
蛤御門
写真奥は東の方角になります。
蛤御門(はまぐりごもん)は京都御所の西側(烏丸通沿い)にある門のひとつで、この門はもとは新在家門(しんざいけもん)といわれていました。しかし江戸時代の大火で、それまで閉ざされていた門が初めて開かれたことから、「焼けて口開く蛤」に例えて、蛤御門と呼ばれるようになったといわれています。
この蛤御門では歴史に残る大きな事件が起きることになります。
江戸時代末期の文久(ぶんきゅう)3年8月18日(1863年9月30日)、会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都から追放するという事件(文久の政変)が起きました。
翌年の元治(げんじ)元年(1864)6月、尊攘志士が多数死傷するという池田屋事件が起こるに当たって、前年に京都を追放されて後、復活のチャンスをうかがっていた長州藩では、久坂玄瑞(くさかげんずい)や来島又兵衛(きじままたべえ)、家老・福原越後(ふくはらえちご)ら長州藩内の急進過激派が激昂し、軍を率いて京に向けて進発します。
そして前年に長州を朝廷から遠ざけた会津・薩摩勢を力ずくで排除してでも参内(さんだい)すべしと強硬に京都御所に接近、ついに御所警備に当たっていた会津・薩摩・桑名藩らの藩兵たちと衝突します。この戦いでは大砲までも投入された激しい戦闘が繰り広げられます。京都市中はみるみるうちに戦火につつまれ、約3万戸が焼失するなど、太平の世を揺るがす大事件(「禁門の変」)となりました。
禁門の変は、蛤御門が禁門の変で攻守の要地となったところから、「蛤御門の変」とも呼ばれます。
この蛤御門の変では、長州藩は敗北します。そして蛤御門の変後、長州藩は「朝敵」となり、第一次長州征伐へとつながっていくことになります。
今も蛤御門の梁(はり)にはその時の鉄砲の弾傷らしき跡が残っています。
写真集(4枚の写真が表示されます。)
堅牢なつくりが見て取れます。
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