
鴨長明ゆかりの方丈
一丈(約3メートル)四方ということから「方丈」と呼ばれます。広さは約2.73坪、畳約5帖半。
河合神社は賀茂御祖神社(下鴨神社)−世界遺産−の摂社(付属する神社)で、賀茂川と高野川の合流するデルタ(三角洲)地帯にある原生林として知られる「糺の森」−世界遺産−と呼ばれる深い森に包まれて鎮まっています。糺の森は、下鴨神社の社叢林(しゃそうりん)でもあります。河合神社は、その糺の森の中を下鴨神社社殿へとつながる参道の途中にあります。
平安後期から鎌倉初期の歌人、随筆家として知られる鴨長明(かものながあきら。一般には「かものちょうめい」で知られています。)の神官となる夢が断たれた舞台となった、ゆかりの深い社(やしろ)でもあります。
由緒
記紀所伝の初代天皇、神武天皇の母神である玉依姫命(たまよりひめのみこと)を祭神とする社です。
鎮座の年代は不詳ですが、神武天皇の御代からあまり遠くない時代と伝えられています。
神武天皇の日本建国に、母神として貢献した功績は日本婦人の鑑とも称され、安産・育児・縁結び・学業・延命長寿の守護神として広く知られています。
天安(てんあん)2年(858)名神大社に列し、寛仁(かんにん)元年(1017)には神階正二位を、元暦(げんりゃく)2年(1185)には正一位を授けられました。
明治10年(1887)には下鴨神社第一摂社に列せられています。
現在の社殿は、延宝(えんぽう)7年度(1679)式年遷宮により造替された古殿を修理建造したものとして伝わり、平安時代の書院造りの形式をよくとどめています。

糺池跡付近(北側)から見た河合神社
鴨長明と河合神社
鴨長明は、通説によると、久寿(きゅうじゅ)2年(1155)、下鴨神社最高位の地位にある正禰宜(しょうねぎ)惣官(そうかん)、鴨長継(かものながつぐ)の次男として誕生しました。当時の下鴨神社は、上賀茂神社ともども、共に朝廷の尊崇を受けるとともに莫大な社領を有していたことから、最高責任者たる正禰宜の地位にあった父・長継は、多大な権益を掌中にした相当の実力者であったと見られています。
応保(おうほ)元年(1161)、鴨長明は、7歳にして生家と縁があったと思われる中宮高松院の叙爵で従五位下になり、父方の祖母の家を継承、ゆくゆくは父が歩んできた道と同じく、神官として生きることを夢見て幸福な幼少年時代を過ごしていたといわれています。
ところが、鴨長明が18、9歳の時、父・長継が30代半ばにして急死してしまいます。当時は個人の才覚だけでの出世は困難で、家柄と有力な庇護者の有無が人生を左右するという時代であったといわれ、これを期に彼の人生の歯車が狂い出すことになります。
敬愛していた父が亡くなったという失意の中で彼の精神的な支柱となったものは、管絃と和歌へ精進することでした。管絃の道では、琵琶・琴の名手として、将来を嘱望されるほど腕を磨いていきました。一方、和歌にも磨きをかけ、建仁(けんにん)元年(1201)の47歳のとき、後鳥羽院によって再興された和歌所の寄人(よりうど/よりゅうど)に、地下の(じげ。清涼殿に昇殿することのできない身分。)歌人としては破格の抜擢を受けて任命され、精力的に貢献したといいます。
そのような中、折しも、下鴨神社の摂社である河合社の禰宜職に欠員が生じるという機会が訪れました。
元久(げんきゅう)元年(1204)鴨長明、50歳。
河合社の禰宜を務めることは、下鴨神社の禰宜へと至る登竜門でもあり、父・長継も勤めあげた職でした。鴨長明はようやく長年の念願が叶うときが来たと、期待に胸を膨らませに違いありません。周囲の人々は、鴨長明がその職に就くことになるだろうと当然のように思い、加えて、後鳥羽院も常日頃の鴨長明の忠勤ぶりへの恩賞の意味も込め、彼を推挙する考えのある事をもらしていたといいます。鴨長明はその内意を洩れ聞くにおよんで感涙にむせんだと伝えられています。
しかし現実は願い通りにはならないものです。
時の下鴨神社正禰宜惣官鴨祐兼(すけかね)が、長男の祐頼(すけより)を推してきたのです。理由には、官位(鴨長明より若いながらも祐頼の方が官位が上)、日頃の社への貢献度(祐頼の方が鴨長明より社への奉公の実績がはるかに勝っている)、下鴨神社の現職の正禰宜惣官の長男として特別に重んじられるべきである、が挙げられたといいます。鴨祐兼はこの理由を盾に一歩も譲歩しませんでした。これには鴨長明の後ろ盾となって後押ししていた後鳥羽院も手の打ちようがありませんでした。鴨長明は長年の念願を断念する以外にありませんでした。
同情した後鳥羽院は、別の小社を官社に昇格させ、その禰宜に鴨長明を補任(ぶにん)する代案を示しましたが、彼はこの好意を拒絶して失踪してしまいました。鴨長明にとっては、父が勤めたのと同じ河合社の禰宜でなければならなかったのでしょう。
同年、鴨長明は遂に出家し、洛北大原の里に隠棲(いんせい)しました。
大原からほうぼうを転々とした後、5年を経て、承元(じょうげん)2年(1208)、54歳の時、日野(現京都市伏見区日野町)に落ち着き、そこに方丈の庵を結びました。方丈は各地を転々としていた間に、移動に便利なように組立・解体式のものとして造られたもので、「栖(すみか)」としていたものでした。
建暦(けんりゃく)元年(1211)、鴨長明は、和歌所寄人として彼の同僚であり『新古今集』の撰者の一人ともなった歌人の飛鳥井雅経(あすかいまさつね)に伴われて鎌倉に下向し、鎌倉幕府第3代将軍源実朝(みなもとのさねとも)と対談しています。この時の雅経は鴨長明を実朝の歌道師範にすることを意図していたと考えられていますが、鴨長明はまもなく帰洛してしまいました。
翌、建暦2年(1212)、鴨長明58歳のとき、世の無情と人生のはかなさを随筆として著した『方丈記』を執筆しています。
その冒頭の一節はあまりにも有名です。
ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみ(※1)に浮ぶうたかた(※2)は、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある、人と栖(すみか)(※3)と、またかくのごとし。
- ※1.
- よどみ・・・流水の停滞している所。
- ※2.
- うたかた・・・水面に浮く泡。
- ※3.
- 栖・・・住居。
また次のような歌も詠んでいます。
出家の後、賀茂にまゐりて、みたらしに手をあらふとて
みぎの手もその面影もかはりぬる
我をばしるやみたらしの神
『続歌仙落書』
出家の後、何かの折に初めて下鴨神社を訪れることがあったのでしょう。下鴨神社本殿東に鎮座する御手洗社(井上社)前の池に湧き出る清泉の水で手を洗った時に、そっと御手洗の神に「私が誰だかおわかりでしょうか?」と問いかけています。
鴨長明は健保4年(1216)、62歳にしてこの世を去りました。没した場所や死因といったものは伝えられていません。栖として考案した組立・解体式の方丈でひっそりと息を引き取ったのかもしれません。
写真集(13枚の写真が表示されます。)
河合神社は、糺の森の真中を北辺の下鴨神社本宮に至る参道から西へ入ったすぐの所にあります。
【概観図】
※図の操作については下記をご参照ください。
【図中番号の説明】
- ※
- 図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)と、より具体的に見ることができます。
- 東鳥居
- 西鳥居
- 三井社
- 四脚門
- 舞殿
- 高麗門
- 六社(むつのやしろ)
- 幣殿
- 貴布禰(きふね)神社
- 任部社(とうべのやしろ)
- 本殿
- 祝詞屋(のりとや)
- 方丈
- 表参道(図の左上にある−(マイナスボタン)を1回クリックして下さい。図の右側に表示されます。)
- 瀬見の小川
- 馬場
- 神宮寺跡(図の左上にある−(マイナスボタン)を1回クリックして下さい。図の上側に表示されます。)
マップの操作について
- マップの上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
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- 最初の状態に戻すには、キーボードのF5キーを押下してください。
近隣の観光スポット情報
河合神社が祀られている糺の森(世界遺産)は、市民の憩いの場所としても親しまれています。糺の森の真中を南北に通る表参道に沿って北へ行くと、やがて賀茂御祖神社(下鴨神社)(世界遺産)を訪ねることができます。
賀茂御祖神社(下鴨神社)の「近隣の観光スポット情報」もご参照ください。


