
唐門
国宝。
豊臣秀吉(とよとみひでよし)を祭神とする豊国神社(とよくにじんじゃ)は、もとは豊国社(とよくにのやしろ)として京都・東山の阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)の西麓に造営されました。
しかしその後、徳川幕府によって廃祀の処置がとられ、数奇な運命を辿ります。
明治になって現在の地に再興され今日に至っています。
廟所(墓所)・豊国社の造営
慶長(けいちょう)3年(1598)3月15日晴れ、伏見城から4kmと離れていない醍醐寺(だいごじ)(醍醐寺−上醍醐−、醍醐寺−下醍醐−)で秀吉は盛大な花見を開きます。世に言う「醍醐の花見」です。当時醍醐寺の座主であった義演(ぎえん)は、その日記『義演准后(じゅごう)日記』の中で「今日太閤御所渡御、女中各御成(おな)リ、終日花御遊覧、路次茶屋以下結構筆舌ニ尽シ難シ、」とこの日の様子を描写し、何事もなく無事に終了したことを書き記しています。
そしてこの花見は、秀吉最後の宴となります。
醍醐の花見から2カ月ほど経った5月半ば、秀吉は病床に就いてしまいます。それから3ケ月ほど後の8月18日、ついに63歳の生涯を伏見城で閉じました。ただ、当時慶長の役(朝鮮出兵)の最中とあって、渡海して戦っている将兵たちに動揺を与えてはいけないという配慮から、その死は極秘とされ厳重な箝口令(かんこうれい)がしかれて、翌慶長4年の正月まで公表されませんでした。
秀吉の遺体は神葬によりその日の夜半、伏見城より密かに運び出されて、「智深くして私曲なし」と評され、秀吉の信任が厚かった武将、前田玄以(まえだげんい)が奉行となって京の東山にある東山三十六峰の一つ、阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)(標高193m)の山頂に設けられた廟所(現在の「豊国廟」(ほうこくびょう))に移して、隠密裏に葬られたといいます。
秀吉の死から20日程が経った9月6日、前田玄以によって阿弥陀ヶ峰の西麓(太閤坦(たいこうだいら))の地に、箝口令がしかれていたことから祭神などその事情を明らかにしないまま縄張(なわば)りがなされました。この時内々で、後の豊国社(とよくにのやしろ)(現豊国神社の前身)を造営する為の社地の選定が行われたのでした。
後日、朝廷に大社創建の要請が正式に出されますが、その時、前田玄以は、先に縄張りを行った社地が秀吉の遺言で決められたことを伝えています。
そして、9月11日からは豊国社の社殿造営工事が始まり、翌慶長4年(1599)の3月10日の頃にはその工事も完了の運びとなっています。その間実に僅か200日程という短期間で終らせたことになります。
豊国社は、豊臣家が威信をかけて創建した神廟で、その境内域は、阿弥陀ヶ峰を中心にして、西は大和大路(やまとおおじ)、南は今熊野(いまぐまの)から北は音羽川(おとわがわ)まで達する約30万坪(東京ドーム21個分強)を占め、壮大壮麗な社(やしろ)であったといいます。そして、秀吉の子、豊臣秀頼(ひでより)からは社領として1万石の寄進もうけています。
当時、社寺の社領は、おおむね100石前後から500石前後という時代であったとみられています。いずれは自分の墓所ともなる寺院の建立を夫・秀吉の眠る阿弥陀ヶ峰に近い地に、ということで、秀吉亡きあとを継ぐ者と目された徳川家康(とくがわいえやす)の全面的な支援によって北政所(きたのまんどころ。秀吉の正室。)のために建立された高台寺でさえも500石であったとされていますから、1万石という社領は、ちょっとした大名顔負けの厖大な社領であったことが伺えます。
後の慶長7年(1602)に完成したとされる、方広寺大仏殿の裏手から豊国社への入り口を示す二層の楼門の広壮華麗さは、古今に絶するとまで言われたほどであったといいます。
慶長4年4月16日からは、8日間にわたって正遷宮(しょうせんぐう)祭の祭典が幕を開けています。
初日の4月16日には、阿弥陀ヶ峰の山上の廟堂から秀吉の神霊を仮殿(かりどの)に迎える仮殿遷宮が行われ、4月17日には、朝廷より二人の宣命使(せんみょうし)が勅使として派遣され、仮殿前で後陽成(ごとうぜい)天皇より秀吉に「豊国大明神」(とよくにだいみょうじん)の神号が宣下されます。「豊国」は、創建時、この豊国社の別当として社務一切をとりしきっていた吉田神道家の五代目当主吉田兼見(かねみ)が「豊葦原中津国」(とよあしはらのなかつくに。「日本の国土」の意。)から二文字をとって選び出したという神号とされています。
この神号に因んで、神廟の名は「豊国社」(とよくにのやしろ)とされました。
そして4月18日には、秀吉の神体を仮殿より羽車(はぐるま)に乗せて本殿に納めるという正遷宮が行なわれています。
こうして秀吉は、豊国大明神の神号で、この豊国社に神として祀られることになります。
4月19日には、朝廷より豊国大明神に正一位(しょういちい)の神位が贈られます。そしてこの日、当時7歳であった幼い豊臣秀頼に代わり名代(みょうだい)として家康が社参し、秀吉の神前に奉幣しています。この家康の名代社参によって豊国社は幕を開けたのでした。
豊国社では、正遷宮が行なわれた4月18日と、秀吉の祥月命日にあたる8月18日を例大祭の日と定めて、毎年この日には朝廷より勅使を迎えて盛大に祭りが行なわれます。特に、秀吉七回忌の慶長9年(1604)8月には例年をはるかに凌ぐ臨時大祭が行われたことは余りにも有名となっているところです。

唐門に架かる勅額
破却
しかし、慶長19年(1614)、方広寺鐘銘事件を契機に始まった大坂の陣で、慶長20年(1615)の大阪夏の陣において5月8日、大坂城落城・豊臣秀頼自害によって豊臣家は滅びてしまいます。
それから約一月半後の6月18日には、伏見城で思わぬ事態が起こっています。家康の側近中の側近とされ、最高の謀臣といわれた本多正信(ほんだまさのぶ)が、徳川幕府第2代将軍徳川秀忠(ひでただ)に対して豊国社を取り壊し、神号並びに祭礼を廃すことを進言していたのでした。
そして7月9日、家康は二条城に、臨済宗の僧で家康に仕えて寺社の管理などに当たった以心崇伝(いしんすうでん。通称、金地院崇伝(こんちいんすうでん))、以心崇伝と並んで幕府の宗教行政の中心人物とされ家康の懐刀といわれた天台宗の僧南光坊天海(なんこうぼうてんかい)、そして京都所司代の板倉勝重(いたくらかつしげ)の3人を呼んで豊国社の扱いについての協議を行ないます。『台徳院殿御実紀』には次のような記載がされています。
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(7月)九日
二條に南光坊僧正天海。金地院崇傳。板倉伊賀守勝重をめして。豐國の社を廢し大佛殿廻廊の裏にうつし。別當照高院興意は聖護院に迁(うつ)らしめ。今より後妙法院門跡常胤法親王を大佛殿の住職として。寺領千石寄附せらるべしと命ぜらる。天海。崇傳尤(もっとも)のことはりなりと聞えあぐる。
- 豊国社は、本殿をはじめ社頭一円すべて破却。
- 秀吉の墓を掘り起こして方広寺大仏殿回廊の裏手に移す。
- 方広寺大仏殿住職照高院興意(こうい)法親王はその職を解き、聖護院(しょうごいん)に遷居せしめ、以後は妙法院(みょうほういん)の常胤(じょういん)法親王が住職を務めること。
- 方広寺大仏殿には寺領千石を与える。
豊国社については破却の決定が下されたのでした。
言うまでもなく、「破却」とは、原形をとどめないように完全に取り壊すことを意味します。
そして、豊国大明神の神号は剥奪され、以後は国泰院俊山雲龍大居士(こくたいいんしゅんざんうんりゅうだいこじ)の法号で仏法により供養をすること、とされたのでした。
慶長4年4月19日に家康が幼い豊臣秀頼の名代として豊国社に社参をしたのが17年前。そして今、家康の手によって幕を下ろされてしまうことになりました。
この家康の沙汰は、その日のうちに金地院崇伝からの内証の使者によって、豊国社の社僧を務め、北政所と深い交流を持つ神龍院梵舜(しんりゅういんぼんしゅん)に伝えられました。
夫・秀吉の廟所である豊国社破却の沙汰を梵舜から聞いた北政所は、二条城に駆けつけ、家康に訴え出ます。
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社頭も撒毀(さんき)し除地(よけち。領主から租税を免除された土地。)とすべしと仰付(おおせつけ)られしが。北の政所より。崩れ次第になし給(たま)はれと。あながちに願はれしゆへ。ねがひのごとく御ゆるしありしとなり。
(『東照宮御実紀附録』駿河土産)
北政所は家康に対して「破却」という沙汰の撤回を期待したのでしょうが、家康のかたくなな態度に、せめて「崩れ次第になし給はれ」と、「あながち」(強ち。いちず、たって、の意。)の嘆願を行なっていることが記されています。恐らく涙ながらの必死の嘆願だったのでしょうね。
その結果、「ねがひのごとく御ゆるしあり」と、当初の沙汰に大きな変更の起こったことを伝えています。
「崩れ次第」とは、屋根が傷んで雨漏りしようが、風に吹き付けられて軒が傾こうが、いっさい修理を加えることなくそのまま放置し、崩れるがままに任せて捨て置く、という意味です。
その結果、豊国社の参道入り口にあった壮大な二層の楼門をはじめ、長い参道沿いに、土塀を連ねて並んでいた僧房や殿舎など、豊国社の外苑部分はすべて取り壊されていくことになり、また、廟堂や社殿内にあった神道の道具類をはじめ、調度類、境内にあった灯籠などもすべて処分されることになりましたが、秀吉の眠る山上の廟堂をはじめ、内苑にあたる神廟内の社殿はそのほとんどが残されたのでした。
こうして大坂夏の陣から五ケ月経った元和(げんな)元年(1615)8月末に破却の作業が終わった時には、社殿の建物が残されたとはいえ、山上の廟堂をはじめ神廟内の社殿はまるで廃屋同然の姿にかわっていたのでした。
ただ、金地院崇伝の口から、豊国社の回廊で囲まれた神廟の外に建てられていた神宮寺(神社を管理する為に付属して置かれた寺)は、今まで通りお構いなしとの沙汰が元和元年7月18日に家康よりあったことを、梵舜は聞いたのでした。このことは梵舜にとって大変な喜びでした。たとえ山上の廟堂や社殿が「崩れ次第」に捨て置かれていようとも、傍に神宮寺がある限り、廟堂や社殿を守り、ひそかに秀吉の神霊を慰めて祭祀を続けて行くことが可能であったからです。
しかし、神宮寺が梵舜に拝領されたこと、また、北政所が家康より引きだした「崩れ次第」に捨て置くということについて、家康のお墨付きを貰っていませんでした。このことが、後になってさらなる悲劇を生んでいくことにつながっていきます。
残された山上の廟堂並びに社殿は、先の家康の沙汰によって、方広寺大仏殿の住職となって、豊国社の社地の大半を下げ渡された天台宗の門跡寺院妙法院の寺領内に孤立するような状態で置かれてしまうことになりました。この事も悲劇の始まる一因となったのかもしれません。
その年(元和元年)の暮れの12月18日、突如この妙法院が豊国社の参道を塞いでしまうという事態が起きてしまいます。
元和5年6月28日には、妙法院が、突然、神宮寺の明け渡しを梵舜に求めてきます。
さらに同年9月12日、今度は神宮寺ばかりか豊国社をも引き渡せという要求が妙法院より突きつけられます。
神宮寺は、梵舜が家康から拝領されたもので、しかも、豊国社の社殿は、北政所の直訴によって「崩れ次第」ということで、家康との間で取り決めがなされているものです。その事情を知っているはずの京都所司代板倉勝重に、梵舜は妙法院からのこれらの要求は不当であり、取り下げさせるように訴えますが、いかんせん、家康のお墨付きが無かったことが災いして神宮寺も、そして豊国社も失う結果となってしまったのでした。
梵舜からの報告を聞いた北政所は、家康との約束が反故にされたことを知り、激しい怒りに震えたことは想像に難くありません。
9月15日、梵舜は暇乞(いとまご)いの最後の社参を行ないます。これによって、阿弥陀ヶ峰に創建された豊国社は祭祀を絶たれることになりました。
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九月十五日
豊国社参詣、則御暇乞フ也、是非無ク無念ノ次第、下陣ニ於イテ、暫シ祈念ス。
(『梵舜日記』)
そして、翌日の16日に豊国社の社殿は妙法院に引き渡されたのでした。
その結果、豊国社は、今度こそ跡形もなく取り潰されていくことになります。
さて、それから2カ月ほどが過ぎた11月25日、梵舜は豊国社の本殿内陣内にあって秀吉の神体を納めていた御霊屋(みたまや)を、50人という大がかりな人足を雇って、阿弥陀ヶ峰の北方に位置する吉田に自邸のあった神龍院に運びこんでいます。神龍院の邸の門から入らなかったために、北門から運び込んだことが記されています。
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十一月二十五日
神宮寺鎮守社当院ヘ奉移也、人足五十人バカリヒヨウ(日傭)者也、手間料銀二十一文目ノ約束也、在所ノ門入ラズ候テ、北ノ門ヨリ当院ヘ移シ申ス也。
(『梵舜日記』)
移されて来た御霊屋は神龍院の屋敷内の屋外に置かれたとされ、そのため移し終わるとすぐに、屋根葺きが行なわれます。そして、この屋根の葺き終わるのを待って、12月11日、遷宮祭が営まれています。この日は雪が6cmほど積もる寒い日だったようです。
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十二月十一日
亥刻(いのこく。午後10時頃。)、当院内ニ豊国鎮守遷宮、・・・
(『梵舜日記』)
阿弥陀ヶ峰の豊国社に鎮座していた秀吉の神体「豊国大明神」は、このときから神龍院の屋敷内に移されて来て、「鎮守大明神」と名を変えて呼ばれていくことになります。天下統一を成し遂げた秀吉は、日本国の鎮守にあたるという意味から名付けられたといいます。
梵舜は、神龍院内に遷座を済ませた翌元和6年(1620)1月18日、鎮守大明神での神事を終えると、この日神前に供えた神供(じんく)を高台寺に届けて、北政所に贈っています。
秀吉の神体が密かに吉田にある梵舜の神龍院に移されたことを知った北政所は、喜びもひとしおだったのでしょう、早速「御初尾百疋」を奉納、このときからこの鎮守大明神への灯明料・神供料の寄進が続いていったのでした。
梵舜は、病没する寛永9年(1632)の11月まで、鎮守大明神の社頭では毎月18日、社参を一度も欠かすことなく続けた、と伝えられています。
時は流れて150年余り後の江戸中期、安永(あんえい)年間(1772〜1781)の頃には、阿弥陀ヶ峯の西麓に建てられていた豊国社の社殿について「今は旧地の跡もなく、郊野となって、豊国の名だに知る人稀なり」(『翁草』)とまで記されるようになっています。
再興
時代は代わって明治元年(1868)、明治天皇は大阪行幸の折り、秀吉を、天下を統一しながら幕府を作らなかった尊皇の功臣であるとして、豊国神社の再興を布告します。
明治8年(1875)には旧方広寺大仏殿跡にあたる現在の地が新社地と定められます。翌年には、妙法院に引き取られていた「豊国大明神」の勅額などの宝物も返却されます。
そして明治11年(1878)から豊国神社再建工事が着工され、明治13年(1880)5月、社殿が完成し、遷座が行われ、名実ともに復興されたのでした。
なお、かつて阿弥陀ヶ峰の西麓に設けられた秀吉の廟所は、現在では「豊国廟」(ほうこくびょう)として受け継がれています。
写真集(28枚の写真が表示されます。)
東西に走る正面通(写真手前から鳥居に向かって延びる通)が、南北に走る大和大路通(写真左右に走る通)とT字型に交差する地点にある豊国神社。道幅の広い、この交差点に信号はなく、すっきりした解放感が感じられて広々とした景観が広がります。
豊国神社境内の北側に隣接して方広寺があります。また、大和大路通に沿って南(写真右側)へ行けば、歩いてほんの数分で、京都国立博物館の横を通って、蓮華王院(れんげおういん)(三十三間堂)へと至ります。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 所在地 | 京都市東山区正面本町東入茶屋530 |
| 主祭神 | 豊臣秀吉 |
| 創建年 | 慶長4年(1599) |
| 主な祭事 | 例祭(9月18日) |
| 文化財 |
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【近隣観光マップ】※図の操作については下記をご参照ください。
【マップ掲載番号の説明】
- ※
- 図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
- 方広寺
- 鐘楼
- 唐門
- 豊国神社本殿
- 大仏殿跡緑地公園
- 京都国立博物館
- 蓮華王院(三十三間堂)(※1)
- 妙法院(※1)
- 智積院(※1)
- 円山公園(※3)
- 高台寺(※3)
- ねねの道(※3)
- 石塀小路(※3)
- 花見小路通(祇園町南側)(※3)
- 建仁寺(※3)
- 八坂の塔(※2)
- 産寧坂(三年坂)(※2)
- 清水寺(※3)
- 六波羅蜜寺(※2)
- 東山七条(※1)・・・豊国廟へはこの交差点を東へ進みます(登り坂)。
- 新日吉神宮(※2)
- 豊国廟(豊国社)(※3)
- 阿弥陀ヶ峰(頂上に豊臣秀吉の墓所があります。)(※3)
- 吉田神社(※4)
図の操作について
- 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
- 図の左にある+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
- 図の右上にある[地図]のボタンをクリックすると地図タイプを切り替えることができます。
- 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
- 最初の状態に戻すには、キーボードのF5キーを押下してください。
近隣の観光スポット情報
京都国立博物館の南側、七条通を隔てた所には蓮華(れんげ)王院(三十三間堂)があります。また京都国立博物館の東側を南北に通る東大路通を隔てた所には蓮華王院(三十三間堂)の本坊妙法院(みょうほういん)や智積院(ちしゃくいん)があります。
上記の【近隣観光マップ】も併せてご参照ください。


