
回廊
嵯峨野の中でも北に位置する大覚寺(だいかくじ)。
「嵯峨」という言葉は、日本古代の官撰の史書『日本後紀(にほんこうき)』の中の、平安京遷都から8年が経った延暦(えんりゃく)21年(802)の記述に現れるのが文献上に見られる最初とされています。
今日嵯峨野として知られる地は、当時の都であった平安京の郊外として、天皇や貴族たちの遊猟の地だったところといわれています。そもそも「嵯峨」というのは「山の険しい様子」のことをいいますが、現在の嵯峨野界隈の山、例えば、よく知られている嵐山や小倉山、それに大覚寺裏の朝原山といった山々を見ると、険しい山というよりは、むしろ丸みを帯びた柔らかな印象の山といえます。
そして何よりもこの地は、そのような山々を周囲に仰ぎ見る風光明媚な地であったことから、当時の王朝貴族たちはここで盛んに風流を楽しむようになっていきます。
そのような景勝の地の北辺に嵯峨天皇が親王の頃に離宮を造営します。その離宮には、中国・唐の都長安の北方にあって、景勝の地として知られた「嵯峨山」からとって「嵯峨院(さがいん)」という名が付けられたといいます。
そして、元は大山田と呼ばれていたというこの景勝の地は、離宮「嵯峨院」からとって「嵯峨」と呼ばれるようになります。
嵯峨天皇が離宮として造営した嵯峨院は、のちの大覚寺の前身となってゆきます。
嵯峨院
『日本後紀(にほんこうき)』弘仁(こうにん)5年(814)7月27日の条に、
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辛丑遊-ニ猟北野一、日晩御ニ嵯峨院一、賜ニ侍臣衣被一、
という記録があります。嵯峨天皇は「27日。北野に狩猟し、日暮れて嵯峨院に入り、侍臣(じしん)に衣被(きぬかつぎ/きぬかずき)を下賜した」と伝えています。そしてこれは「嵯峨院(さがいん)」という名称の文献上の初出とされています。
嵯峨院がつくられた正確な年代は分かっていないようですが、嵯峨天皇がまだ桓武(かんむ)天皇の皇子だった神野(かみの)親王の頃に山荘として造営されたようで、平安時代の極めて早い時期には存在したようです。
よほど嵯峨の地が気に入っていたのか、嵯峨天皇はその後もたびたびここに行幸しては、風光を愛(め)で、漢詩づくりを楽しみ、そして狩りを楽しんだ後はその休息の場としたといいます。
嵯峨天皇は、譲位した太上(だいじょう)天皇(上皇)の居所として朱雀院(すざくいん)と冷泉院(れいぜいいん)という大きな二つの離宮を平安京内に設け、譲位した上皇がそのいずれかに入ることができるようにしていました。上皇のためのこの二つの離宮は「後院(ごいん)」と呼ばれました。
嵯峨天皇は、後院を冷泉院に定めていたといいます。しかし、淳和(じゅんな)天皇に譲位したのちも、冷泉院より平安京の北西の郊外にある嵯峨院を頻繁に訪れたといいます。結局、承和(じょうわ)元年(834)から承和9年に亡くなるまで、后(きさき)の嘉智子(かちこ)(檀林皇后(だんりんこうごう))とともに、この離宮で過ごしています。
承和9年(842)7月15日、嵯峨太上天皇、嵯峨院にて崩御。
嵯峨の地に示した愛着の深さと嵯峨の地に葬られたことから、「嵯峨」天皇と諡(おくりな)されたのでした。
こののち、嵯峨院は歴史上から次第に消えてゆくこととなります。
写真集1≪大覚寺門前交差点から表門まで≫(10枚の写真が表示されます。)
ここから400メートルほど真っすぐに北(写真奥)へ進むと大覚寺です。
大覚寺として再出発
嵯峨院が歴史上に再び登場するのは、嵯峨太上天皇の崩御から34年経った清和(せいわ)天皇の御世(みよ)に「大覚寺」と改称されてからのことになります。
嵯峨天皇の長女で淳和(じゅんな)天皇の皇后であった正子(まさこ)内親王が、亡き父と夫の菩提を弔う為に、今は「古宮」となった嵯峨院を「大覚寺」と称して仏道の道場に再生したいと申し出ます。これを受けた清和天皇は大覚寺の額を賜って、天下にしらしめるようにと勅許したといいます。こうして貞観(じょうがん)18年(876)2月25日、嵯峨院は正式に大覚寺として再出発することになったのでした。
この時の奏請(そうせい)文は、菅原道真(すがわらのみちざね)(北野天満宮参照)によって書かれています。
その後、寺運は次第に衰微しましたが、後宇多(ごうだ)法皇によって以前にもまさる隆盛を取り戻すことになります。
鎌倉時代、大覚寺は後嵯峨上皇、亀山上皇、後宇多法皇を21世・22世・23世の門跡(もんぜき)に迎えたことで嵯峨御所と呼ばれています。
特に後宇多法皇は、大覚寺が今日ある最大の功労者として中興の祖とされています。
後宇多法皇は、金堂(こんどう)、宇智院(うちいん)、蓮華峯寺(れんげぶじ)、教王常住院(きょうおうじょうじゅういん)などの堂塔を建立・移築して伽藍僧房を造営したといいます。また、存在が知られる建物としては仏母心院(ぶつもしんいん)、五覚院(ごかくいん)、御影堂(みえどう)などがあります。
後宇多法皇によって造営された伽藍の盛況を伝える江戸時代の古絵図「大覚寺伽藍図」(下記写真)によれば、大沢池の北側(図中番号1)から山麓まで広大な寺地が広がり、壮麗な屋根を連ねる寝殿風御殿、金堂、護摩堂など、数多くの伽藍が甍(いらか)を競っているのがわかります。絵図の北東隅には、嵯峨天皇が空海のために建てたという五覚院(ごかくいん)も見られます。

大覚寺伽藍図
今日では大覚寺の諸殿舎は大沢池(図中番号1)の西側(写真左側)に位置していますが、当時は北側に位置していたことが分かります。
【図中番号説明】
- 大沢池
- 五社明神(ごしゃみょうじん)
- 護摩堂(仏母心院(ぶつもしんいん)跡)
- 児(ちご)明神
- 広沢池
- 名こその滝
- 中御所
- 本堂
- 心経堂(しんぎょうどう)
- 金堂
- 御影堂(みえどう)
- 教王常住院(きょうおうじょうじゅういん)
- 五覚院(ごかくいん)
- 蓮華峯寺(れんげぶじ)
南北朝講和の舞台
鎌倉時代の初めの承久(じょうきゅう)3年(1221)、後鳥羽(ごとば)上皇らが時の執権(しっけん)北条義時(ほうじょうよしとき)追討の宣旨を出して挙兵し鎌倉幕府の打倒を企てるも失敗に終わった承久の乱の後、仁治(にんじ)3年(1242)、鎌倉幕府の後押しも大きく第88代後嵯峨天皇が即位します。
後嵯峨天皇はわずか4年の在位後譲位して、その後、第89代後深草(ごふかくさ)天皇、第90代亀山(かめやま)天皇と続く通算約30年の間院政をとり、「治天の君(ちてんのきみ)」(最高権力者)として君臨し続けます。そして、かつて即位の際に後押しを受けたもあって鎌倉幕府への配慮から後継者を決めないまま文永(ぶんえい)9年(1272)、この世を去ってしまいました。
この後継者を決めなかったことが後深草上皇と、亀山現天皇の間で後継者ポストをめぐる争いを引き起こす要因となってゆきます。
当時、天皇家には二つの皇統がありました。
一つは、後深草−伏見(ふしみ)天皇の皇統で、伏見上皇以降この皇統が現在の京都市上京区安楽小路町にあった持明院(じみょういん)(もと藤原基家(もといえ)の第(てい)。現在の光照院の場所とされます。)を里内裏(さとだいり)にしたことにちなむ持明院統です。
もう一つは、亀山−後宇多天皇の皇統で、後宇多天皇が出家して大覚寺に隠棲し、次子後醍醐(ごだいご)天皇の践祚(せんそ。前天皇から神器(じんぎ)を譲り受けて新しい天皇が立つ儀式)にともなって院政を行った時、大覚寺を施政の本拠にしたことにちなむ大覚寺統です。
この二つの皇統は「御二流(ふたなが)れ」と呼ばれます。
そして持明院統の初代である後深草上皇【持】と、大覚寺統の初代である亀山現天皇【大】とは、後深草上皇を兄とする兄弟の関係にあります。(以下、利便のために、持明院統を【持】、大覚寺統を【大】と付記します。)
文永11年(1274)、亀山天皇【大】の第2皇子の後宇多(ごうだ)帝【大】が天皇に即位し、亀山上皇は「治天の君」の地位を確保します。
これによって、後深草上皇【持】は皇位から外れてしまうことになりました。後深草上皇は落胆のあまり出家を決意しようとしますが、鎌倉幕府の執権北条貞時(さだとき)の介入により、両統の10年ごとの迭立(てつりつ)を条件に、弘安(こうあん)10年(1287)、後宇多天皇【大】は伏見天皇【持】に譲位、治世の権は亀山殿【大】から後深草院【持】に移ることになったのでした。
元々対立などしていなかった持明院統と大覚寺統でしたが、こののち、皇位の座を巡って両統の対立が次第に深まっていくことになります。
延元(えんげん)元年/建武(けんむ)3年(1336)8月、光明(こうみょう)天皇【持】を擁立した足利尊氏(あしかがたかうじ)が、後醍醐天皇【大】と対立していたことから、壮麗な嵯峨御所、大覚寺が兵火を被り灰燼(かいじん)に帰します。その後再建されますが、規模は半分にとどまったといいます。
同年11月、光明天皇【持】を擁して入京した足利尊氏は、京都に室町幕府をひらきます。一方、後醍醐天皇【大】は12月に京を脱出して大和の吉野(奈良県吉野郡吉野町)へ逃れ、独自の朝廷である南朝を樹立し、京都に残った持明院統の北朝と対峙することとなったのでした。
南北朝時代の始まりです。
結局、後醍醐天皇【大】は京都を回復できず、吉野で波瀾の生涯を閉じました。以後南朝は後村上【大】、長慶(ちょうけい)【大】、後亀山(ごかめやま)天皇【大】と続きますが、室町幕府の支援を受ける持明院統の北朝勢力との差はおおうべくもありませんでした。
両統の対立が深まり南北朝時代に入ってからおよそ60年。
南朝4代の後亀山(ごかめやま)天皇【大】のとき、北朝との融和の動きが出てきます。室町幕府第3代将軍足利義満(よしみつ)の斡旋で、南北両朝にあらためて両統迭立などの講和の条件の提示があったのでした。
後亀山天皇【大】は南北朝合体より10年後の応永9年(1402)3月に「合体にふみきったのは永年の争いを止め、民の憂いを除くためであった」と述べ、講和の条件が完全に履行されるかどうかに一抹の不安を抱きつつもこの提示を受け入れ、元中(げんちゅう)9年/明徳(めいとく)3年(1392)閏10月、三種の神器を先頭に奉じて吉野の行宮(あんぐう)を出発し、大覚寺へと向かったのでした。
南朝の後亀山天皇【大】が持参した神器が京都に入り、大覚寺で、後亀山天皇【大】から後小松(ごこまつ)天皇【持】への神器の授与が行なわれました。ここに南北朝は約60年間の分裂を経て、ついに合体したのでした。
『大乗院日記目録』はこのことを、「南北御合体、一天平安」と表現しています。
しかし、足利義満が提示した講和の条件は、絵にかいた餅にすぎず、所詮、履行できるような代物ではありませんでした。両統迭立をはじめとした講和の条件は守られることはなかったのです。そのため、その後も各地で旧南朝方による再興運動が相次ぐこととなります。
そんな中、門跡の反抗という大事件の影響もあって、大覚寺は荒廃への道を辿ることになりますが、さらに応仁(おうにん)元年(1467)6月と翌応仁2年9月の2度にわたり応仁の乱の兵火を受けたこともあって大覚寺の伽藍が炎上してしまいます。応仁の乱の最中には大覚寺だけでなく、足利義満によって造営された将軍家の邸宅である室町殿(むろまちどの。数多くの花が植えられたことから「花の御所」とも呼ばれました。)も、また数多くの名刹古刹も焼亡しています。
焼野原の中から大覚寺が再生を果たすのは、150年ほど時を経た江戸初期の後水尾(ごみずのお)天皇の登場まで待つことになります。
写真集2≪境内≫(21枚の写真が表示されます。)
宸殿(写真右奥に見える屋根の建物)の移築に付随して移されてきたものと見られています。
10メートル程の地に広がった這松(写真右)が玄関前を飾っています。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 正式名 | 旧嵯峨御所大覚寺門跡(もんぜき) |
| 別称 | 大覚寺門跡、旧嵯峨御所 |
| 所在地 | 京都市右京区嵯峨大沢町4 |
| 山号 | 嵯峨山 |
| 宗派 | 真言宗大覚寺派 |
| 本尊 | 五大明王(不動(ふどう)明王、降三世(ごうざんぜ)明王、軍荼利(ぐんだり)明王、金剛夜叉(こんごうやしゃ)明王、大威徳(だいいとく)明王) |
| 寺格 | 大本山 |
| 創建年 | 貞観18年(876) |
| 開基 | 嵯峨天皇 |
| 開山 | 恒寂(ごうじゃく)親王 |
| 文化財 |
|
【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。
【図中番号の説明】
- ※
- 図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
- 寺号標
- 嵯峨天皇歌碑
- 未生斎広甫(みしょうさいこうほ)歌碑。未生斎広甫は、江戸時代後期の華道家で、いけばな嵯峨御流の普及に貢献。
- 華供養塔
- 表門
- 明智門
- 式台玄関
- 明智陣屋
- 宸殿
- 右近の橘
- 左近の梅
- 正寝殿
- 庭湖館
- 宮御殿
- 霊明殿
- 心経殿
- 御影堂
- 舞楽台
- 御霊殿
- 五大堂
- 観月台
- 唐門
- 鐘楼
- 五社明神
- 有栖川
- 有栖川
- 大沢池
- 大覚寺門前交差点(※)
- 直指庵(じきしあん)(※)
- 広沢池(ひろさわのいけ)(※)
図の操作について
- 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
- 図の左にある+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
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近隣の観光スポット情報
上記の【境内概観図】をご参照ください。


