
曹源池と書院(写真右端)
後醍醐(ごだいご)天皇にも足利尊氏(あしかがたかうじ)・直義(ただよし)兄弟にも帰依を受けた 臨済宗の禅僧、夢窓疎石(むそうそせき)が、大和(奈良県)の吉野で没した後醍醐天皇の菩提を弔うために、尊氏・直義兄弟に勧めて建立された天龍寺。
天龍寺は、京都五山と称された禅宗寺院の上格五寺の中でも第一に列せられた寺院で、また、西芳寺(苔寺)をはじめ多くの名園を残した夢窓疎石の手による庭園も残されました。
今日、世界遺産にも登録されている天龍寺には、多くの人たちが訪れています。
後醍醐天皇と足利尊氏

入口案内
鎌倉幕府の滅亡
時は鎌倉時代の中頃。
モンゴル帝国を支配した元(げん)(中国)のフビライ=ハンは、高麗を征服すると、文永5年(1268)以降たびたび日本に服属を迫って使者を送ってきます。時の鎌倉幕府第8代執権北条時宗(ほうじょうときむね)はこれを拒否します。そのため元は、2度にわたって大軍を送りこんで博多湾に攻めてきました。元寇(げんこう)と呼ばれるその侵攻に対して、時宗は、九州の武士を動員して退けます。この最初の戦いは文永(ぶんえい)の役(文永11年(1274))、二度目の襲来は弘安(こうあん)の役(弘安4年(1281))と呼ばれています。
この元寇をきっかけに、武士をはじめとする御家人たちは鎌倉幕府に対する不満を募らせていくことになります。元寇では、相手が海の彼方からやってきたため、戦いには勝っても多くの犠牲を払った上に出費がかさんだだけで、恩賞としてもらえる領地など、十分なものが貰えなかったからです。
年代は少し遡りますが、源頼朝にはじまる源氏から鎌倉幕府を引き継いだ北条氏という武家の手で行われた政治は、当初、困窮の民を救う善政とされ、その威厳はあまねく万民の上にゆきわたっていました。それでいて北条氏は位の上でも四位以上に上ろうとすることもなく、謙虚で仁政(じんせい)を行い、常に自らを反省して礼儀を正していました。そのために高い位にあっても社会の安泰を保ち、その力に驕るようなことはありませんでした。
しかも承久(1219年)以後は、親王や摂関家の中から、世を治め民を安心させることのできる器量の人を選んで鎌倉に迎えて征夷大将軍とし、武家はすべて礼を尽くしてこれに仕えていました。
ところが、承久3年(1221)に起った承久の乱に敗北した後鳥羽上皇以下の恨みをはらし、かつ朝廷の失地回復を果たそうとしていた代々の天皇は、なんとか鎌倉幕府を倒そうと考えていました。しかし、力及ばず、その機の熟さないこともあって、動くことも出来ないという状態が続いていました。
そこへ元寇をきっかけとして経済的に困窮しだした御家人が鎌倉幕府に対して不満を抱きだすようになってから次第に、幕府の威光にも陰りの色が見えだしてきます。
正和(じょうわ)5年(1316)7月から正中(しょうちゅう)3年(1326)2月までの10年弱にわたって第14代執権の地位にあった北条高時(たかとき)の代になると、機が熟したとばかりに、当時の後醍醐天皇が幕府を倒そうという計画をたてます。後醍醐天皇は、聖帝(せいてい)といわれ良い政治を行ったと評された平安時代の醍醐・村上両天皇による延喜・天暦(てんりゃく)の治にならって天皇中心の政治を行おうと考えていました。通常、天皇の名前はその死後におくられますが、後醍醐天皇は、醍醐天皇にあやかって、生きているうちに、自分で「後醍醐」と決めています。
しかしこの計画は鎌倉幕府に漏れて失敗に終わります(正中(しょうちゅう)の変(正中元年(1324))。ただこの時は、天皇は無関係と釈明して咎めを受けることはありませんでした。
元弘元年(1331)、再び後醍醐天皇は幕府を倒す計画をたてます。この計画は天皇の重臣から鎌倉幕府に漏れてしまいます。さすがに今度は鎌倉幕府から後醍醐天皇を捕らえよ、との命令が西国の支配を任務とし、朝廷の動きの監視も行っていた六波羅探題に出されました。
後醍醐天皇は笠置山(かさぎやま)(京都府)で兵を集めて抵抗したため、鎌倉幕府は、北条氏につぐ名門で、ナンバー2の実力を持つ幕府の有力な御家人である鎌倉の足利高氏にも出陣の要請をしてきたのでした。208,000余騎ともされた幕府の大軍に責められた後醍醐天皇はついに捕らえられ、天皇の地位を剥奪されて隠岐の島(島根県)に流されました。こうして後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕計画はまたもや失敗に終わってしまいました。(元弘(げんこう)の乱)。
翌1332年の暮れ、反幕勢力の河内(大阪府)の土豪、楠木正成(くすのきまさしげ)が鎌倉幕府軍の籠る赤坂城を奪い返すと、金剛山(こんごうざん)(大阪府)の千早城(ちはやじょう)にたて籠りました。
後醍醐天皇の皇子、護良親王(もりよししんのう)も吉野山(奈良県)で兵を挙げ、諸国の武士に味方するように呼びかけます。これに応えるように近畿の各地で反幕勢力が兵を挙げました。
鎌倉幕府は赤坂城、千早城、吉野山へと兵を送ります。赤坂城、吉野山は幕府の手に落ちてしまいましたが、ただ護良親王は高野山(和歌山県)に逃れました。
一方、千早城を守っていた楠木正成は奮戦を続けます。
このような情勢の中、後醍醐天皇は元弘3年(1333)2月、名和長年(なわながとし)ら名和一族を頼って隠岐の島から脱出し、伯耆船上山(ほうきせんじょうさん)(鳥取県西部)で挙兵し、諸国の武士たちに味方するよう綸旨(りんし)(命令書)を発行しました。これに呼応するように幕府に不満を募らせていた武士たちが各地から集まってきました。
こうして幕府軍と反幕勢力が戦いを繰り広げます。
一方、金剛山の千早城に立て籠る楠木正成を攻めていた鎌倉幕府軍の新田義貞(にったよしさだ)でしたが、戦場を離れてしまいます。
時の鎌倉幕府の実権を握る執権北条高時は、新田義貞から見て武家の棟梁という器ではなく、衰えた鎌倉幕府をたてなおすこともせず、そのために世の中が乱れきっていると考えていたからでした。
新田義貞は護良親王から密かに鎌倉幕府を倒せ、との令旨(りょうじ)(命令書)を貰うと故郷の上野(こうずけ)(群馬県)へ引き上げました。
反幕勢力が思いのほか強かったために、鎌倉幕府は新たに足利高氏らに出陣を命じます。ここで足利高氏は傾きかけた鎌倉幕府につくか、後醍醐天皇側につくか、迷います。ただ足利家には「天下を取るべし」との先祖からのいいつたえがあり、しかも足利高氏の父の遺言ともなっていました。
こうしたことから、足利高氏は鎌倉幕府を見限って、後醍醐天皇側につくことを決め、元弘3年(1333)3月、幕府方を装って、京に向けて鎌倉を出発します。その途中で、後醍醐天皇に遣いをやり、幕府を倒せとの綸旨をもらっています。
こうして、足利高氏は同年4月29日、所領の丹波国篠村八幡宮(京都府亀岡市)で反幕府の兵を挙げ、5月7日には六波羅探題を攻め落としたのでした。
一方東国では、5月8日に倒幕の兵を挙げた新田義貞は、5月22日、鎌倉に攻め入り、北条氏を滅亡させています。
ここに130年間続いた鎌倉幕府が幕を閉じました。

勅使門
建武の新政と武家の不満
元弘3年(1333)6月5日、意気揚々と京へ戻った後醍醐天皇は、楠木正成、新田義貞、名和長年ら、忠義を尽くして働いた人々に恩賞を与えます。
一方、足利高氏が鎌倉幕府を見限り後醍醐天皇側についたことで、多くの武士たちが足利高氏の下に集まり、そのことによって後醍醐天皇に勝利をもたらしたという意味で、武士の中でも一番の功績があったはずの足利高氏には、後醍醐天皇は、官位をすすめ、また天皇の名の「尊治(たかはる)」の一字をとって、「尊氏」と名のることを許したぐらいでした。この時から、足利高氏は足利尊氏と変わります。尊氏が持っていた所領は逆に減らされ、しかも新政府の主要な役職からは外された格好となっていました。これは貴族が、尊氏の実力を恐れた為と見られています。
足利尊氏のように十分な功績があったにも関わらずそれに見合った恩賞が与えられなかった人は他にもいました。
また、北条氏らの武家から取り上げた領地を貴族たちに与えるなど、後醍醐天皇の恩賞の配分の仕方は不公平感を与える形となり、武士たちの不満をかうこととなります。
年が改まった1334年正月、後醍醐天皇は年号を「建武」(けんむ)と改め、天皇が自分で政治をとる天皇親政(てんのうしんせい)を始めます。「建武の新政」と呼ばれている政治の始まりです。
ところが後醍醐天皇がやりはじめたことといえば、恩賞の不公平をはじめ、重い税のとりたて、朝令暮改のごとくコロコロ変わる法令の発布等々。これによって武士や農民を始めとした人々は不安と混乱の渦に巻き込まれてしまう、という状況に陥ってしまいします。
一方、天皇や貴族たちは贅沢な暮しぶりで、気晴らしの行幸(ぎょうこう。天皇のお出かけ。)や遊びを繰り返す、といった始末で、何事につけても貴族中心にすすめられていったのでした。
これには、鎌倉幕府衰退寺の時よりもひどい、といった受け止め方が多くなり、建武の新政に対する批判や不満が各地で噴出し、反乱が相次ぐことになります。
建武2年(1335)7月中旬、今は亡き北条高時の次男、北条時行(ときゆき)も政府を倒そうと反乱の軍をおこします。時行の軍勢は足利尊氏の弟、直義がいた鎌倉に攻め入り、一時占拠します(中先代(なかせんだい)の乱。二十日先代の乱とも呼ばれます。)。当時京にいてこれを聞いた足利尊氏は鎌倉に出征するに当たり、後醍醐天皇に総追捕使(諸国を守る役目)と征夷大将軍に任命してくれるように願い出ましたが許されなかったため、8月2日、天皇の許可を得ないまま軍勢を率いて鎌倉に向かいました。尚、後醍醐天皇は一週間後の8月9日にやむなく征東大将軍の位を尊氏に授けています。
足利尊氏は弟・直義の軍勢と合流すると北条時行の軍勢を打ち破って、8月19日には鎌倉を奪い返しました。
足利尊氏はそのまま鎌倉に本拠を置き、独自に恩賞を与えはじめました。武士の恩賞は、建武の新政が始まって以来法令によって、天皇の綸旨で認めてもらってから与えられることになっていましたが、それを無視したのでした。また後醍醐天皇から「京に戻ってくるように」との上洛の命令も拒んで、武家政権創始の動きを見せはじめることになります。
ここにおいて、尊氏が建武政府に背を向けたことはもはや明らかとなり、後醍醐天皇と足利尊氏の関係は急速に冷え込んでいくことになります。

庫裏前に据えられている石組
ところで、鎌倉幕府が滅んだ直後から、足利尊氏と新田義貞の対立が始まっています。
足利尊氏と新田義貞は、ともに源義家(みなもとのよしいえ)(八幡太郎(はちまんたろう)義家)を祖先とする間柄(義貞が尊氏より4歳年上)で、源義家の孫の代の時に足利氏と新田氏に分かれています。
鎌倉幕府滅亡当時、足利尊氏は京に、新田義貞は鎌倉にいました。新田義貞が武士たちから慕われ、武家の棟梁にかつぎあげられることを恐れた足利尊氏は、使いを出して鎌倉から新田義貞を追い出させたのでした。そこで新田義貞は、足利尊氏のやったことを朝廷に訴えるために京に向かう、というようなことがあったのでした。
11月に入ると、足利尊氏は新田義貞を君側の奸(かん)であるとして後醍醐天皇にその討伐を要請します。しかし逆に後醍醐天皇は新田義貞に尊良(たかよし)親王を伴わせて足利尊氏討伐を命じました。
朝敵となることを避けようとした足利尊氏は隠居を宣言し浄光明寺(じょうこうみょうじ)に引き籠ってしまいました。しかし、新田義貞軍と激突した足利尊氏の弟・直義が率いる足利軍が各地で劣勢となると、尊氏は彼らを救うためついに後醍醐天皇に叛旗を翻して戦うことを決意しました。この後、足利尊氏は、新田義貞そして楠木正成らと戦(いくさ)を交えることとなります。
翌12月、足利尊氏は新田軍を破り、建武3年(1336)正月、入京を果たします。そのため後醍醐天皇は比叡山へ逃れていきます。しかし、翌2月10日には後醍醐天皇方の楠木正成軍に敗れ、翌11日には新田義貞軍にも敗れ、大敗を喫してしまいました。足利尊氏は勢力を立て直すために、2月12日、兵庫沖から船に乗って、一旦京都を放棄して九州に下ることにしました。
九州で勢力を立て直した足利軍は、尊氏が船を使って兵庫沖にその帆影を見せ、弟の直義が陸路を伝って現れました。5月25日の湊川(兵庫県神戸市中央区・兵庫区)の戦いで楠木正成・新田義貞の軍を破り(正成は戦死、義貞は京へ敗走)、6月には京都を再び制圧しました。後醍醐天皇は慌ただしく比叡山に逃れ、足利軍を迎え討ちます。比叡山の麓、そして京の都の中での戦いが繰り広げられますが、なかなか進展しない戦いに、足利尊氏は、後醍醐天皇に和議を申し入れます。京に戻りたい後醍醐天皇もこれに応じ、11月2日、尊氏がたてた持明院統の光明(こうみょう)天皇に神器を譲り、その直後の11月7日、建武式目十七条を定めて幕府の施政方針を示し、新たな武家政権の成立を宣言しました。実質的には、このときをもって室町幕府の発足とされています。
一方、大覚寺統の後醍醐天皇は12月に京を脱出して大和の吉野(奈良県吉野郡吉野町)へ逃れ、光明天皇に譲った三種の神器は偽物であり自らが帯同したものが本物であると称して独自の朝廷(南朝)を樹立しました。
こうして、1336年12月、京都の朝廷(北朝(ほくちょう))である持明院統と吉野の朝廷(南朝(なんちょう))である大覚寺統の2人の天皇が現れ、以後、半世紀以上にわたって争い、対立することになる南北朝時代が始まったのでした。
後醍醐天皇と夢窓疎石

曹源池と大方丈(写真左)
正中元年(1324)の後醍醐天皇による最初の鎌倉幕府倒幕計画が進められた正中の変が失敗に終わり、ようやくおさまった同2年(1325)春、後醍醐天皇は、京の都からは遥か遠い上総(かずさ)(千葉県中部)に退耕庵(たいこうあん)を築き隠棲していた夢窓疎石のもとに特使を遣わします。夢窓疎石に南禅寺に入ってもらおうと考えていたからです。しかし夢窓疎石は病と称してすぐには応じませんでした。そこで同年7月、後醍醐天皇は、執権北条高時(ほうじょうたかとき)の力を借りて再び上洛を要請してきたことから、ついに京にのぼることを決意します。
夢窓疎石が上洛すると後醍醐天皇は手厚くもてなし、長時間にわたる説法を聞くに及んで、大変満足したといいます。
同年8月に夢窓疎石が南禅寺に入寺すると、月に3度も夢想疎石を召されて法を問うほど、後醍醐天皇の夢窓疎石に対する帰依は深いものになっていたといいます。
ところで、後醍醐天皇が夢想疎石に帰依するようになった背景の中には、天皇家における大覚寺統と持明院統との対立が挙げられています。当時、持明院統の花園上皇は、夢想疎石と並び称される宗教界の巨星であった大徳寺開山の禅僧、宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)(大燈(だいとう)国師)に深く帰依していました。
それに対して、宗峰妙超に劣らない人材を宗教界に求めていた大覚寺統の後醍醐天皇は、夢窓疎石の名声を伝え聞いていたことから接近したのではないかと見られています。そして何よりも、大覚寺統の宗教的嗜好と夢窓疎石の宗風にうなずける共通点が見出されたことが、後醍醐天皇が夢窓疎石に帰依する大きな要因となったのではないかと見られています。
足利尊氏と夢窓疎石〜天龍寺創建〜

紅葉に染まる庭園
後醍醐天皇は、暦応(りゃくおう)元年(1338)8月21日、足利尊氏が北朝の光明(こうみょう)天皇に征夷大将軍に任命され、室町幕府が名実ともに成立した翌年の暦応2年8月16日丑の刻(うしのこく。午前2時頃。)、左の手に法華経(ほけきょう)五の巻(まき)を、右の手には剣を握って、逃れていた大和の吉野でその生涯を閉じました。享年52歳(満50歳)。後醍醐天皇が建武3年(1336)12月に京を脱出して大和の吉野へ逃れてから、3年にも達していませんでした。
後醍醐天皇が死に臨んで残した遺言には、京の都の制圧、即ち天下統一への執念が書き綴られています。以下は『太平記』「先帝崩御の事」からの一部抜粋です。
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ただ生々世々(しやうじやうぜぜ)の妄念(まうねん)ともなるべきは、朝敵をことごとく滅ぼして、四海を太平ならしめんと思ふばかりなり。(〜中略〜)玉骨(ぎょくこつ)はたとひ南山の苔(こけ)に埋もるとも、魂魄(こんぱく)は常に北闕(ほくけつ)の天を望まんと思ふ。もし命(めい)を背き義を軽んぜば、君も継体(けいたい)の君にあらず、臣も忠烈の臣にあらじ。
(ただ私は、永久にうまれかわって朝敵を滅ぼし、天下を太平の世にしたいと思っている。(〜中略〜)我が遺骨はたとえ吉野山(よしのやま)の苔に埋もれるとも、魂は常に北方の宮城(京の内裏(だいり))を睨んでいるであろう。もし命令に背き忠義を怠るならば、王位を継承する君といえど皇太子とはいえず、臣下といえど忠節を尽くす臣下とはいえない。)
後醍醐天皇の遺体は吉野につくられた塔尾(とおのお)の陵に、北向きに葬られました。天皇陵は南を向いているのが普通とされますが、北向きにしたのは、後醍醐天皇が「北闕(皇居)の天を望まんと思ふ」(京(北)の空を睨んでいたい)と残されたことから、これだけは異例のかたちとなったのでした。
さて、鎌倉幕府が滅んで、後醍醐天皇が新政権を樹立してから間もなくの頃、当時鎌倉にいた夢窓疎石に後醍醐天皇からの勅使が到着し、「上洛せよ」との勅命が伝えられました。その時の勅使は、ほかならぬ足利尊氏でした。
そしてこの度、足利尊氏は室町幕府を開くと、夢窓疎石を幕府に迎えて弟子の礼をとりました。更に、後醍醐天皇が行ってきた対宗教政策をそのまま受け継ぐことを宣言しました。これは、夢窓疎石を室町幕府の庇護の下に、宗教界の最高責任者とするお墨付きを与えたことになります。
『太平記』には「天龍寺建立の事」と題して、夢想疎石が足利尊氏の弟、直義に一寺建立を勧め、これを聞いた尊氏もその提案に感心して賛同した様子が描かれています。
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夢想国師が左兵衛督(さひょうえのかみ)足利直義に申されるには、
「近年、天下の有り様を見ていて思いますのは、単に人の力のみでは天災を除けそうにないということです。これはきっと、後醍醐天皇が吉野で亡くなられた時、帝は御臨終に際し、様々の悪相を示されたそうですが、その怨霊の憤りが深いために国土に災いを下されているものと考えられます。以前六月二十四日の夜に見ました夢に、後醍醐天皇が鳳輦(ほうれん)(行幸に使用される、頂きに鳳凰が飾られた乗り物)に乗られて吉野を出られ、嵯峨の亀山(後嵯峨上皇が鎌倉時代中期の建長7年(1255)に現在の天龍寺の北から大堰川(おおいがわ)(桂川)畔に建てた離宮、亀山殿(かめやまどの)。後、後醍醐天皇に伝領されています。)の行宮(あんぐう)に入られる夢を見ましたが、それからほどなくして崩御(ほうぎょ)されました。その後も時々、御尊霊(そんりょう)は金龍(きんりょう)に乗られて大堰川の畔(ほとり)を散策されます。嵯峨の地は、檀林(だんりん)皇后(橘嘉智子(たちばなのかちこ)、嵯峨天皇の皇后)の古い話を記録した文書によりますと昔からいろいろといわれがございます。なにとぞここに一寺を建立なさって下さい。それによって後醍醐天皇の菩提を弔(とむら)えば、天下が鎮まらないはずはございません。昔から、菅原道真(すがわらのみちざね)公の霊に贈位されたり、保元(ほうげん)の乱で非業の死を遂げた左大臣藤原頼長(よりなが)に贈位されたりしておりますし、讃岐院(さぬきのいん。崇徳天皇。)、隠岐院(おきのいん。後鳥羽天皇。)にも改めておくり名を献じ、御廟(びょう)を都にお遷(うつ)ししたところ、怨霊がみな鎮まって、かえって国家鎮護の神になられておられます。」
そこで、将軍尊氏も弟の直義も、
「それはもっともなことだ」
と、夢窓疎石の献策に感心して賛同された。
暦応2年(1339)10月に入ると、大覚寺統の歴代天皇にとって由緒深い嵯峨の亀山殿(かめやまどの)の地に、足利尊氏を開基とし、夢窓疎石を開山とする天龍寺の建立が始められ、新寺の名は光厳(こうごん)上皇により、破格の上位の寺であることのシンボルとして当時の年号である「暦応」を入れて「霊亀山暦応資聖禅寺(れいきざんりゃくおうしせいぜんじ)」とされました。ところが、延暦寺をはじめとした先行の年号を冠した寺院から猛烈な反対の抗議があったことから、暦応4年(1341)7月に「天龍資聖禅寺」と改称されました。この名は、足利尊氏の弟、直義が、新寺の南の大堰川(おおいがわ)(桂川)から巨大な金龍が昇ったという夢を見たことから付けられたといいます。
康永(こうえい)3年(1344)正月、後醍醐天皇の霊廟が完成します。
禅宗寺院の上格五寺は五山と称されますが、天龍寺は完成しないうちから五山の第二位に列せられていました。
足利義満が相国寺を創建してのちの至徳3年(1386)に京都五山と鎌倉五山に分離されてからは京都五山の第一位とされています。その後相国寺の下位に列したこともありますが、応永17年(1410)に第一位に復帰し、その後は第一位を維持し、子院150ケ寺を数える広大な敷地をもって栄えたのでした。
写真集(29枚の写真が表示されます。)
ここからも入れますが、総門は北側(写真向かって右側)にあります。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 正式名 | 天龍資聖禅寺 |
| 通称 | 天龍寺 |
| 所在地 | 京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町(すすきのばばちょう)68 |
| 山号 | 霊亀山(れいぎざん) |
| 宗派 | 臨済宗天龍寺派 |
| 本尊 | 釈迦如来 |
| 寺格 | 大本山 |
| 創建年 | 暦応2年(1339) |
| 開基 | 足利尊氏 |
| 開山 | 夢窓疎石 |
| 文化財 |
|
【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。
【図中番号の説明】
- ※
- 図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
- 総門
- 勅使門
- 中門
- 放生池(ほうじょうち)
- 法堂(選佛場)
- 庫裏(くり)
- 大方丈
- 小方丈(書院)
- 祥雲閣(しょううんかく)
- 多宝殿(たほうでん)
- 曹源池(そうげんち)
- 亀島
- 岩島
- 龍門瀑
- 禅堂
- 友雲庵(ゆううんあん)
- 龍門亭(篩月(しげつ))
- 望京の丘
- 平和観音
- 硯石(すずりいし)
- 百花苑(ひゃっかえん)
- 北門(※1)
- 嵯峨野・竹林の道(※1)
- 野宮神社(ののみやじんじゃ)(※1)
- 嵐山公園亀山地区(※1)
- 渡月橋(※1)
- 臨川寺(りんせんじ)(※1)
図の操作について
- 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
- 図の左にある+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
- 図の右上にある[地図]のボタンをクリックすると地図タイプを切り替えることができます。
- 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
- 最初の状態に戻すには、キーボードのF5キーを押下してください。
近隣の観光スポット情報
上記の【境内概観図】をご参照ください。


