
五重塔、南大門、鎮守八幡宮
東寺は平安京遷都にともない、西寺(さいじ)と共に創建されました。後に、東寺は空海に下賜され、空海はこの寺を教王護国寺と名付けました。そして金堂を除く、主要な諸堂の建立に心血を注ぎました。
東寺には創立当時のままで現存する建物はありませんが、重要な建物のほとんどがその位置・規模・姿を踏襲して、1200年もの間、創建当時とほぼ変わらない伽藍配置で今もたたずみ、加えてその寺地も厳格に守られてきました。大極殿、羅城門、そして東寺と共に創建された西寺といった平安京造営時のものが今は史跡としてしか残っていない中で、東寺は、平安京草創の原点を地上に示す唯一の建造物群となっています。
東寺草創
慶賀門(東門)
この門を出入りする人は多く、近くの学校に通う学生さんもよく通行しています。
重要文化財。
平安京遷都
延暦13年(794)、桓武天皇によって山背国(やましろのくに。遷都の宣言と同時に詔が出され「山城国」と改められます。)葛野(かどの)・愛宕(おたぎ)両郡にまたがる、鴨川・桂川間の盆地北部(現在の京都市の中心部)に新しい都として建設された平安京は、唐朝の国都であった長安をモデルとして造営され、その規模は東西が約4.5km、南北が約5.2kmの長方形で、碁盤目状に区画されていました。
造営は直ちにはじめられ、まず大内裏(だいだいり)の建設が着手されました。大内裏は、皇居である内裏と公的な儀式や政務を司る朝堂院(ちょうどういん)や、大嘗会(だいじょうえ)、競馬(くらべうま)、相撲(すまい)などの儀式や海外からの使節の謁見といった公式の宴会を執り行う豊楽院(ぶらくいん)など二官八省の役所より形成されていました。とくに朝堂院の正殿である大極殿(だいごくでん)は天皇が政務を執り行う場所として、平安京を象徴する最重要な建物でした。国家の運営は朝堂院なくしては成り立たないため、朝堂院の完成が第一に考えられたと見られています。
平安京の表玄関は都の南側、九条大路に面して建つ、威風堂々とした二重楼閣の羅城門(らじょうもん)で、屋根は瓦で葺(ふ)かれ、朱色の柱、白い壁で構成されていたといいます。二階の部分には都を外敵から護る神として、兜跋毘沙門天像(とばつびしゃもんてんぞう)が安置され、外敵に睨みをきかせていたのでした。
その羅城門を挟んで東と西に巨大な鎮護国家の寺院として建てられたのが、東寺と西寺です。東寺という名称は、羅城門を挟んで東の寺という意味から付けられたもので、西の寺は西寺でした。また大内裏から南を向いて、東寺は左にあることから左大寺ともいわれ、西寺は右大寺ともいわれました。ちなみに、右京、左京というのも朱雀大路(すざくおおじ)を境に大内裏から南を向いて左右どちら側にあるかの意から、西側を右京、東側を左京というように付けられた呼び名です。
そして、平城京時代に奈良の仏教寺院が政治に介入したことを踏まえてそれを防止する為に、平安京遷都当初は、平安京内での寺院の建立は東寺と西寺以外に許可はされませんでした。
南北朝時代における東寺最高の学僧で、東寺塔頭・観智院(かんちいん)第一世の杲宝(ごうほう)が、観応3年(1352)、東寺の創建から室町時代に至る寺史を纏(まと)めた『東宝記(とうぼうき)』は、東寺の草創についてその冒頭で「或る記」が次のように記していると伝えています。
「一 東寺草創事
或記云、桓武天皇御宇、延暦十三年、平安城遷都、同十五年、以ニ大納言伊勢人一、為ニ造寺長官一、建ニ東西両寺一。近即左右二京之安鎮、遠又東西両国衛護也・・・」
(延暦13年(794)、桓武天皇が平安京遷都を行った2年後の、延暦15年(796)、大納言藤原伊勢人(いせんど)を造寺長官(建設工事責任者)に任命して、東寺と西寺の両寺を建立させた。その建立の目的は、左右二京を安んじ、日本の東西両国を護る鎮護国家のためであった。)
大納言藤原伊勢人という人物は鞍馬寺を創建した人でもあります。
東西約255m、南北約515mの広大な敷地での伽藍配置は東西両寺ともほぼ同じであり、南から北へ南大門、中門(現在は存在しません。現在の金堂前にある燈籠周辺にあったとされています。)、金堂、講堂、食堂と並んでいました。ただ五重塔だけが左右対称を保つため、東寺は南東の隅に、西寺は南西の隅に計画されていました。
造営の遅れ
さて、東寺の建設は、金堂から着手されましたが、いつ完成したのか、はっきりしたことが分かっていません。おそらく弘仁(こうにん)14年(823)(この年に東寺が空海に下賜されています。⇒「2.東寺の下賜」参照)ごろまでには完成していたのではないか、といわれています。
しかし、平安京の重要建築物として建設がはじめられた金堂の完成が、東寺の創建からおよそ27年もの歳月を要したということは、東寺の造営がかならずしも順調に進まなかったのではないかと考えられています。他の諸堂も手つかずの状態だったようです。
当時、桓武天皇は二大政策を推し進めていました。
ひとつは平安京の造営です。ただ先の延暦3年(784)の長岡京遷都(山背国乙訓(おとくに)郡)に続くこの度の平安京遷都と、10年余りのうちに遷都が二度も行われたことになります。
二つ目はおよそ10万の兵を派遣したとされる蝦夷征伐、つまり軍事です。
これらの政策は当然のことながら民に多大の負担を強いることになり、また財政も圧迫していきました。そしてついに桓武天皇は延暦24年(805)、「徳政相論」と言われる議論、即ち徳のある政治とは何かについての議論を大臣達に行わせた結果、平安京の造営と蝦夷征伐(軍事)を中止することを決断しました。このことは官寺(国営の寺)として創建された東寺と西寺の造営にも少なからず影響を与え、完成の遅れをもたらす結果ともなりました。
東寺が現在のような伽藍配置をもつようになるのは、嵯峨天皇が空海と出会ってからのことになります。

金堂
金堂とは、金色に装飾された堂内に金色に輝く本尊が安置された、寺院の本堂のことです。金堂には本尊の薬師如来坐像、脇侍(きょうじ)日光菩薩像・月光(がっこう)菩薩像の薬師三尊像が安置されています。
東寺の伽藍配置はこの南大門から北にある北大門に向かって、金堂、講堂、食道と一直線に配置されています。この三伽藍は仏(ぶつ)、法(ぽう)、僧(そう)に値するといわれます。仏宝僧は三宝(さんぽう)といわれ、仏教で大切な三つの宝を表しているといいます。即ち、金堂で仏に出会い、講堂で法に出会い、食道で僧に出会うということです。
金堂前にある大きな燈籠周辺には当初中門があったとされています。
国宝。
東寺の下賜〜空海に与えられた理由〜
小野道風ゆかりの柳と宝蔵
柳の後ろに見えるのは宝蔵です。
ブームとなった密教
延暦23年(804)、空海は遣唐使の留学僧(るがくそう。留学期間20年。)として唐に渡ります。この時派遣された遣唐使船は4隻で、空海は遣唐大使・藤原葛野麻呂(かどのまろ)、そして後に空海、嵯峨天皇と共に三筆のひとりに数えられる橘逸勢(たちばなのはやなり)ら23名とともに第一船に乗船していました。第二船には後に天台宗を開宗する最澄が乗っていました。最澄は天台教学の奥義を学び、多くの貴重な経典を携えて約1年後の延暦24年に帰国しました。この時最澄は密教も持ち帰っています。そしてこの密教に朝廷の人々は関心をもつようになり、ブームとなって広まったといいます。
一方、空海は2年後の大同元年(806)に帰国しました。20年の留学期間が義務付けられていたため「闕期(けつご)の罪」(闕は「欠ける」の意。既定の20年という期間を守らずに2年で終わらせてしまったという罪。)に問われる中での帰国でした。帰国後九州の大宰府に留まっていた空海は、大同4年(809)入京を許されると、高雄山寺(現在の神護寺)に入り活動を開始します。そしてこの年は嵯峨天皇が即位した年でもあります。
空海が高雄山寺に入って1ヶ月程して最澄から密教経典を貸してほしいとの書面が届き、それから密教についてのやりとりが始まります。最澄は、空海が朝廷でブームとなっている密教の正当伝承者であることを知っていました。
嵯峨天皇からの厚い信望
空海が高雄山寺に入った翌年の大同5年(810)、薬子の変(平城太上天皇の変)が起こります。空海は造営途中にあった東寺の鎮守八幡宮(ちんじゅはちまんぐう)で、薬子の変の早期鎮静化を祈りました。
弘仁7年(816)には、空海は修禅(しゅぜん)の道場として高野山の下賜を嵯峨天皇に請います。20日後には勅許がおりました。これは異例と言っていい程の早さだったと言われています。ここに高野山の開山に向けての空海の活動が始まりました。
ところで、朝廷は弘仁12年(821)、これまで容易に完成しなかった讃岐国(現在の香川県)にある満濃池の改修工事を空海に託します。讃岐国は空海の故郷でもあります。空海は、工事に携わる地元の農民に溶け込んで強いリーダーシップで導き、無事にしかも短期間で工事を成し遂げ、この地方の灌漑用水を確保するのに多大の貢献をしたのでした。
- 薬子の変(平城太上天皇の変)
-
元来病弱なことから身体を壊し、大同4年(809)嵯峨天皇に譲位後平城京にて静養していた平城上皇(へいぜいじょうこう)は、その健康も回復したことから再び政権を掌握しようとして、大同5年(810)、平安京を廃して平城京に皇都を遷すとの命を下しました。しかしその策略の裏には、平城上皇の寵愛を受けていた藤原薬子(くすこ)とその兄、藤原仲成(なかなり)がいました。これは薬子の変(平城太上天皇の変)として知られているものです。
嵯峨天皇の「遷都のことにより、人心騒動す」ということばをきいた空海は、造営途中にあった東寺の鎮守八幡宮(ちんじゅはちまんぐう)で、薬子の変(平城太上天皇の変)の早期鎮静化を祈ったといいます。
結果として藤原仲成は射殺され、薬子は服毒自殺し、平城上皇は剃髪して仏門に入り、無用の争いを避けることができたのでした。
こうして嵯峨天皇の皇位は安泰となったのでした。
その後仏門に入った平城上皇は空海の灌頂を受けています。また平城上皇の皇子、高丘親王は皇子を廃されて仏門に入り、空海の弟子となります。法名は真如(しんにょ)となりました。
- 戻る
- 満濃池の改修工事
-
香川県に日本最大の灌漑用溜め池として知られる満濃池と呼ばれる大きな人工池があります。この池は四方を山に囲まれ、雨が降ればそこから流れ出てくる雨水を溜め、農業用水として利用されているものです。しかし昔は大雨が降れば堤はもろくも決壊し、大災害を引き起こしていました。空海在世の折もそうでした。
そこでかつて入唐の際に、当時の最新の土木技術を学んでおり、しかも讃岐国(香川県)は故郷でもあるというところから空海に満濃池の改修工事を任せてはどうかという話が朝廷内に出たことから、弘仁12年(821)、改修工事の現場監督に任命されることになりました。空海は、工事に携わる地元の農民に溶け込んで強いリーダーシップで導き、約3ケ月という短い期間で強固な堤を構築したといいます。
- 戻る
このようなことから空海は、嵯峨天皇から多大の恩寵を受けるようになります。また、中国文化にも多大の関心を示し文人肌でもあった嵯峨天皇は、詩や書においても空海との趣味が合ったことなどもあって、空海を文人としても、また人を引き付け強いリーダーシップを発揮する人としても高く評価したのでした。
そのような中で、東寺の造営が遅々として進まないことを憂えていた嵯峨天皇は、弘仁14年(823)に、東寺の造営と経営を空海に託すことを決めます。嵯峨天皇は官寺である東寺を鎮護国家の修法を行う真言密教の道場とすることを決断したのでした。こうして空海の真言密教寺院としての東寺の歴史が始まることになりました。
後に空海は東寺に「教王護国寺」と名付けます。教王護国寺という名は、入定6日前の承和2年(835)3月15日に25箇条にわたって空海が誡めとして弟子に書き残した遺言とされる『御遺告(ごゆいごう)』のなかの第五条「東寺を教王護国の寺とすべき縁起」で空海自らが命名し、つぎのように述べています。
「夫以大唐恵果大師奉レ勅青龍寺師々相傳、元名ニ大官道場一、然而大興善寺大阿闍梨耶、被レ勅為ニ秘密之場一、改号ニ青龍寺一、方今准レ彼、以ニ東寺一可レ号ニ教王護国寺一、額是既奉レ勅而巳」
(そもそも思いめぐらしてみれば、大唐の恵果(けいか)という偉大なる師は勅令によって青龍寺(しょうりゅうじ)を代々の師から受け継いだのである。元は大官道場(だいかんどうじょう)と名付けられていたが、大興善寺(だいこうぜんじ)の不空三蔵が勅命をいただいて(真言)秘密の道場とし、青龍寺と名を改めた。まさにいま、かの故事にならって、東寺を教王護国寺と名づくべきである。勅額はすでに賜っている。)
ちなみに、西寺はあくまで官寺であったことから東寺のような別の名はありません。
諸堂の造営に着手
さて、東寺が空海に下賜された弘仁14年の時には、その敷地の中に完成していたのは金堂のみだったといいます。ただこの時の金堂の建立年代は現在も定かではありません。そして翌年の天長元年(824)に空海は造東寺別当に任命され、天長2年には講堂造営に着手し、翌天長3年には五重塔造営に着手していきました。
諸堂の造営に当たって空海は朝廷の当初の伽藍配置を踏まえつつも、密教寺院ならではの要素を入れるべく弱冠手直ししたとされます。それが密教に無くてはならない堂舎である灌頂院の造営です。空海は東寺の南東に配された五重塔に相対する南西の位置にこの灌頂院を建てるように設計変更したのでした。
空海は寺院造営に精力的に取り組んで飛躍的に進展させましたが、それでも在世中に諸堂が完成したわけではありません。空海は承和2年(835)3月21日(新暦では4月21日)に高野山で入定しましたが、その年に東寺の講堂がほぼ完成、承和10年(843)頃までには灌頂院、食堂も出来上がりました。そして五重塔が完成したのは空海入定からおよそ48年後、着工からおよそ57年後の元慶(がんぎょう)7年(883)頃でした。ここに東寺の主要な堂宇がほぼ整うことになります。東寺の創建から80年以上もの年月が経っていました。

御影堂(大師堂)(北面)
御影堂の南面には空海が製作した念持仏である不動明王坐像が秘仏として祀られています。平安時代末期、第42世東寺長者、寛信師が像の光背を修理したところ、直後に空海が入寂したことから、以来一切御開帳が無いとされています。秘仏とされる所以です。
一方御影堂の北面には、空海の身近にいた真如が描いた空海の肖像画を基に、運慶の子で仏師の康勝(こうしょう)が彫った弘法大師坐像が安置されています。この坐像はその後の弘法大師像の見本とされています。
国宝。
平安京の衰退、東寺と西寺の明暗
東寺縁日・弘法さん〜慶賀門より望む〜
東寺縁日・弘法さん〜灌頂院東門の前〜
1月21日に開かれる市は「初弘法」と呼ばれ、12月21日に開かれる市は「終い弘法」と呼ばれます。
羅城門の倒壊
羅城門は、弘仁7年(816)、大風によって倒壊してしまいます。この時は再建されましたが、平安時代中期における次の天元(てんげん)3年(980)の際の大風によって倒壊してからは再建されることはありませんでした。
羅城門は二重楼閣の門で、その二階には平安京の守護神として高さ1m89.4cmの兜跋毘沙門天像が安置されていました。倒壊したままの羅城門で兜跋毘沙門天像は瓦礫の中にうずもれていたといいます。ところが運よく誰かの手によって、兜跋毘沙門天像は瓦礫の中から掘り出され、東寺に運ばれました。
東寺では兜跋毘沙門天像を、千手観音菩薩像が本尊として祀られている食堂(じきどう)に安置しました。後に御影堂の南側に毘沙門堂が建てられ、ながくここを住まいとすることになります。 現在、兜跋毘沙門天像は東寺の宝物館に展示してあります。
かつては平安京の守護神として目を光らせていた兜跋毘沙門天は、いまでは京都の「都七福神」として、ゑびす(京都ゑびす神社)、寿老人(行願寺)、大黒天(妙円寺)、毘沙門天(東寺)、福禄寿(赤山禅院)、弁財天(六波羅蜜寺)、布袋(萬福寺)の七福神めぐりの一員に加わっています。

羅城門遺址
西寺、五重塔だけ残る
羅城門がなくなってから十年後の正暦(しょうりゃく)元年(990)2月2日、原因不明の出火により、西寺から火の手があがりました。火は衰えることはありませんでした。伽藍配置は東寺とほぼ変わらなった西寺の金堂、講堂、食堂、そして諸仏も、経典もことごとく灰と化してしまいました。ただ焼け跡にその雄姿を残した唯一のものが五重塔でした。
西寺は、東寺が空海に下賜され密教の根本道場となった後も、鎮護国家のための官寺としてその役割を担ってきました。羅城門に続いて西寺も滅亡の危機にさらされようとしていました。
大内裏の焼失→事実上、平安京の滅亡
平安時代も末期になった仁安(にんあん)3年(1168)2月13日、平安京は大火にみまわれます。
その大火から9年後の治承(じしょう)元年(1177)4月28日、再び平安京は大火につつまれます。平安京の東、樋口富小路にあった芸人の宿舎から出火したとされる火は、風にあおられてまたたくまに広がり、大極殿を含めた大内裏を焼き尽くしてしまったのでした。
ここに大内裏は消滅することになります。以後再建されることはありませんでした。
羅城門が倒壊し、西寺が焦土化し(五重塔だけが残っています)、大内裏も焼失することにより、事実上、平安京は滅亡したことになります。
ただ一つ残ったのは、朽ち果てた東寺だけでした。
存亡を分けた天福元年
天福(てんぷく)元年(1233)、東寺長者の親厳(しんごん)は、弘法大師像の製作を運慶の四番目の子で仏師の康勝(こうしょう)に依頼しました。基になったのは、空海の身近にいた真如が描いた空海の肖像画でした。こうして空海は、康勝の手によって在りし日の姿となって現れ、同年10月15日、空海の住まいだった西院不動堂に安置されました。
ここに東寺は、新しい時代の一歩を築くことになったのでした。鎮護国家の寺院という役割に加え、あらたに弘法大師の信仰が生まれる可能性を得たのです。
このとき康勝が刻んだ弘法大師坐像(国宝)は、現在西院御影堂(にしのいんみえどう。国宝)に安置されています。
一方、西寺にただ一つ残っていた五重塔は、同年12月24日、再度の火災で失われてしまいました。鎌倉時代前期の歌人として知られる藤原定家の18歳からの56年間に及ぶ日記『明月記(めいげつき)』の天福元年12月25日の条には
「西寺之内下人宅、失火吹付塔焼了云々、本自荒廃之寺、何為乎、」
と西寺のことを「もとより荒廃の寺」だったと言い表し、五重塔も焼け落ちてしまったことを綴っています。
以後西寺は二度と再建されることはありませんでした。ここに西寺も滅亡してしまうことになります。

西寺阯
西寺が再建されなかった理由として、つぎのような要因が重なりあったことが考えられています。
- 立地条件
-
平安京創建時から西寺のあった周辺は湿潤な土地であったことから遷都後も住居がまばらで閑散としていました。
更に藤原純友が瀬戸内海で反乱を起こしたとき難民が西寺周辺に流れ込み、ひととき無政府状態となったといいます。
そのあと羅城門は倒壊し、大内裏は焼失してしまうといった事態が起こり、華やかなりしころの平安京の姿はすっかり無くなってしまいました。
- 都の中心の移動
-
そして承暦(じょうりゃく)元年(1077)、白河天皇が平安京の東を流れる鴨川の、更にその東の地である白河(現在の京都市左京区岡崎を中心とした白川流域の地域)に法勝寺(ほっしょうじ)を建立(現在の京都市動物園を中心とした二町あまりの場所)したことから、この白河地域では都市開発が行われるようになりなした。そして応徳(おうとく)3年(1086)、白河天皇は譲位すると上皇となって白河院と称し、院政を始めました。これによって都の中心が、平安京の東の地域の白河に移りました。その結果、東寺はかろうじてその西の端に位置することになりましたが、東寺より更に西にあった西寺は完全に新しい都の中心から外れてしまうことになりました。ただ東寺にもその繁栄には陰りが見えてくることになります。
- 時代の変遷
-
さらに時代は、律令制度が崩壊し、天皇、貴族の信仰の対象だった鎮護国家の寺院という役目が希薄になってきます。かわって台頭してきた武士勢力は、禅宗の寺院を建立し信仰していきました。
西寺は律令制度の崩壊と共に役割を終えたといえます。西寺は官寺として存在し続けたことから、東寺のように弘法大師信仰といった新たな信仰の形が芽生えることもなく、人々の間に根ざさなかったことも要因のひとつに挙げられます。
平安京遷都の2年後、同時に創建された東寺と西寺は、天福元年というこれまた同じ年にその存亡を分けたことになりました。

蓮花門
天長(てんちょう)9年(832)11月、59歳となっていた空海は弟子たちを西院に集め、高野山に隠棲することを伝え、東寺を真雅に、高雄山寺(神護寺)を実慧、真済(しんぜい)に托しました。それから間もなくして空海が高野山に向かう日が来て、東寺の西、壬生(みぶ)大路(現在の壬生通)沿いにある大門を出ようとした時、空海が念持仏として西院不動堂に祀っていた不動明王が門前まで出て見送りに来たといいます。そして不動明王が歩いてきた跡には蓮(ハス)の花が生えていたといいます。以来この門は蓮花門と呼ばれるようになりました。 これは東寺に伝わる話ですが、蓮花門まで見送りに来た人たちが、高野山に行けばもう東寺に戻ってくることはない空海との別れを惜しんだ情景が目に浮かびます。
国宝。
東寺の復興
観智院
南北朝時代の延文(えんぶん)4年(1359)に杲宝(ごうほう)によって創建されたとされ、以来、密教経典や仏画、仏像の収集管理や文書の編纂等を行う東寺の学術センター的役割を担うとともに、南北朝時代から室町時代にかけて傑出した学僧を輩出してきたといいます。
東寺の塔頭で、別格本山です。
客殿は桃山時代の書院造の建物として国宝に指定され、その上段の間には、床の間の「鷲の図」、襖絵の「竹林の図」があり、共に宮本武蔵の筆と伝えられています。
剣豪・宮本武蔵は21歳で一乗寺下(さが)り松の決闘において吉岡一門を倒した後、その報復を避けるために、吉岡一門が手を出せない東寺の塔頭であるこの観智院に約3年間隠れ住んだとされ、「鷲の図」、「竹林の図」は、その時に宮本武蔵が描いたものと伝えられています。
文覚による復興
平安京遷都とほぼ時を同じくして創建され、平安時代の初期から中期にかけて、順調に発展してきた東寺でしたが、平安後期に入り、応徳(おうとく)3年(1086)白河上皇による院政が始まるようになると転機を迎えることになります。藤原道長の法成寺(ほうじょうじ)・白河上皇の法勝寺の建立に代表されるように皇室あるいは貴族による御願寺の造営が行われるようになり、また一方では武士の台頭に伴い地方から中央への戦乱の波及も相まって、東寺は次第に衰退を余儀なくされていくようになります。このころの東寺の様子については、「諸堂は傾き、供物も絶え、大土塀は崩れ落ち、行き交う人の道となっていた」と言い表されるほどかなり荒廃していたといいます。東寺創建から370年余りが過ぎた(平安時代末の1166年)頃でした。
この東寺に、武蔵坊弁慶を思わせるような、いかつい顔にがっしりした体格の、しかも気性の激しい一人の僧が現れました。文覚(もんがく)です。文覚は、鳥羽上皇の皇女、上西門院(じょうさいもんいん)につかえる北面武士でしたが、19歳で出家して山林修行者となり、空海が開山した高野山に登って激しい修行を行ったといいます。その後各地を遍歴し、仁安(にんあん)3年(1168)、空海ゆかりの寺である神護寺を訪ねた文覚は、「人法共に断絶、堂屋ことごとく破壊」している神護寺の現状に驚き、再興を誓います。またほぼ同じころ東寺も訪れた文覚はここでも朽ち果てた東寺の姿をまのあたりにして「あるが無きが状態であった」と書き記しています。
弘法大師の熱烈な信仰者であった文覚はまず神護寺の再興に着手します。再興のための費用を調達する為に、後白河法皇の御所に押しかけて強引に荘園の寄進などを迫ることまでやりました。そのために伊豆に流罪となってしまいますが、その流罪地で後に平家を壇ノ浦で滅亡させ、鎌倉において鎌倉幕府を樹立し、源氏を再興することになる源頼朝と出会い、厚い信任を得ることとなります。
文覚は、後に頼朝が権力を掌握していく中で、頼朝、さらには頼朝を通して後白河法皇の庇護を受けて、神護寺、東寺とその修造に取り掛かり、神護寺と共に平安時代末の東寺の荒廃の復興を最初に手掛けていくことになります。
宣陽門院による再興
その後、東寺を中世寺院として再興させたのは、後白河法皇の第六皇女宣陽門院(せんようもんいん)と東寺四長者行遍(ぎょうへん)でした。
延応(えんおう)2年(1240)、西院の不動堂に安置されていた弘法大師坐像が、不動堂の北面、現在の御影堂に移されました。そしてそこで、延喜(えんぎ)10年(910)に灌頂院で始められた弘法大師空海に報恩感謝する法要、御影供(みえく)が、宣陽門院の御願と行遍の沙汰によって営まれます。これが御影堂の創建へとなります。今日も空海の命日に当たる毎月21日に「弘法さん」として多くの信者が参拝に訪れる御影供の始まりとなったのでした。さらに3年後の寛元(かんげん)元年(1243)、宣陽門院は弘法大坐師像に生前同様に食事などの給仕をする生身供(しょうじんく)を始めることになります。
その後も宣陽門院は、東寺の寺院運営に力を入れ、所有している膨大な荘園を東寺に寄進して経済的基盤を固めるとともに様々な法会を充実させていきました。その甲斐もあって広く民衆の信仰を集めるようになり、東寺の再興を推し進めることにつながったのでした。
これより後も東寺は多くの支援を得る一方で、自然による火災や人の争いに端を発した火災など幾多の災難にも会いながら、その長い歴史を歩んでいくことになります。

五重塔
五重塔は創建以後、4度の焼失と6度の地震・雷などによる被害を受け、その都度復興・修復が行われてきました。江戸時代には強風にあおられて、まるでイタリアのピサの斜塔のように、一時傾いていた時もあったそうです。現在の五重塔は寛永(かんえい)21年(1644)、3代将軍徳川家光によって再建されたもので、五代目に当たります。
空海が嵯峨天皇から東寺を下賜された時には、五重塔はありませんでした。天長(てんちょう)3年(826)に空海が五重塔造営に着手し、京都三山の一つ「東山」から材木を切り出してきました。ところがその材木の中に稲荷神社の神木が入っていたらしく、淳和天皇(じゅんなてんのう)が祟りを受けるという事件があって、以来造営は容易に進まなかったといいます。その後、空海も既にこの世にいない、半世紀以上が経った元慶(がんぎょう)7年(883)頃に初代の五重塔が完成したのでした。
国宝。
1200年の存在
空海が現れ、鎮護国家のための寺院として創建した東寺を嵯峨天皇が空海に下賜しなかったならば、東寺は西寺と同じ運命をたどり、その跡地には公園や民家ができていたかもしれません。
しかし東寺に限って幸いにもそうはなりませんでした。東寺は空海に出会い、創建以来、当初の場所に、創建当時とほぼ変わらない伽藍配置で、今日に至るまで1200年という長い歴史を刻んでいるのです。
写真集(35枚の写真が表示されます。)
東寺の南西の一画を占める灌頂院。右に見える朱色の門が北門で、左に見えるのが東門です。
灌頂院は、密教の重要な儀式である灌頂を執り行うための建物で、密教寺院には欠かすことのできないものです。以前は空海と縁の深い高野山金剛峯寺や神護寺にもありましたが、いまでは東寺にしか残っていないといいます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 正式名 | 教王護国寺(宗教法人公称) |
| 通称 | 東寺(平安時代の創建以来正式名称は東寺で、正式名が教王護国寺、通称が東寺となったのは明治以降の事です。) |
| 所在地 | 京都市南区九条町1 |
| 山号 | 八幡山 |
| 宗派 | 東寺真言宗 |
| 本尊 | 薬師如来 |
| 寺格 | 総本山 |
| 創建年 | 延暦15年(796) |
| 開基 | 桓武天皇 |
| 文化財 |
|
【概観図】※図の操作については下記をご参照ください。
【マップ掲載番号の説明】
- ※
- 図中の[地図]のボタンをクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
- 北総門(図の上に隠れていますので、下にドラッグして下さい。)
- 宝菩堤院(図の上に隠れていますので、下にドラッグして下さい。)
- 櫛笥(くしげ)小路
- 観智院
- 大元堂
- 弁天堂
- 蓮池
- 北大門
- 宝物館
- 大日堂
- 鐘楼
- 霊宝蔵(西院(にしのいん)の重宝を保管してきた土蔵)
- 西門
- 一切経蔵(宣陽門院施入の一切経を保管してきた土蔵)
- 御影堂(みえどう。大師堂)
- 大黒堂
- 輦(れん)庫(伊予宇和島の伊達氏の寄付により元治2年(1865)に建立)
- 毘沙門堂
- 本坊
- 書院
- 客殿
- 蓮花門(れんげもん)
- 小子房
- 勅使門
- 灌頂院北門
- 閼伽井(あかい)
- 灌頂院
- 灌頂院東門
- 穴門(通常閉じています。)
- 鎮守八幡宮
- 修行大師像
- 南大門
- 八嶋社殿
- 金堂
- 講堂
- 夜叉神堂(東側・・・雄夜叉、西側・・・雌夜叉)
- 食堂
- 柳谷観音
- 手水場
- 慶賀門(東門)
- 宝蔵
- 小野道風ゆかりの柳(歌舞伎「柳ケ池蛙飛の場」の舞台より)
- 不二桜(八重紅枝垂桜)
- 瓢箪池
- 東大門(不開門(あかずのもん))
- 五重塔
- 羅城門遺址(図の左上にある−(マイナスボタン)を2回クリックして下さい。)
- 史蹟西寺阯(図の左上にある−(マイナスボタン)を2回クリックして下さい。)
図の操作について
- 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
- 図中の+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
- 図中の[地図]のボタンをクリックすると地図タイプを切り替えることができます。
- 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
- 最初の状態に戻すには、キーボードのF5キーを押下してください。
近隣の観光スポット情報
東寺の北にある梅小路公園には、2012年3月にオープンした京都水族館、梅小路蒸気機関車館があります。東寺から北北東(京都駅の北)へ行くと西本願寺、東本願寺が、また九条通に沿って東へ行くと東福寺があります。


