
庫裏前庭
中央奥に見える建物は薬医門です。
醍醐道と呼ばれる旧奈良街道沿いにある総門から入ると、茶室をしつらえた小野梅園を右手に、また昔のままの山科特有の竹藪を左手にして、2列に敷き詰められた石畳の参道が真っすぐに整然と延びています。その様は何かしら清々しさを感じさせてくれます。一方、総門の南側にある門から入っていくと、参道には砂利が敷き詰められ、正面には高塚山を借景にした薬医門の泰然とした光景が目の前に広がってきます。
どちらの門をくぐっても、そこはかとない落ち着きを感じるほどに、境内には静寂な雰囲気が漂っています。随心院はあまり手を加えられずに、往時のたたずまいが残されているといい、決して造り出すことのできない、積み重ねられた歴史によってのみ醸し出される独特の"香り"があるからなのかもしれません。
寺地は、平安初期の女流歌人で、歴史上の美女を指して日本ではクレオパトラか楊貴妃か、小野小町(おののこまち)か、と俗に言われる小野小町邸跡と伝えられ、小野小町ゆかりの寺としても知られています。ここでは小野小町ゆかりの文塚や化粧井戸などを訪ねることができます。
随心院の境内は国史跡指定地となっています。
随心院の軌跡
大乗院と長屋門
右手には小野梅園が広がっています。
随心院は時代劇のロケにもよく使用されています。このアングルもその一つに挙げられ、長屋門前の辻から大名の駕籠が今にも現れてきそうです。
平安時代初期の正暦(しょうりゃく)2年(991年)、僧・仁海(にんがい)は一条天皇から下賜された小野寺(東安寺)の寺地を修興して曼荼羅寺を創建しました。小野寺(東安寺)は、推古朝に建立された寺院で、随心院の背後にそびえる高塚山寄り、即ち現在の随心院の東南に位置していました。曼荼羅寺は山号を牛皮山といいます。仁海が創建した寺を牛皮山曼荼羅寺と号するに至ったのには次のようないきさつが伝えられています。
ある日夢の中に仁海の亡くなった母が牛となって生まれ変わり、鳥羽の辺りに現れました。仁海は夢から覚めて大いに驚き、その牛を探し求めました。牛を探し出して買い求めると、牛を牽(ひ)いて寺に帰り、世話をしていましたが、日なくして命尽きてしまいました。仁海は悲しみにくれ、その皮を剥いで水にさらし、自ら両部曼荼羅を描き本尊として祀っていたといいます。これを牛皮曼荼羅と言ったことから、これに因んで寺号を牛皮山曼荼羅寺としたとされています。
仁海は七歳にして高野山に登り、幼少の頃より天性、叡智、聡敏にして仏門の麒麟児と称されました。仁海は宮中の信任も厚く、勅命を受けては神泉苑で請雨(しょうう)の法を行ってはその都度雨を降らせることが出来ていたため「雨僧正」とも呼ばれていたといいます。
平安時代後期になった第5世住持の増俊(ぞうしゅん)の時代に、曼荼羅寺の塔頭の一つとして隨心院が建てられました。増俊は、曼荼羅寺第5世にして隨心院流の開祖ということになります。
鎌倉時代初期になった貞応(じょうおう)年中(1222〜24年)に、第6世顕厳(けんごん)が護持僧(天皇の身体護持のために祈祷を行った僧)に任ぜられると、曼荼羅寺の塔頭である随心院は朝廷の祈願所とされるようになり、寛喜(かんぎ)元年(1229年)、続く第7世親厳(しんごん)の時になって、後堀河天皇の宣旨(せんじ)により門跡寺院(皇族や摂家出身者が住持として入寺する寺院)となりました。これによって、随心院が曼荼羅寺を領掌(りょうしょう)するに至ったのでした。
以後九条家(藤原氏北家の嫡流にして五摂家の一つである公家)から入寺して門跡となる人が多く、鎌倉時代には繁栄の時期を迎えることになります。
そのような中、鎌倉時代初期に起こった承久の乱(1221年)では罹災しましたが、復興を遂げることができました。しかしこの時寺宝として珍重されていた牛皮曼荼羅が灰燼(かいじん)と化してしまいました。
その後、室町時代中期に発生した応仁の乱(1467〜1477年)の兵火にかかって以降は荒廃してしまったといいます。
復興の緒につくのは、安土桃山時代の武将、豊臣秀頼の援助によってでした。その後、江戸幕府の支援を受け、東寺一長者も務めた九条家出身の第24世増孝(ぞうこう)により本格的な復興が始められ、慶長4年(1599)、曼荼羅寺旧跡に今日見る随心院が再興されたのでした。特に、醍醐寺座主,三宝院門跡、東寺長者を歴任し、増孝を得度した義演准后(ぎえんじゅごう)の随心院再興に振り向けた支援には大なるものがあり、義演准后日記にその一端を見ることができます。

小野梅園
小野小町ゆかりの地
小町化粧井戸案内
小野小町化粧の井戸
この付近は小野小町の屋敷跡で、この井戸は小町が使用したものと伝う。
」
右奥に見える縦長の柱のように見えるのは、醍醐道沿いにある南側の門の一端です。
平安時代前期の9世紀頃。出羽(ほぼ現在の山形・秋田両県)の郡司の娘として生を受け、若き頃に姉と共に采女(うねめ。古代朝廷において、諸国の郡司以上の者が一族の娘のうち容姿端麗な者を朝廷へ出し、天皇・皇后のそば近くに仕えさせて、食事や身の回り等の世話に奉仕した女官。)として都へやって来た小野小町(本名:小野比右姫)は、女流歌人として名を挙げ、六歌仙、三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人として知られています。しかしその生没年は不詳とされ、また詳しい系譜も不明とされています。
ただ、仁明天皇(にんみょうてんのう。在位833〜850年。平安時代初期。)の治世の人物である在原業平(ありわらのなりひら)や文屋康秀(ふんやのやすひで)、良岑宗貞(よしみねのむねさだ)らと和歌の贈答をしていることから、実在の人物であることは確かなようです。歌の天才を備えていた上に、絶世の美人として伝えられた人でした。
南北朝時代から室町時代初期にかけて完成した、日本の初期における主要な諸氏の系図集『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』によれば、小野小町は小野篁(おののたかむら)の孫に当たります。そして小野篁は、「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す云云)の文言で知られる国書を携えて、聖徳太子による遣隋使(けんずいし)を務めたことで知られる小野妹子(おののいもこ)の子孫に当たります。また、平安中期の書家で、三蹟の一人として知られる小野道風(おののとうふう)は従兄弟に当たります。
随心院のある京都市山科区小野の地は古代、小野氏の栄えた地として知られ、小野郷と呼ばれていました。
仁明天皇に仕え、崩御の後、小野小町は宮仕えをやめました。そして小野の里が父の宅地であった関係でこの小野郷に身を引き、余生を送ることとなったと伝えられています。
随心院には、卒塔婆(そとば)小町像や文塚、化粧井戸など小野小町ゆかりの史跡が残っています。
江戸時代の『都名所図絵』巻之五「前朱雀再刻」「小野随心院」に、
小野随心院、勧修寺の東なり、曼荼羅寺と号す、真言宗にして、開基は仁海僧正なり、・・・
小町水(こまちのみづ)、門内南の藪の中にあり、此所は出羽郡司小野良実が宅地にして、女(むすめ)小野小町つねに此の水を愛して艶顔を粧ひし
との記述があり、「艶顔」とあることからも艶やかで美しかった小野小町が、ここの井戸水を愛用していたことを伝えています。
さらに、詠歌の妙を得ていた小野小町は、百人一首にも選ばれている
花の色は うつりにけりな いたづらに
わが身世にふる ながめせしまに
『古今集』
(長雨を眺めて思いにふけっている間に月日は過ぎ、桜の花も盛りを過ぎてむなしく色あせてしまったなあ。そして私も。)
の歌で、桜の花が色あせていくのと同じように、年追うごとに自分の容色も衰えていくことを嘆いた歌を詠んだことでも知られています。紀貫之は『古今集』の序文で、「よき女のなやめるところ」云々と、小野小町のこの歌を評しています。
写真集(20枚の写真が表示されます。)
2列に敷き詰められた石畳の参道が真っすぐにスッと延びています。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 所在地 | 京都市山科区小野御霊町35 |
| 山号 | 牛皮山 |
| 宗派 | 真言宗善通寺派 |
| 本尊 | 如意輪観世音菩薩坐像 |
| 寺格 | 大本山 | 創建年 | 正暦2年(991年) |
| 開基 | 仁海 |
| 文化財 |
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【概観図】※図の操作については下記をご参照ください。
【図中番号の説明】
- ※
- 図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)と、より具体的に見ることができます。
- 醍醐道(旧奈良街道)
- 総門
- 南側の門
- 小町化粧井戸
- 小野梅園
- 茶席
- 大乗院
- 長屋門
- 薬医門
- 庫裏
- 大玄関
- 表書院
- 能之間
- 奥書院
- 本堂
- 心字池
- 経蔵
- 文塚への通路入口
- 小町庭苑入口
- 清滝権現
- 金堂跡の宝篋印塔
- 文塚
- 化粧橋
図の操作について
- 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
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近隣の観光スポット情報
随心院の南東には醍醐寺(醍醐寺−上醍醐−、醍醐寺−下醍醐−)、西北には勧修寺(かじゅうじ)があります。
総門から道に沿って約600メートル東へ進むと、住宅地の中に醍醐天皇陵が「醍醐天皇後山科陵(だいごてんのうのちのやましなのみささぎ)」として現存しています。長らく近くの醍醐寺の管理下にあったことから、平安時代の数少ない御陵の一つとして受け継がれてきました。


