
大悲閣千光寺
写真中央から少し右側の嵐山の中腹に客殿が小さく見えています。
写真は、保津川(桂川)(写真右下)を挟んで嵐山の向かいにある嵐山公園亀山地区の展望台から撮ったもので、この景観は「嵐峡」として知られています。保津川を一隻の屋形船が進んでいます。
渡月橋(とげつきょう)の南に架かる渡月小橋(とげつこばし)から大堰川(おおいがわ)(桂川)右岸の遊歩道を1キロメートルばかり嵐峡を眺めながら上流へ。嵯峨野や渡月橋界隈の人通りの多さに対し、この遊歩道を上流へ向かうほどに静けさ漂う保津峡の美しさが増していくのに反して人通りが急速にまばらとなっていきます。
やがて視界が開け、遊歩道の突き当たりへ。そこに見えるのは山の上の方へと延びる約200段の石段。この石段を上った嵐山の中腹、標高100メートルほどの地点に嵐山大悲閣千光寺(あらしやまだいひかくせんこうじ)が立っています。「大悲閣」とは観世音菩薩像を安置する仏堂(観音堂)を指しますが、「大悲閣」とだけいうと、嵯峨にある千光寺を指します。
この嵐山の中腹に立つ大悲閣千光寺は、地元嵯峨出身で京都の豪商として知られた角倉了以(すみのくらりょうい)がその晩年に当地に移建したものです。
大悲閣千光寺の境内の中でも特に嵐山の切り立った岩肌に立つ客殿からの眺めは、嵐峡の絶景を眼下に、遠くは京都市街とこれを取り囲む山々を一望できる絶好の展望スポット〜Great View Spot〜となっています。
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医業を継がず
角倉了以。本名、吉田光好(よしだみつよし)。
吉田の系譜を辿れば元祖は平安初期の第59代宇多天皇の血筋を引いているとされ、代々京に住んでいましたが、やがて京を離れ、近江(滋賀県)の里吉田に住まいを構え、勢力を張ったと言われています。吉田の名はその地名からとったものといいます。
その後、何十代か経た室町時代の中頃、了以からみて5代の祖にあたる家祖・吉田徳春(とくしゅん)の代になって再び京に戻り、仁術(じんじゅつ。医術。)で室町幕府3代将軍足利義満(あしかがよしみつ)、4代将軍義持(よしもち)に仕えたのが京都の初代と言われています。この吉田徳春が晩年に洛西の嵯峨に隠棲したのでした。この吉田徳春以後、代々の墓地は二尊院にあります。
家祖・徳春の子、第2代・吉田宗臨(そうりん)も医術を以て室町幕府8代将軍足利義政(よしまさ)に仕えます。
2代・宗臨の子、第3代・吉田宗忠(そうちゅう)は、はじめは医師として出発しますが、やがて事業家としての本領を発揮するようになります。中でも土倉(どそう)の経営では商才を究め、吉田家の巨富の基礎を築くことになります。これがその子孫の繁栄へと繋がっていくことになるのです。
3代・宗忠が立ち上げた土倉は大覚寺(だいかくじ)境内にあり、大覚寺の庇護を受けていたといいます。
ところで、土倉業というのは鎌倉・室町時代に起こってきた金融業(高利貸業)、質屋、それに倉庫業を兼ねたような事業のことを指します。
鎌倉時代末期頃までは物々交換による経済活動が行われていましたが、鎌倉時代末期から室町時代になると、商品の売買による貨幣経済が進展してきます。そのため、それまで存在しなかった貨幣が人々の日常の暮らしの中に登場してくることになるのです。室町時代は貨幣により流通する『商品』という考え方が確立した時代となります。そのため、それまで自給自足の生活だった農民たちも金銭を必要とするようになり、そのためには、大事な農具を入れざるをえないこともあれば、穀物そのものを土倉業者へ持ち込んでくることさえ珍しくなかったようです。こうして農民たちが持ち込んできたさまざまな物に対して土倉業者として見積もって値段の見当をつけ、一貫文とか何銭とか貸し出すのです。そして預かったものを倉に運び入れ、後で取り出せるように整理して保管。預かるものが増えるにつれ倉がいくつも建てられたといいます。その後、利子を付けて返してもらうと、預かっていたものを倉から取り出してきて引き渡す、そのような仕事でした。
全国的に見ると、田畑を押さえられることも少なくなかったため、農民たちがこぞって一揆を起こし、借金棒引きの徳政令(とくせいれい)を幕府に要求して暴動が起こる、といったこともしばしば起こったことは知られています。
ちなみに、了以が大変な世話になった伯父で、3代・宗忠の起こした土倉を引き継いだ吉田栄可(えいか)の代には土倉業を益々盛大ならしめ、古来より歌枕として詠まれ名勝として聞えた小倉山(おぐらやま)さえも、栄可の私有地となっていた時があったようです。文禄4年(1595)、栄可は予(かね)てより求められていた寺屋敷の用地として小倉山の広大な土地の権利を本圀(ほんこく)寺16世の日メiにっしん)上人に寄贈しています。そしてそこに建てられたのが常寂光寺(じょうじゃっこうじ)(慶長元年(1596)創建)です。
そして、この3代・宗忠の代において「角倉(元は「藏」)」の家号が始まったといいます。土倉という家業を営む場合に「角倉」という家号を使用し、やがて自ら角倉氏を称するようになる人も出てきます。ただ、先祖伝来の医業に就く場合や公式の場などにおいては「角倉」を用いることはなく、「吉田」の姓を名乗ったといいます。「角倉」の姓を使うようになったのは了以以下、その子孫たちで、それ以外は「吉田」の姓を名乗っているのです。
話を元に戻します。
第4代は3代・宗忠の次男、吉田宗桂(そうけい)が継いでいます。了以の父です。宗桂が4代目を継いだのは、長男が跡目を継ぐ前に若くして亡くなったことによります。その亡くなった長男の長子が先述した了以の伯父・吉田栄可です。
4代・宗桂は吉田家本来の家業である医業を継ぐとともに、土倉業を始めとして海外貿易も手がけるといった具合で、何事にも長けていたようです。西国守護大名大内義隆(よしたか)の遣明(けんみん)使節団の随員として、天文(てんぶん)8年(1539)4月と同16年5月の2度の渡航経験もありました。そして明滞在中、皇帝世宗(せいそう)嘉靖帝(かせいてい)の病気治療にあたり薬を献じて効能が認められたことにより称号を頂いて意庵(いあん)(医は意なりの意味)と号したそうです。
そして4代・宗桂の長男・吉田光好(角倉了以)が第5代を継ぎます。「了以」は二尊院から生前にもらった法号「珪応了以」(けいおうりょうい)からきているようです。了以は熱心な浄土宗信者であったと言われています。
了以の父・宗桂は、元亀(げんき)3年(1572)10月20日に世を去ります。それはまだ了以が19歳の時のことで、その年にして了以は大黒柱となったのです。当時了以は土倉業の仕事に従事していましたが(伯父・吉田栄可の下で学んでいたものと考えられます)、了以は結婚して3年目、しかも前年の元亀2年には長男の角倉素庵(そあん)が生まれたばかりで、加えて、了以の弟妹の面倒もみることになったのでした。こうして、了以は、伯父栄可を始めとして周りから支えられ、家族のために土倉業で身を立てていかざるを得なくなったのです。
千光寺に『嵐山源姓吉田氏了以翁碑銘』との篆額(てんがく)のある碑があります。これは了以の長男素庵が建立し、林道春(はやしどうしゅん)(羅山(らざん))の撰文になる了以の業績を称えた碑で、その中に次の文字が記されています。(素庵と羅山は共に儒学者として知られた藤原惺窩(ふじわらせいか)に学んでいます。惺窩は徳川家康(とくがわいえやす)に儒学を講じ、家康から是非仕官してくれるようにと要請を受けますが辞退しています。そして後に、惺窩が家康に推挙したのが門弟の羅山でした。その羅山を惺窩に引き合わせたのが、先輩格で惺窩の後継者でもあった素庵です。)
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性嗜ニ工役一
(性は工役を嗜(たしな)む)
「生まれつき土木などの工事を好んだ」。了以は、身体を動かして汗をかくのが性に合っていたようなことが伺えます。また算術などにも興味があったようで、父の4代・宗桂が明から持ち帰った書物の中から算術書や測量土木といった専門書を引っ張り出しては何度も繰り返し読んで、河川や土木のことを独学していたようです。「算術地理を学び、其道に通達す」(『寛政重修諸家譜』(かんせいちょうしゅうしょかふ))と伝えられています。そうして習得した知識を活かして、いずれ公のために役に立たせることができないかとの志を持っていたのかもしれません。そうした努力が、後々に了以が50歳に入ってから取り組んだ大堰川・保津川開削を始めとした仕事で花開くこととなります。
了以は長男であることもあり、当時としては父の4代・宗桂から先祖代々の家業である医業をついで欲しいとの話もあったことは容易に推察できますが、結局、了以は土倉業を継ぎ、医業は弟の吉田宗恂(そうじゅん)が継ぐことになります。先述の「性嗜工役」とあることからも、土倉業が好きだったのかどうかはさておき、少なくとも医業は自分の性に合わないとの思いがあったのかもしれません(このあたりについては、了以の祖父・3代吉田宗忠の意向があったとも見られています)。
弟の宗恂は、室町時代後期から安土桃山時代の権威ある医者として知られた曲直瀬道三(まなせどうさん)の門弟となって医術を学び、後に、豊臣秀次(とよとみひでつぐ)、そして秀次亡き後は徳川家康の侍医の一人として仕えることになります。宗恂は、医道において名実共に深い知識を持っていたことから家康の行くところ帯同するほどに家康の目にとまっていた人で、そうした縁もあって、後に、兄の了以が家康に謁見できるように取り成す機会が巡ってくることになります。後に家康が駿府(すんぷ)(静岡市葵区のほぼ中心市街地)に移ってからも、その生涯を通じて宗恂を側近く置いて、相談の相手を務めさせています。
父の4代・宗桂は若い時に剃髪して天龍寺(てんりゅうじ)の僧にもなり、また、天龍寺の長老策彦周良(さくげんしゅうりょう)を師と仰いでいた関係もあり、了以が父から引き継いだ土倉は天龍寺の庇護を受けており、店はその境内にあったといいます(当時の天龍寺は現在に比べてはるかに広大な境内を有していました)。
余談ながら、嵯峨釈迦堂(清凉寺(せいりょうじ))の山門(仁王門)前を通って北東方面の大覚寺へと向かう道筋の大覚寺門前地に、吉田家や角倉家が住まう屋敷があったといいます。
改名
天下統一を果たした豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、その2年後の天正(てんしょう)20年(1592)、邦人の海外進出を統制する方法として、朱印船(しゅいんせん)の制度を採用します。朱印船とは、海外渡航の許可証である朱印状を持つ貿易船を指します。初めて朱印状を与えられたのは長崎(4家5艘)、堺(1家1艘)、そして京都(3家3艘)の豪商です。ちなみに京都では、茶屋氏、伏見屋氏、そして了以の伯父吉田栄可の3家で、各家1艘ずつとなっています。ただ豊臣秀吉下での詳細な活動については分かっていません。
続いて慶長(けいちょう)5年(1600)の関ヶ原の戦いで天下を握った家康は海外貿易の利を察していたことから海外との交易に熱心で、翌慶長6年(1601)には安南国(あんなんこく)(現ベトナム)など東南アジア諸国に使者を派遣して外交関係を樹立、朱印船の制度を採用します。
慶長8年(1603)2月12日、伏見城に勅使を迎えた家康は、右大臣にのぼると共に征夷大将軍に任ぜられます。
その3日後の15日。伏見城に滞在中の家康は、京都所司代板倉勝重(いたくらかつしげ)の計らいで、京の大商人として伸長著しい角倉了以を招いています。
この機会が設けられたのは、先述の通り、了以の弟宗恂がその学識と医学者としての技量を家康に高く評価され、侍医の一人として仕えていた縁によるものです。
この場において、了以は将来に亘って幕府に協力するよう、直々に家康から声を掛けられ、一方、このまたとない機会に了以は直接家康に朱印状交付の許可を貰えるように願い出たものと見られています。そしてそれまでの伯父・吉田栄可宛てであった朱印状の宛名を了以、即ち吉田光好(本名)とする了解を受けたとも見られています。これを機にしばらく後、徳川幕府より最初の朱印状を貰うまでに吉田光好から角倉了以と名を改めたものと見られています。これは、伯父・吉田栄可が先の豊臣家との繋がりも深く朱印状を貰っていたために、徳川家への配慮から、姓を屋号の「角倉」に変え、と同時に名を「了以」としたものと見られています。
後に徳川政権下における最初の朱印状が交付されると、同慶長8年冬、了以の朱印船は長崎港を出発します。この時、了以すでに50歳。そして翌慶長9年6月に無事、帰朝しています。
徳川政権下における角倉家としての朱印船貿易はこの慶長8年を最初に、了以亡き後の寛永(かんえい)11年(1634)まで父子孫の3代が継承して合計16回行われており、了以が朱印船貿易から引退するまでの最初の7回が了以名で朱印状が交付されています。合計16回という渡航回数は当時行われた貿易としては最も多い回数で、航海の危険を冒してでも、交易する旨みがあったようです。事実、貿易で得た利益は莫大なものとなっていました。
糸口を見つけて
ところで、先にも挙げました『嵐山源姓吉田氏了以翁碑銘』に次の記載があります。
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慶長九年甲辰了以往ニ作州和計河一見ニ舼船一以爲凡百川皆可ニ以通一レ舟乃歸ニ嵯峨一泝ニ大井川一至ニ丹波保津一見ニ其路一自謂雖レ多ニ湍石一而可レ行レ舟
この慶長9年というのは、先述の通り、了以が慶長8年冬に長崎港を出発し翌慶長9年6月に帰朝した年にあたり、貿易で得た高価な品々を陸路を伝って京へ運び帰る途中、作州(さくしゅう)(現在の岡山県北東部)を流れる和気川(わけがわ)(現吉井川(よしいがわ))に立ち寄った際、この川を行き交う舼船(こうせん/たかせぶね)を目にしたものと思われます。この舼船を見てどんな川でも舟を通せる(上下させることができる)と思ったといいます。次項で触れますが、かねてより大堰川・保津川を利用して楽に物を運べないものか、と抱いていた素朴な疑問に対して、川を行き交う舼船を目にしたことが一つの解決の糸口となったようです。そうとなれば、舼船を使って川を上り下りできるかどうかを判断するために、大堰川・保津川の状態を確認することでした。
了以は嵯峨に帰ると大堰川を泝(さかのぼ)り、保津川を経て丹波の保津の里まで足を延ばして調べます。嵐山の麓からそこまでの川と道の状況を見た限りでは、確かに川の流れが速く石が多いとはいえ、これまでコツコツと自分なりに学んできた知識を活かして手を加えれば舟を通すことができる、と判断したのでした。
了以は開削には莫大な資金が必要となることは分かっていましたので、土倉業を営む一方で、今後も朱印船貿易にも益々力を入れ、それによって得た莫大な利益を念願の大堰川・保津川開削に投入しようとの考えを固めたのです。
大堰川・保津川開削と通舟の建議上申・着工
嵯峨で生まれ育ったことから、嵯峨野ではバッタや蝉、トンボといった虫を追いかけ、また大堰川、保津川では鮒や鯉といた魚を捕っては走り回っていたであろう子供の頃の了以は、山道を抜けて丹波(たんば)より山城(やましろ)に入ってくる物品の輸送を目にする度に、大変そうだなあという思いから、いつしか、どうにかしてもっと楽にならないものだろうか、との想いを持つようになったのかもしれません。ここに「性嗜工役」という了以の人となりが次第に頭をもたげてきて、どうやったら楽に物品を運ぶことができるようになるだろうか、と考えるようになったと思われます。この時はこれ(舟運(しゅううん))で儲けようといったような考えなどまだなく、純粋な気持ちからそう思っていたのかもしれません。
京の北西の出入口に当たる丹波には豊かな山林や田園、穀倉地があり、当時はそこで取れた五穀を始め木材や薪炭などが、険しい山道を上り下りしながらの人馬頼りの陸上輸送で山城へと入ってきていました。これは大変苦労が多く骨折りした割りに、益が少なく、不便だったのです。
一方、上流の平坦な丹波盆地をゆったり流れてくる保津川は、亀岡から嵐山までの保津峡においては美しい峡谷美が広がるのとは裏腹に、巨岩が川中にゴロゴロと横たわり、急角度で折れ曲がりながら下る急峻な激流と平地の静流とが繰り返していて、とても舟を通すことができるような川ではありませんでした。そのような保津川を下ることができたのは、木材を組んだ筏を船頭が命がけで操る筏下りだけだったのです。
そのため山城の目と鼻の先に位置するにもかかわらず、丹波からの荷は険しい山道を人馬に頼って苦労して運びこんでくるしかなかったのでした。
しかし、たとえ険しい川であったとしても何らかの手立で舟に荷を積んで川を上下できるようになれば、陸上輸送に比べてはるかに楽に物品を運ぶことができるようになり、しかも多くの産物だけではなく、文化や芸術までも広く入り交じって、丹波・山城の両国が共に、豊かに発展し経済的にも潤うのではないか、との考えを了以は持つようになったのです。
が、どのような方法で、大堰川・保津川を舟を上下させたらよいのか、長い間その答えがなかなか見い出せなかったのでしょう。それに一口に舟といっても、そのような川の上り下りに使えるような舟とは、どんな舟なのか思いつかなかったようです。
そのような時に目にしたのが、先の慶長9年の和気川で見た舼船が上り下りする光景だったのです。川底の浅い所を高瀬といいますが、そのような浅瀬の川を通れるように底を平らにして吃水(きっすい)を浅く作った舟は特に舼船、高瀬舟と言われます。
了以は、高瀬舟が京都の神泉苑(しんせんえん)の池にもあったので知ってはいたようですが、実際に使われているのを見たのは初めてでした。
特に印象的だったのが、川の上流に向かって舟を引き上げる光景でした。つまり、空舟や大小の荷を積載した舟を数珠つなぎした6艘の舟にくくりつけられた曳き綱を、1艘4人一組となった曳き子が独特の掛け声をかけながら曳いて川を遡って行く光景でした。また、川岸には曳き子が通る為の道も設けられていました。
了以はこの手法を使って、大堰川・保津川をいわば水上輸送路として利用しようとの考えに至ったものと思われます。
しかし、難題はまだ残っています。
山峡の保津川です。そこには美しい風景が広がるのとは逆に、急流に加え巨岩や断崖が連なる容易ならざる光景があり、ここに手を加えるとなると厳しい舟航路の開拓が予想されたのです。 とはいえ、そこは負けず嫌いの性格の了以。下記は、前項にも挙げました『嵐山源姓吉田氏了以翁碑銘』からの抜粋です。
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凡百川皆可ニ以通一レ舟(中略)雖レ多ニ湍石一而可レ行レ舟
(凡(およ)そ百川、皆以て舟を通ず可(べ)し。(中略)湍石(たんせき)(流れが速く石)多しと雖(いえど)も、舟を行(や)る可し。)
の信念のもと、遂に、慶長10年(1605)正月早々、駿府城にいる家康と江戸城にいる2代将軍徳川秀忠(ひでただ)に大堰川・保津川開削と通船の建議を上申します。ただこの時は了以が自ら赴いたのではなく、了以の名代として子の素庵が出向いています。(当時了以は52歳と高齢の域に入ってはいましたがそのため京から駿府・江戸まで出向くのは身体的に無理であるということではなく、そもそも了以は権力者との肌が合わなかったようで、むしろ藤原惺窩の下で学んだ子の素庵の方が話術・交渉に長けているということから、素庵が交渉した方が話はすんなりとまとまるだろうとの判断によるものと思われます。)
上申書を受け取った幕府は内々話を聞いていたものの、予想を上回る大きな事業に驚きます。 上申書には、工事の費用は角倉が全額負担すること、その投資の見返りとして通船料や倉敷料(倉庫料)を徴収することなども含まれていました。その結果、従来なら、幕府が資金を出して行うべき国土開発事業を、角倉がすべて負担して行うため幕府としての支出はゼロ。それどころか、雑税の一種である運上金(うんじょうきん)として、角倉が徴収した通船料や倉敷料(倉庫料)の半分かそれ以上が幕府に入ってくることになります。角倉家に対しては朱印状の許可も与えていることから信用もあります。それに、了以は、父宗桂が明から持ち帰った算術書や測量土木といった専門書を読んで河川や土木のことを独学し「算術地理を学び、其道に通達す」と評されるほどに得た知識を存分に活用してこれまで誰も考えつかなかった革新的方法による開削計画を綴っていたのです。了以はまさにこの時のためにコツコツと学んでいたのです。
幕府には了以の建議を却下する理由はありませんでした。幕府から次の主旨の命が早々に下ります(『嵐山源姓吉田氏了以翁碑銘』)。
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台命謂自レ古所レ未レ通レ舟今欲二通開一是二州之幸也宜二早爲一レ之
(幕府は「古より未だ舟を通ぜざるところ、今通開せんと欲す、是れ山城・丹波二州の幸なり、宜しく早く之を為すべし」と命じた。)
翌慶長11年(1606)には正月15日付で、担当奉行の大久保石見守(いわみのかみ)長安(ながやす/ちょうあん)、本多上野介(こうずけのすけ)正純(まさずみ)連名の書状が角藏興一(素庵)宛に届きます。その内容は次の通りでした(『角倉文書』)。
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從ニ嵯峨一丹州へ之船路、其方造作を以ほり、船致ニ上下一、藏をも立置、大津なみに藏式をも取申度之由被ニ申上一候、いかにも尤に、被ニ思召一、權田小三郎方へ右之通可ニ申遣一旨、御諚候間、可レ有ニ其御心得一候、小三郎方有ニ談合一、運賃などの儀も能程ニ被ニ取定一尤候、恐々謹言
正月十五日大石見守
長安(花押)
本上野介
正純(花押)
角藏興一殿
(嵯峨から丹波への航路につき、その方、工を起こし、船を上下させ、倉を建てて倉代を取るとのこと、いかにも当然である。権田小三郎(亀山藩代官)にこの度のことを伝え命じたので、そう心得られよ。小三郎と話合って運賃などについてもよろしく取り決められたし。
「大石見守」は大久保石見守、「本上野介」は本多上野介、「角藏興一」は了以の子、素庵です。)
これを受けて同慶長11年3月15日、了以は松尾大社(まつのおたいしゃ)神官のお祓いを受けて大堰川・保津川の地鎮祭を行い、いよいよ夢を賭けた大事業が始まったのでした。了以は朱印船貿易から得られる多額の利益を大堰川・保津川の開削費用として注ぎ込んでいきます。了以53歳。
了以は大堰川を目の前にして屋敷(関鳩楼(かんきゅうろう)→【マップ参照】)を既に建てており、そこには船着き溜まりと集積場が設けられ、また幕府の関所や役宅もあったといいます。
余談ながら、慶長11年には、了以は貿易によって得た利益を投入し、それまでの借り物の船ではなく、西洋の葡萄牙(ポルトガル)帆船と唐の帆船を折衷した巨大な帆船を長崎で造り(角倉船(すみのくらぶね))、日本風に装備を整えて就航させています。莫大な利益を得ていたことが伺えます。
さて、了以はかつて二尊院で剃髪し「了以」という法名を受けていましたが、大堰川・保津川開削計画に取り組み出した頃から日常の姿も法体になっていたようです。千光寺に伝わる了以像を見ると、法衣姿にして鋭い目つきをした厳(いか)つい頑迷そうな容姿が伺えますが、工事が始まると、待ってましたとばかりに目を子供のように輝かせ、夢の実現に向かって了以も自ら鶴嘴(つるはし)を握り、工事に携わる人たちの中に混じって一緒に汗をかく姿が目に浮かびます。まさしく「性嗜工役」です。
開削工事では、大きな石は轆轤索(ろくろさく)(石に綱を結わえ、滑車を使って引き上げる重機)で牽(ひ)き、水中の岩は鉄槌でことごとく砕き散り、水面上に出ている岩は烈火にて焼砕し(岩を火薬で焼砕したのか、あるいは、岩の上で火を焚いて十分熱くなったところで一気に水で冷やすことによって岩を砕いたのか・・・)、浅瀬は深くし、瀑布は上流を穿(ほじく)って均(なら)したといいます。加えて、舟を曳き上げる際に人が通るための川辺の曳き道も造られます。
時には、雨が降って増水でもしようものならせっかく造った木製の曳き道が所々流され、また造り直しといったことも起こったようです。
大変な作業が毎日毎日繰り返される中、工事は慎重にも慎重を重ねて行われましたが、辛い出来事も起こりました。
岩の上から滑り落ちて渦巻く渦中に呑み込まれたり、、割れた石に飛ばされて岩にぶつけられたり、あるいは鉄砲水に足をすくわれたりして、命を落とす人達が出たのです。
こうした難工事や苦難を乗り越え、工事開始からわずか6ヶ月足らずの慶長11年8月に大堰川・保津川の舟路(しゅうろ)が完成したのでした。余談ながら、かつて大堰川が氾濫する度に流されていたという、この川の嵐山の麓に架かる橋を150メートルばかり下流に移動させ、現在の渡月橋の位置に了以が架けかえたのもこの時です。
この舟路を行き交ったのは底の浅い独特の形をした高瀬舟(たかせぶね)です。この舟路の完成により、大堰川・保津川の舟運は丹波と山城(京)を結ぶ動脈として発展することとなります。了以はこの舟運事業からも大きな利益を得ることになります。(340年ほど先のことになりますが、この舟運も、明治32年(1899)の京都鉄道(のちの山陰本線)の開通に始まる陸上輸送の発達によって、昭和23年(1948)頃までには姿を消すことになります。)
こうして丹波・山城間に、大堰川・保津川を利用して舟で荷を運ぶという了以の夢は遂げられ、事業も土倉、朱印船貿易に舟運が加わり、了以は益々忙しい日々を送ることになるとともに莫大な利益を得ることとなるのです。
- 大悲閣千光寺〜その2〜へ続きます。
写真集(18枚の写真が表示されます。)
春とは思えないほどの暖かさを迎えてあっという間に桜が満開を迎えた中、縁側に出て絶景を楽しむ二人の姿が見えます。
嵐山公園亀山地区展望台より撮影。ここから渡月橋を渡って、大堰川(おおいがわ)(桂川)対岸の千光寺へと向かいます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 別称 | 大悲閣 |
| 所在地 | 京都市西京区嵐山中尾下町62 |
| 山号 | 嵐山(あらしやま) |
| 宗派 | 黄檗宗 |
| 本尊 | 千手観音菩薩 |
| 創建年 | 不詳。 慶長19年(1614)移建 |
| 中興開基 | 角倉了以 |
| 中興開山 | 道空了椿 |
【近隣マップ】※図の操作については下記をご参照ください。
【マップ掲載番号の説明】
- ※
- 図中の右上に表示されている「地図」をクリックして、その下に表示される「航空写真」をクリックし、図を拡大表示する(下記「マップの操作について」参照)とよりはっきりと見ることができます。
- 渡月橋
- 渡月小橋
- 遊歩道
- 参道入口
- 鐘楼
- 客殿
- 嵐山源姓吉田氏了以翁碑銘
- 座禅石
- 本堂
- 大堰川
- 保津川
- 嵐山公園中之島地区
- 角倉了以の舟番所兼邸跡(離れ座敷「關鳩楼」(かんきゅうろう)は当時の姿を今に伝えています)。
現在は公立学校共済組合嵐山保養所兼純和風旅館「花のいえ」。 - 小督塚
- 天龍寺
- 嵐山公園亀山地区〜展望台上り口〜
- 嵐山公園亀山地区〜展望台〜
- 嵐山公園亀山地区〜竹林の道出入口〜
- 嵯峨野・竹林の道
- 野宮神社
- 常寂光寺
- 落柿舎
- 二尊院
- 厭離庵
- 宝筐院
- 清凉寺
- 祇王寺
- 滝口寺
- 化野念仏寺
- 嵯峨鳥居本〜重要伝統的建造物群保存地区〜
- 大覚寺
図の操作について
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近隣の観光スポット情報
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