
余香苑〜よこうえん〜
大刈込みの間から三段落ちの滝が流れ落ち、深山幽谷を思わせるような風情が漂います。
庭園は四季それぞれの草花に満ち、一年を通して美しい姿を見せてくれそうです。
三門、仏殿、法堂(はっとう)、方丈(ほうじょう)、庫裡(くり)などの中心伽藍に加え、その広大な山内には38もの塔頭(たっちゅう)(境外(けいがい)塔頭も含めると46ヶ寺)が立並び、一大寺院群を形成する臨済宗寺院の妙心寺(みょうしんじ)。
その南総門をくぐって北へと真っすぐに延びる石畳にそって行くとやがて左手に三門が見えてきます。その三門の南側を西に折れると見えてくるのが、多数ある妙心寺の塔頭の中でも屈指の古刹として知られる退蔵院(たいぞういん)です。
退蔵院には、室町時代の御用絵師狩野元信(かのうもとのぶ)の絵画的構想によるとされる名園の枯山水庭園を有する退蔵院庭園(通称元信乃庭)(国の名勝・史跡)や、禅の問答(公案)を絵にした如拙(じょせつ)の「瓢鮎図(ひょうねんず)」(国宝)(退蔵院で目にすることができるのは模本です)があります。
略史
室町時代のはじめ、半世紀以上続いた南北朝の対立が終息(1392年)してしばらくした頃のこと。
越前国(えちぜんのくに)(福井県)、禅宗の一つ、曹洞宗(そうとうしゅう)の大本山として知られる永平寺(えいへいじ)。
その地の豪族であった波多野出雲守(いずものかみ)藤原重通(しげみち)はその外護者(げごしゃ)として帰依していました。が、京に移り住んで下京(しもぎょう)の千本通松原に邸(やしき)を構えて以降、同じ禅宗の一つである臨済宗(りんざいしゅう)に傾きます。そして応永(おうえい)11年(1404)、ついにその邸内に一寺を創立しました。この一寺に付けられた名が退蔵院です。開山として迎え入れられたのは、重通が帰依し、高徳のきこえが高かった妙心寺第三世、無因宗因(むいんそういん)でした。
一方、退蔵院創建の5年前の応永(おうえい)6年(1399)、守護大名の大内義弘(おおうちよしひろ)が室町幕府に反旗をひるがえした応永の乱が起きます。
当時、妙心寺を管理していた拙堂宗朴(せつどうそうぼく)が大内義弘と関係が深かったことから大内氏に与(くみ)した疑いを受けてしまします。そして、応永元年(1394)には嫡男の足利義持(あしかがよしもち)に将軍職を譲りながらも実権は掌握したまま出家していた足利義満(よしみつ)の怒りを買ってしまいます。義満は妙心寺の寺地も寺産もその全てを没収し、拙堂宗朴は青蓮院(しょうれんいん)に幽閉され、しかも妙心寺は龍雲寺と改名させられ、ここに中絶してしまうことになります。
それから30年ほどが経った永享(えいきょう)元年(1429)、当時荒廃していた龍雲寺(妙心寺)に請われて日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)が入寺し、妙心寺復興の基盤が取り戻されることになります。それから3年後の永享4年(1432)、妙心寺が返されるに伴って日峰宗舜に始まる妙心寺の復興がなされることになったのでした。
その復興の中で退蔵院は、長禄(ちょうろく)年間(1457〜60)以前、妙心寺山内に移されたと見られています。ただ妙心寺山内に移建されたとはいえ、その位置は現在とは違っていたようです。
ところが、応仁元年(1467)に起こった応仁の乱の中で退蔵院は妙心寺とともに炎上してしまいます。そのために一時期衰退することとなります。妙心寺の境外塔頭である龍安寺(りょうあんじ)もこの乱の中で焼失しています。
その後、退蔵院が再興されるのはそれから半世紀ほどが経った頃のこととなります。
室町時代末の永正(えいしょう)年間(1504〜21)、中興の祖とされ、後奈良天皇の帰依が深かった亀年禅愉(きねんぜんゆ)によって、同じ妙心寺山内にあった退蔵院は、現在地に移され、今日へと引き継がれることとなったのでした。
画聖、狩野元信による方丈庭園「元信乃庭」が築庭されるのは、退蔵院が現在の地に移されてから20〜40年後の、室町時代も終わりに近づいた天文(てんぶん)15年(1546)頃のこととなります。
退蔵院と宮本武蔵
吉川英治著『宮本武蔵』に次のくだりがあります。
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武蔵がいう、思い出した人というのは、彼がまだ十九か二十歳の向う見ずに道を求めてさまよっていた時代−京都の妙心寺の禅室へ足しげく通っていたことがあって−その頃、啓蒙の師事をうけた前(さきの)法山の住、愚堂和尚、べつの名を東寔(とうしょく)ともいう禅師だった。
「前法山の住(さきのほうざんのじゅう)」の「法山」というのは、妙心寺の別称といいます。
19か20歳といえば宮本武蔵の名はまだ広く知られてはいない頃で、慶長7年(1602)から同8年にあたります。
そのおよそ2年間というのは、安土桃山時代の慶長5年(1600)9月、関ヶ原の戦いで豊臣方に加担するも敗れ、それから4年後の慶長9年(1604)春、京都蓮台野(れんだいの。京都市北区紫野の船岡山の西方、紙屋川に至る地域一帯。紫野十二坊町に上品蓮台寺(じょうぼんれんだいじ)があるところからこの名が付いたといいます。)において吉岡清十郎との試合を皮切りに吉岡一門と三度にわたって決闘するまでの時期になります。
当時、道を求めてさまよっていた武蔵が辿りついたのが愚堂に教えを乞うことだったのでしょう。
ただ、武蔵が愚堂のもとを初めて訪ねた時、ぶしつけにでもやって来たからでしょうか、愚堂はさすがに頭にきて、武蔵を追い返します。『宮本武蔵』では、
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初めて妙心寺に愚堂の名を慕って訪ねてゆくと、愚堂はいきなり、
(汝、そも何の見地かあって、愚堂門の客たらんとするか)
と、足蹴にかけないばかり大喝(だいかつ)で追い払われた。その後、愚堂の心にかなう所を認められたか、許されて室に参じたが、・・・
と、その時のことが描かれています。
一方、愚堂は、世情が安定してきた徳川の時代になって、江戸の沢庵(たくあん)とともに、京に於ける禅宗・臨済宗の二大偉傑(いけつ)とも称された高僧として知られ、妙心寺(みょうしんじ)第十四世住持を務めた人です。
『宮本武蔵』では、愚堂を
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至って、飄々たる存在で、時には、主上(しゅじょう)後水尾天皇の御座ちかく召され、清涼の法莚(ほうえん)に、禅を講じているかと思えば、ある日は、弟子僧ひとり連れず、片田舎の道に行き暮れて、夜の一飯に当惑していたりしているといった風な人
というように言い表しています。
さて、武蔵が愚堂を求めて妙心寺に参禅した頃、退蔵院を訪れています。退蔵院には『瓢鮎図(ひょうねんず)』(国宝)があります(現在京都国立博物館に寄託。退蔵院にあるのは模本。)。
南北朝時代から室町時代中期における日本の初期水墨画を代表する人として当時、相国寺(しょうこくじ)に如拙(じょせつ)という画僧がいました。如拙は、同じ相国寺の画僧雪舟(せっしゅう)に祖と仰がれた人でもあります。
『瓢鮎図』は、その如拙が、室町幕府4代将軍足利義持(あしかがよしもち)の発案で「瓢箪(ひょうたん)で鯰(なまず)を捕らえられるか?」という禅の問答(公案)を、応永22年(1415)以前に絵にしたものとして知られているものです。
武蔵は退蔵院にて『瓢鮎図』を前に坐し、自問自答を続けたと伝えられています。
写真集(27枚の写真が表示されます。)
妙心寺の南総門をくぐり、三門の前を西へ回り込むと退蔵院の山門が見えてきます。多くの人が退蔵院へと足を運びます。
かつて、宮本武蔵も道を求めてさまよっていた頃、この門を出入りしていたのかと、つい思いを馳せてしまいます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 所在地 | 京都市右京区花園妙心寺町35 |
| 宗派 | 臨済宗妙心寺派 |
| 寺格 | 妙心寺塔頭 |
| 創建年 | 応永11年(1404) |
| 開基 | 波多野重通 |
| 開山 | 無因宗因 |
| 文化財 |
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【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。
【マップ掲載番号の説明】
- ※
- 図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
- 妙心寺道(みょうしんじみち)
- 南総門(妙心寺)
- 勅使門(妙心寺)
- 三門(妙心寺)
- 仏殿(妙心寺)
- 法堂(妙心寺)
- 山門
- 大玄関
- 本堂(方丈)
- 元信の庭(西庭:枯山水庭園)
- 元信の庭(南庭)
- 余香苑入口門
- 陰の庭
- 陽の庭
- 羅漢石
- 余香苑
- 水琴窟
- 大休庵
- 鹿威(ししおどし)
- 北総門(妙心寺)(※1)
- 一条通(※1)
- きぬかけの道(※1)
- 【参考】
- この道を東へ行くと龍安寺、等持院、そして金閣寺(鹿苑寺)方面へ行けます。
一方、西へ行くと嵯峨野、嵐山方面へ行けます。
- 仁和寺(※1)
- 龍安寺(※2)
- 等持院(※2)
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近隣の観光スポット情報
上記の【境内概観図】をご参照ください。


