
本堂

三千院の御殿門(ごてんもん)前の道を北へ真っすぐ行くと、律川(りつせん)に架かる未明(みみょう)橋を渡った先の突き当たりの開けた所に大きなお堂が見えてきます。大原寺勝林院(だいげんじしょうりんいん)の本堂です。
勝林院は天台宗延暦寺の別院で、この大原の地は延暦寺に近かったことから、勝林院の他に来迎院、三千院、寂光院など多くの天台宗系寺院が建立されました。
勝林院は、平安初期の承和(じょうわ)2年(835)、慈覚大師(円仁)が天台声明の道場として創建したと伝わります。
一時寺運は衰微しましたが、長和(ちょうわ)2年(1013)、大原入道寂源(じゃくげん)(俗名源時叙(みなもとのときのぶ))が再興して、勝林院と称し、以後は大原魚山(ぎょざん)流声明(しょうみょう)の根本(こんぽん)道場として栄えました。
平安時代も中頃となった寛仁(かんにん)4年(1020)、寂源は比叡山の碩学を招いて、本尊阿弥陀如来坐像の前で天台教義について法論を行いました。その際に、本尊阿弥陀如来坐像が法論の内容に応じて姿を隠しては現れ、その真理のありどころを指摘したといいます。このことから本尊阿弥陀如来坐像は、世の人に「証拠の阿弥陀」と呼ばれるようになりました。
平安時代も終わりに近くなった文治(ぶんじ)2年(1186)には、この勝林院において「大原問答」として広く知られている論議が行われました。
ことの起りは、比叡山の顕真(けんしん)(天台宗)が浄土宗祖の法然(ほうねん)に会って出離(しゅつり。迷いを離れて解脱の境地に達すること。)の道を尋ねたところ、法然の回答に疑心が解けなかったため100日間とじこもって浄土の典籍について研究したといいます。そしてその後、改めて法然を招いて論議することになったものです。
顕真の要請で法然が勝林院に招かれ、顕真をはじめ,三論宗の明遍(みょうへん)、法相(ほっそう)宗の貞慶(じようけい)、天台宗の智海(ちかい)他各宗派の碩学が問者となって、専修念仏について昼夜を通して問答が行われました。問答の末、法然は問者を信服させています。そしてその折には本尊の手から光明(こうみょう)が発せられ、念仏の衆生(しゅじょう)を済度(さいど)することの証(あかし)を示したと伝えられています。

法然上人腰掛石
往時、子院(しいん)は4院を数えましたが、現在は宝泉(ほうせん)院・実光(じっこう)院の2院となっています。
両寺は、寿永(じゅえい)年間(1182〜85)に声明研究の道場として造営されたものです。なお、宝泉院の書院は文亀(ぶんき)2年(1502)の再建で、理智不二(りちふに)と呼ばれる珍しい二連式の水琴窟(すいきんくつ)や近江富士を型どる樹齢700年の五葉松などがあります。

鐘楼
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 所在地 | 京都市左京区大原勝林院町187 |
| 山号 | 魚山(ぎょざん) |
| 宗派 | 天台宗 |
| 本尊 | 阿弥陀如来 |
| 創建年 | 承和2年(835) |
| 開基 | 慈覚大師(円仁) |
| 文化財 |
|
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- 勝林院
- 鐘楼(高さ1.42mの梵鐘(国重要文化財、平安前期)が架かる。)
- 宝篋印塔(高さ3m。国重要文化財、鎌倉時代。)
- 来迎橋
- 法然上人腰掛石
- 宝泉院
- 実光院
- 三千院
- 来迎院
- 律川
- 呂川(りょせん)
- 寂光院(※)
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