
鳳凰堂
中堂の屋根上に鳳凰が据えられていることから、江戸時代より鳳凰堂と呼ばれるようになったといいます。今日では阿弥陀堂よりも専ら鳳凰堂の名で知られています。加えて、下図のように、鳳凰堂を上から見た形は鳳凰が翼を広げて尾を背後に伸ばしているようにも見えます。

鳳凰堂図
平等院は、平安時代、
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極楽いぶかしくば、宇治のみ寺をうやまへ
(極楽の存在が信じられないなら、平等院を拝してみなさい。そうすると納得できるよ。)
「後拾遺往生伝(ごしゅういおうじょうでん)」
とまで詠われ、極楽浄土世界をこの世に具現化したものとして賞嘆されました。
今日に至って950年を超える歴史を持つ平等院の中にあって鳳凰堂(ほうおうどう)は、時には戦火の中をくぐりぬけ、また厳しい風雪にも耐え抜き、藤原文化の粋を集めた貴重な遺産として現在に伝えられています。
言うまでもなく鳳凰堂は、10円硬貨の表の絵柄として、わが国の隅々にまですっかり馴染みの深いものになっています。
現在では鳳凰堂の塗装ははく落して往時の姿を見ることはできませんが、この度、平安時代に建立された当時の外観の復元を目指して、鳳凰を金色、柱や扉を赤色にした国宝・鳳凰堂の修理が、2012年9月に着工され、2014年3月の完成を目指して行われます。
由来
平等院は、平安時代初期の貞観年中(859〜877)、『源氏物語』の光源氏のモデルともいわれる嵯峨天皇の皇子、左大臣源融(みなもとのとおる)が、宇治川の左岸に営んだ別業(べつぎょう。別荘。)「宇治院」に由来しています。宇治は当時からすでに、風光明媚、山紫水明の地とされており、また、奈良と平安京とを結ぶ交通の要衝でもありました。そのようなこともあって、平安貴族の別業の地として脚光を浴びていました。源融が別業を営んだ地は、とりわけ朝日を受けやすく、沈みゆく夕日を地平線で感じることのできる場所であったといいます。
融の死後は、陽成(ようぜい)天皇(第57代)、宇多(うだ)天皇(第59代)、朱雀(すざく)天皇(第61代)の手に渡って離宮「宇治院」として使われてきました。
その後は、宇多天皇の孫、左大臣源重信(みなもとのしげのぶ)の所有となっていましたが、重信が没するに及んで、長徳4年(998)10月、当時左大臣であった藤原道長(ふじわらのみちなが)が重信の未亡人から買い取っています。
長保元年(999)8月9日、道長が転居のための移徙(わたまし)の儀を行ってからは、「宇治家」(長保元年(999))、「宇治第」(長和3年(1014))、「宇治殿」(治安3年(1023))と呼ばれるようになりました(いずれも『小右記(しょうゆうき)』)。また、『左経記』(長元8年(1035))、『兵範記』(久寿2年(1155))では、「宇治殿」の呼称が使われています。
「宇治殿」は道長本人を指すこともあります。
万寿4年(1027)12月に道長が没すると、その子である藤原頼通(ふじわらのよりみち)は宇治殿を受け継ぎ、永承7年(1052)3月に、これを平等院と号して寺院に改めました。ここから平等院の歴史が始まります。

鳳凰堂・中堂から伸びる尾廊
藤原頼通
鳳凰堂中堂の屋根上にそびえる鳳凰
本尊阿弥陀如来座像を制作した定朝が鳳凰の木型を造ったとされています。
現在中堂屋根上に据えられているのは複製で、オリジナル(国宝)は鳳翔館に展示してあります。
10世紀半ばからの平安時代後期、藤原一門による権力支配、いわゆる摂関政治が進展します。摂関政治とは、天皇が幼少、病弱、不在などの理由でその任務(政務や儀式)を行うことができない時は天皇に代わってそれを行う(政を摂る)「摂政」として、一方、成人後の天皇に対しては「関白」(この場合最終的な決裁者はあくまでも天皇)として天皇を補佐して政務を司った政治形態です。
長徳(ちょうとく)元年(995)11月に内覧宣旨(ないらんのせんじ)を受けてから、長和(ちょうわ)6年(1017)3月に摂政を辞するまで、政治の実権を握った藤原道長に至ってそれが完成することになります。そして、道長を頂点とする前後約200年はしばしば「藤原時代」とも呼ばれます。
藤原頼道は、道長の長男で、すぐ上には姉で長女の彰子(しょうし)がいました。彰子は一条天皇の皇后(中宮)となった人で、紫式部や和泉式部が女房として仕えていました。
後に平等院を創建する頼道は、長和6年3月に父・道長から摂政を譲られてから、治暦(じりゃく)4年(1068)4月に、関白を辞した後も政治全般にわたって天皇の諮問に答える「諮詢(しじゅん)」の任を辞するまで、後一条天皇、後朱雀(ごすざく)天皇、後冷泉(ごれいぜい)天皇の摂政・関白として仕えています。注目すべきは、父・道長の2倍以上にも及ぶ52年間という他に例を見ないほどの長期にわたって、摂関の地位を堅持しその権勢をふるっていることです。
この道長・頼通の時代には、天皇が、その取り巻きの公卿に諮問し、それに対して意見具申することができるのは、道長の時代には道長一人、頼通の時代には頼通一人だけであったといいます。したがって、他の公卿一人一人に天皇が諮問してはならないし、逆に他の公卿一人一人が天皇に意見具申してはならなかったのです。
他の公卿が天皇に意見を述べることができるのは、公卿議定(くぎょうぎじょう)(陣定(じんのさだめ)や殿上御前定(でんじょうごぜんのさだめ))、特定の公的行事の場など、限られていたといいます。

鐘楼
現在ここに吊り下げられている梵鐘は複製で、オリジナル(国宝)は鳳翔館に展示してあります。
平等院開創時の時代背景
鳳凰堂中堂前の六角石灯籠
元の姿は基台の上に金銅の灯籠を乗せた置燈籠であったとされています。
藤原氏が全盛期を迎えているのとは対照的に、社会的には不安要素が蔓延していました。
道長の時代においても都の治安は乱れており、疫病は全国的に流行し(道長も疫病で兄を亡くしています)、内裏や神社仏閣の度重なる焼失などといった状況が発生していました。
頼道の時代には、次の例に挙げるような社会的不安要素・危機的状況が発生しています。
- 寛仁(かんにん)3年(1019)、外敵が突然九州を襲った刀伊の入寇(といのにゅうこう)
- 永承6年(1051)、陸奥の阿部頼時による反乱「前九年の役」の勃発
- 永承7年(1052)、霊験無比とされていた長谷寺の焼失
- 園城寺(おんじょうじ。通称、三井寺。滋賀県大津市在。)と延暦寺の対立をはじめとした、仏法の使徒が武器を持って繰り返す抗争
- 南都・北嶺と呼ばれた興福寺と延暦寺が、自らの勢力拡大の為、僧兵という武力を背景にした朝廷への強訴
これまで仏法の知識に過ぎなかった、釈迦の死後1000年経つと、真理は失われ、人心は悪化し、天災地変は相次ぎ、社会は混乱し、遂には暗黒の「法滅尽」の世界に落ち込んでしまう、という救いのない時代が到来する、と説く末法思想が、このような社会的不安、危機的状況の発生によって、貴族、僧侶を問わず一般の人々にも現実感をもって受け止められたのでした。
そして、末法は永承7年から始まる、とされていました。同時にこの年は頼道にとって父道長の25周忌であり、さらに頼道60歳にして、父道長が没した61歳まで、1年という時期にもあたっていました。
末法思想が貴族や僧侶、一般民衆の心を捉え、極楽往生を願う浄土信仰が社会の各層に浸透していく時期ともあいまって、まさにこの時、永承7年3月28日、平等院開創が行われたのでした。
そして、頼道は権力を掌握している中にも藤原氏一門の栄枯盛衰の一抹の不安を感じるようになり(延久元年(1069)、藤原氏を外戚としない後三条天皇による延久の荘園整理令により藤原氏の力に衰えが見えてくることになります)、その安寧を求め、かつ末法の不安から救われようとして、平等院開創の翌年の天喜(てんぎ)元年(1053)3月4日、阿弥陀堂(鳳凰堂)の落慶を迎えたのでした。

鳳凰堂中堂
平等院の「平等」とは
境内をめぐる小路
平等院の第一代執印(住職)は、園城寺円満院の門跡であった明尊(みょうそん)です。明尊は、平安中期を代表する能書家で「三蹟」(三跡)の一人、小野道風(おののみちかぜ/とうふう)の孫として知られ、第29世天台座主、園城寺第25・27世住職を務めています。
頼通は明尊に信頼を置き、帰依していました。
当時円満院には平等院という子院(しいん。塔頭(たっちゅう)。)があり、現在の宇治の平等院は、頼通が宇治殿を寺に改めるに際してそれを移転したかたちで開創されたものといいます。
そして、その平等院の「平等」とはなにか。
『住職がつづるとっておき平等院物語』 (神居文彰 著 四季社)に次のように書かれてあります。前後の文章は割愛しています。
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これは救済が「平等」であるということです。 仏は、どのようなところにあっても、なにをしていようとも救いの手を差しのべる。仏の前ではすべてが平等であるわけです。
写真集(18枚の写真が表示されます。)
ここは源頼政(みなもとのよりまさ)の自害の地とされています。
「此一門にあらざらむ人は、皆人非人なるべし」(『平家物語』〜巻第一「禿髪(かぶろ)」〜)とまで言われた時代にあって、治承(じしょう)4年(1180)、平清盛は娘の徳子が高倉天皇との間に生んだ3歳になる孫を安徳天皇として即位させました。そのため後白河法皇の皇子の以仁王(もちひとおう)が天皇になれなくなったことに怒って、「平氏を討て」との治承4年4月9日付の令旨(りょうじ)を諸国の源氏に発して、源頼政と共に挙兵しました(治承の乱)。しかしこの企ては崩れ、以仁王と源頼政は敗死してしまいました。この扇の芝は、その折の源頼政自刃の地と伝えられています。源頼政の墓所は不動堂の隣にあります。
この争いは、寿永4年(1185)の壇ノ浦の戦いで平氏が滅ぶ(治承・寿永の乱)までつづく源平争乱の始まりとなりました。
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| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 所在地 | 宇治市宇治蓮華116 |
| 山号 | 朝日山 |
| 宗派 | 単立 |
| 本尊 | 阿弥陀如来 |
| 創建年 | 永承7年(1052) |
| 開基 | 藤原頼通 |
| 開山 | 明尊 |
| 文化財 |
|
【概観図】※図の操作については下記をご参照ください。
【マップ掲載番号の説明】
- ※
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- 表門(北門)
- 扇の芝
- 観音堂
- 藤棚
- 平橋
- 反橋
- 阿字池
- 阿弥陀堂(鳳凰堂)
- 石灯籠
- 反橋
- 鐘楼
- 鳳翔館
- 養林庵書院
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- 源頼政墓所
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