
舎利殿・庭園・昭堂
本堂は、本尊釈迦如来坐像を安置する仏堂ですが、同時に開山普明国師(ふみょうこくし)(春屋妙葩(しゅんおくみょうは))の塔所にしてその像が安置されている昭堂(しょうどう)ともなっています。
嵐山、渡月橋、そして天龍寺(てんりゅうじ)からもさほど遠くない嵯峨の地にたつ鹿王院(ろくおういん)。
鹿王院の本堂に3メートル四方ほどもある大きな絵地図が掛けられています。15世紀前半の嵯峨一帯の絵地図である『応永鈞命絵図(おうえいきんめいえず)』と呼ばれるものです。これを見ると、今日観光地として店舗が建ち並ぶ嵯峨のこの辺り一帯には、今では想像もつきませんが、かつては五山十刹(ござんじっせつ)に列せられていた天龍寺、臨川寺(りんせんじ)、宝幢寺(ほうどうじ)(現鹿王院)の禅刹三カ寺が核となり、約150カ寺にも及ぶ塔頭から成る広大な一大禅林が築かれていた様子がはっきりと分かります。それらの中で現在も当時のままの位置に残っているのは天龍寺、臨川寺、金剛院(こんごういん)、そして鹿王院のみといいます。余談ながら、『応永鈞命絵図』を見ると、天龍寺が管理していたという渡月橋の位置は、現在の位置よりも上流(およそ150メートル上流とされています)にあったことが分かります。
鹿王院は、十刹の第五位に列せられた宝幢寺【注1】の開山塔所として建立されましたが、本寺であった宝幢寺は今日では既に無く、長い歴史の中で鹿王院のみが再興され、今に伝えられています。
- 【注1】
- 宝幢寺の「宝」として使用される漢字は文書(もんじょ)によって「寳」と「寶」が使われ、少々煩わしいものとなっています。そこで当記事では表記を「宝」で統一しています。但し、当記事に掲載した文書の原文内は本来の漢字のままに、一方、文書のタイトルについては、「宝」に続く()内に、その文書で本来使用されている漢字(「寳」もしくは「寶」)を記載しています。
足利義満と春屋妙葩
室町時代の初期、いわゆる南北朝時代。時の将軍は室町幕府第3代将軍、足利義満(あしかがよしみつ)。
康暦(こうりゃく)元年(1379)4月、丹後国(たんごのくに)(京都府北部)雲門寺(うんもんじ)に隠棲していた春屋妙葩(しゅんおくみょうは)が義満の懇請により入京します。
春屋は、天龍寺開山、夢窓疎石(むそう そせき)のもとで受戒し、後を継いで天龍寺の住職となっていましたが、五山第一の南禅寺(なんぜんじ)の楼門(ろうもん)(山門)の建設・破却を巡る問題で天龍寺住職を辞してのち10年に亘って丹後国に隠棲していたのです。
義満は10歳の時に57歳の春屋と初めて出会っています。以来、南北朝の分裂が続き、相次ぐ戦乱と守護大名たちの離反が続くといった時代の中で、義満の精神的支柱となってくれた春屋に対する信頼には厚いものがありました。
春屋は義満の帰依を受けた臨済宗の第一級の禅僧で、京に戻って2カ月後の6月には南禅寺の住職に任命され、また同年10月には義満の要請により、全国の禅寺を統括するわが国最初の天下僧録司(そうろくし)に任命されています。
そして、春屋が南禅寺に住していた時、義満から同年11月を以て宝幢寺(ほうどうじ)を嵯峨に建立する話が出てくるのです。
春屋は、南北朝時代、天龍寺再興、臨川寺(りんせんじ)再建、そして相国寺(しょうこくじ)創建など京都禅刹の大伽藍の経営に当たったことでも知られています。
縁起
宝幢寺の開創について、『普明國師行業實録(ぎょうごうじつろく)』(『続群書類従第九輯下〜伝部〜』所収)に次のような記述が見られます。
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今玆大丞相一夕夢有異人告曰。相公今年必有ニ大惠一。公若興-ニ建伽藍一。名ニ大福田一。奉-ニ安寳幢菩薩。觀音大士。多聞天王一。則延レ命レ福。由レ此創レ寺レ於ニ城西一。名曰ニ覺雄山大福田寳幢寺一。命レ師為ニ開山一。
康暦元年のある夜、義満が見た夢の中に異人が現れ、「相公(義満)、そなたには今年必ず大きな恵みがある。そのためには、【注2】若(も)し伽藍を興し建てて大福田(福田(ふくでん)とは福徳を生み出す田畑を指します)と命名し、宝幢菩薩、観音大士、多聞天王を奉安すれば、即ち命が延び、福を増すだろう。」と語った。これによって義満は城西にあたる嵯峨の地に寺を創り、名付けて覺雄山(かくゆうざん)大福田宝(寳)幢寺といい、師(春屋)に命じて開山とした、と伝えています。
かつてはこのように夢枕に告げられたということが天皇や将軍の行動の動機であり正当性でもあったのですが、先ずは宝幢寺が建てられるきっかけとなったのでした。
- 【注2】
- 原文に下線を付した「大惠」(惠はめぐみの意。)の箇所は、「大患」(大病の意)という言葉を使って、書籍類を始めとして次のような表現がよく見られます。
- ・・・そなたは今年必ず大患あらん、[そうならないために]・・・
- 当記事では原文に見られる語「惠」に沿った表現で掲載しています。
なお、多少の相違はありますが、同様の記述が『覺雄山大福田宝(寳)幢寺鹿王院記』(『群書類従 第二十四輯〜釈家部〜』所収)にも見られます。
宝幢寺の造成が成ると、十刹(じっせつ)の列に加えられることになり、これに伴って多くの寺領が与えられたのでした。
この時春屋は既に国師号を贈られており、かつ69歳の高齢にも達していたものの、未だ塔所さえ定まっていなかったことから、加えて以後の活動の拠点(後述)と位置づけるところもあってか、春屋は宝幢寺の一角に自己の塔所(たっしょ)を建てたものと思われます。
『覺雄山大福田宝(寳)幢寺鹿王院記』にはその塔所の名の由来が次のように書かれています。
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・・・且復開ニ昭堂地一時。野鹿現來成レ群。因名レ院稱ニ鹿王一。・・・
昭堂(しょうどう。禅宗寺院で、祖師の像・位牌(いはい)を安置する堂。享堂(きょうどう)。)の地を開いた時、そこに野鹿が現れてはやって来て、群れをなして彷徨したことから「鹿王院」と称するようになった、と伝えています。
さて、宝幢寺建立に当たって義満が春屋に宛てた「足利義満御内書」なるものが残されています。 以下はこれに関する記述となっています。
下記は、康暦元年11月24日、義満が春屋に宛てた書状です。
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興聖寺事、為ニ開山一可レ有ニ御沙汰一候、将又播磨国安田庄寺家分・山城国乙訓郡大覚寺・阿波国那賀山庄内賀茂・和食郷并関等任御寄進可レ為ニ同寺領一候、恐惶敬白
十一月廿四日義満(花押)
春屋和尚禅室
春屋に対し、新しく建立する興聖寺(後述)の事について開山として対応すること、加えて、播磨国安田庄寺家分ほか、山城国、阿波国からの三所を興聖寺の寺領として寄進することを伝えた内容となっています。
なお、この文書の日付には「年号」の記載はありませんが、「康暦元年」と見られています。
そして年が明けた康暦2年2月21日条(『花營三代記』(かえいさんだいき)(『群書類従第二十六輯〜雑部〜』所収))には、
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寶幢寺立柱始
とあり、宝幢寺建立に際して初めて柱を立て、その日を造作の事始めとして祝う立柱(りっちゅう)が行なわれたことが記されています。
さらに、義満が春屋(普明国師)に宛てた次の書状では、
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大福田寶幢寺事、為ニ開山一可レ被ニ建立一候、恐惶敬白
康暦二年四月十五日義満(花押)
普明国師禅室
とあり、普明国師(春屋)に対し開山として、大福田宝幢寺の建立に当たるように義満が命じたものとなっています。
春屋は、前年の康暦元年12月28日に「智覚普明国師」の徽号(きごう)を贈られていることから、この書状ではその宛先に「普明国師」を使ってあります。
また、先の「(康暦元年)十一月廿四日」付の義満の書状では「興聖寺」とあったものが、『花營三代記』並びに康暦二年四月十五日付の書状では「宝幢寺」となっており(両者は同一の寺院を指しているものと見られています)、比較的早い時期に寺名が改名されていることが伺えます。
活動の拠点として
丹後隠棲以前、春屋は、天龍寺金剛院(開山春屋妙葩)、嵯峨持地院(開山夢窓疎石)、嵯峨勝光庵(開山春屋妙葩)の三院を私的に管領し、金剛院を中心に自門派の活動を行なっていましたが、宝幢寺並びに鹿王院ができるとここを自門派の新たな拠点とします。
そして、金剛院等に付していた自らの所領の大半を宝幢寺、鹿王院に寄付します。加えて、義満をはじめ、春屋に帰依していた公家や武将からも多くの所領寄進を受けることとなります。
こうして、宝幢寺、鹿王院の寺院としての運営基盤が安定することとなったのでした。
一方、至徳(しとく)2年(1385)に、春屋が寺院運営の規範として制定した「鹿王院遺誡(いかい)」があります。その中の一つに
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本寺并末寺契券等正文、宜レ収ニ院中一、院主能護持勿レ令ニ散失一
という内容が定められています。これは、春屋が自門派の活動拠点として、本寺並びに末寺に係る文書は散逸させることなく、春屋に始まる夢窓派鹿王門派の拠点であった鹿王院による文書の集中管理を行うように定めたものです。
今につないで
至徳(しとく)3年(1386)、春屋は宝幢寺住持を退いて宝幢寺より出ます。この時既に76歳。そしてその後も退隠することはなく、精力的に活動を続けます。
しかし、嘉慶(かきょう/かけい)元年(1387)9月、体調を崩した春屋は再び鹿王院にその居を移します。が、翌嘉慶2年8月、鹿王院に於いて78年の生涯を閉じています。
宝幢寺は五山十刹制度の中で、十刹の第5位に位置づけられるなどして、隆盛を誇りましたが、本寺の宝幢寺は応仁の乱(1467〜1477年)を機に衰退・廃絶してしまいました。が、その開山塔所であった鹿王院のみは残ったのでした。
時が過ぎ江戸時代に入って半世紀以上が過ぎた寛文(かんぶん)年中(1661〜73)に至って、徳川四天王の一人である酒井忠次(さかいただつぐ)の子、酒井忠知(ただとも)によって鹿王院が再興されます。現在の鹿王院の堂宇の大半は忠知の意を受けた五男の虎岑(こしん)和尚によって築かれたものといい、中興開山と位置付けられています。この時、「寺号」が鹿王院とされ、以後、天龍寺に属することになります。
こうして、本寺・宝幢寺の開山塔所であった鹿王院のみが後世に受け継がれていくこととなります。
この再興された時に、室町時代から残っていた庭園は全面的な改修を受け、新しく作り直されたと見られています。そして、今日見られる様な庭園となったのは、江戸時代中頃の宝暦(ほうれき)13年(1763)に舎利殿(駄都殿(だとでん))が現在の位置に移築・再建されてからといいます。
それまでは庭園は客殿から眺めるという構成だったのが、客殿から舎利殿まで廊下が渡されたことによって本堂・舎利殿からも庭園を眺めることができるようになったのでした。
時は下り昭和43年(1968)3月、鹿王院は臨済宗単立寺院としての道を歩み始め、今日に至っています。
写真集(25枚の写真が表示されます。)
創建時からほどなくしての南北朝時代の建立と見られています。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 正式名 | 覚雄山大福田宝幢禅寺鹿王院 |
| 所在地 | 京都市右京区嵯峨北堀町24 |
| 山号 | 覚雄山(かくゆうざん) |
| 宗派 | 臨済宗単立 |
| 本尊 | 釈迦如来 |
| 創建年 | 康暦2年(1380) |
| 開基 | 足利義満 |
| 開山 | 春屋妙葩 |
| 文化財 |
|
【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。
【マップ掲載番号の説明】
- ※
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- 山門
- 中門
- 庫裡
- 客殿
- 歩廊
- 本堂
- 舎利殿
- 本庭
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- 天龍寺(※1)
- 小督塚(※1)
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- 車折神社嵐山頓宮(※1)
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