
総門
まだ開門前です。
通称「竹の寺」として知られるほどに竹林に覆われた地蔵院(じぞういん)。
涼しげな竹林が広がる境内にはしっとりと落ち着いた雰囲気が漂っています。境内には楓も多く、春は新緑、秋は紅葉に加えて竹の緑とのコントラストも見ものです。
細川頼之
地蔵院は、室町時代の武将・細川頼之(ほそかわよりゆき)が開基となって創建されました。
室町幕府第2代将軍足利義詮(あしかがよしあきら)は死の直前、細川頼之を管領(かんれい)(将軍に次ぐ役職で、将軍を補佐して幕政を統轄。)(1367年〜1379年)とし、義詮の子である第3代将軍義満(よしみつ)を補佐することを託します。当時義満はまだ11歳の少年でした。
前代の義詮が行った政治は自主性を欠いたばかりか、側近をはじめ内外の者から軽侮を受けることが多かったことから、頼之は、義満の元服の儀を盛大に執り行うことを手始めに、将軍権威の確立を図るべく次々と策を講じ、室町幕府の基礎を固めることに尽力します。
その後一旦政争に破れ京都を退去した時もありましたが、のち再び義満に迎えられ、幕政を主導する任に就くことになります。
義満の信任が厚かった頼之は、半世紀以上にもわたって続いた南北朝内乱の終熄や室町幕府・守護体制の確立といった重要案件に大きく寄与した人であり、頼之の葬儀は、義満が主催して相国寺(しょうこくじ)で行われています。
創建
地蔵院の地はもともとは、衣笠内大臣と称せられた鎌倉時代の歌人で、藤原定家(ふじわらのさだいえ/ていか)に師事した藤原家良(いえよし)が山荘を営んでいた場所とされ、頼之が室町幕府の管領に就任した翌年の応安(おうあん)元年(1368)(寺伝では貞治(じょうじ)6年(1367))に尼僧妙性(みょうしょう)から土地を買取り、寄進したことに始まります。
頼之が地蔵院の開山として迎えたのは、頼之が管領就任の頃から崇高の度を深めて叩問(こうもん)していた碧潭周皎(へきたんしゅうこう。宗鏡(そうきょう)禅師。)でした。『宗鏡禅師伝』に、
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管領武州源頼之公、政(まつりごと)の暇(いとま)、道を師に問い、得る所頗(すこぶ)る多し。故に地を城西に占めて禅刹を剏(はじ)め、師を請じて開山の祖となす。然(しか)りと雖(いえ)ども、師謙光(けんこう)にして楽しまず、天龍国師(夢窓)を以て第一世と称し、自ら第二世と称す。
とあり、頼之は碧潭から教えられるところ多く、一方、開山として請じられることに対して碧潭は、自分の師であり、西芳寺(苔寺)や天龍寺の作庭などで有名な夢窓疎石(むそうそせき)を勧請して第1世とし、碧潭自身は第2世となったことが知られます。
碧潭は康永(こうえい)元年(1342)西芳寺(苔寺)の住持を務めた人でもあり、世に「地蔵の再生」と呼ばれていたといいます。
創建にあたっては、六幀(とう)の地蔵の図が宝殿に掛けられ、寺号は地蔵院と名付けられたとされています。
応安7年(1374)、碧潭が84歳で世を去ると直ちに「宗鏡禅師」の諡号が勅賜されています。そしてその後も、頼之によって地蔵院は厚く保護され、その寺領も増加の一途を辿ります。
地蔵院はその敷地山林に加え洛中洛外に田畑屋敷のほか諸国には多数の寺領も所有し、また境内の塔頭3院、末寺23院を数える一大禅刹となっていったのでした。
しかし、その後起った応仁・文明の乱(1467〜1477)では山名宗全(やまなそうぜん)側西軍の兵舎ともされたことから戦いの中で諸堂ことごとく灰燼(かいじん)に帰してしまいました。その後再建されたものの、天正(てんしょう)13年11月29日(1586年1月18日)に発生した日本海の若狭湾から太平洋の三河湾に及ぶ歴史上例のない大地震となった天正地震によって再び大きな打撃を受けますが、細川家の援助もあり江戸時代中頃に復興されました。
細川家の先祖である頼之によって建てられた地蔵院には頼之の墓もあることから、その子孫である第79代内閣総理大臣を務めた細川護熙(ほそかわもりひろ)氏はお墓参りに来られるようです。
一休さんが遊んだ・・・
自由奔放で、「とんちの一休」で広く親しまれる一方、奇行も多かったことで知られる、大徳寺派臨済宗の禅僧、一休宗純(いっきゅうそうじゅん)。
その一休が生まれ幼少のころ過ごしたのは、ここ地蔵院の近くであったと見られています。
室町時代、半世紀以上にわたって続いた南北朝対立もその統一まであとしばらくといった頃、北朝最後の天皇となった後小松(ごこまつ)天皇。その天皇の寵愛を受けながらも、御所を追われるように出た一人の女性がいました。後に一休の母となる人です。
一休の母は藤原氏で、当時対立していた南朝の高官の子孫であったといいます。後小松天皇に仕え、その側室となって天皇の寵愛を受けていましたが、他の女官から「彼女は南朝のまわし者で、懐にはいつも短刀をしのばせて天皇の命を狙っている」と讒言(ざんげん)されたことから、遂には御所を出ることになったのでした。
しかし、その時には彼女は天皇の子を宿していたのです。
一休の母は洛西の地、嵯峨野に移り住んで庶民の家に戸籍を入れて日々を送ることになります。嵯峨野といえば今日でこそ風趣な地として知られていますが、当時は弔いの地域ともされ淋しいところでした。
応永(おうえい)元年(1394)正月一日、日の出の時刻に一休が産声をあげたといいます。幼少期は千菊丸と名付けられました。
一休が生まれた明確な場所は定かではありません。ただ、後年、一休の弟子である済岳紹派(さいがくしょうは)の筆記になる『祖先詩偈(そせんしげ)』という書物に「休祖(一休禅師)は初め嵯峨地蔵院に御座也」とあることから、地蔵院の近くで生まれ育ったという状況が見えてきます。
一休の母は御所追放とされましたが、天皇の子を宿していたことから乳母を付けられていたことは想像に難くありません。
物語によると、くろという顔の黒い乳母が毎日千菊丸の子守りをして育てた、ことが書かれています。とはいえ、実際、母に手を引かれ、あるいは乳母に手を引かれて地蔵院界隈で日がな遊んでいた姿が偲ばれます。
その後、千菊丸は6歳で出家することになります。今日その跡形はありませんが、行く先は、京都市中央区の四条大宮の辺りにあったという安国寺(あんこくじ)です。嵯峨から母に手をひかれて向かうことになります。道中は、母にとっては寂しさが募り、一方、事情のよく呑み込めない千菊丸にとっては意外と楽しいものだったのかもしれません。
安国寺に就いた千菊丸は、像外集鑑(ぞうがいしゅうかん)という長老の弟子となり、剃髪して名を周建と改めています。
周建と名を改めた一休は、この安国寺において学問、詩作などでその才気を示して師をびっくりさせたといいます。加えて、もうこの頃には既にお得意の「とんち」の才も発揮していたようです。
写真集(20枚の写真が表示されます。)
地蔵院前のこの狭い道は、沿道に民家なども建ち並んでいますが東海自然歩道となっていて、静かな環境の中にあります。写真のこの方向からは地蔵院は左手にあり、道が左側に曲がっている辺りに地蔵院へ入る参道があります。
そしてその参道入り口のところから50メートルほどこの道に沿って行った(北方向)左手に地蔵院の駐車場もあります。
駐車場入口を過ぎて更に真っすぐに行くと、その先には下り階段があり、西芳寺(苔寺)、華厳寺(鈴虫寺)方面へと出ます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 通称 | 谷の地蔵、竹の寺 |
| 所在地 | 京都市西京区山田北ノ町23 |
| 山号 | 衣笠山(きぬがさやま) |
| 宗派 | 臨済宗 |
| 本尊 | 地蔵菩薩 |
| 創建年 | 応安元年(1368) |
| 開基 | 細川頼之 |
| 開山 | (勧請開山)夢窓国師 (創建開山)碧潭周皎(宗鏡禅師) |
| 文化財 |
|
【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。
【マップ掲載番号の説明】
- ※
- 図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
- 総門
- 参道
- 竹林
- 細川頼之公碑
- 本堂
- 細川頼之・宗鏡禅師墓
- 鎮守堂
- 中門
- 弁天堂
- 庫裡
- 方丈
- 庭園
- 階段(※1)
- 苔寺・すず虫寺バス停(京都バス)(※1)
- 華厳寺(鈴虫寺)(※2)
- 西芳寺(苔寺)(※2)
図の操作について
- 図の上でマウスを任意の方向に動かす(ドラッグする)と表示範囲が変わります。
- 図の左にある+(プラス)ボタンをクリックする毎に図が拡大され、−(マイナス)ボタンをクリックする毎に図が縮小されます。
- 図の右上にある[地図]のボタンをクリックすると地図タイプを切り替えることができます。
- 非表示にした吹き出しを再度表示するには、赤いアイコンをクリックして下さい。
- 最初の状態に戻すには、キーボードのF5キーを押下してください。
近隣の観光スポット情報
下記写真左側に見える階段を上がって200メートルほど行った先に地蔵院があります。
一方、写真右側は京都バスのバス停となっています。そのバス停前を通り過ぎて100メートルも行かないところに西芳寺(苔寺)(拝観には往復はがきによる事前申し込みが必要で、 観光としてだけではなく読経・写経という行事に参加することが条件。)があります。

別れ道
草の中に埋もれるように地蔵院への道標が見えます。

案内
上記の【境内概観図】も合わせてご参照ください。


