
観智院
築地塀の右手に南大門、その左手奥には客殿(国宝)が見えます。
平安京遷都直後の延暦(えんりゃく)15年(796)の創建依頼1200年にわたって、創建当時とほぼ変わらない伽藍配置で、その位置を変えることなく今日に伝わっている東寺(とうじ)。
そしてその伽藍の北限に当たる北大門(ほくだいもん)をくぐると正面に、八条通に面した北総門へと真っすぐに延びる白い石畳の道が見えてきます。櫛笥小路(くしげこうじ)です。この小路も、平安京遷都以来1200年の長い時を超えて、この間ずっとその位置と道幅が変わることなく現在にいたっているものです。
そしてこの櫛笥小路沿いには南北朝時代から江戸時代までその両側に、15箇院ともいわれる院家(いんげ)(寺僧(じそう)の住房(じゅうぼう))が建ち並んでいたといいます。
しかしその後は院家も次第に衰微し、今日においてその姿を見せてくれているのが東寺の子院(しいん)で別格本山である観智院(かんちいん)です。
創建
今日観智院がある、東寺の伽藍の北側といえば、平安時代の頃には、花園や水田、それに町屋などがあったといいます。
鎌倉時代末期、ここに院家を建てる企画が出されます。それは、後宇多(ごうだ)法皇による「東寺興隆条々事」という宸翰(しんかん)で、東寺興隆のための6ヵ条の立願(りゅうがん)とされているものです。その二つ目に
- 「一、可建立止住僧房事」
と書かれ、寺僧の「止住僧房(しじゅうそうぼう)」即ち院家を建立するようにとの企画が出されたのでした。
これを受けて東寺では、院家の創立が始まることとなります。
時代も南北朝時代となって25年程が経った延文(えんぶん)4年(1359)、杲宝(ごうほう)によって東寺の北大門の北部に位置する今日の位置に観智院が創建されることになります。
杲宝は、当初東寺境内の西院(さいいん)内の僧房で執務していたようですが、観智院が出来てからのちはこちらの方に移ることになります。
観智院では、僧侶の教育、聖教と呼ばれる密教経典や仏像・仏画等の収集管理、文書の編纂といったことなどが行なわれていくことになります。
杲宝は、観智院にて盛んに講義を行ったと伝えられています。
こうして時の経過とともに観智院は、膨大な資料や収集された仏像・仏画等を擁する一方、充実した教育・研究を行うなど学術センター的役割を担っていたことから、慶長(けいちょう)14年(1609)に出された「徳川家康黒印状(※)」三箇条の中の二つ目に
- 「一、観智院者一宗之勧学院也、・・・」
と記載されるほどに、東寺に限らず、真言宗という「一宗之勧学院」と認識されていたのでした。
この「徳川家康黒印状」は、一般には「勧学令」といわれているものです。
- ※黒印状
- 武家文書の発給に際し従来は花押(かおう)が用いられていたのに対して、戦国時代以降あたりからは印判(印章)が次第に流行して用いられるようになり、これを用いた文書を指します。
- 印肉に用いられる色により、朱印状・黒印状等と呼ばれます。
本尊の安置
杲宝は康安(こうあん)2年(1362)に他界します。観智院が創建されてから2、3年しか経っていない頃のことです。杲宝在世時には観智院にはまだ本尊は安置されていませんでした。
そこで本尊の安置は、杲宝の後を継いだ観智院第2世の賢宝(けんぽう/げんぽう)によって行われます。
観智院の本尊である獅子、象、馬、孔雀、迦楼羅(かるら)の五つの動物座にのる五大虚空蔵(こくうぞう)菩薩像は、当初、平安時代の初め頃、入唐求法の旅から承和(じょうわ)14年(847)に帰朝した入唐八家(にっとうはっけ。最澄・空海・常暁・円行・円仁・円珍・宗叡そして恵運の8人)の一人恵運(えうん)が、空海ゆかりの寺としても知られている唐の都長安の青龍寺(せいりゅうじ)から請来して、嘉祥(かしょう)元年(848)京都山科(やましな)に創建した安祥寺(あんしょうじ)に安置したものでした。
ところが、その後、五大虚空蔵菩薩像を安置していた安祥寺の金堂が大風によって倒壊し、金堂を修復する費用が工面できなかったことによるのか、そのまま放置されたような状態にあったといいます。
そこで時も下った南北朝時代の永和(えいわ)2年(1376)、賢宝が山科の安祥寺からこの五大虚空蔵菩薩像を観智院に移して修理を行ったといいます。こういうこともやっていたのですね。
そして南北朝時代も終わりへと近づいた嘉慶(かきょう)2年(1388)、賢宝は観智院に小堂を新たに建て、ここに修理も終わった五大虚空蔵菩薩像を本尊として安置したといいます。
この五大虚空蔵菩薩像は、いずれもその台座まで含めて、太い一本の広葉樹を彫って造られている一木造(いちぼくづくり)といいます。
宮本武蔵の画
江戸時代初めの慶長9年(1604)、宮本武蔵(みやもとむさし)は、吉岡清十郎(よしおかせいじゅうろう)、伝七郎(でんしちろう)を倒して、最後に清十郎の子である又七郎(またしちろう)を一乗寺下(さが)り松の決闘において倒すと、吉岡一門からの報復を避ける為にこの観智院に身を潜めます。時に武蔵21歳。
以後、観智院には3年間ほど世話になることになります。
その3年間の内には寺ということもあり精神修養もしたことでしょうが、よく知られているところでは、客殿(国宝)の上段の間(ま)に「鷲図」、「山水図」、「竹図」を描いたとされることです。
「鷲図」は、床の間(ま)に描かれているもので、図の右上には空を羽ばたく鷲が、それに対面する左下には地上から飛びたとうとする鷲が描かれています。色落ちもかなり激しく、特に右上の空を羽ばたく鷲の目が何を見ているのか、定かではありませんが、2強の対決、即ち後年(一般に認知され記念日ともなっている慶長17年(1612)4月13日)行われることになる武蔵と佐々木小次郎(ささきこじろう)との巌流島(がんりゅうじま)の決闘で、その決着がつく刹那の様子によく似ているのかなとも思えてしまうほどです。つまり、空を羽ばたく鷲が空中に飛び上がったときの武蔵に相当し、地上の鷲がそれを迎え撃とうとする小次郎に相当する、という見方です。(これは私見です。)
武蔵は次なる対戦の勝利をイメージして、まさにそうなる事を見込んで描いたのかと思ってしまうほどです。
後年武蔵は、刀剣の鑑定や研磨を生業(なりわい)とし、加えてその才能を蒔絵(まきえ)、陶芸、茶道、書道、作庭など多分野の芸術領域にまでわたって発揮したことで知られる本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)といったような文人とも交流があったようですが、絵画を海北友松(かいほうゆうしょう)に学んだといわれています。
「鷲図」での筆法鋭く覇気迫る描き方、「竹図」での竹が交差する二刀であるかのように張り詰めた緊張感をもっての描かれ方は、海北友松に共通するところが多いとも見られています。
観智院に逗留していた時の武蔵は二十歳を過ぎたばかりの頃。その若さで観智院で見られる絵を描くことができたかどうか疑問に思われる見方もあるようですが、ひょっとすると、海北友松に絵画の技法を学んだ後に観智院に世話になった礼として描いたものと言えなくはないかもしれません・・・。
武蔵が客殿に残した画は、「宮本二天武蔵筆」と伝えられているといいます。
写真集(25枚の写真が表示されます。)
九条通(くじょうどおり)に面する南大門(なんだいもん)から北へ、金堂(こんどう)、講堂(こうどう)、食堂(じきどう)と東寺(とうじ)の主要な伽藍が一直線上に達ち並び、その延長上の伽藍の北限に位置する北大門(ほくだいもん)。これらは、1200年前の平安京遷都以来、その位置を変えることなく今日まで受け継がれているものです。その北大門の先に真っすぐに北へと延びているのが見える白い石畳の小路。櫛笥小路(くしげこうじ)と呼ばれています。
観智院は、この北大門をくぐり抜けて櫛笥小路に沿って100メートルばかり行った所にあります。
重要文化財。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 所在地 | 京都市南区八条大宮西入ル九条町403 |
| 宗派 | 東寺真言宗 |
| 本尊 | 五大虚空蔵菩薩 |
| 寺格 | 東寺別格本山 |
| 創建年 | 延文4年(1359) |
| 開山 | 杲宝 |
| 文化財 |
|
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