統制下にあった京都五山(天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、萬寿寺)に対して、格下とされ、林下(山隣派とも。幕府の庇護を受けず、五山とは一線を画した在野の寺院)として京都五山から黒衣しか許されなかった妙心寺にとっては、紫衣を授かったことにより京都五山と並ぶお墨付きを得たことになったのでした。
かつて中国・北宋(960年−1127年)の時代に張商英という宰相がいました。張商英は、仏教を深く信仰していた夫人に勧められ、たまたま中国南東部の江西(こうせい)に行った時に、龍安山の兜率寺(とそつじ)で、従悦(じゅうえつ)禅師に会い、仏教について教えを受けて深く感銘したと伝えられています。
龍安寺という名称は、この中国の故事に因(ちな)んで、義天玄承と細川勝元の交友が、従悦と張商英との関係とよく似ていることから名付けられたものと伝えられています。
- ※紫衣・・・
- 天皇から高位・高徳の僧に与えられる紫の法衣。
石庭の謎
国の史蹟・特別名勝にして世界遺産にも登録されている枯山水庭園。庭園としては決して広いとは言えない東西約25メートル、南北約10メートル(約75坪)の敷地に、庭石と白砂のみで構成された龍安寺の石庭は、昭和50年(1975)に、エリザベス女王がこの石庭を訪れた際に絶賛し、それがBBC(英国放送協会)を通じて世界に報じられたことから、日本を代表する庭園として海外にも名を馳せることになりました。

石庭を囲っている築地塀は、土を大釜で煮て、その土に塩のニガリを混ぜて叩きしめて造られたもので、非常に堅固な塀であるといいます。黒ずんだ複雑な紋様が浮き出たこの築地塀は油土塀とも称され、かつて方丈が火災にあった際に、その火炎や熱によって浮き出てきたものと言われています。写真9(写真3の右側部分)で、まるで人が歩いているようにも見えるのは全くの偶然にこうなったものといいます。
第二群(下記イラスト図参照)の石組にある油土塀寄りに組まれた細長い横石(下記イラスト図中の7番の石)の裏には「小太郎、清(彦)二郎」という、石庭の工事にかかわったとされる二人の名が刻まれています。清二郎の「清」の部分は判別しにくく「彦」とも読めるといいます。

しかし龍安寺の石庭については、江戸時代、山科道安(侍医)によって著された『槐記』(かいき)の享保14年(1729)5月18日の条に、近衛家凞(このえいえひろ)が龍安寺石庭を見て次のような感想を述べたことが記されています。
「大徳寺中ニモ相阿弥ガ作ノ庭アリ、今日ヨリ見テハ、合點(がてん)ノイカヌモノナレドモ、ソレニモイカフ法ノアル事ノ由也。」
これは関白・太政大臣を歴任し政治家としても第一人者であり、尚且つ茶道・香道・花道・詩歌・和歌・書道及び和漢の学にも通じ、当時第一級の文化人・教養人として知られた近衛家凞が石庭の解釈に苦しんでいることを吐露したのを記述したものです。
また、大山平四郎氏はその著『龍安寺石庭』(平成7年刊)のまえがきで、石庭について次のように述べています。
「それでは評判通りに傑出しているかといえば、自信をもって高く評価し得る人がいない。かといって愚作であるかと問うても、愚作といいきれる者もいない。結局、昔から優れているといい伝えられているので、その伝承を鵜呑みにしているだけである。」
要するに正直なところ専門家の目をもってしてもよく分からないということなのでしょうが、このような石庭についての評価にもまして、石庭そのものがいつ、誰によって、どのような意図で作庭されたのか、そして石庭をとりまく油土塀の背の低さは何を意味するのか、といったことさえ明確なことは分かっていないのです。とはいえ、一度ならずまた来て見てみたいと思うような神秘的な庭園でもあります。
以下は、石庭についてその作庭の時期、作庭の意図、作庭者として今日までに挙げられたものの一例で、既に消えていったものもあります。
作庭時期
石庭を囲う油土塀の外側(南面部分)
- 龍安寺は、室町中期の宝徳2年(1450)管領細川勝元によって建立され、この時に石庭も造られたという説
- そもそも龍安寺建立は長禄2年(1458)から寛正3年(1462)までの5年間の間に成されたものである。したがって、石庭の作庭はこれ以降で、しかもそこから160年以上下った江戸初期の元和5年(1619)以降とする説。
- 文明年間(1469〜87)の作庭説
作庭意図
方丈内部
龍安寺石庭を描いた最古の絵
この絵には、石庭に入って一人の案内僧が4人の見物客に説明しているような場面が描かれています。そして現在の油土塀にはない柱が、等間隔に描かれているのが目を引きます。
- 配石について
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- 虎の子渡しを表現しているという説
「虎の子渡し」は、苦しい状況を何とかやり繰りすることの喩えとして使われますが、元は中国・宋の『癸辛雑識』(きしんざっしき)に載っている故事で、親虎が三匹の子を連れて川を渡る時苦労して無事渡した話として伝わるものです。つまり「虎が三匹の子を産むと、一匹が彪(ひよう)で他の子を食べてしまおうとするので、川を渡るときに親は先ず彪を対岸に渡した。それから置いてきた2匹の所に戻り、そのうちの一匹を彪のいる対岸へ渡した。残りの一匹が残っている所へ戻るときには彪を連れ帰り、今度は彪をそこに残して残る一匹を渡した。再び戻って最後に彪を渡した。」というものです。結局親虎は対岸へ渡る毎に3往復半することになりますが、障害を安全に切り抜けるには智慧を働かせることで何とかやり繰りすることもできる、解決できる、ということの教えなのでしょうか。 - 五群の石組の配置が漢字の「心」を表しているという説
(上記「石庭の石組と配置」のイラスト参照)第一群の石組を点として、第二群と第五群の石組を結び、第三群と第四群の石組をそれぞれ点として漢字の「心」の形に配石されているというもの。 - 七五三配石説
日本では「一・三・五・七・九」の奇数が陽数、すなわちおめでたい数とされており、一と九に挟まれたその真中を取ったものであるというもの。第一群と第二群の石で「七」個、第三群と第四群の石で「五」個、第五群の石で「三」個からきているものです。 - 扇形配石説
五群の石組が方丈の中央を要として扇形線上に配置されているというもの。そして広縁から見ただけではせいぜい14個までしか見ることのできない石が、方丈の中央にあるその扇の要から石庭を見ると、15個の石全てが見えるとも言われています。(一般拝観者は方丈の中央に入ることはできません。)
- 虎の子渡しを表現しているという説
- 油土塀の背が低いのは・・・
- 延宝9年(1681)以降、石庭の油石塀南側の背後は高い老松などでその向こうにある風景を眺めることが出来なくなったとされています。現在でもそうです。ただ石庭ができた当初は、油土塀の背の低さから方丈に坐したままでも石庭の後方には外景、すなわち近くには京都市内、遠方には京都三山の一つ西山などを望むことができ、借景を得てはじめて鑑賞しうる石庭ではないのかという説。
作庭者
「吾唯足知」と彫られた蹲踞
水戸光圀(みつくに。水戸黄門)が『大日本史』の編纂に際し、塔頭の西源院に伝わる『太平記』(重要文化財)を借りたことに対する謝礼として寄進されたものと伝えられています。
「吾唯足知」とは、仏遺教経(お釈迦さまの遺言のお経)の「知足のものは、貧しといえども富めり、不知足のものは、富めりといえども貧し」という教えを、うまく図案化したものとされ、その意は、決して欲を出さず、現実を受け入れるということではなく、物事は自分の思い通りに運ばないのが常であり、それらを常に試練と受け止め、これに立ち向かう力を身につける一方で、常に満足する心を忘れてはいけない、というのがその教えとされています。
方丈北東角の庭に置かれて一般公開されているこの蹲踞は実物大の複製品で、オリジナルは茶室・蔵六庵(通常非公開)にあります。
- 義天玄承(1393年〜1462年。室町時代、臨済宗の僧。妙心寺第五世住持。)
- 般若房鉄船(生没年不詳。はんにゃぼうてっせん。鉄船宗煕(てっせんそうき)。室町時代・戦国時代、臨済宗の僧。文明14年(1482)に創建された妙心寺塔頭多福院の開祖。)
- 特芳禅傑(1419年〜1506年。室町時代・戦国時代、臨済宗の僧。義天玄承らに師事。)
- 細川勝元(1430年〜1473年。室町時代の武将、室町幕府管領。)
- 細川政元(1466年〜1507年。戦国時代の武将、室町幕府管領。細川勝元の嫡男。)
- 相阿弥(生年不詳〜1525年。足利義政に仕えた同朋衆(どうぼうしゅう)。)
- 子建西堂(1486年〜1581年。しけんせいどう。西芳寺(苔寺)住職。室町後期から安土・桃山時代にかけての僧。)
- 小太郎、清(彦)二郎(?年〜?年。石庭にある石の裏に刻まれている名。)
- 小堀遠州(1579年〜1647年。徳川幕府初期の武将、茶人。江戸初期の作庭家。→庭園作家)
- 金森宗和(1584年〜1656年。かなもりそうわ。江戸初期の武士・茶人。茶道宗和流の祖。)

紅葉に映える鏡容池と弁天島
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名称 | 龍安寺 |
| 所在地 | 京都市右京区龍安寺御陵下町13 |
| 山号 | 大雲山 |
| 宗派 | 臨済宗妙心寺派 |
| 本尊 | 釈迦如来 |
| 寺格 | 妙心寺塔頭 |
| 創建年 | 宝徳2年(1450)(「石庭の謎」に記載の「作庭時期」を参照) |
| 開基 | 細川勝元 |
| 開山 | 義天玄承 |
| 文化財 |
|
【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。
【マップ掲載番号の説明】
- ※
- 図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
- 山門
- 鏡容池
- 伏虎島(ふしこじま)
- 弁天島
- 水分石(みくまりいし)。池の中から頭を出している2個の石で、景色にアクセントを付けるとともに、池の水量を測る役目を果たしていると言われています。マップ下の「地図」を「航空写真」に切り替え、一番大きな縮尺でご覧ください。
- 霊光院
- 石の大仏
- 放生池
- 梅枝庵
- 石段1(マップ下の「地図」を「航空写真」に切り替えてご覧ください。)
- 石段2(マップ下の「地図」を「航空写真」に切り替えてご覧ください。)
- 石段3(マップ下の「地図」を「航空写真」に切り替えてご覧ください。)
- 庫裏(くり)
- 茶室蔵六庵。「蔵六」とは亀の別名で、頭、尾、四肢の六つを甲羅の中に隠すところからこの名が付いたといいます。
- 豊臣秀吉が賞賛したと伝えられる日本最古の侘助椿(わびすけつばき)
- 方丈
- 「吾唯足知」の蹲踞
- 石庭
- 勅使門
- 昭堂(開山堂)
- 仏殿
- 鐘楼
- 細川廟
- 西の庭
- パゴタ
- 涅槃堂(ねはんどう)
- 回遊庭園
図の操作について
- 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
- 図の左にある+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
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- 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
- 最初の状態に戻すには、キーボードのF5キーを押下してください。
近隣の観光スポット情報
龍安寺の南を東西に通っている「きぬかけの道」を東へ行くと鹿苑寺(金閣寺)〜世界遺産〜、西へ行くと仁和寺〜世界遺産〜があります。歩いても訪れることのできる距離です。更に、仁和寺前から府道29号線に沿って西へ行くと広沢池、大覚寺を通って嵐山の方へ向かうことができます。こちらは歩きではしんどいでしょうね・・・。


