
山桜と楼門
下鴨神社の社地は、高野川と賀茂川が合流するデルタ(三角洲)地帯にあって、下鴨神社の社叢林(しゃそうりん)である「糺(ただす)の森」と呼ばれる深い森に包まれて鎮まっています。
糺の森は、古代山城原野にあった原生林の面影を今もとどめ、下鴨神社とともに世界遺産に登録されています。
下鴨神社の歴史は古く、今日見るような社頭景観が完成したのは、江戸時代初期の寛永6年(1629)に大規模造営が実施されてからといわれています。そして現在の本殿は江戸時代末期の文久3年(1863)に造替(ぞうたい)されたもので、本殿以外の社殿は先の寛永に造り替えられたものを修復して今日に至っています。
賀茂別雷神社(上賀茂神社)もあわせてご覧ください。(一部記事内容が重複する所もあります。)
名の由来

糺の森
賀茂川(写真左側)と高野川(写真右側) に挟まれた三角洲に広がる糺の森。この森の中に賀茂御祖神社(下鴨神社)は鎮座しています。
両川の合流点から下流は「鴨川」と名が変わります。(※河川法上は「賀茂川」は「鴨川」で統一されていますが、高野川との合流点より上流は、通例により「賀茂川(加茂川)」と表記されます。)
下鴨神社の祭神は賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)とその長女・玉依日売命(たまよりひめのみこと)です。一方、上賀茂神社の祭神は賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)です。そして、それぞれの祭神の関係は次のようになっています。
このことから、上賀茂神社は正式名称を賀茂別雷神社といい、下鴨神社は、祭神である賀茂建角身命とその長女・玉依日売が、上賀茂神社の祭神・賀茂別雷命の御祖(みおや。親や先祖。)に当たるので、その正式名称は賀茂御祖神社とされているのです。
また、下鴨神社は、上賀茂神社が所在する地よりも賀茂川の下流である南に位置(約3km)する関係から、上賀茂神社の「上」に対し、「下」として別けられています。
なお、上賀茂神社と下鴨神社、この「賀茂」と「鴨」の表記については、江戸時代の中頃からこれらの字が用いられるようになったといいます(『賀茂注進雑記』)。

神域を流れる御手洗川
上・下二社に分立
参道入口
「賀茂社」といえば、上賀茂神社と下鴨神社の二社を指す総称として使われます。
ただ、奈良時代の始め(8世紀初期)までは、賀茂社といえば現在の上賀茂神社一つだけで、下鴨神社はまだ賀茂社とはいわれず三身社(みつみのやしろ。三井社(みいのやしろ。三所神社)。)とよぶ分社であったといいます。そして、賀茂社は、当時山背(城)地方一帯を県主(あがたぬし)として統治していた賀茂県主の氏神を祀った社でした。
天平(てんぴょう。729〜749年。奈良前期。)の末年から天平勝宝2年(750。奈良中期)にいたる間に、賀茂社の分社が行われたと考えられています。その結果、もう一つの賀茂社である下鴨神社が賀茂川と高野川の合流地点に近い蓼倉(たでくら)の地に創立されることになったのでした。
分社の理由は不明とされていますが、7世紀末にはすでに賀茂祭(これが今日の賀茂祭(葵祭)の原点です)が賀茂社(現在の上賀茂神社)で4月(旧暦)に行われており、賀茂社は、文武朝期(697〜707年。飛鳥時代。)には既に、ぬきんでて強大な地方大社として認められていました。その後、天平(729〜749年。奈良前期。)の初年に至るまで、賀茂社は、国家が賀茂祭の会集をしばしば制限し、制止しなければならないほど殷盛(いんせい)をきわめていたのでした。
そうした賀茂社の賀茂祭には遠方からも多くの人が訪れ賑わいを見せていたようで、一歩間違えば民衆の不満の捌(は)け口として危険な行動へと飛び火しかねないといったような世情も背景にあったようです。そのために国家によりしばしば祭りの禁止令も発令されて取締りの対象となっており、盛大に行われる賀茂社の祭りに手を焼いた国家による宗教政策の結果とも考えられています。
そして、天応元年(781)4月に「賀茂神二社」と見えるのを最初に(『続日本紀(しょくにほんぎ)』同月戊申条)、正史にも賀茂社が上・下二社と表記されるようになります。
- 天応元年4月戊申(20日)条
-
令ニ賀茂神二社祢¥j等始把一レ笏。
(賀茂神を祀る二社の禰宜(ねぎ)や祝(はふり。禰宜に従って祭祀(さいし)をつかさどる男性神職。)などに、はじめて笏(しゃく)を持たせた。)
以後国家は上社・下社に同じ神階を与えていくことからもわかるように、両社に対して対等の待遇で接することになります。そして、長岡京さらには平安京遷都により、両社の地位はさらに上昇していくことになります。

舞殿と楼門
氏神から国家神へ
御蔭通(みかげどおり)沿いの参道入り口
先に述べたように、賀茂社で行われていた賀茂祭は、しばしば当時の朝廷による取締りの対象となっており、いわば目をつけられていたような状況でした。
ところが、延暦3年(784)になると取締りの対象である賀茂祭が行われていた賀茂上・下二社に対する朝廷の対応が180度転換してきます。賀茂上・下二社はこの頃には山城国の第一の神社にまでなっていたものと考えられています。そしてこの年は、都が奈良の平城京から、現京都市の南西にある長岡京へと遷った年(同年11月)です。長岡京は、10年後に遷都される平安京とともに山城国内にあります。
朝廷の180度転換の対応を如実に見てとれるのが前掲の『続日本紀』に記載されている次の3つの条です。
≪長岡京遷都前≫
- 延暦3年6月壬子(13日)条
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遣ニ参議近衛中将正四位上紀朝臣船守於賀茂大神社一。奉レ幣。以レ告ニ遷都之由一焉。又今年調庸。并造レ宮工夫用度物。仰−ニ下諸国一。令レ進ニ於長岡宮一。
(参議・近衛中将・正四位上(しょうしいじょう)の紀朝臣船守を賀茂大神の社に遣して、幣(ぬさ。供物。)を奉納させた。遷都の理由を告げるためである。又、今年の調(みつき)・庸(よう)や、宮を造る工人や人夫の必要な物資は、諸国に命じて長岡宮に進上させた。)
≪長岡京遷都後≫
- 延暦3年11月丁巳(20日)条
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遣ニ近衛中将正四位上紀朝臣船守一。叙ニ賀茂上下二社従二位一。又遣ニ兵部大輔従五位上大中臣朝臣諸魚一。叙ニ松尾乙訓二神従五位下一。以ニ遷都一也。
(近衛中将・正四位上の紀朝臣船守を遣して、賀茂の上下二社に従二位(じゅにい)を叙し、また兵部大輔・従五位上(じゅごいじょう)の大中臣朝臣諸魚を遣して、松尾と乙訓(おとくに)の二神に従五位下(じゅごいげ)を叙した。長岡遷都のためである。)
当時、神社に対する叙位(じょい)は通常五位ないしは六位が多いとされていたことから、松尾社、乙訓社には従五位下が授けられ順当な授与となっています。これに対して賀茂上・下二社には従二位という高い位が与えられています。これは賀茂上・下二社を重く見ていることの表れであり、まさしく皇城の鎮護神として公認されたことを示しているということができます。
- 延暦3年11月乙丑(28日)条
-
遣レ使修−ニ理賀茂上下二社及松尾乙訓社一。
(使者を遣して賀茂の上下の二社と松尾社・乙訓社を修理させた。)
神社の修理を国が肩代わりして行っています。通常、神社の修理はそれを氏神とする氏族が行うものとされます。それを国家が行ったということは松尾社、乙訓社とともに賀茂社も国家の社となったことを示しています。
このようにして賀茂上・下二社は、賀茂県主の氏の神に始まり、その祭礼が国家の取締りの対象だった地方の神社から、皇城の鎮護神として国家最高の崇敬をうける神社へと飛躍を遂げたのでした。
長岡京遷都、平安京遷都を行った桓武(かんむ)天皇の長男である平城(へいぜい)天皇のときに至っては、大同2年(807)5月、賀茂上・下二社には、正一位(しょういちい)という最高の位が授与されました。これによって賀茂社は皇城鎮護の社として最高の礼遇を得たといえ、皇室の氏神としての伊勢神宮に並ぶほどの社格を獲得し、日本第一等の神社としての扱いを受けることになったのでした。
賀茂上下から賀茂下上へ
三井神社
奈良時代から平安時代にかけてこの辺り一帯は蓼倉郷と呼ばれていたといいます。逸文の内容(現代語訳)については、賀茂別雷神社(上賀茂神社)をご覧ください。
この社には、賀茂建角身命、その妻・伊賀古夜日売命(いかこやひめのみこと)、その長女・玉依媛命の三神が祀られています。
この棟門(むなもん)は重要文化財です。
奈良時代から平安時代初期にかけて編纂された官撰の歴史書、六国史(りっこくし。日本書紀・続日本紀・日本後記・続日本後記・日本文徳天皇実録・日本三大実録)における上賀茂神社・下鴨神社の表記は「賀茂上下二社」のように「上下」の順に記載されているといいます。
六国史の内、日本書紀は奈良時代に編纂されたもので、他の5つは平安時代初期に編纂されています。前項掲載の続日本紀の延暦3年11月20日、28日のどちらの条もこの表記に従っていることが分かります。
それが平安時代後期に書かれた記録になってくると「賀茂下上」と「下上」の順に書かれるようになっているといいます。
上賀茂神社と下鴨神社共通の大祭である賀茂祭における勅使の奉幣(ほうへい)順序や、上皇・摂関家の参拝順序を始めとして、これら二社に参拝する時には、一般的に、下鴨神社を先に、上賀茂神社を後に、というのが慣例となっていました。「下上」の順に書かれるようになったのは、この参拝順序に沿うように記載順序が変更されたのではないかと考えられています。
この参拝順序は勅使が外宮(げくう)に参拝してから内宮(ないくう)に行くという、「外宮先祭」を行う伊勢神宮の慣習にならったものであろうとの考えもあります。
加えて、両社の祭神の関係を考えると、下鴨神社の祭神、賀茂建角身命と玉依日売命は、上賀茂神社の祭神、賀茂別雷神の御祖に当たるという系譜関係もあるのかもしれません。
写真集(30枚の写真が表示されます。)
糺の森の中を真っすぐに延びる参道を通って社殿まで行きます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 正式名 | 賀茂御祖神社 |
| 通称 | 下鴨神社 |
| 所在地 | 京都市左京区下鴨泉川町59 |
| 祭神 | 賀茂建角身命 玉依日売命 |
| 創建年 | 天平(729〜749年。奈良前期。)の末年から天平勝宝2年(750。奈良中期。)。 なお寺伝によると、崇神(すじん)天皇7年(紀元前90年)以前(崇神天皇7年には、神社の瑞籬(みずがき)を造替したとの記録がみられ、また氏(うじ)の象徴である印璽(おしで)が奉られたと伝えられているといいます。)。 |
| 主な祭事 | けまり初め(1月4日) 流鏑馬(やぶさめ)神事(5月3日) 歩射(ぶしゃ)神事(5月5日) 斎王代禊(みそぎ)の儀(5月上旬。 毎年下鴨神社と上賀茂神社が交代で実施。2012年は4日に上賀茂神社で開催。) 御影祭(5月12日) 賀茂祭(葵祭)(5月15日) 御手洗祭(足つけ神事)(7月土用の丑(うし)の日) 夏越(なごし)神事(8月立秋の前夜) |
| 文化財 |
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【概観図】※図の操作については下記をご参照ください。
【図中番号の説明】
- ※
- 図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)と、社殿等の配置をよりはっきりと見ることができます。
- 参道入口鳥居
- 御影通入口
- 表参道
- 河合神社
- 三井社
- 泉川
- 瀬見の小川
- 神宮寺跡
- 糺池跡
- 馬場
- 糺の森
- あけ橋
- 奈良の小川
- 南口鳥居
- さざれ石
- 相生社(あいおいしゃ。縁結びの神様。)
- 楼門(ろうもん)
- 東廻廊
- 西廻廊
- 剣の間
- 舞殿(まいどの)
- 橋殿(はしどの)
- もうけ橋
- 細殿(ほそどの)
- 輪橋(そりはし)
- 光琳の梅
- 御手洗川(みたらしがわ)
- 御手洗池
- 井上社(御手洗社)
- 中門(ちゅうもん)
- 一言社(ことしゃ。2社)
- 二言社(2社)
- 三言社(3社)
- 幣殿(へいでん)
- 祝詞舎(のりとしゃ)
- 東本殿(国宝)(玉依媛命)
- 西本殿(国宝)(賀茂建角身命)
- 東御料屋(ひがしごりょうや)
- 西御料屋
- 西唐門(にしからもん)
- 預屋(あずかりや)
- 三井神社棟門(むなもん)
- 三井神社拝殿
- 三井神社本殿(伊賀古夜日売命)
- 三井神社本殿(賀茂建角身命)
- 三井神社本殿(玉依媛命)
- 三井神社末社
- 大炊殿(おおいどの)
- 西参道
- 西鳥居
- 供御所(くごしょ)
- 出雲井於神社(いずもいのへのじんじゃ)
- 拝殿
- 神服殿(しんぷくでん)
- 媛小松
- 解除所(げじょのところ)
- 河合橋(図の左上にある−(マイナスボタン)を1回クリックして下さい。図の下側に表示されます。)
- 出町橋(図の左上にある−(マイナスボタン)を1回クリックして下さい。図の下側に表示されます。)
- 賀茂大橋(図の左上にある−(マイナスボタン)を1回クリックして下さい。図の下側に表示されます。)
図の操作について
- 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
- 図の左にある+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
- 図の右上にある[地図]のボタンをクリックすると地図タイプを切り替えることができます。
- 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
- 最初の状態に戻すには、キーボードのF5キーを押下してください。
近隣の観光スポット情報
賀茂大橋(上記≪概観図≫の図中番号59)の架かる今出川通を東へまっすぐ行くと銀閣寺があります。銀閣寺前からは哲学の道が南へと通っています。
逆に、賀茂大橋の架かる今出川通を西へまっすぐ行くと京都御所のある京都御苑や、道を挟んだ京都御苑の北側にはかつて京都五山の一つに数えられた相国寺(しょうこくじ)があります。鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)はこの相国寺の山外塔頭(→建築用語)です。
そして、賀茂川沿いに北へ約3kmほどいくと賀茂別雷神社(上賀茂神社)があります。


