
二の丸御殿
東南から西北にかけて、遠侍(とおざむらい)及び車寄(くるまよせ)、式台(しきだい)、大広間(おおひろま)、蘇鉄(そてつ)の間、黒書院(くろしょいん)、白書院(しろしょいん)の6棟が立ち並ぶ建物面積3,300平方メートルに部屋が33室、畳800畳余りとされ、各部屋には狩野派による総数954面にもおよぶ襖絵(ふすまえ)が部屋の目的に応じて描かれています。なお、二の丸御殿内をわたっている廊下の長さは450メートルとされています。
(御殿内は撮影禁止となっています。)
国宝。
安土桃山時代の慶長(けいちょう)5年(1600)9月15日の関ヶ原の戦いからおよそ2年半が経った慶長8年(1603)3月、二条城は、京都御所の守護と徳川家康(とくがわいえやす)が京都にいる時の御殿として造営されました(現在の二条城のほぼ東半分を占める二の丸部分にあたります)。
慶長8年(1603)2月12日、おりから上洛中であった家康は、伏見城で征夷大将軍の宣下(せんげ)を受けます。そして竣工まもない同年3月27日、二条城に勅使を迎えて、将軍宣下(せんげ)の賀儀(がぎ。祝いの儀式。)が執り行われ、徳川幕府の誕生という新しい歴史が始まったところとなりました。
元和(げんな)6年(1620)には、二条城は、二代将軍徳川秀忠(ひでただ)の娘、和子(まさこ/かずこ)が後水尾(ごみずのお)天皇の女御(にょうご)として入内(じゅだい)するための宿舎として使われ、寛永(かんえい)3年(1626)9月6日には後水尾天皇の行幸(ぎょうこう)を迎えることになります。
この行幸に先立つこと3年前の元和9年(1623)に父・秀忠から将軍職を譲られた第3代将軍徳川家光(いえみつ)にとって、後水尾天皇の行幸は失敗できないイベントで、しかも天正(てんしょう)16年(1588)に豊臣秀吉(とよとみひでよし)が正親町(おおぎまち)天皇を聚楽第(じゅらくだい/−てい)に招いた「聚楽行幸」をしのぐイベントとすべく、二条城には大規模な改修と増築が行なわれることとなります。
「城中殿閣構造あるべし、ことさら、玉座は金銀の具をもちいるべし」(徳川実記(とくがわじっき))として21大名に天下普請(てんかぶしん)を命じ、また将軍家茶道指南として千利休(せんのりきゅう)、古田織部(ふるたおりべ)に続いて一時代を代表する茶人としても、また作庭にも長けた小堀遠州(こぼりえんしゅう)らを用いて、公武和合の政策を天下に示すべく、徳川幕府の威信をかけた築造が行なわれたのでした。
こうして、城域は西に拡張され、東西約500メートル、南北約400メートルとなって現在の二条城の規模となったのでした。
しかし江戸幕府開創から260年後には、二条城は、徳川幕府の終焉を迎えることになったところでもあります。
エピソード1〜二条城会見〜
慶長10年(1605)4月16日、伏見城で家康から将軍職を引き継いだ秀忠(ひでただ)の将軍宣下の式が行なわれました。ところがその場に豊臣家からの祝賀の使者は誰も来なかったといいます。豊臣秀頼(ひでより)(13)の正室千姫(9)は秀忠の長女で、秀頼にとって秀忠は舅(しゅうと)にあたります。本来なら何らかの挨拶があるのが普通だと考えられます。
そこで家康は、この期を捉えて、大坂城にいる秀頼に、上洛して二条城を訪ね、新将軍・秀忠に挨拶をするよう要請しました。が、豊臣側はこれを受け付けませんでした。
これに対して家康は問い詰めることはしませんでした。
それから6年経った慶長16年(1611)3月28日、秀頼(19)が、今では大御所と呼ばれる家康(70)の招きに応じて上洛します。
この時には家康の力は既に強大なものになっており、今回はさすがに家康の招きに応ぜざるを得ないとの判断が働いたようです。「会いたければ大坂へ来い」と息巻く秀頼の生母、淀君(よどぎみ)を、加藤清正(かとうきよまさ)、浅野幸長(あさのよしなが)らが説得し、二条城で家康と秀頼の歴史的な会見の実現にこぎつけたのでした。この日、加藤・浅野の両名が秀頼警護の大任にあたったといいます。
この時の会見の様子を『当代記』は、次のように記しています。
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(慶長16年3月28日条)
廿八辰刻秀頼公入洛、即ち家康公の御所二条え御越し、家康公庭上まで出で給ふ、秀頼公慇懃(いんぎん)に礼謝し給ふ、家康公座中え入り給ふ後、秀頼公庭上より座中へ上り給ふ、先づ秀頼公を御成の間え入れ申し、その後、家康公出御(しゅつぎょ)あり、互(たがい)の御礼あるべきの旨、家康公曰ト云ふとも、秀頼公堅く斟酌(しんしゃく)あり、家康公を御成の間え出し奉(たてまつ)り、秀頼公礼を遂(と)げ給ふ、・・・
秀頼が二条城に到着した時、家康は自ら庭上まで出てきて、この度の招きに丁寧に礼を言う秀頼を迎え入れ、「御成の間」という二条城の最高の座席に通します。そののち家康が出座して、「互いの礼」、すなわち家康と秀頼の双方が互いに同等の立場で敬意を払って応対しましょうと申し出たところ、秀頼は遠慮して自らこれを固辞し、家康に「御成の間」を譲ってこれに拝礼(頭を下げて礼を)した、というものです。
家康はわざわざ庭上まで出て出迎え、またお互い対等の立場でといって秀頼に気遣うというように、最高の礼遇で秀頼を迎え入れ、二人の会見は大方の懸念に反して終始和やかに進められたのでした。(蛇足ながら、この時の家康の本心がどのようであったのかについては是非知りたい所でもありますが・・・。)
≪二の丸御殿・庭園≫写真集(18枚の写真が表示されます。)
二の丸御殿の正面に設けられた御殿の正門で、檜皮葺(ひわだぶ)きの軒下には華麗な彫刻や飾金具が施されています。
尚、上記写真は2006年のもので、「世界遺産・二条城本格修理事業・第1期工事」として平成24年1月下旬から平成25年9月末まで「唐門、築地塀」の修理が行なわれている為に、この期間は見ることができません。(詳細は二条城のホームページをご覧ください。)
重要文化財。
エピソード2〜大坂の陣出陣〜
しかしその後、二条城会見で見た秀頼の行く末を恐れてか、あるいは、自分亡きあとの徳川家の事を慮ってか、いずれにせよ、家康は、この二条城で豊臣家を滅ぼす決意を固めることになります。
慶長19年(1614)7月21日頃から浮かび上がって来た、方広寺鐘銘事件(方広寺参照)がその引き金となります。
11月には大坂冬の陣が、翌慶長20年(1615)5月には大坂夏の陣が起きます。二条城には幕府の本営が置かれ、家康が陣取って戦いの差配を行ない、大坂城を攻めます。
戦いの結果、大坂城に籠っていた淀君と秀頼の母子は自害し、ここに豊臣家は滅亡することになりました。
エピソード3〜北政所の訴え〜
大坂夏の陣から2カ月ほどが経った慶長20年(1615)7月9日、家康は二条城に、寺社の管理などに当たった金地院崇伝(こんちいんすうでん)、金地院崇伝と並んで幕府の宗教行政の中心人物とされ家康の懐刀といわれた天台宗の僧南光坊天海(なんこうぼうてんかい)、そして京都所司代の板倉勝重(いたくらかつしげ)の3人を呼んで、秀吉の廟所(墓所)があり、かつ秀吉を祭神として祀ってある豊国社(とよくにのやしろ)の扱いについての協議を行ないます。その結果、跡形もなく取り壊すようにとの「破却」の決定が下されます。
この家康の沙汰を聞いた秀吉の正室・北政所(きたのまんどころ)は、急ぎ二条城に駆けつけ、家康に訴え出ます。
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社頭も撒毀(さんき)し除地(よけち。領主から租税を免除された土地。)とすべしと仰付(おおせつけ)られしが。北の政所より。崩れ次第になし給(たま)はれと。あながちに願はれしゆへ。ねがひのごとく御ゆるしありしとなり。
(『東照宮御実紀附録』駿河土産)
北政所は、せめて「崩れ次第になし給はれ」と、「あながち」(強ち。いちず、たって、の意。)の、必死の嘆願を行なった結果、「ねがひのごとく御ゆるしあり」と、家康が出した当初の沙汰に大きな変更がなされたのでした。(詳細は豊国神社をご参照ください。)
≪本丸御殿・庭園≫写真集(14枚の写真が表示されます。)
二の丸(写真手前)と本丸(写真奥)とをつなぐ東橋と櫓(やぐら)門。
かつて、櫓門から出て内濠の上に架かるこの東橋の更に上には、櫓門の二階部分から出た廊下(橋廊下)があったといいます。つまり、本丸御殿の遠侍(とおざむらい)から出た廊下が、この櫓門の二階部分へとつながり、更に櫓門の二階部分から二の丸御殿の方へとつながる橋廊下が内濠の上を渡されて、二の丸御殿の二階廊下へと架かり、更には黒書院へとつながっていたといいます。
これによって、寛永(かんえい)3年(1626)9月、第3代将軍家光が後水尾(ごみずのお)天皇を二条城に迎えた時、二の丸御殿を通ってやって来た天皇がその姿を見られることなく橋廊下をつたって本丸御殿へと渡ることができたといいます。
重要文化財。
エピソード4〜徳川幕府終焉の場〜
時は流れて慶応3年(1867)10月13日、江戸幕府最後の第15代将軍、徳川慶喜(よしのぶ)は、二条城二の丸御殿の大広間において在京40藩の代表を招集し、「大政」(政権)を朝廷に返上する大政奉還の宣言を行ないます。そして翌14日には明治天皇へ上奏し、15日に天皇からの勅許が下ります。
それから約2ヶ月後の12月9日、岩倉具視(いわくらともみ)らの主導によって、江戸幕府の廃止や新政府の樹立などが宣言された王政復古(おうせいふっこ)の大号令が、明治天皇臨御のもと、京都御所の御学問所(おがくもんじょ)において審議、決定されます。これは、先の大政奉還によって政権を一旦朝廷に返上したものの、その後の明治天皇下での新政府に参画することによって徳川家による実権を依然として掌握し続けることができるとの慶喜の思惑にくさびを打つ形となりました。即ち、王政復古の大号令によって、新政権から徳川家を完全に締め出そうとしたのです。
引き続いて同日18時頃から、御学問所とは渡り廊下を隔てて隣同士にある小御所(こごしょ)にて、再び明治天皇臨御のもと徳川家の処分をめぐって激論が展開された、「小御所会議」が開かれます。その結果、慶喜に対して官職(内大臣)の辞職および徳川家領の納地(200万石)を求めた「辞官納地」が決定されました。
これらの決定内容を知った慶喜は、幕府と薩長との軍事的衝突が避けられないと判断し、京を出て、大坂城へ退去することを決意します。
3日後の12月12日、日も落ちて闇がせまる中、日常の二条城への出入りが行なわれていた西門が開けられ、慶喜、松平容保(まつだいらかたもり)をはじめとする会津および桑名藩士らがこの門から退出してゆきます。大坂城に着いたのは翌13日の午後4時頃だったといわれています。
慶喜は、こののち、京の都に戻ってくることはなく、家康以来260年間ほど続いた将軍家と二条城との関係はここに断たれたのでした。
≪外苑≫写真集3(27枚の写真が表示されます。)
堀川通に面した二条城の正門。
間口13間(約23.6メートル)、奥行き3間(約5.5メートル)の巨大な門で、二条城から見て北東方向にそう離れていない所にある内裏(だいり)へのけん制と、参内(さんだい)の利便性のために、二条城の東のこの位置に設けたものと見られています。
石垣の間に筋金(すじがね)を打ち付けた堅牢な門を設け、その上には櫓(やぐら)を構え、衛士が詰めていたという櫓門です。門の上から石落しも出来るようになっているといいます。
空いた門の正面奥には、二の丸御殿を囲む築地塀が見えています。
重要文化財。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 所在地 | 京都市中京区二条通堀川西入二条城町541 |
| 城郭構造 | 輪郭式平城 |
| 築城主 | 徳川家康 |
| 築城年 | 慶長8年(1603) |
| 廃城年 | 明治4年(1871) |
| 文化財 |
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【城内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。
【図中番号の説明】
- ※
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- 東大手門
- 唐門
- 築地
- 二の丸御殿
- 遠侍及び車寄
- 式台
- 大広間
- 蘇鉄の間
- 黒書院
- 白書院
- 御清所
- 台所
- 土蔵
- 二の丸庭園
- 桃山門
- 鳴子門
- 東橋
- 本丸櫓門
- 本丸御殿
- 御常御殿
- 御書院
- 玄関
- 台所及び雁の間
- 本丸庭園
- 天守台(天守閣跡)
- 本丸西虎口
- 西橋
- 西北土蔵
- 西門
- 西南土蔵
- 西南隅櫓
- 南中仕切門
- 南門
- 東南隅櫓
- 多聞塀
- 北大手門
- 緑の園
- 清流園
- 香雲亭
- 和楽庵
- 北中仕切門
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- 京都御苑(※1)
- 北野天満宮(※1)
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近隣の観光スポット情報
上記【城内概観図】をご参照ください。


