写真集1≪風神雷神図屏風≫(3枚の写真が表示されます。)
17世紀前半の寛永(かんえい)期における画家俵屋宗達(たわらやそうたつ)の真筆になる、最晩年の作品とされ、俵屋宗達の最高傑作といわれています。風神雷神図は、元は建仁寺の末寺、鳴滝(なるたき)の妙光寺(みょうこうじ)(京都市右京区宇多野)の再建に際して描かれたものとされ、時を経ずして建仁寺にもたらされたものと見られています。
国宝。
展示されているものは高精細デジタル複製のものとなっています。
建仁寺では屋内に展示されている書画などの美術品も撮影可能(拝観受付窓口の所に案内)となっています。
「禅祖」そしてまた「茶祖」として日本に禅と茶とを定着させる道を開いた最初の人として知られる栄西。
京都における最初の禅寺、建仁寺(けんにんじ)は、周囲の厳しい批判をはねつけて、その栄西によって開かれました。
なお、「栄西」は一般には「えいさい」と読まれますが、建仁寺では伝統的に「ようさい」と呼ばれていると言います。
栄西とその時代背景
平安時代中頃の永承(えいしょう)7年(1052)、日本は世を挙げて末法(まっぽう)の時代に入ったと言われました。末法の時代というのは、仏教で、わずかに仏の教えのみが残り、それを修行する人も、学ぶ人も現れない時代のことをいいます。
この末法の時代を象徴するかのように、かつては輝かしい業績と伝統とを築き上げて来た比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)も、時の流れと共に形骸化してゆく時期を迎えます。
学問、修行の総府であった比叡山延暦寺は貴族階級との密着による貴族閥(ばつ)によって占領され、寺内の空気は世俗化の一途を辿り、かつての学徳の世界も、今では、家系と出自(しゅつじ)に支配されてしまいます。その結果、かつては学徳と修行とによってなりえた天台座主(てんだいざす)などの高僧の地位なども殆ど貴族出身の僧に独占されるようになります。加えて、山門(延暦寺)と寺門(園城寺(おんじょうじ。三井寺(みいでら)。)、座主(ざす)と大衆(だいしゅ)、学生(がくしょう)と堂衆(どうしゅ)といったこれらの間には紛議と闘争と暴力が絶えず繰り返され、神聖なる学苑は暴力と名利に支配される修羅場と化していったのでした。
この末法の時代を救済する宗教として、浄土宗、浄土真宗、時宗(じしゅう)、日蓮宗、禅宗などの鎌倉新仏教と呼ばれる新しい宗教が開かれてきます。
日本に禅を定着させる道を開いた栄西は、平安時代も残すところ40年ほどとなった保延(ほうえん)7年(1141)に生を受けます。13歳の時に比叡山にのぼって延暦寺で僧になる修行をし、14歳の時に剃髪して僧名を栄西としています。
栄西が生き抜いた時代は、保元(ほうげん)の乱(1156年)、平治(へいじ)の乱(1159年)、治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん。源平合戦。1180〜85年。)とうちつづく政変、動乱という、まさしく末法の様相を呈していたのです。
この末法の時代を救う教えとして、栄西より8歳年長で浄土宗を開いた法然(ほうねん)は専修念仏(せんじゅねんぶつ)を唱導します。一方、栄西は二度、求法(ぐほう)のため大陸に渡り、中国の宋朝(そうちょう)で盛んに行われていた禅宗(臨済宗黄竜派(りんざいしゅうおうりゅうは))を伝えます。これが、後の日本における禅宗の興隆の端緒を開いていくことになります。
栄西が入宋(にっそう)求法の志を抱くようになったのは、当時の比叡山が僧位僧官の名利をめぐる権勢の争いが絶えず、まさしく末世の様相を呈していたことによります。
あまりにも世俗化した比叡山に失望して、山を離れ渡海する決意を固めたといいます。
しかし、法然が開いた浄土宗に対する比叡山からの激しい非難があったように、栄西のもたらした禅宗に対しても、延暦寺の硬直した権威主義による、しかも新時代の活きた思想に対する抵抗や重圧が重くのしかかってきたのでした。
例えば次のようなことが起こりました。
栄西が九州で布教活動を行っていた頃、筑前(ちくぜん。福岡県。)箱崎(はこざき)の良弁(ろうべん)という僧が、栄西の禅が広まることをねたみ、延暦寺の宗徒を誘ってその禁止を朝廷に訴えます。その訴えにより建久(けんきゅう)5年(1194)、朝廷の宣旨(せんじ。天皇の命を伝える文書。)で禅宗の布教が禁止されてしまいました。そしてその翌6年(1195)に栄西は朝廷に召されて事の次第を糾(ただ)されます。
その場で栄西は以下のように理路整然と弁明します。
自分が現在布教を進めている禅宗は、何も今に始まったものではなく、すでに比叡山の伝教大師(でんぎょうだいし)最澄(さいちょう)によって伝えられているもので、禅宗は決して新宗などではない。もし禅宗を否定するようなことになれば、即ち、伝教大師の教えを否定することになる。ひいては、伝教大師によって立てられた天台宗そのものを否定することになり、日本の天台教学は成立しないことになる。天台教学が成立しなければ、天台の宗徒はどうして私に反対することができるのか。そして何よりも、天台の宗徒が宗祖最澄の教えに暗いこと甚だしいというべきである、と良弁をもって無知蒙昧の徒であるときめつけて譲らなかったといいます。
三宗兼修の寺院として
鎌倉時代初めの建仁(けんにん)2年(1202)、土御門(つちみかど)天皇の勅許を得て、源頼朝(みなもとのよりとも)の跡を継いだ第二代将軍頼家(よりいえ)の庇護のもと、栄西を開山として京の都に最初の禅寺が創建されます。寺号は朝廷からその年号をとることを許されて建仁寺とされ、かつ禅宗最初の年号寺院となりました。
しかし栄西は、新寺・建仁寺をもってすぐさま禅院とすることには慎重な配慮をおこないます。禅宗を唱える栄西が開山となった建仁寺という新寺の建立に、比叡山延暦寺がどう出てくるのか、その出方をさぐり、状勢を見究めようとします。そこで栄西は、建仁寺に禅宗の他に真言・天台の二宗を併せ置くことを立案します。しかも宣旨を仰いでいわば絶対的保証の下にこの三宗を置くことから建仁寺をスタートさせようとしたのでした。
一般には、この三宗の併置を比叡山からの圧迫を予想しての妥協策のようにも見てとられますが、一方では、比叡山にとって代わる仏教の総合道場を京の都に新たに打ち立てようとの栄西の戦略があったのではないかとの見方もあります。
いずれにしても、栄西が宣旨によって建仁寺に三宗を併置したことは、朝廷の権威をかりて比叡山のこの事についての差出口を封ずることにあったであろうことが推察されるのです。
禅専修の寺院として
建保(けんぽう)3年(1215)に栄西が75歳で没した後も建仁寺では三宗兼修が続いていました。
その後、鎌倉時代も半ばの正嘉(しょうか)2年(1258)、禅宗寺院である東福寺開山の円爾(えんに)(聖一国師(しょういちこくし))が建仁寺の第10世住持となり、疲弊していた伽藍の再興につとめることになります。
そして、建仁寺創建から半世紀以上が経った正元(しょうげん)元年(1259)、中国南宋出身の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)(大覚禅師(だいがくぜんじ))が次の第11世住持となって入寺すると、それまでの三宗兼修を改めて禅専修の寺風を打ち立てたのでした。
ここに建仁寺は、文字どおりの禅寺となったのでした。
鎌倉幕府が倒れ室町時代になって禅宗寺院を対象とした五山の制度が取り入れられると、建仁寺はその一つに名を連ねるようになります。
茶者養生之仙薬也
さて、栄西は「茶祖」としても知られています。
奈良時代から平安時代にかけて、日本でも茶は飲まれていましたが、それは皇室や高級公家といった、ごく一部の人たちに限られていました。
栄西は、最初の入宋の時、禅の修行の場における茶の重要性を知ります。即ち、坐禅時の眠気覚まし、そして健康面によい、といったことです。
そして、二度目の入宋において、栄西は喫茶の知識と方法を習得し、茶と禅を組み合わせて日本に普及させる決意をかため、茶の種子を持ち帰りました。
日本最初の茶の栽培というわけではありませんが、肥前(佐賀県)と筑前(福岡県)の境の背振山(せぶりやま)の石上(いしがみ)に茶の種を蒔いたといいます。
その後、眠気を覚まし、健康にもよい喫茶のしきたりは禅の修行と共に発達します。博多の聖福寺(しょうふくじ)、鎌倉の寿福寺(じゅふくじ)、京都の建仁寺では栄西が教えた喫茶が根付いていきます。
加えて、禅の修行には喫茶がつきものであるという認識が、禅寺の外にも広がっていくこととなります。
承元(じょうげん)5年(1211)、栄西は71歳の春に、茶に関するわが国最初の文献とされる『喫茶養生記』を著わしています。これは現存する栄西の最後の著作として受け継がれています。
以下はその書き出しです。
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茶者養生之仙薬也。延齢之妙術也。山谷生レ之其地神霊也。人倫採レ之其人長命也。
(『喫茶養生記〜序〜』)
(茶は養生の仙薬なり。延齢の妙術なり。山谷之(これ)を生ずれば其の地神霊(しんれい)なり。人倫(じんりん)之を採れば其の人長命なり。)
(茶は養生の仙薬であり、人の寿命を延ばす妙術を具(そな)えたものである。山や谷にこの茶の木が生(は)えれば、その地は神聖にして霊験あらたかな地であり、人がこれを採って飲めば、其の人は長命を得るのである。)
『喫茶養生記』を著わしてからその3年後の建保(けんぽう)2年(1214)2月4日、将軍実朝の病気加持の際、栄西は一盞(いっさん)の茶をすすめます。これを服した実朝は殊に感悦したことが伝えられています。
ところで、栂尾(とがのお)の高山寺中興開山上人と仰がれる明恵(みょうえ)は栄西とほぼ同時代の人で、栄西が宋から持ち帰った茶の実が明恵に贈られました。明恵は実際に座禅修行をつとめた人であり、その茶の効能−修行の妨げとなる眠りを覚ます効果−を知って、自ら服用します。そして衆僧(しゅうそう)たちにも、睡気をさまし、はらすために、これを服用させています。
明恵はその茶を山内で栽培し、宇治(うじ)やその他の地にも広めたといいます。
写真集2(52枚の写真が表示されます。)
写真手前から奥へと延びる花見小路通(はなみこうじどおり)。その突き当たりに建仁寺の北門があります。四条通から南に広がる祇園町南側と呼ばれるこの辺り一帯は、かつては建仁寺の広大な寺領だったといいます。
今日ではこの通りは花街情緒あふれる祇園の町並みで知られ、通りは訪れた多くの人たちで賑わいを見せています。
写真左手へと入ると祇園新地甲部歌舞練場があります。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 正式名 | 東山建仁禅寺 |
| 所在地 | 京都市東山区大和大路通四条下る四丁目小松町584 |
| 山号 | 東山(とうざん) |
| 宗派 | 臨済宗建仁寺派 |
| 本尊 | 釈迦如来 |
| 寺格 | 大本山 |
| 創建年 | 建仁2年(1202) |
| 開基 | 源頼家 |
| 開山 | 栄西 |
| 文化財 |
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- ※
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