
鐘楼
豊臣秀吉が壮麗な大仏殿を建立した方広寺(ほうこうじ)。ここにある梵鐘に刻まれた字句は、大坂の陣を引き起こすきっかけともなり、豊臣家の滅亡をもたらしたことで知られています。
かつて東西約200m、南北約240mに及んだその寺域は、現在の方広寺、豊国(とよくに)神社、京都国立博物館の敷地にほぼ相当しています。
現在は寺域も縮小して本堂・大黒天堂・鐘楼が残り、豊国神社の北に隣接しています。
発掘調査で、大仏殿の基壇(きだん)の名残りが確認されたところが、大仏殿跡緑地公園として整備されています。方広寺からは、鐘楼前の駐車場と豊国神社との間の狭い道を東へ進めばほどなくその公園に至ります。

方広寺伽藍推定図
現地案内板を元に作成。
方広寺建立と復興
天正(てんしょう)13年(1585)、関白(かんぱく)に就任した豊臣秀吉(ひでよし)は翌14年、奈良東大寺にならって大仏の造立(ぞうりゅう)を発願(ほつがん)し、東山の東福寺付近に大仏と大仏殿を造立する予定で、その工事を始めます。ほどなくしてこの工事は一旦中止されますが、天正16年(1588)に、場所を蓮華王院(れんげおういん)(三十三間堂)(下記マップ参照)北側のこの地(上記「方広寺伽藍推定図」参照)に寺地を変更して再開されます。文禄(ぶんろく)4年(1595)に大仏殿がほぼ完成すると、東大寺の大仏より大きい6丈3尺(約19m)の大きさであったという木製金漆塗(もくせいきんうるしぬり)の大仏座像が安置されました。
ところが完成翌年の文禄5年(1596)閏7月13日に発生した慶長伏見の大地震で大仏が大破してしまいます。また、それから2年程後の慶長(けいちょう)3年(1598)8月18日には豊臣秀吉もこの世を去ってしまいます。
その後、豊臣秀吉の子である豊臣秀頼(ひでより)が、慶長4年(1599)、金銅に変えた大仏と大仏殿の復興に着手します。
そうした中、慶長5年(1600)9月15日、建前は豊臣家に仇(あだ)なす者を成敗するとして、東軍と西軍に分かれての豊臣家の家臣同士による成敗合戦という関ヶ原の戦いが起こります。この戦いで勝利を得た徳川家康(いえやす)は、事実上天下の実権を握ることになります。
しかし、豊臣秀頼の居城である名城・大坂城には、徳川を打倒するに十分な金銀が城内に蓄えられていたことから、徳川家康は何とかして豊臣家の財力を失わせることはできないものかと、その方策を練ります。それが、故・太閤秀吉の菩提を弔うためと称して、しきりに社寺の造営・修復を豊臣秀頼にすすめることでした。
豊臣秀頼は、その意図を見抜くことができずに、徳川家康の老巧な企みに乗せられ、醍醐寺−上醍醐−の如意輪堂や五大堂、醍醐寺−下醍醐−の三宝院、金堂、西大門など、相国寺(しょうこくじ)の法堂や鐘楼、等持院、真正極楽寺(真如堂)、鞍馬寺、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)など、次々と寺社の造営・修復に財力を投入していったのでした。
そのような中、方広寺は慶長7年(1602)12月、鋳造中の大仏から出火して火災が起き、造営中の大仏と大仏殿は焼失してしまうという事態に遭遇することになります。
慶長8年(1603)2月12日には、徳川家康は征夷大将軍の宣下を受けます。これによって、豊臣秀頼と徳川家康の地位は逆転し、豊臣秀頼は65万7千石の一大名に転落することとなってしまいます。
そうした境遇の変化の中にもかかわらず豊臣秀頼は、方広寺の復興を慶長13年(1608)から開始し、慶長17年(1612)に大仏を事実上完成させました。
慶長14年(1609)から再建していた大仏殿も慶長19年(1614)にはほぼ完成し、同年4月には梵鐘も完成しました。

本堂
方広寺鐘銘事件
大仏開眼と堂供養の日が慶長19年(1614)8月3日とされ、徳川家康の承認を得て、開眼供養の日を待つばかりとなりました。ところが7月21日、準備に全力を傾けていた豊臣秀頼のもとに、徳川家康が鐘銘に不祥の語があると怒っている、との情報が届きます。そして5日後の7月26日、徳川家康配下の金地院崇伝(こんちいんすうでん)と本多正純(ほんだまさずみ)の連名で、開眼供養を延期し、鐘銘の原稿文を送れ、との連絡が豊臣秀頼のもとに入ります。
梵鐘に刻まれた銘文は、当時「洛陽無双の智者」といわれ、東福寺、南禅寺に住した禅僧である文英清韓(ぶんえいせいかん)が故事来歴を引いてつくったもので、立派な内容のものと見られていました。
ところが、その銘文にあった「国家安康(こっかあんこう)」「君臣豊楽(くんしんほうらく)」「子孫殷昌(しそんいんしょう)」という文字が、安の一字をもって徳川家康の家と康を分断し、豊臣を君主として子孫の殷昌(繁栄)を楽しむと読ませ、家康を呪詛(じゅそ)し、豊臣家の繁栄を祈ったものである、と見なされたのでした。これが方広寺鐘銘事件とされているものです。
これを機に大坂冬の陣をはじめとする大坂の陣が起こり、豊臣氏の滅亡へとつながっていくことになります。
一方、その後の徳川政権下でも大仏殿は維持されました。しかし、江戸時代も後期に入った頃の寛政(かんせい)10年(1798)、落雷によって炎上してしまいます。それまで大仏は、「京のだいぶっ(大仏)つぁん」として都の人々に親しまれたといいます。
写真集(8枚の写真が表示されます。)
大坂城など、築城に使用されるような巨石が据えられています。写真左下隅には石碑も見えます。
大和大路通沿いにあるこの巨石の前の坂を登ると方広寺です。南側に隣接している豊国神社の境内からも方広寺に入ることができます。
【近隣観光マップ】
※マップの操作については下記をご参照ください。
【マップ掲載番号の説明】
- ※
- 図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
- 方広寺
- 鐘楼
- 大仏殿跡緑地公園
- 豊国神社
- 唐門
- 京都国立博物館
- 蓮華王院(三十三間堂)(※1)
- 妙法院(※1)
- 智積院(※1)
- 円山公園(※3)
- 高台寺(※3)
- ねねの道(※3)
- 石塀小路(※3)
- 花見小路通(祇園町南側)(※3)
- 建仁寺(※3)
- 八坂の塔(※2)
- 産寧坂(三年坂)(※2)
- 清水寺(※3)
- 六波羅蜜寺(※2)
マップの操作について
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- 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
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近隣の観光スポット情報
京都国立博物館の南側、七条通を隔てた所には蓮華(れんげ)王院(三十三間堂)があります。また京都国立博物館の東側を南北に通る東大路通を隔てた所には蓮華王院(三十三間堂)の本坊妙法院(みょうほういん)や智積院(ちしゃくいん)があります。
上記の【近隣観光マップ】も併せてご参照ください。


