
茶室・図南亭(となんてい)
「恵観堂」(えかんどう)とも呼ばれています。
東福寺(とうふくじ)日下門(にっかもん)より西へおよそ50メートルばかりの所にある芬陀利華院(ふんだりかいん)。略して芬陀院。
芬陀院は、画聖・雪舟(せっしゅう)が作庭した庭園を伝えることから雪舟寺の名でも知られています。
沿革
鎌倉時代の中頃の建長(けんちょう)7年(1255)、一条家の祖で摂政、関白を務めた一条実経(さねつね)が、嘉禎(かてい)2年(1236)に創建された東福寺を祝ったことがありました。実経はこの頃、東福寺の山内に一条家の菩提寺として一寺を建立しようとの意図があったといいます。
それからおよそ70年近く経ち、鎌倉時代も終わりに近づいた元亨(げんこう)年間(1321〜24)、実経の曾孫にあたる、時の関白一条内経(うちつね)が開基となって、東福寺の開山円爾(えんに。聖一国師(しょういちこくし))の法孫にあたる定山祖禅(じょうざんそぜん)を開山に迎え、実経の遺志を継ぐ形で一寺を創建します。芬陀院です。芬陀院は一条家の菩提寺とされました。
そして創建間もない正中(しょうちゅう)2年(1325)には内経が世を去ります。内経は「芬陀利華院殿(ふんだりかいんでん)」と諡号されました。芬陀院の院号はこれにちなんでいます。
時は流れて江戸時代中頃の元禄(げんろく)4年(1691)と宝暦(ほうれき)5年(1755)、この二度の災火で芬陀院は堂宇を焼失してしまいます。そのため後に、桃園(ももぞの)天皇の中宮、恭礼門院(きょうらいもんいん)の旧殿を賜って移築、再建されることになります。そして更に明治に入って改築により手を加えられるなどして現在に至っています。
いつの頃からかできていた庭園
書院に南面する前庭は「雪舟庭園」とも呼ばれています。その名が示す通り、画聖・雪舟(せっしゅう)の手になるものとされています。雪舟は禅僧で、室町時代中頃以降に活躍した水墨画家として知られている人です。
雪舟は備中(びっちゅう)赤浜(現在の岡山県総社市)に生まれ、幼い頃近くの宝福寺(ほうふくじ)に入ります。
そして少年期に宝福寺を出て上洛し、相国寺(しょうこくじ)塔頭(たつちゆう)鹿苑院(ろくおんいん)に居住し修行します。この時に同じく相国寺に居住していた周文(しゅうぶん)に画を学んだ事は広く知られているところです。
そんな中、長禄(ちょうろく)4年(1461)の42歳の頃まで相国寺にいた雪舟にとって、東福寺には先輩であり師でもある翺之慧鳳(こうしえほう)や桂庵玄樹(けいあんげんじゅ)といった、雪舟が親しくしていた人たちがいました。後に雪舟48歳の時、応仁(おうにん)の乱の始まりによって日本全体が激動の時代に入った応仁元年(1467)に桂庵玄樹が遣明船に乗って中国・明(みん)に渡った時には、雪舟も同船しています(水墨画を学んで文明(ぶんめい)元年(1469)に帰国)。
雪舟が交流をもっていた人たちが東福寺にいたことで、雪舟は度々東福寺を訪れたようです。そしてこの時に、雪舟は芬陀院に起居したといいます。雪舟が幼少の頃修業をした宝福寺と芬陀院とは法の上での親戚筋にあたっていたことが関係していたようです。
ところで、芬陀院創建後にはいつの頃からか庭園ができていたといいます。
そして芬陀院庭園の作庭時期を推し量ることのできる情報が、相国寺塔頭鹿苑院(ろくおん)内の歴代蔭涼軒主の記した公用日記である『蔭涼軒日録』(い(お)んりょうけんにちろく)の中にあります。
蔭涼軒は、室町幕府第3代将軍足利義満(あしかがよしみつ)が鹿苑院内の南坊に設けたとされる寮舎で、将軍の小御所的なものであったといいます。軒主は将軍ですが、留守職として近侍の禅僧があてられていました。応仁の乱(1467年〜1477年)の最中に焼失し、以後再建されていません。
この『蔭涼軒日録』の長禄4年閏9月17日の条には次の記載があります。
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芬陀利華院献ニ蘇木一株庭石十箇一也。
当時蔭涼軒の作庭が行われていました。
その為に必要な庭木や庭石を取り寄せる旨の命を当時の室町幕府第8代将軍足利義政(よしまさ)が出したことにより、芬陀院からも献上された事に関する記事の一つです。
この記事は、当時にはすでに芬陀院には庭園があったことを示しています。
一方、雪舟は翌年の寛正(かんしょう)2年(1462)に山口へと移動しています。
当時の雪舟はその絵がまだ一般に認められていなかったころで、また、「絵」よりも「庭」への関心が高かった時代でした。山水画に優れた才能を持っていた雪舟にとって作庭することはそれ程の難事ではなかったようです。
これらのことから、東福寺を訪れては芬陀院で起居していた雪舟が、山口へと移動する前年の長禄4年(12月21日に寛正元年に改元)までには芬陀院に庭園を作っていたのではないか、と推測されています。「推測」の域を出ないのは、雪舟が作庭したという確たる文献がないことによるものです。
庭園の復元をして
昭和期の日本の作庭家で、全国のおよそ500箇所におよぶ著名な庭園を実測調査し日本庭園史の研究家として知られる重森三玲(しげもりみれい)が子息と共に著した『日本庭園史大系』の「芬陀院庭園」の項に次の記述があります。
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実は昭和十四年に、著者が東福寺本山方丈の作庭中、裏部の市松庭園を作るにあたって、背景の通天楓の美観が最高であった当時としては、境界線に、サツキの刈込物を入れるのが最も適していた。そのサツキの丸刈込が芬陀院に多数あることから依頼して、それを譲り受けた。その代償といったわけで著者が芬陀院の庭の復元修理を奉仕したのであった。
今日見られる芬陀院庭園〜雪舟庭園〜には鶴島と亀島が配置してあります。
ところが、重森が昭和14年(1939)に復元に取り掛かった当時の芬陀院の庭には甚だしく荒廃した亀島のみしかなかったといいます。今日亀島の中央に見られる中心石(亀の背中に突き刺さったように配置してある石)は捨てられでもしているかのように近くに横たわっていたようです。
一方、あるはずの鶴島は無かったといいます。というのは、江戸時代後期の文化(ぶんか)年中(1804〜18)に一条家の墓地が拡張されており、その際に、庭園の中にあった鶴島が取り去られてしまったからでした。以来、昭和14年に重森によって復元されるまでは、上述のようにひどく荒れた亀島のみが残っているという状態だったのです。が、鶴島を構成していた庭石は、芬陀院の中に散乱しつつも残されていたようです。
そこで重森は、常栄寺(じょうえいじ)庭園にある鶴亀の石組を思い起こします。常栄寺庭園は、芬陀院の作庭からおよそ6〜7年後に雪舟によって作庭されたものです(山口県山口市宮野下)。今日では、通称「雪舟庭」として知られる庭園で、国の史跡および名勝に指定されています。
さて、重森はこの常栄寺庭園の実測調査をかつて行っていたことから、それを基に常栄寺様式の鶴島を組んでみることにします。すると驚くことに、一石の補足もなく鶴島が完成したといいます。
この石組手法は雪舟が相国寺に居住した雲水時代に周文から学んだ北宗画に見られる石の描法とも似ている、と重森は感じたといいます。
このことは、雪舟作庭に関する文献等の資料が無い芬陀院庭園が、紛れもない雪舟の手によるものであることの一つの証左とも言えそうです。
写真集(17枚の写真が表示されます。)
東福寺の中門(写真右側)から入ってくると100メートルも進まないうちに芬陀院の山門が見えてきます。そのまま真っすぐ行くと50メートルと少しばかりのところに東福寺の日下門があります。
また、紅葉に埋まる通天橋が見える臥雲橋(がうんきょう)も近くにあります。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 別称 | 雪舟寺 |
| 所在地 | 京都市東山区本町15丁目803 |
| 山号 | 妙法山 |
| 宗派 | 臨済宗東福寺派 |
| 寺格 | 東福寺塔頭 |
| 本尊 | 阿弥陀如来 |
| 創建年 | 元亨年間(1321〜1324) |
| 開基 | 一条内経 |
| 開山 | 定山祖禅 |
【境内概観図】※図の操作については下記をご参照ください。
【マップ掲載番号の説明】
- ※
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- 山門
- 大玄関
- 唐門
- 書院
- 南庭(雪舟庭園「鶴亀の庭」)
- 東庭
- 図南亭
- 露地
- 東福寺・日下門
- 東福寺・中門
- 東福寺・南門(※1)
- 東福寺・六波羅門(※1)
- 東福寺・勅使門(※1)
- 東福寺・三門(※1)
- 東福寺・法堂(本堂、仏殿)(※1)
- 東福寺・通天橋(※1)
- 東福寺・月下門(※1)
- 東福寺・臥雲橋(※1)
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近隣の観光スポット情報
上記の【境内概観図】をご参照ください。


