
本堂(釈迦堂)
現在の本堂は、江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の援助を受けて元禄(げんろく)14年(1701)に再建されたものです。
清凉寺(せいりょうじ)は、今から千年以上も昔、東大寺の僧「然(ちょうねん)が中国・宋の五台山清凉寺を移し建てようと発願(ほつがん)し、入宋(にっそう)して五台山清凉寺に学び、寛和(かんな)2年(986)帰朝の折に請来した栴檀釈迦瑞像(せんだんしゃかずいぞう)を本尊として、比叡山に対峙してそびえる愛宕山(あたごやま、あたごさん)を五台山になぞらえて建てようとしましたが果たせず、師・「然の遺志を引き継いだ弟子の盛算(じょうさん)によって建立されたものです。
「然が請来した栴檀釈迦瑞像は、インドから中国を経て日本に伝来されたとして「三国伝来生身(しょうじん)の釈迦如来」として広く信仰を得、これにより清凉寺は嵯峨釈迦堂とも呼ばれ今日に至っています。
一大寺院建立志の背景

境内から見た山門
東大寺は、奈良朝全盛期の終りごろに建てられ、唐の文化を輸入しては大和朝廷や豪族を引き付け、一大勢力を誇っていた寺院でした。
しかし、都が奈良の地を去り、長岡京、平安京と遷都されるに伴って、東大寺をはじめ南都の諸大寺は衰退の色を濃くしていくことになります。
一方、比叡山には最澄(さいちょう)により開かれた天台宗、高野山には空海が開いた真言宗といった、山岳仏教が広まり、平安仏教の中心となっていきます。初めこそ南都の仏教勢力はこれらの新興仏教に激しい攻撃を加えましたが、その勢いも次第に衰えていきました。
指導面ではもはや人心のよりどころとしての位置づけを失った南都仏教のこのような状況の中で、深い反省に立って、学んだ教えをいかに世の中に役立たせるべきか、自らに仏教僧侶としての使命に生きようとする僧侶が出てきます。それが、平安時代中期、東大寺に身を置いていた「然(ちょうねん)と義蔵という学僧でした。
現当二世結縁状

本堂(釈迦堂)と大方丈をつなぐ渡り廊下の紅葉
このような背景から、平安時代後期の天禄(てんろく)3年(972)、「然は、法友義蔵と兄弟の契りを結び、洛中の北東部にある比叡山(標高848m)に対峙するかのように、洛中の北西部にある愛宕山(標高924m)に大霊場を築くことを誓って、次のような立誓願文(りゅうせいがんもん)を取り交わしたのでした。
「・・・何時の日か、京都愛宕山の地に一大伽藍を建立し、釈迦の教を興隆しよう。このことが、われわれの一生で出来なければ、生まれかわってでもやり、さらには三度生まれかわってでも成し遂げよう。このことを誓う。その証拠に、お互いに一通宛、この誓紙を肌身はなさず持っていることにしよう。・・・」
これが「現当二世結縁状(げんとうにせいけちえんじょう)」として広く知られているものです。「現当」とは、現世と来世、この世とあの世、のことを意味しています。
時に、「然35歳、義蔵23歳。
こうして「然は、新寺建立のための本尊を請来するために、生死をかけて、中国(宋)・インドの仏蹟巡礼に旅立つことを決意したのでした。
入宋

本堂(釈迦堂)の紅葉
当時は、寛平(かんぴょう)6年(894)の菅原道真(すがわらのみちざね)の建議による遣唐使派遣の中止以来すでに80年ほども経っていました。僧であった「然にとっては、渡航する機会を得ることは非常に困難だったといえます。
しかし辛抱強く待ちに待った思いが報われる時がやってきます。天禄(てんろく)3年(972)に義蔵と交わした立誓から丸10年という歳月が流れた永観(えいかん)元年(983)8月1日、ついに宋商の船で出帆できる機会にめぐり合って、渡宋の日を迎えることができたのでした。
「然は10年前に義蔵とかわした現当二世結縁状を肌身につけ、弟子の盛算らをしたがえ入宋(にっそう)の途につくことになります。
時に「然、46歳。
釈迦生身像との出会い

庭園
入宋してから「然は精力的に求法の旅をつづけます。
その中で「然は、宋(北宋。以下同じ。)の太宗(たいそう)(第2代皇帝)趙匡義に謁見できる機会を得ることになります。当時、唐が滅んだあと宋王朝によって統一された中国では、唐末の戦火によって道義は地に落ち、頽廃していた時期を脱すべく文教政策に取り組んでいた最中でした。太宗は、天下に令して、散逸してしまった書を集めたり、同じ本を複数つくらしめたりしていました。
「然は日本から持ってきた経典などを献上するのですが、その中に太宗の目を特に引いたものがありました。それはいわば、過去に唐から日本へ渡り、今また日本から宋への逆輸入ともいえる貴重な珍書ともいえるものだったのでした。これを手にしたときの太宗の驚きと喜びには格別なものがあったことから、太宗は「然を手厚くもてなすことになります。
そうした中で、「然は、宋の都、汴京(べんけい)(現・開封)で、帝室の廟寺である啓聖禅院に安置されていた一体の尊像と出会うことになります。その尊像は、かつて、釈迦在世の折に、インドで採れる牛頭栴檀(ごずせんだん)の香木で釈迦に生き写しの尊容が刻まれたもので、これを見た釈迦が自ら開眼したといいます。釈迦37歳の時の尊像とされています。
宋時代の雍熙(ようき)2年(985)、「然は太宗に請い、これとそっくりのものを作ることを許されました。
作られた像は、中国では栴檀が採れないことから、牛頭栴檀の代用として中国産の桜でつくられた像高160cmの釈迦如来立像で、その中が刳(く)りぬかれてあり、背面には蓋板があてがわれ、像内に物を収めることができるようになっていました。像が出来上がると、釈迦如来立像を生身の像と考える思想から絹製の五臓六腑が収められ、他に、結縁交名記(けちえんこうみょうき)や経典など、多くのものが像の胎内に収められたのでした。この時、「新寺建立のための本尊を請来する」という入宋の目的が達せられ、日本に戻ってからは「京都愛宕山の地に一大伽藍を建立」するとして、「然がかつて義蔵と交わした現当二世結縁状も一緒に収めています。「然は長年の願いがあと少しで達せられるような思いにいたったのではないでしょうか。
栴檀瑞像と呼ばれるこの釈迦如来立像(国宝)は、翌年の寛和2年(986年)7月1日、「然の帰国とともにわが国にもたらされ、インドから中国を経て日本に伝わった「三国伝来生身(しょうじん)の釈迦如来」としてながく民衆の信仰を得て今日に至っています。清凉寺の本堂に安置され、清凉寺が「釈迦堂」と言われる所以です。
清凉寺、建つ

阿弥陀堂
翌寛和3年(永延元年)(987)8月18日、「然は、愛宕山をもって五台山とし、一大伽藍を建てて大清凉寺と称し、栴檀釈迦像を安置したいと請願し、ようやくにして勅許を得て、長年の願いであった五台山清凉寺が建立されようとします。
しかし、永延(えいえん)3年(989)7月13日、「然は突如として、東大寺別当職に任ぜられてしまいます。
その3年後、「然は東大寺別当職を辞しますが、肝心の宿願であった五台山清凉寺も、まだ建ってはいなかった長和(ちょうわ)5年(1016)に、その願いもむなしく寂してしまいました。
師・「然の意志は、弟子の盛算によって、ようやく遂げられようとします。彼は「然の入宋に付き従った一人でもありました。盛算は「然が没すると、その同年に、師・「然の霊を慰めんとして、釈迦像安置の場所を、愛宕山の下、棲霞寺(せいかじ)(今日の清凉寺)の地にもとめたのでした。そして勅許を得て、華厳宗の五台山清凉寺が棲霞寺の一郭に、「然が宋より請来した釈迦如来立像他を安置した釈迦堂として発足することになります。
棲霞寺は、元は嵯峨天皇の皇子左大臣源融(みなもとのとおる)が建てた山荘・棲霞観(せいかかん)があったところで、源融の没後、源家の私寺となっていた地です。源融は、紫式部『源氏物語』の光源氏の実在のモデルとされる人でもあります。
「然の請来した、釈迦生身の像は、こうして安住の地を得ることになります。そして翌寛仁(かんにん)3年(1019)正月15日付で、盛算が、正式に、五台山清凉寺阿闍梨(あじゃり)に補任されることになります。今日、釈迦堂と親しみを込めて呼ばれる「清凉寺」がここにはじまります。
「然没後3年のことになります。
その後、棲霞寺の一郭で、「然が請来した釈迦如来立像を祀っていた清凉寺釈迦堂が信仰を集めるに及んで、清凉寺が棲霞寺にとって代わることとなります。そして棲霞寺は、清凉寺の阿弥陀堂となったのでした。
写真集(21枚の写真が表示されます。)
本堂(釈迦堂)正面に掲げてある、鮮やかな群青地に書かれた金文字の扁額。
明の禅僧で、黄檗山萬福寺(おうばくさんまんぷくじ)の開山となった隠元(いんげん)の江戸初期における万治(まんじ)2年(1659)の書と伝えられています。隠元が清凉寺に参詣した折、自分の生国からはるばると、この嵯峨の地に請来された釈迦を拝して、その感激の筆致をこの扁額にのこしたものといわれています。
「栴檀瑞像」とは、寛和2年(986)に「然が宋から帰朝の折に請来した本尊釈迦如来像を指します。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 別称 | 嵯峨釈迦堂 |
| 所在地 | 京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46 |
| 山号 | 五台山(ごだいさん) |
| 宗派 | 浄土宗 |
| 本尊 | 釈迦如来立像(国宝) |
| 発足年 | 寛仁3年(1019) |
| 開基 | 「然 |
| 開山(初代住職) | 盛算 |
| 文化財 |
|
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