
糺の森
賀茂川(写真左側)と高野川(写真右側) に挟まれた三角洲に広がる原生林・糺の森。この森の中に賀茂御祖神社(下鴨神社)は鎮座しています。
写真奥の北方に見える山々は、京都盆地を囲む京都三山の一つ、北山(きたやま)の山々。
両川の合流点から下流は「鴨川」と名が変わります。(※河川法上は「賀茂川」は「鴨川」で統一されていますが、高野川との合流点より上流は、通例により「賀茂川(加茂川)」と表記されます。)
糺(ただす)の森は、高野川と賀茂川が合流するデルタ(三角洲)地帯にある原生林で、かつてはおよそ495万平方メートル(約150万坪)の広大な広さをもった、深い森であったといいます。しかし現在ではその広さは約124,000平方メートル(東京ドームの約3倍)に減少しましたが、ケヤキ、ムクノキ、エノキなどニレ科の樹木を中心に約40種、樹齢200年から600年の樹林がおよそ600本も生い茂るなど、糺の森は、大都市の京都市中にあって今なお原生林の植生を残しています。
糺の森は古より、神の鎮まる森として受け止められてきました。賀茂御祖(みおや)神社(下鴨神社)は、その社叢林(しゃそうりん)でもあるこの糺の森の中に鎮まっており、ともに世界遺産に登録されています。
受け継がれる森

泉川
日本列島で人類の歴史が始まったのが20万年前頃から、その後、京都盆地(山城盆地)−京都府南部の盆地で、その北半部を大都市である京都市が占めています−に人が現れ、活動の場となっていったのが3万年から2万年ほど前からと考えられています。
そして、大阪湾に注ぐ淀川を遡るように稲作文化が伝わり、京都盆地に急速に広がっていったのが紀元前3世紀頃。この時期に、縄文時代の食料採集段階から食料生産段階へと移り変わる弥生時代へと入っていきます。
糺の森には、このような歴史の流れの中における紀元前3世紀ごろの弥生時代からの、人類の手が加えられたことのない天然のままの山城原野であった当時の森が今に受け継がれているといいます。加えて石器時代から縄文、弥生より江戸時代にいたるまで、古の遺跡をも数多く残している貴重な森なのです。
親しまれる森

奈良の小川
糺の森には、泉川、奈良の小川、瀬見の小川の3つの川が流れています。
糺の森の中を賀茂御祖神社(下鴨神社)の社殿に向かい表参道に沿って歩いていると、その右側(東側)に見える川が泉川です。泉川は高野川の支流となって糺の森の中を流れている川で、糺の森から出ると再び高野川に合流しています。
江戸時代の『都名所図絵』巻之六「下加茂河合社」や『都林泉名所図絵』巻之二「河合納涼」の図をみると(※)、泉川の西岸に多くの茶屋が川に床を出し、人々が納涼して楽しい一時を過ごしている様子がうかがえます。また、現在の鴨川納涼床と同じような光景も見られます。こうした泉川の茶屋は明治以降も続いていたそうです。
- ※
- 当ページを開いた後に、カーソルを図絵の上に移動させてクリックすると、図を拡大表示して見ることができます。
奈良の小川は、賀茂御祖神社(下鴨神社)の社殿の中にある御手洗池の下流を流れる御手洗川が、奈良殿神地(ならどのしんち)(舩島(ふなしま))辺りから泉川と合流して奈良の小川となった川で、かたや泉川はそのまま南下してもいます。奈良殿神地(舩島)にはかつて、社殿を設けない神社・奈良社がありました。この社(やしろ)には難良刀自乃神(ならとじのかみ)が祀られていたことから難良社(ならのかみのやしろ)とも呼ばれていたといいます。
奈良の小川という呼び名は、この難良刀自乃神に由来があるとも、また、この社一帯が楢(なら)の木で覆われているところからそのように呼ばれたともいわれています。
奈良の小川は、その下流の「あけ橋」の所で瀬見の小川と合流します。それより下流が瀬見の小川と呼ばれています。
瀬見の小川という名は、山城国風土記逸文≪賀茂社≫(現代文要約は賀茂別雷神社(上賀茂神社)をご覧ください。)や鴨長明の歌にも登場していて、よく知られた名になっています。
石川や 瀬見の小川の 清ければ 月も流れを 尋ねてぞすむ
『新古今和歌集』
(石川の瀬見の小川が清らかなことから、賀茂の神がこの地に鎮座されたように、月もまたその清らかな流れを尋ねて、澄んで宿っているのだな。)
この歌は先程挙げました『都林泉名所図絵』巻之二「河合納涼」の図の左側の上にも掲載されています。
鴨社古圖
最下部中央左よりに見えるのは鴨長明(かものちょうめい)ゆかりの河合神社、その真上に見えるのは鴨社神宮寺です。
平安時代から鎌倉時代にかけての賀茂御祖神社(下鴨神社)社頭と糺の森の景観を描いた『鴨社古圖(かもしゃこず)』によると、瀬見の小川は平安時代以前は馬場の西側を流れていたことが明らかとなっており、現在の流れとなったのは鎌倉時代以降とされています。
夏、糺の森に入るとひんやりと感じます。それは背の高い木々が生い茂って太陽の陽ざしを遮ってくれ、これらの川の流れが冷気を生みだしてくれているからなのでしょうね。
糺の森は、古来多くの物語や詩歌に取り上げられるとともに、賀茂祭(葵祭)などの舞台として、また市民や賀茂御祖神社(下鴨神社)に参詣する人達の憩いの場として、人々に親しまれつつ、未来へ引き継がれるべく保全の努力がなされています。
「タダス」の意味は・・・

瀬見の小川
賀茂御祖神社(下鴨神社)の社叢林が「糺の森」と呼ばれる由来として、次のようなものが挙げられています。
- 清らかな泉が涌き出ている洲が「ただす(直澄)」と伝わっている。(『諸社根元記』)
- 河合神社の祭神・多多須玉依姫(ただすたまよりひめ)の神名に基づくとする伴信友らの説。
- 偽りを糺すの「タダス」という説。
- 下鴨神社の祭神、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が人々の争いごとや訴えごとの正邪を「正す」ところ、あるいは、悩みごと、相談ごとなどを決するところ、という清浄地であり神聖なところであるとする説。
- 賀茂川と高野川が合流して三角洲(デルタ)地帯を形成しているように、川と川が合流する三角洲地帯を「只洲(タダス)」と呼ぶとする説。
- 神々が鎮まり、神が現れる−出顕(たつ)ところ−、を「ただす」という神地であるとする説。
- 「蓼食う虫もすきずき」という例えの「蓼(たて)」という植物が群生しているところ、とする説。
- 鴨川の下流、淀川水系の人々にとっては、上流の「浮島(うきしま)の直澄(ただす)」が水源地と信仰されていたので「ただす」と呼ばれるようになったとする説。
このように様々な説が伝えられており、定説はないようです。
写真集(17枚の写真が表示されます。)
森閑とした原生林では時が静かに流れていきます。
【概観図】
※図の操作については下記をご参照ください。
【図中番号の説明】
- ※
- 図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)と、より具体的に見ることができます。
- 参道入口鳥居
- 御影通入口
- 表参道
- 河合神社
- 三井社
- 泉川
- 瀬見の小川
- 神宮寺跡
- 糺池跡
- 馬場
- 糺の森
- 第一蹴の地碑
- 祭祀遺構
- 烏の縄手
- あけ橋
- 奈良の小川
- 奈良殿神地(舩島)
- 楼門
- 賀茂御祖神社(下鴨神社)
- 河合橋(図の左上にある−(マイナスボタン)を1回クリックして下さい。図の下側に表示されます。)
- 出町橋(図の左上にある−(マイナスボタン)を1回クリックして下さい。図の下側に表示されます。)
- 賀茂大橋(図の左上にある−(マイナスボタン)を1回クリックして下さい。図の下側に表示されます。)
マップの操作について
- マップの上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
- マップの左にある+(プラス)ボタンをクリックする毎にマップが拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎にマップが縮小されます。
- 図の右上にある[地図]のボタンをクリックすると地図タイプを切り替えることができます。
- 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
- 最初の状態に戻すには、キーボードのF5キーを押下してください。
近隣の観光スポット情報
賀茂大橋(上記≪概観図≫の図中番号22)の架かる今出川通を東へまっすぐ行くと銀閣寺があります。銀閣寺前からは哲学の道が南へと通っています。
逆に、賀茂大橋の架かる今出川通を西へまっすぐ行くと京都御所のある京都御苑や、道を挟んだ京都御苑の北側にはかつて京都五山の一つに数えられた相国寺(しょうこくじ)があります。鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)はこの相国寺の山外塔頭(→建築用語)です。
そして、賀茂川沿いに北へ約3kmほどいくと賀茂別雷神社(上賀茂神社)があります。


