
「大輪の間」(だいりんのま)より
雲龍院(うんりゅういん)は、南北朝時代の応安(おうあん)5年(1372)、真言宗泉涌寺(せんにゅうじ)別院として後光厳(ごこうごん)上皇の勅願により泉涌寺21世竹巌聖皐(ちくがんしょうこう)を開山として創建されました。後光厳上皇崩御2年前のことです。
光厳上皇の第二皇子であった弥仁(いやひと。後光厳天皇の諱。)はもともと仏門に入る予定だったといいますが、南北朝時代における政局の急変によりにわかに北朝第4代天皇として皇位につくことになり、激動する時代の荒波に巻き込まれていきました。
天皇在位期間中には南朝方の軍との争いの中で在所が一定することのない状況も起こり、落ち着くことなど許されなかった当時の政局の動きの中においてやや戦況が沈静化したかに見えた中で創建されたのが雲龍院です。
後光厳天皇として皇位につくことになった時代背景を追ってみました。
鎌倉幕府から室町幕府へ
文保(ぶんぽう)2年(1318)に即位して以後、宋学に著しく傾倒し、そこから宋の君主独裁政治を目指したとみられる後醍醐(ごだいご)天皇は、後宇多(ごうだ)法皇の院政のもとにありましたが,元亨(げんこう)元年(1321)から院政を廃して天皇親政を復活したのでした。
しかし、天皇政治をはばむ根源が鎌倉幕府にあることを痛感した後醍醐天皇は討幕計画を進めたのです。
後醍醐天皇は、討幕失敗を重ねながらも、鎌倉幕府に反感を抱く地方武士たちの力を借りて、元弘(げんこう)3年 (1333) 鎌倉幕府を倒しました。その際、当初は鎌倉幕府側にあった足利高氏(あしかがたかうじ。後に尊氏。)も後醍醐天皇側に味方して討幕の功労者となりました。足利高氏は、戦功第一として後醍醐天皇自身の諱(本名)「尊治(たかはる)」からの偏諱「尊氏」の名を与えられました(以下尊氏と表記)。
同年、京に入った後醍醐天皇は建武(けんむ)の新政を開始します(新政の名は、翌年の建武元年(1334)に定められた「建武」の元号に由来)。しかしその政治は従来の伝統にとらわれず著しく専制的で、征夷大将軍も置かず、天皇が自ら公家・武家両者を統率しようとするもので、論功行賞においては公家優先など、地方武士の新政に対する不満は急速に高まり、また公家にしても、伝統的な摂関政治型の体制が否定され、天皇独裁のもとに恣意的な人事が行われるなど、新政に対する失望は大きく、結果、公家・武家たちの強い反発を招くこととなります。
そこで、武士たちの信頼を得ていた尊氏が武家政権を目指して兵を挙げ、建武3年(1336)、入京を果たすも後醍醐天皇方の楠木正成(くすのきまさしげ)軍・新田義貞(にったよしさだ)軍に敗れて一旦京から離れますが、同年楠木正成軍・新田義貞軍を破り光厳上皇を奉じて再び入京したことで後醍醐天皇は慌ただしく比叡山延暦寺に逃れ、建武の新政は3年足らずで瓦解することとなります。
そして尊氏の要請により、光明(こうみょう)天皇を立て(北朝)、幕府基本法となる『建武式目』を定め京にて新たな武家政権の成立を宣言しました。実質的には、このときをもって室町幕府の発足とされています。
2年後の暦応(りゃくおう)元年(1338)、尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ、これにより室町幕府が名実ともに成立することになりました。
尊氏の弟・直義(ただよし)も左兵衛督(さひょうえのかみ。左兵衛督と右兵衛督(うひょうえのかみ)の二つが存在。「督」は長官の意。天皇やその家族の近侍・護衛、内裏内など宮廷の中枢部や行幸などの際の護衛にあたる。)に任じられ、政務担当者としてこの二人による二頭政治が始まります。
一方、比叡山延暦寺に逃走した後醍醐天皇は、尊氏が京を制圧した建武3年(1336)の暮れには京を脱出して大和の吉野(奈良県吉野郡吉野町)へ逃れ、そこで朝廷を続けることになります(南朝)。
こうして元中(げんちゅう)9年=明徳(めいとく)3年(1392)に室町幕府第3代将軍足利義満(よしみつ)による南北朝統一まで以後約60年間、北朝と南朝の対立が続くことになりました。
後醍醐天皇が大和の吉野へ逃れてから3年後の延元(えんげん)4年(1339)に崩御すると、後醍醐天皇にも尊氏・直義兄弟にも帰依を受け、尊氏が自ら弟子の礼をとって幕府に迎えた臨済宗の禅僧・夢窓疎石(むそうそせき)は、後醍醐帝鎮魂のため尊氏の弟・直義に一寺建立を勧めます。これを聞いた尊氏もその提案に賛同して、光厳上皇の院宣で造営されたのが天龍寺で、夢窓疎石がその開山となります。
観応の擾乱(かんのうのじょうらん)
さて、兄・尊氏は自らは軍事指揮権と恩賞権を握り武士の棟梁として君臨し、弟・直義には政務を任せるという、二人による二頭政治が始まった室町幕府でしたが、幕府開設から12年が経とうという貞和(じょうわ)4年(1348)頃から、弟の直義は、将軍尊氏を補佐する政務の責任者として権限を掌握していた執事(後に「管領」(かんれい)と改められます)の初代である高師直(こうのもろなお)と対立するようになり、幕府を直義派と反直義派に二分する観応の擾乱(観応元年(1350)〜 正平7年(1352))(擾乱:騒いで乱すこと)へと発展していくことになります。さらに不運なことに、執事の高師直は尊氏とのつながりが強かったことから、直義と執事・高師直との対立は兄・尊氏と弟・直義との兄弟の対立(足利一族内の擾乱)へとなっていきます。さらに吉野へ逃れていた南朝もその混乱に乗じて勢力を強めるという情勢へと移っていきます。
観応元年(1350)、尊氏の奏上により北朝の光厳上皇による直義追討令が出されると、同年12月に直義は一転してそれまで敵対していた南朝方に降り、兄・尊氏への対抗姿勢を見せます。
すると尊氏は、直義と南朝の分断を図るため、南朝からの直義追討の綸旨の要請に向け、南朝に和議を提案します。南朝方は、尊氏の提案を受け入れる代わりに、北朝方にある皇室の正統たる帝の証しであるとされる三種の神器を渡し、政権を返上することなどを条件としたのでした。
観応2年10月24日、尊氏は南朝方の条件を受け容れて南朝に一時的に降伏し、弟・直義追討の綸旨を得たのでした。
この和睦に従って南朝の勅使が入京し、同年11月7日、北朝の崇光(すこう)天皇や皇太子直仁親王(なおひとしんのう)は廃され、関白二条良基(にじょうよしもと)らも更迭されました。また元号も北朝の観応2年が廃されて南朝の正平6年(1351)に統一されます。これは正平一統(しょうへいいっとう)と呼ばれます。
さらに、同年12月23日には北朝方にあった三種の神器を、南朝方が接収することになります。
こうして弟・直義追討のため、直義が布陣する鎌倉に向けて出陣した尊氏に、正平7年(1352)1月5日、直義は敗れて降伏し、鎌倉にて武装解除され幽閉されます。ところが翌2月26日、直義が急逝するという事態が起きます。『太平記』では「公には病没とされたが、本当のところは尊氏による毒殺であると囁かれている」と描かれています(下記【参照】)。余談ながら、直義と対立していた高師直は、直義が亡くなった日の前年の同日である正平6年2月26日に直義派の配下の者に討たれています。直義と高師直が亡くなった日には不思議な一致があります。
弟・直義の死により、足利一族内の争いである観応の擾乱は終わりを告げたのでした。
- 【参照】
- 後醍醐天皇即位の年から後光厳天皇の御世に室町幕府第2代将軍足利義詮(よしあきら)が逝去し、幼君義満(よしみつ)の補佐として細川頼之(ほそかわよりゆき)が執事職となるまでの約50年間の動乱が描かれた『太平記』の『太平記 下之卅一』には「慧源禪門逝去事」(※)の項があり、下記のことが記載されています。
- ※「慧源禪門逝去事」
- えげんぜんもんせいきょのこと。
- 慧源は直義の号。目次には「錦小路殿逝去事」(にしきこうじどのせいきょのこと)とあり。錦小路殿は直義の別名。
- カゝリシ後ハ、高倉殿ニツキ順(したが)ヒ奉ル侍一人モナシ。籠(ろう)ノ如クナルヤカタノ荒(あれ)テ久シキニ、警護ノ武士ヲスエラレテ、・・・其年ノ二月廿六日ニ、忽(たちまち)ニ死去シ給ヒケリ。俄(にわか)ニ黄疽(おうだん)ト云病ニヲカサレテ、ハカナクナラセ給ヒケリトヨソニハ披露有(あり)ナカラ、實(まこと)ハ鴆(ちん)ニオカサレテ、逝去シ給ヒケルトソサゝヤキケル。・・・
- (注)
- 句読点および平仮名の読みは筆者が追加。
- 直義が尊氏に捕らわれて後は、高倉殿(直義の別名)に随従する侍は一人もいなかった。直義は、荒れ果てた牢屋のような屋形に入れられ、警護の武士が付けられていた。・・・正平7年2月26日、直義はたちまちにして亡くなった。突然黄疸という病に罹り、儚く亡くなったという。公にはこのように伝えられたが、実際は鴆と呼ばれる空想上の毒鳥の羽にあるとされる猛毒(に等しいもの)を飲まされて亡くなったのだと囁かれている。・・・
- また、江戸時代中頃の元禄(げんろく)五年(1692)成立の『諸家系圖纂』(しょけけいずさん)に掲載されている「足利家将軍系図」の「直義」欄には
- ・・・延文二年二月二十八日為尊氏被毒害四十五歳・・・
- (注)
- 「延文二年(1357)二月二十八日」ではなく「正平七年(1352)二月二十六日」。
- と、直義は兄・尊氏によって毒殺されたと書いています。
観応の擾乱後
弟・直義亡き後、南朝方は、北朝と足利方の勢力を、尊氏のいる鎌倉と尊氏の嫡子・義詮(よしあきら。後の室町幕府第2代将軍。以下義詮と表記。)のいる京から完全に払拭しようと画策します。
まず正平7年(1352)2月6日に南朝は尊氏の征夷大将軍職を解きます。
南朝方が鎌倉に進軍すると、尊氏が鎌倉を一旦離れたことから一時的に鎌倉を占拠しますが、その後再び尊氏が鎌倉を奪回します。
一方同年2月19日には南朝方が京に進軍し、義詮率いる軍勢と交戦の末に義詮を近江国(おうみのくに。現滋賀県。)に駆逐して入京すると、北朝の光厳・光明・崇光の3上皇と皇太子直仁親王を、南朝方の本拠のある賀名生(あのう)へ連れ去ります。南朝の後村上(ごむらかみ)天皇が京の情勢をうかがう中、義詮は布陣を整え、同年3月15日には京へ押し返してこれを奪還。
そして尊氏と義詮は正平7年3月までに北朝の「観応」の元号復活を宣言したのです。これにより正平一統は正平7年(1352)3月にわずか4ヵ月あまりで瓦解することになります。
こうして、京を回復した尊氏・義詮らは、光厳上皇の第二皇子を擁立して北朝の再興に動き出します。
同年(観応3年(1352))8月17日、第二皇子は元服して弥仁と命名、親王宣下も三種の神器もなく、後伏見(ごふしみ)天皇の妃(広義門院(こうぎもんいん)。光厳・光明天皇の母。)の命令という異常な方法で孫の弥仁が践祚、後光厳天皇(以下「後光厳」と表記)として即位し、これにより実質的に北朝と幕府、そして征夷大将軍職が復興し、尊氏が征夷大将軍に復帰したのでした。後光厳は時に年15。もともと仏門に入る予定で光厳上皇の側近である日野資名(ひのすけな)に養育されていたといいますが、政局の急変によりにわかに皇位につくことになったのです。
その後も室町幕府の内紛は絶えず、それに呼応する南朝軍の京への進攻におびやかされて、北朝の天皇として在位20年近くの中で文和(ぶんな)2年(1353)から延文(えんぶん)2年(1357)までの5年足らずの間に三度も後光厳は京を脱出して美濃(みの)(現岐阜県)の小島(こじま)、近江の武佐(むさ)などに難を避けることを余儀なくされたといいます。
北朝の天皇の座にあったとはいえ、武家たちの抗争の渦中にあって、在所が一定することもままならない状況の中で、心安らぐことがなかったことが容易に想像されます。
そのような中での御作とみられる「述懷」と題した後光厳の次の御製が残されています。
- 述懷
- なほざりに 思ふゆゑかと たちかへり 治まらぬ世を 心にぞとふ
(いい加減に考えていたからだろうか、そのために繰り返し何度も、なぜこの世が治まらないのかと、心に問いかける。)
その後、後光厳は延文3年(1358)2月には帰京することができたのでした。帰京の前月には、後光厳は伊勢神宮に天下泰平を祈願する願文を納めたといいます。
後光厳は応安(おうあん)4年(1371)譲位して上皇となり、翌応安5年、泉涌寺第21世住持竹巌聖皐を開山として雲龍院を創建することとなります。ようやく得た平安な日々の中で、しばしば雲龍院に行幸されたといいます。
平安な日常も束の間、2年後の応安7年(1374)1月、37歳にして後光厳上皇は崩御。葬儀は同年2月2日に泉涌寺にて行われ、これ以降、幕末までの天皇家の葬儀は基本的に泉涌寺で行われることとなります。
本山支配から離れた別院へ
さて、室町時代の臨済宗大徳寺派の禅僧一休宗純(いっきゅうそうじゅん)の父としても知られる後小松(ごこまつ)天皇は応永(おうえい)2年(1395)に雲龍院の運営に関して宸翰を下しています。以下はその原文を読み下したものとされるものです。
泉涌寺別院龍華・雲龍は、後光厳・後円融両代上皇臨幸し、尊宗(崇)無雙の霊場也。朕特に一ケ大願を立て、永世叡㦗を疑(凝)す。既に三代叡帰之勝地為(た)り、豈(あに)不朽之仏閣に非(あら)ざらん哉(や)。聖皐上人三朝受戒の師範に参じ、両代開基の忠労有り。故に院務職に於いて者(は)、門弟相続為(た)る可き儀、予議に及ばん乎。堅く此の旨を守り祈る可し。
泉涌寺別院の龍華院・雲龍院は、後光厳・後円融の両上皇が訪れられて、心から尊び崇められた無双の霊場である。自分(後小松天皇)も特に一つの大願を立てて固く心に決めた。既に龍華院・雲龍院は、後光厳・後円融・後小松の三代にわたって深く帰依された勝地(地勢などがすぐれていて、ある事を行なう場所として最も適した土地)であり、不朽の仏閣といえる。開山である泉涌寺21世竹巌聖皐上人は、後光厳・後円融・後小松三代にわたっての受戒の師範であり、龍華院・雲龍院の開基として誠意を込めて力を尽くされた。故に、龍華院・雲龍院の院務職については、竹巌聖皐上人の門弟が相続して務めるべし。このことについての協議は一切不要である。この趣旨をかたく守って祈祷に励むべし。
ここにある龍華院(りゅうげいん)は康応(こうおう)元年(1389)、後光厳上皇の第二皇子・後円融天皇の勅願により、雲龍院に隣接して寺領が寄せられ、雲龍院の開山でもある竹巌聖皐を開山として創建されたものです。
この宸翰によって、龍華院・雲龍院の院務職は竹巌聖皐上人の法流のみによって継承されるべきことが命ぜられ、そのことが保障されたことになったのです。こうして龍華院・雲龍院は、本山泉涌寺の支配から離れた別院としての資格が与えられたことになったのでした。
この宸翰が下される前は、別院である龍華院・雲龍院は本山泉涌寺の支配下に置かれていたことが伺えます。
別院とは、元来、創建・宗派・寺地などを共にする寺院相互において、故あって一方の大寺を本寺・本山としてそれに属する寺(本山直属の寺院)をいいます。9世紀から天台宗・真言宗の2宗では興隆流布とともに別院が派生したといいます。
そして本寺と別院との関係は、別院がその寺の人事権を本寺に譲渡・施入(参考1)した場合や、本寺が施入・譲渡その他によるその寺の三綱(参考2)その他を補任(参考3)する人事権を掌握することにより成立していると考えられていますが、後小松天皇は、泉涌寺別院である龍華院・雲龍院について本山の支配を受けないことを明確に命じたことになります。
- (参考1)施入
- 寺や神社に財物を献上(寄進)すること。
- (参考2)三綱(さんごう)
- 仏教寺院において寺院を管理・運営し、僧尼を統括する上座(じょうざ)・寺主(じしゅ)・都維那(ついな・維那とも)の3僧職の総称。
- (参考3)補任(ほにん)
- 役目に任じて職務に就かせること。ぶにん。
雲龍院と龍華院の併合
時が流れた江戸時代初期の寛永(かんえい)16年(1639)に雲龍院中興の祖、如周正専(にょしゅうしょうせん)が雲龍院とこれに隣接する龍華院を併合します。その際に、雲龍院の名を残し、龍華院の本堂を龍華殿と称して雲龍院の本堂としました。
如周正専は慶長(けいちょう)11年(1606)に泉涌寺で出家し、諸方に遊学して法相(ほっそう)・密教・禅を修めたといいます。のち後水尾(ごみずのお)上皇の帰依を得て泉涌寺を管掌することとなり、雲龍院の再建にあたっています。
龍華院の本堂(雲龍院の本堂となった龍華殿)は、後土御門(ごつちみかど)天皇の御黒戸御殿(おくろどごてん。「御黒戸」は宮中の御仏壇のある場所。)が後柏原(ごかしわばら)天皇より、開山竹巌聖皐の百年忌に際し文亀(ぶんき)元年(1501)に下賜されたものといいます。
写真集(28枚の写真が表示されます。)
上り坂を500メートルほど進んで泉涌寺の大門前を通り過ぎた辺りで、木々に覆われた静寂の中に写真に見る雲龍院への案内が目に入ってきました。
案内ではここからさらに真直ぐ進んで左へ曲がるようになっています。そして・・・
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 所在地 | 京都市東山区泉涌寺山内町36 |
| 山号 | 瑠璃山 |
| 宗派 | 真言宗泉涌寺派 |
| 寺格 | 真言宗泉涌寺派別格本山、泉涌寺別院 |
| 本尊 | 薬師如来 |
| 創建年 | 応安5年(1372) |
| 文化財 |
|
【境内概観図】
【図中番号の説明】
- 東大路通(※3)
- 泉涌寺道(※3)
- 泉涌寺総門(※3)
- 今熊野観音寺(※2)
- 泉涌寺大門
- 泉涌寺
- 来迎院(※1)
- 泉涌寺駐車場(※1)
- 雲龍院
- 山門
- 勅使門
- 衆宝観音
- 本堂龍華殿
- 霊明殿
- 蓮華の間
- 大輪の間
- 水琴窟
- 月窓の間・悟りの間
- 東福寺(※3)
- 京都駅(※5)
近隣の観光スポット情報
上記の【境内概観図】をご参照ください。


