
山門をくぐって
その後、時の流れとともに平安京内にあった大内裏(だいだいり)もその姿を消し、二条通以北にも、平安京の東西の中心部を南北に貫いて朱雀大路を延長するかのように通りが造られ、長い歴史の中で今日の千本通となって受け継がれてきます。
上品蓮台寺(じょうぼんれんだいじ)は、その北へと延長された千本通沿いにあり、その山門をくぐると、今ではこじんまりとしてひっそりとした境内ながらもそこには一千年以上の時を超えて来た歴史が横たわっています。
春になると枝垂(しだれ)桜が美しく彩りを添えてくれそうです。
聖徳太子が母の菩提寺として建立したことに始まると伝わる上品蓮台寺(じょうぼんれんだいじ)。
かつて清凉寺(せいりょうじ)の創建に力を尽くした「然(ちょうねん)が中国・宋から持ち帰った釈迦像を携えて平安京の大路を大行進した後安置した寺院として知られています。
なお、上品蓮台寺では境内への出入りは自由ですが、内部は非公開となっています。
略史
飛鳥時代、聖徳太子(574〜622)の創建と伝えられ、当初は香隆寺(こうりゅうじ)と称したといいます。
上品蓮台寺のある地は蓮台野(れんだいの)と呼ばれ、往古より葬送の地として知られたところで、当寺は陵墓・霊廟・墓所などに隣接して置かれ、仏前に香や花を供える役割を担う香華寺(こうげじ)であったといい、天皇・皇族の葬送にかかわっていたといいます。
時は下って平安時代中期の天徳(てんとく)4年(960)、宇多法皇の勅願により、寛空(かんくう)が再建を果たします(これが実質的な創建と見られています)。この時、寺号を上品蓮台寺に改めたといわれています。
寛空は大覚寺(だいかくじ)において宇多法皇より灌頂(かんじょう)を受けた人で、東寺(とうじ)長者、金剛峯寺(こんごうぶじ)座主、仁和寺(にんなじ)別当などを歴任した人でもありました。
当時、上品蓮台寺は広大な寺域を有し、伽藍が建ち並ぶ様は壮大なものであったといいます。
その後、室町時代中期に起こった応仁・文明の乱(1467〜1477)の兵火により焼失し、寺運は衰えてしまいます。
安土桃山時代になった文禄(ぶんろく)年間(1592〜96)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の援助のもと、紀州(和歌山県)根来(ねごろ)寺の性盛(しょうせい)によって復興が行われます。
現在の境内は千本通りの西側に位置していますが、当時は、この付近の蓮台野(れんだいの)一帯に千本通りを挟んで十二の子院(しいん)が建立されたことから「十二坊」の名で知られるようになりました。これが町名「紫野十二坊町(むらさきのじゅうにぼうちょう)」の由来となっています。(下記写真集参照)

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つづく江戸時代になると寺領も110石(こく)余りを有する有力な寺院となったといいます。当時、主な寺社の寺社領は、おおむね100石前後から500石前後であったとみられています。先の豊臣秀吉の正室であった北政所(きたのまんどころ)のために建立された高台寺(こうだいじ)は500石であったといわれています。
しかし明治維新後、寺社領が国に没収されるという上地令(あげちれい)が布告されたことで寺領を失こととなりました。かつては12あったという子院も現在では3院となっています。
「三国伝来生身の釈迦如来」、上品蓮台寺へ
平安時代の公卿藤原実資(ふじわらのさねすけ)の日記に『小右記(しょうゆうき)』というのがあります。
『小右記』とは「小野宮右大臣(おののみやうだいじん)(実資のことを指します)の日記」という意味のものです。実資が五十年以上にわたって書き綴った日記で、当時の摂関期における藤原道長(みちなが)・頼通(よりみち)の全盛時代の社会や政治、宮廷の儀式に関することなどが詳細に記録してあり、当時のことを知る上で大変重要な史料とされているものです。
ちなみに、道長の子、頼通によって創建されたのが宇治(うじ)にある平等院(びょうどういん)です。
さて、『小右記』の永延(えいえん)元年(987)2月11日(※)条に次のような記録が残されています。
- ※
- 寛和(かんな)3年(987)4月5日に「永延」と改元されますがここでは『小右記』の記述に従っています。
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十一日、甲辰、内藏頭・権中將相共拜見入唐僧「然畢所随身佛經、初運置經論於 」寺給宣旨、運移蓮臺寺、山城・河内・攝津等夫持運云ゝ、最初有七寶合成塔、ゝ中籠佛舍利、即載輿中人擔之、其前雅樂寮發高麗樂、相次擔納摺本一切經論之五百合匣、一人擔二百、匣道路人相諍擔之、誠爲結縁、最後又有御輿、安置白壇五尺釋迦像、雅樂大唐樂、其次「然着甲袈裟、七八人僧等相共歩行相從、其道自朱雀大路登北、自二條東折、自東大宮大路登北、自一條西折、到蓮臺寺云ゝ、人ゝ云、於朱雀門前礼橋下僧廿人出來、持高麗、奉讃佛經云ゝ、今夕令參小兒於C水寺、以住僧高信師、限七箇日令行芥子燒、
寛和2年(986)7月1日、一切経5,048巻、新訳経41巻を納めた、500箱を数えるおびただしい蔵経とともに「三国伝来生身(しょうじん)の釈迦如来」(国宝)といわれた瑞像(ずいぞう)を宋から持ち帰った「然は九州に到着し、それから約5ヵ月間九州に滞在して11月7日に九州の大宰府を京に向かって出発します。それから年を越した翌寛和3年2月11日に入洛して宋から持ち帰ったものを披露し、晴れての帰朝ということになります。
実資は、同母兄で平安時代の歌人として知られた内蔵頭(くらのかみ)藤原高遠(ふじわらのたかとお)、清少納言(せいしょうなごん)や紫式部(むらさきしきぶ)もその才に畏怖したという道長全盛時の歌壇を代表する権中将(ごんちゅうじょう)藤原公任(きんとう)らとともに、「然らが行列を組んで都大路を行進するというので見に行きます。
平安京の羅城門(らじょうもん)から大内裏(だいだいり)の朱雀門(すざくもん)まで、南北に約4キロメートルにわたって延びていた平安京のメインストリートである朱雀大路(すざくおおじ)。朱雀大路の道幅は約84メートルほどもあったという大きな通りで、柳が並木として植えられていたといいます。 その朱雀大路を進む「然らの大行列は、雅楽(ががく)寮派遣の高麗楽の響きを先頭にして、次に、仏舎利(ぶっしゃり)の収められた七宝合成の塔が輿に擔(かつ)がれてつづき、その後に相次いで一切経論五百匣(はこ)が進みます。
大路の脇で見ていた人々もこぞって擔(かつ)いで運搬にあやかり、結縁を深めようとします。
最後にまた像高が約160センチメートル程もある白檀(びゃくだん)の釈迦像が安置された輿が進みます。
それから更に、雅楽寮の大唐楽が響き、帰朝した「然を先頭に、共に入宋し、後、「然の遺志を引き継いで清凉寺の創建に尽力した盛算(じょうさん)ら7、8人の弟子が続きます。
行列は平安京のメインストリートである朱雀大路を北へと進みます。
そして二条大路の朱雀門前に来ると東へ折れて進み、東大宮大路まで来ると再び北へのぼります。
一条大路まで進むと今度は西へ折れ、その後、更に北へと進んで、上品蓮台寺に入ったのでした。(下記図参照)

平安京図と『小右記』に見る「然らの上品蓮台寺までの行進ルート
一条大路以北に記している烏丸通、堀川通、千本通、西大路通、そして今出川通は、かつての平安京図に今日の通りを重ねたものとなっています。
なお、一条大路以北の上品蓮台寺までのルートは記載がないため、図のように直線(斜線)で記しています。
釈迦像は上品蓮台寺に一時安置されます。公卿らの参拝はひきもきらなかったようで、朝廷貴顕の尊崇を受けることとなったのでした。
その後「三国伝来生身の釈迦如来」像は、清凉寺に移されて安置され、清凉寺の本尊として現在に至っています。
写真集(4枚の写真が表示されます。)
写真は千本通で北を向いて撮ったもので、左手には上品蓮台寺の鐘楼が見えています。かつては千本通りを挟んでこの附近一帯に十二の子院(しいん)が建立され、広大な寺域を有していたといいます。
鐘楼の手前に見えているのは十二坊交番です。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 所在地 | 京都市北区紫野十二坊町33−1 |
| 宗派 | 真言宗智山派 |
| 本尊 | 地蔵菩薩 |
| 創建年 | (伝)飛鳥時代(文献上は天徳4年(960)) |
| 開基 | (伝)聖徳太子(実質的開基は宇多法皇) |
| 開山 | (実質的開山は寛空) |
| 文化財 |
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