
直指庵への入口
周囲には孟宗竹の竹林が広がっています。
山を背に、周囲を孟宗竹(もうそうだけ)の美しい竹林に囲まれた静寂の中で、茅葺きの本堂がひっそりとたたずむ直指庵(じきしあん)。
時折りそよぐ風が竹の葉同士をこすりあわせてサラサラと響かせる音が妙に心に沁みます。
本堂内には、「想い出草」と呼ばれるノートが置かれています。この「想い出草」ノートは、男性・女性に関わらず誰もが書き綴り、読めるものです。自分の心の中だけにしまっていたことや、感動したことなど、様々な思いが綴られています。
昭和40年(1965)ころから始められたという「想い出草」ノートは、今では5,000冊以上にものぼるといいます。
たくさんの名所旧跡が集まる嵯峨野の中からその北端に一つポツンと離れた感のする直指庵ですが、北嵯峨のこの辺りから化野(あだしの)、鳥居本(とりいもと)あたりまでの奥嵯峨にかけては、嵯峨の風情を最もよく残している所ともいえます。
直指庵は、周囲の豊かな自然環境とも相まって四季の変化に応じた表情に富み、特に秋には隠れた紅葉の名所としても知られています。
嵯峨の古仏
直指庵は、江戸時代前期の正保(しょうほう)3年(1646)、嵯峨野の最北端、北嵯峨細谷の地に、臨済禅を学んだ独照性円(どくしょうしょうえん)が「没蹤庵(ぼつしょうあん)」と名付けた小庵を結んで住まったのが始まりと伝えられています。
元和(げんな)3年(1617)、近江(おうみ)(現滋賀県)に生まれた独照は、幼くして父を失い、11歳で出家します。
時が過ぎて承応(じょうおう)3年(1654)、明国(中国)の高僧、隠元隆g(いんげんりゅうき)が長崎にやってくる事を知った独照は自らも長崎を訪れて隠元に師事します。その時に隠元が持ち込んだ豆がその名前からとって「インゲン豆」と呼ばれているのは知られているところです。また隠元は、後の寛文(かんぶん)元年(1661)、京都府宇治市にある黄檗(おうばく)宗大本山萬福寺(まんぷくじ)の開山として請ぜられた人でもあります。
万治(まんじ)2年(1659)、隠元は、弟子の独照に請ぜられて没蹤庵に10日余り滞在します。これは隠元が日本にやって来てから2度目の京都訪問でした。独照に帰依する人々は高僧・隠元の滞在を喜び、これを機に、堂舎の建立も推し進められるようになります。そして、次第に寺観も整えられてゆくことになります。
天明(てんめい)6年(1786)に発刊された「拾遺都名所図会(しゅういみやこめいしょずえ)」には、大寺院であった直指庵の景観が描かれています。
隠元は没蹤庵に滞在した後、西芳寺(さいほうじ)・天龍寺(てんりゅうじ)を訪ね、また高雄山(たかおさん)・愛宕山(あたごやま)にも登り、そして清凉寺(せいりょうじ)を訪ねています。清凉寺では、隠元の生国である中国からはるばると、この嵯峨の地に請来された「三国伝来生身(しょうじん)の釈迦如来」を拝し、その感激の筆致を扁額に残したとされる「栴檀瑞像(せんだんずいぞう)」の文字は清凉寺本堂(釈迦堂)の正面に掲げてあります。
隠元は当初、独照が創建したこの地に黄檗宗の本山を創立しようと考えたようですが、この界隈は大覚寺(だいかくじ)領であったことから諦めざるを得なかったと伝えられています。こののち、黄檗宗の大本山が萬福寺におかれたことは先述の通りです。
寛文10年(1670)冬、「独照は没蹤庵に坐して枯松の枝が地に落ちるのを見て大悟し、庵が既に大寺院になっているにもかかわらず、寺号を避けて、直指人心(じきしにんしん)の旨を守って「直指庵」と号」(直指庵パンフレット)するようになりました。
翌寛文11年(1671)、独照は隠元の法を継ぎ、延宝(えんぽう)3年(1675)遺命により法衣を付与されています。直指庵を拠点に長きにわたって布教活動を続けた独照は、「嵯峨の古仏(こぶつ)(高僧の尊称)」と呼ばれたといいます。
元禄(げんろく)7年(1694)、独照は年齢も重ね体力も衰えていたこともあってこの年の5月から老衰病を患っていました。そして遂に、7月17日朝「われ今日行かん」と門弟、帰依者に囲まれる中、遺偈(ゆいげ)を記して、78歳の生涯を閉じたのでした。
写真集1≪初夏≫(21枚の写真が表示されます。)
大覚寺の西を南北に通る京都府道136号に沿って北へ真っすぐ行くと、やがて草むらの中に直指庵への道しるべが見えてきます。
再興
独照亡きあとは、その弟子・月潭(げったん)が直指庵二世となり高僧の名を高め直指庵の興隆に力を注ぎました。が、その後の法嗣(はっす)は途絶えるところとなり、寺運は次第に衰え、荒廃してゆく直指庵に残るのは独照の墓堂のみとなったのでした。
歳月が流れ、明治維新後、賞典禄(しょうてんろく)20石を受けて優に70歳を過ぎた一人の女性が郷里の嵯峨に戻って来ます。その女性の名は津崎矩子(つざきのりこ)、通称村岡局(むらおかのつぼね)といいました。そして村岡は北嵯峨の直指庵で余生を送ることにします。ここに直指庵は村岡によって浄土宗の寺として再興されることとなります。また、村岡は土地の子女の訓育にも力を注いだといいます。
その後、再興時の建物は明治年間に火災にあい消失しました。現在の寺観が整ったのは明治32年(1899)といいます。
江戸時代末期の寛政(かんせい)10年(1798)、直指庵から直線距離で南へ600メートルと離れていない大覚寺の塀のそばで、13歳の矩子が小倉百人一首を子守り娘に教えているのを見かけた近衛(このえ)家の老女が、侍女として近衛家に推挙したといいます。
近衛家は、その家名を平安京の近衛大路に由来し、藤原北家近衛流の嫡流にあたる家柄として知られています。近衛家に仕えることとなった矩子は村岡と呼ばれ、のちには老女(侍女の長)の地位にまで昇り、村岡局と称されるようになります。当時の近衛家当主、近衛忠熙(ただひろ)の信任も厚く、近衛忠熙が朝政の枢要を預かると、村岡局はこれを補佐したといわれています。
また、島津斉彬(なりあきら)の養女・篤姫(あつひめ)(後の天璋院(てんしょういん))が江戸幕府第13代将軍徳川家定(いえさだ)との婚儀のおりには、村岡局は既に亡くなっていた正室・郁姫(いくひめ)に代わって養母役を務めて江戸城に赴き、その時に徳川家の三つ葉葵の紋を散らした打掛をもらっています。
嘉永(かえい)6年(1853)6月、江戸湾浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)に黒塗りの船体であったことから「黒船」と呼ばれたアメリカのペリー率いる軍艦4隻が来航します。これを機に国情は騒然となり、安政(あんせい)5年(1858)4月、大老となった井伊直弼(いいなおすけ)が日米修好通商条約を勅許をえずに調印したことから、尊王攘夷派の志士は、水戸の徳川斉昭(なりあき)らに攘夷の密勅を下されるようにと、村岡局に働きかけて、時の左大臣にして反幕府の筆頭であった近衛忠熙を動かそうとしました。
村岡局は時勢の変遷に明るく、清水寺成就院(じょうじゅいん)持住を務めた僧月照(げっしょう)や西郷隆盛(たかもり)らとも交友を持ち、女流勤王家として、諸藩の志士とのパイプ役を務めたといいます。しかし同年の安政の大獄により村岡局は京都町奉行所に捕らえられ、江戸へ送られました。村岡局は、取り調べにおいて、先に徳川家定から頂戴した三つ葉葵の紋が散りばめられた打掛を着て評定所の白砂の上に座ったことから、取り調べの任にあたる幕府奉行所の役人も村岡局の扱いに困惑した事が伝えられています。
それから明治維新を迎えて後、村岡は郷里の嵯峨に戻って来ることになります。
村岡の墓は直指庵につくられ、静かに流れる時間の中でひっそりと眠っています。
写真集2≪紅葉≫(13枚の写真が表示されます。)
すっかり秋も深くなってきました。
山門の周りが紅葉で艶やかさを増す中、華奢(きゃしゃ)で寂(さ)びれた萱葺(かやふ)きの山門が秋の風情をよりいっそう醸し出しているようです。
2005年12月1日撮影。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 所在地 | 京都市右京区北嵯峨北ノ段町(きたのだんちょう)3番地 |
| 山号 | 祥鳳山 |
| 宗派 | 浄土宗 |
| 本尊 | 阿弥陀如来 |
| 創建年 | 正保3年(1646) |
| 開山 | 独照性円 |
【近隣観光マップ】※図の操作については下記をご参照ください。
【図中番号の説明】
- ※
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- 大覚寺(※2)
- 道しるべ1(※1)
- 道しるべ2(※1)
- 山門
- 本堂
- 中庭
- モリアオガエル棲息の池
- 待合
- 津村村岡局の墓
- 水子地蔵尊
- 想い出草観音像
- 開山堂
- 与謝野晶子の碑
- 道場
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