
蘆山寺〜山門〜
類い稀な才媛
『源氏物語』の作者として広く世界に知られ、また歌人でもあった紫式部(むらさきしきぶ)は、実名は不明(「藤原香子」(かおりこ/ たかこ / こうし/よしこ)との説あり)、生没年も不詳とされています。ただ長和(ちょうわ)3年(1014)以降に世を去ったと見られていることから、平安時代中頃の人といえます。
紫式部は、当時屈指の学者、漢詩人であった藤原為時(ふじわらのためとき)という人を父とし、その次女として生を受けます。
紫式部の少女時代の頃のこと。弟の惟規(のぶのり)が父の為時について司馬遷(しばせん)が書いた中国最初の歴史書「史記」を学んでいました。しかし、弟・惟規はなかなか覚えられずに難渋していました。一方、わきで聴いていた紫式部はというとすらすらと覚えてしまいます。そこで為時は、紫式部にも漢籍を教えたのでしょう。ただ、当時の貴族の娘にとって漢籍の学習などは異例で、敬遠されるべき事柄だったために、公にはしなかったことでしょう。とはいえ、父・為時は娘・紫式部の驚くべき上達に目を見張り、この娘が男子であったら、と父を嘆かせたという有名な逸話が伝えられています。
紫式部は、散文の才や、歌才にも類い稀なほど恵まれ、和歌に至っては、いわば「お家芸」といえるほどの才能を開花させることになります。
結婚、そして執筆
長徳(ちょうとく)2年(996)5月、越前守(えちぜんのかみ)となった父の赴任に家族と共に同行します。しかし、父の任期途中の翌3年10月には弟の惟規と一緒に帰京しています。そして長保(ちょうほ)元年(999)正月、紫式部は、再従兄妹(またいとこ)の間柄で、数人の妻と大きな子供もいて、親子ほどの年の差があったと思われる40歳代の藤原宣孝(ふじわらののぶたか)と結婚します。ただ紫式部は、この結婚によって夫の邸宅に移ったのではなく、引き続き自邸に住んでいました。つまり夫の方が妻・紫式部の許に通ったのでした。
翌年にはのちに大弐三位(だいにのさんみ)と呼ばれる娘、賢子(かたこ)が生まれますが、結婚からわずか2年ばかりしか経っていない長保3年(1001)4月に夫が急死してしまいます。その後、紫式部は再婚することなく未亡人として過ごしています。
そして、『源氏物語』の執筆はこのころから始まったものと考えられています。
出仕
夫を失ってから4年間ほど『源氏物語』の執筆に没頭した紫式部は、寛弘(かんこう)2年(1005)12月の暮れも近い頃にその初稿本を書き上げたものと見られています。その頃には、作家、歌人としての紫式部の名は、貴族社会に知れ渡っていました。
紫式部の才能に目をつけて、娘である一条天皇の中宮(ちゅうぐう)・彰子(しょうし)の女房(にょうぼう。皇族や貴顕の人々に仕え、自分用の部屋を与えられて奥向きの側仕えをした女性。)に迎えて後宮(こうきゅう)に光彩を加え、加えて彼女を彰子の侍読(じどく。学問を教授する人。)にしようとしたのが当時権勢をふるっていた藤原道長(ふじわらのみちなが)でした。
紫式部は、寛弘2年12月28日、従五位下(じゅごいげ)の官位を授けられ、翌29日の夜から命婦(みょうぶ)として早々と中宮・彰子のもと(東三条院)に出仕することとなります。
ただ翌寛弘3年の1年ほどの間は、紫式部は内裏(だいり)と自宅とを往復するような生活を過ごすこととなります。そして自宅では専ら『源氏物語』の補筆や浄書に取り組む日々を送っていたといいます。
中宮・彰子のもとに初出仕してから1年と1ヶ月が経った寛弘4年1月29日、紫式部は掌侍(ないしのじょう)に昇格し、専ら一条院に起居することとなります。
紫式部の宮廷における呼び名は、父・藤原為時が、文官の育成などの統括機関である式部省(しきぶしょう)の官僚・式部大丞(しきぶたいじょう)だったこととその姓から「藤式部」という女房名(にょうぼうな。女房が出仕にあたって名乗る名前。)で呼ばれていたと考えられています。
「紫式部」の名は、彼女の没後に『源氏物語』の登場人物である紫上(むらさきのうえ)の名に因んで呼ばれるようになったのではないかとみられてます。
紫式部の居宅
紫式部は京で生まれたと見られています。紫式部には同母の姉と弟がいましたが、幼くして母を喪っており、健在であった祖母の庇護の下に、継母の手で育てられます。そして紫式部が20歳を少し超えたと見られる頃には、姉も亡くなっています。
紫式部が生まれてから京にいる時に住んでいたのは、『堤中納言』の名で聞こえた中納言従三位(じゅさんみ)・藤原朝臣兼輔(ふじわらのあそんかねすけ)から伯父の藤原為頼(ふじわらのためより)や父の為時に受け継がれてきた広い邸宅だったといいます。藤原朝臣兼輔は、紫式部の曾祖父に当たる人で、醍醐天皇の信任の篤い人であったといいます。
紫式部は、この広い邸宅に祖母や伯父・為頼の家族らと一緒に住んでいたようです。
さて、その紫式部の平安京における居宅にして『源氏物語』を始めとした作品を執筆した所については、室町時代初期(南北朝時代の貞治(じょうじ)年間(1362〜68))に成立した源氏物語の注釈書である『河海抄(かかいしょう)』の「巻第一」の「料簡(りょうけん)」に記載の次の記事が唯一の手掛りとされています。
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舊(旧)跡は、正親町以南、京極西頰、今東北院向也。此院は上東門院御所の跡也。
ただ『京極西頰(つら)』ではなく、『京極東頰』が正しいことがわかっています。
そして、これを手掛かりにして様々な検証が行われた結果、紫式部の邸宅址は、京都御苑の東側を南北に走る寺町通(てらまちどおり)を挟んで向かいにある蘆山寺を中心に、北側に隣接している清浄華院(しょうじょうけいん)の南部と南側に隣接している京都府立医科大学附属図書館の北部に及んでいたことが明らかとなったのでした。
町屋や寺院の移転
時は下って、天正(てんしょう)19年(1591)、豊臣秀吉は京都の周辺を巡る御土居(おどい)の着工を命ずると共に、町屋や寺院の『屋敷がえ』を命令し、市中の多くの寺院を京極通の東側に移させます。この『屋敷がえ』の際、織田信長の廟所のある本能寺を始め、蘆山寺、山科言継(やましなときつぐ)公をはじめとした墓所のある清浄華院、大久保彦左衛門(ひこざえもん)をはじめとした墓所のある本禅寺など多数の寺院が京極通の東側に移されたため、京極通が寺町通と呼ばれるに至ったことは、よく知られているところでもあります。
この『屋敷がえ』によって蘆山寺が今日の場所に移建される以前の紫式部邸址とその付近の状態は、殆ど分かっていません。
なお、蘆山寺の墓地の東南部には、部分的ながら御土居が存在しています。
寺町通は人や車の通行も比較的多いところですが、その通り沿いにある廬山寺境内はひっそりとしています。その本堂前にある源氏庭には、紫式部の邸宅址を記念する顕彰碑が建てられ、幼少期を過ごし、そして『源氏物語』の執筆にいそしんでいた、在りし日の紫式部を偲んでいます。
写真集(10枚の写真が表示されます。)
京都御苑の清和院御門(写真左側)前の寺町通(写真右側)。
写真左端に見えているのは梨木(なしのき)神社の鳥居です。
寺町通をここからもう少し北へ行った所が紫式部邸宅址です。
【近隣観光マップ】※図の操作については下記をご参照ください。
【図中番号の説明】
- ※
- 図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
- 蘆山寺
- 梨木神社
- 新島舊(旧)邸
- 同志社新島会館
- 寺町通
- 京都御苑
- 石薬師御門
- 清和院御門
- 寺町御門
- 京都御所
- 今出川通
- 同志社大学
- 相国寺(※1)
- 糺の森(※1)
- 賀茂御祖神社(下鴨神社)(※1)
- 平安神宮(※1)
- 二条城(※1)
- 紫式部墓所(※2)
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近隣の観光スポット情報
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