萬福寺

総門
総門
屋根の形が特徴的で、中央が高く、左右が一段低くなっており、ふと、これまで見てきた歴史ある寺院の趣とは違うな、といった印象を受けます。
黄檗山萬福寺開創時の寛文元年(1661)の建立で、今日目にするものは元禄6年(1693)に再建されたものです。
写真右奥に見えるのは三門の屋根です。
黄檗山の伽藍全体は西側を向き、東に位置する威徳殿(いとくでん)を頂点に、西に向かって法堂(はっとう)、大雄宝殿(だいおうほうでん)、天王殿(てんのうでん)、三門が一直線になるように建てられています。そして、大雄宝殿と天王殿からは左右に廻廊が延ばされて、対照的に配置された北側の禅堂・祖師堂・鼓楼と、南側の斎堂・伽藍堂・鐘楼の各列に連絡しています。また法堂の左右には北に西方丈、南に東方丈が対照的に配置されています。
(下記の境内外観図参照)
なお総門はその中心が、威徳殿から三門を結ぶ中軸線より20m余り北にずらされて建てられています。

江戸幕府第3代将軍徳川家光(とくがわいえみつ)の治世下から鎖国政策が取られましたが、完全な孤立ではなく、長崎の出島ではオランダ・唐(中国の古い呼び名。以下同。)、対馬では朝鮮、薩摩では琉球、松前ではアイヌを相手に限定的な交流が維持されていました。

その中の長崎の出島には、日本に居住している唐人である華僑が建てていた寺院がありました。その中の一つの寺院からの招請により齢63で来日した、臨済嫡伝(てきでん)32世にして禅宗黄檗(おうばく)派の明(みん)僧・隠元隆g(いんげんりゅうき)。

臨済宗の開祖である臨済義玄(りんざいぎげん)以後の正統の教えを受け継いだ禅僧です。

たちまちにして朝野の尊崇を受け、慶安(けいあん)4年(1651)に父・家光の死去に伴い、11歳にして第4代将軍に就任していた家綱(いえつな)にも謁見し、のち、特別に幕府より寺地を授けられて開創されたのが黄檗山萬福寺(おうばくさんまんぷくじ)(※1)です。

当時、日本の仏教界は寺院法度、新義・異義の禁止、新寺院の建立禁止のもと、活動の自由が与えられず、衰微沈滞していました。そのような状況の中、隠元によってもたらされた正式な禅宗のスタイルは日本仏教に革新的な変化をもたらすこととなったといいます。また、隠元とともに来日した総数30名ほどの中には、黄檗僧の他に職人なども含まれていて、明末清(しん)初の文化が日本に伝播することになります。隠元らが当時の日本に多大な影響をもたらした分野は、宗教だけにとどまらず、建築、音楽、文学、印刷、煎茶、普茶料理そして食材等多岐に亘っており、これらは総称して「黄檗文化」と呼ばれて注目を集めることになり、また現在の日本の生活の中にも根付いています。

ところで、黄檗山堂塔の建築様式は日本禅宗のそれと大きく異なり、明末期頃の伽藍様式で、隠元以降第13代までは続けて唐僧が住持となっていたことから極めて異国情緒溢れる雰囲気を醸し出しています。それもあってか、江戸時代の尼僧俳人である田上菊舎(たがみきくしゃ)が寛政(かんせい)2年(1790)に初めて黄檗山に詣でて三門を出た時、門前の茶畑から茶摘みうたが聞こえたことから

見聞に耳目をおどろかしつゝ、黄檗山のうちを拝しめぐり、誠に唐土の心地し侍れば
山門を 出れば日本ぞ 茶摘みうた

と、黄檗山の内と外との異なる様に気づいて一瞬我に返った時の心情を詠んでいます。

※1.黄檗山萬福寺
隠元の出身地(明代・福建省福州府福清県)に黄檗山があり、ここに黄檗山萬福寺(明代・福建省福州府福清県永福郷清遠里)が座し、隠元はここで初住と再住合わせて約15年に亘って住持(禅宗寺院の住職)を務めています。隠元が来日したのは再住期の時です。後に、山城(京都府)宇治に、唐・福建省の黄檗山萬福寺に倣って伽藍が整えられた同名の寺院が創建されることになります。
江戸時代、黄檗派の僧の間では、福建省にある黄檗山萬福寺のことを「古黄檗」あるいは「唐黄檗」と呼び、山城宇治の黄檗山萬福寺を「新黄檗」あるいは「今黄檗」と呼んで区別していました。
隠元は29歳の時この古黄檗で剃髪。その17年後の46歳の時隠元は、師・臨済嫡伝31世費隠通容(ひいんつうよう)の古黄檗退院に伴い臨済宗の源流と法衣を授けられて臨済嫡伝32世となり、古黄檗の住持(初住)となっています。
古黄檗は、隠元の初住・再住期合わせて約15年を通して、その住山中に諸堂が興造され、また経済的基盤も確立され、僧数が千人を数えるほどの大禅林となっていたといいます。
なお、当記事では宇治の萬福寺を指して「黄檗山」と記しています。

隠元の決断〜来日の経緯〜

鎖国政策が取られていた当時長崎には、幕府の宗教政策に伴う檀家制度により華僑によって建てられた檀那寺(だんなでら)に「唐三ヵ寺」と称される興福寺(こうふくじ)、福済寺(ふくさいじ。第2次大戦で長崎に投下された原爆により焼失し旧観を失う。)、崇福寺(そうふくじ)があり、これら長崎の唐寺には本国である唐から僧侶が招かれて住持していました。そしてその中の崇福寺の住持が空席になります。

そこで、隠元の来日より10年前の正保(しょうほう)元年(1644)に唐から長崎に渡来し興福寺の住持となっていた逸然性融(いつねんしょうゆう)のもとで興福寺に身を寄せて仮住まいし、修行していた無心性覚(むしんしょうかく)が、隠元の法嗣(はっす)也懶性圭(やらんしょうけい)の禅友であったことから、崇福寺の支援者である檀越(だんのつ)に也懶を住持として推挙しました。これを受けた崇福寺の檀越は也懶を住持として迎える事を決め、その招請を受けた也懶は慶安(けいあん)4年(1651)6月に来日することになりました。

ところが、也懶の乗った船が唐・厦門(あもい)を出港して間もなく風浪により沈没し、也懶は亡くなってしまったのでした。この報に接した無心はひどく嘆き悲しみます。そして無心は逸燃に、也懶の師である黄檗山萬福寺の住持・隠元を崇福寺の住持として招請することを提案したのでした。この提案に逸燃は唐三ヵ寺の檀越らと協議します。その結果、逸燃が隠元招請の中心となって動き出すことになったのでした。翌年の承応(じょうおう)元年(1652)のことです。

逸燃を中心とする長崎から隠元への請啓(しょうけい。招請状。)は4回発送され、隠元は受け取った請啓に対して復書をしたためています。その4回の概略は以下の通りです。

第1請啓(長崎→隠元)
承応元年4月6日付の請啓が隠元のもとへ送られます。
第1復書(隠元→長崎)
これに対して、隠元は、齢61と老齢で、日本まで赴くには難しく、また隠元の師・費隠通容の引き止めもあったことから、語録を添えて辞退する旨を述べた7月6日付の復書を返します。ただ、その復書には
倘因縁出現千此 則龍天相焉 王臣重焉 有召則應開化一方

「倘(もし)因縁ここに出現せば、則ち龍天相(たす)け、王臣重んず。召有らば則ち化を一方に開かん」

との文言があります。もし長崎に赴くことが自分(隠元)の運命と思われるような状況にでもなれば、長崎行きを決断することになるかもしれない、と招請を無下に拒否したわけではなかったのでした。
この時、隠元の法嗣木庵(もくあん。後の黄檗山第2代住持。)は長崎そして日本の情勢を調べさせるために、弟子を長崎に派遣しています。
第2請啓(長崎→隠元)
隠元からの復書を受け、同年8月27日付の2回目の請啓に、隠元が来日に必要な路銀を添えて、隠元のもとへ送られます。
しかし、これは途中海賊に奪われて、隠元には届きませんでした。
第3請啓(長崎→隠元)
翌承応2年(1653)3月、3回目の請啓が僧侶に託されて、隠元のもとへ送られます。
第3復書(隠元→長崎)
隠元は東渡(日本に行くこと)の応諾はしなかったものの、隠元の心は動いたようで、同年5月20日付の隠元からの復書には
特差監寺良者親造勝地囘日方可決矣

「特に監寺(※2)良者を差して(※3)親しく勝地に造(いた)らしむ。回(かえ)る日、方(まさ)に決すべし」

※2.監寺(かんす)
禅宗寺院において、寺院事務を総括する役職の一つで、寺院の事務全般の統括や僧侶の統率を行う。
※3.差(つかわ)して
人を遣(つか)わして。派遣して。
原文ではと表記。
との文言があります。隠元は監寺良者を長崎に派遣して日本並びに長崎の情勢を調査させ、監寺良者が戻り次第報告を受けて、招請を受けるかどうかを決める旨を伝えてきたのでした。先に隠元の法嗣木庵が派遣した僧と合わせて2人が長崎へ派遣されたことになります。
第4請啓(長崎→隠元)
隠元からの復書を受けると、檀越と協議が行われ、同年11月3日付の請啓が渡来僧に託されて隠元のもとへ送られます。
第4復書(隠元→長崎)
この僧は請啓を隠元に手渡すと、ぜひ長崎へ来てくれるように懇願したといいます。
前年、長崎に派遣された木庵の弟子はすでに戻っていて、檀越の仏法を敬信することは報告されており、また、隠元が派遣した監寺良者も戻っていて、同様の報告がなされたようで、これらにより日本並びに長崎の事情も掴めたことから、隠元は招請に応諾する旨の復書を、同年12月1日付で長崎へ送りました。その復書には
則老僧蚤巳到扶桑了也

「しかるに老僧(隠元)、速やかに(古黄檗)住持の席を後任に嗣いで、扶桑に到るを了とする也」

との文言があります。隠元は速やかに古黄檗住持の席を後任に嗣いで、扶桑(日本)に赴くことを承知したのでした。

この隠元からの第4復書により、長崎の逸然らはその思いが達せられたのですが、古黄檗において隠元を取り巻く僧衆、檀越らにとっては、東渡は止めてほしい、との懇願が湧き上がります。しかし、隠元としては、復書を送った以上取り消すことはできず、僧衆、檀越らの気持ちを察して、華僑によって建てられ、華僑を檀越としている長崎の寺院での3年滞在を期限として古黄檗に帰山するとの約束を交わして、長崎行きを了解してもらったのでした。

ちなみに、この「3年」という期間については、隠元の師である費隠通容が「住持たるもの3年を一期として務めるべきである」と言っていたことに隠元が従ったのではないか、とみられています。

隠元は、来日した翌年の明暦( めいれき)元年(1655)正月、師・費隠通容に宛てた書信「上徑山本師和尚」(徑山(きんざん)興聖万寿寺の我が師である和尚(費隠通容)に上(さしあげる))の中に、みずからの渡来事情について次のように記しています。

日本之請原為懶首座弗果其願 故再聘於某 似乎子債父還也 前承和尚嚴訓 卽修書辭之 不意 前歳又著僧 親到山中 懇請再四 念其遠誠 故許之

「日本からの拙僧(隠元)への招請は、もと也懶が事故に遭ってその願いを果たせなかったが為の故に、再び拙僧を請じたものです。子の債を父が還(かえ)すというのに似ています。当初、日本から拙僧への招請があった際に、和尚(隠元の師・費隠通容)の厳訓を受け辞退する旨の手紙を書きました。ところが前年、招請のためにまた拙僧のもとへ僧を遣わす、という考えもしなかったことがあり、しかも親しく山中にまでやって来て懇請すること再四。その気高い誠意を念(おも)ったが故に、これを聞き入れた次第です。」

日本行きを決めると隠元は古黄檗住持の後席を法嗣の慧門如沛(えもんにょはい)に継いで、承応3年(1654)5月10日、僧衆への挨拶を済ませると、即、古黄檗を出て、出航先の厦門へと向かいます。日本に向かう隠元に随伴するのは総数30名だったといいます。その中には隠元の弟子20人の他に彫仏師・仏画師といった芸術家をはじめ、仏具工・縫工・建築技師といった諸職の職人なども含まれており、後に、黄檗文化と呼ばれる明末清初の文化が直接日本にもたらされて注目を集めることとなり、黄檗ブームが日本全体に広がっていくことになります。

隠元らは6月21日に厦門を出帆し、途中数日間風浪に見舞われながらも、7月5日の夜、長崎に到着しました。

この隠元の長崎到着を受けて、『厳有院殿御実紀』(※4)の承応3年8月1日条に

けふ長崎奉行より唐土黄檗山現住の僧隠元。弘法のためとて去月五日渡海して到着せしよし注進す。

との記述があり、幕府への報告として上がっています。

※4.『厳有院殿御実紀』(げんゆういんどのごじっき)
江戸幕府が編纂した公式史書『徳川実紀』のうち、第4代将軍徳川家綱の治世(1651〜1680年)を記録した書物。「厳有院」は家綱の院号。

そしてここにある「弘法のため」日本にやってきたという理由については、隠元自身が述べている「祭報恩塔文」(報恩塔を祭る文)(『普照国師広録』)に

・・・疇昔之歳為法東來・・・

「疇昔(ちゅうせき)の歳、法(弘法)の為に東来(訪日)」

とあり、長崎奉行から幕府へ報告された隠元の東渡(来日)した理由は、隠元の言と一致しています。

さて、長崎に到着した翌7月6日、隠元は、逸然はじめ唐三ヵ寺の僧衆、檀越らに迎えられて住持として先ず興福寺に入ります。この時、興福寺第3代住持だった逸燃は、自らは住持に代わって寺の事務を監督し、僧を統率する役職である監寺となり、7月18日、隠元による開堂(※5)が行われます。この時、数多くの僧俗男女群衆する中に、唐やオランダとの貿易の管理、キリシタン禁制、長崎の警備などの任に当たり、交代勤務で2名体制にあった長崎両奉行の姿もあったといいます。

そして翌明暦元年(1655)5月23日、隠元は住持として崇福寺に進んで即日開堂し、5年前に隠元の法嗣也懶が不慮の海難事故によって果たせなかった志願を果たすことになったのでした。

その後福済寺をはじめその他の寺にも訪れたといいます。

※5.開堂(かいどう)
新たに住持となった僧が、法堂(はっとう)を開き、自身の教えを初めて説く(説法を行う)重要な儀式。

こうしてみると、隠元が来日することになった経緯は、崇福寺の住持の席が空いたことで隠元の法嗣也懶性圭の招請につながり、これが果たせなかったことから隠元招請へとつながっていった、との連鎖に興味が引かれます。

隠元は、長崎に3年間滞在し古黄檗へ帰山する予定でしたが、隠元を取り巻く状況が刻々と変化していき、長崎には承応3年7月から翌明暦元年(1655)8月にかけての約1年間の滞在へと変わっていき、隠元の思いも及ばなかった方向へと進んでいくことになります。

普門寺へ

江戸時代以降、日本の禅が停滞期に入っていた中、妙心寺の禿翁妙周(とくおうみょうしゅう)は隠元が来日する3年前に偶然『隠元語録』を読んでその優れた内容に共鳴し、また妙心寺末龍安寺(りょうあんじ)塔頭(たっちゅう)である皐東庵(こうとうあん)の龍渓宗潜(りょうけいそうせん)もこれを読んで同じ思いを抱いていました。

また、隠元が日本にやってくるかもしれないということは、隠元への第1請啓・第2請啓の発せられた2年前の承応元年の頃から一部僧俗の間には知られていたようです。

隠元が注目されていた重要な点は、「臨済嫡伝32世」という臨済禅の法系上における歴とした伝法者であり、臨済宗史に確たる位置付けができる高僧であったことです。それが隠元の世評を高くする要因となっていました。

元来、日本の禅僧たちは、唐の禅林を憧憬し、その禅匠の徳を慕い仰いでいました。

隠元が長崎にやってくると、長崎の禅林寺に滞在していた妙心寺の竺印祖門(ちくいんそもん)は龍渓に妙心寺へ隠元を住持として招請する企てを呼びかけ、禿翁とともに動き出します。しかし「他山の僧を住持として迎えず、他山に僧を出さない」として龍渓らと対立する妙心寺一派の反対を受けてその企ては実らなかったため、龍渓の住持地である摂津富田(せっつとんだ。大阪府高槻市富田町。)の普門寺(ふもんじ)に隠元を迎えることに変更したのでした。

ただ、長崎の興福寺に住する隠元を普門寺に招請するには幕府の許可を得る必要がありました。そこで竺印が京都所司代を説いて、幕府の許可を得る手立ての教示を願い出ます。 幕府での作法など細かなことについて教わった竺印は、龍渓・禿翁と共に江戸に向かいます。

3人が江戸に入ったのは承応3年(1654)10月で、老中松平信綱(まつだいらのぶつな)に会うことが許されます。松平信綱は隠元のことについては知らなかったことから、大老(※6)酒井忠勝(さかいただかつ)は知っているようなので話を聞いてもらうとよいということで、酒井忠勝に会えるように取り計らったといいます。そして、竺印は酒井忠勝に面会できると、来朝して長崎にいる臨済嫡伝32世隠元を、大坂の普門寺に招請したい旨の話をしたのでした。

※6.大老
重大問題が発生した時など必要に応じて将軍の補佐役となり、将軍に次ぐ権力者として老中の上に置かれ、政務を総轄した最高職。基本的に定員1名。

翌明暦元年(1655)5月、幕府は隠元の滞留を認め、普門寺招請を許可します。このことは、作事奉行の名を以て、長崎奉行、京都所司代、大坂町奉行、五畿兼近江・丹波・播磨奉行、丹波・近江奉行にその旨が通達されます。

こうして幕府の許可を得ることができたのですが、普門寺への招請の件はこの時点でまだ隠元本人には話されていなかったのです。隠元を普門寺に迎える段取りとして考えられたのが、先ず幕府の許可を取得し、次に隠元本人を説得して普門寺に移ってもらう、ということでした。

幕府の許可が下りた今、竺印は龍渓・禿翁の請啓を持って長崎へと赴き、同年7月7日、興福寺にいる隠元に会って普門寺招請の請啓を手渡したのでした。

これを読んだ隠元にとっては全く予想外のことで、年老いながらも古黄檗を発って遠く長崎までやって来て目的を達した今、さらに遠方の大坂まで行くのは無理である、勘弁願いたい、と言って固辞したといいます。しかし、既に隠元の普門寺招請を幕府が許可した事実は重く、その場には長崎奉行も同伴しており、竺印と長崎奉行が懇請してやまなかったため、隠元はついに応じることにしたのでした。

こうして、当初隠元は長崎に3年間滞在し古黄檗へ帰山する予定だったのが、約1年間の滞在へと変わることになり、10名ばかりの僧と通事(通訳)1名らも随従して大坂へと向かうことになったのでした。

翌月の8月9日には興福寺を発って諫早を経由して小倉に着くと下関に渡って、そこから船で瀬戸内海を通過し、大坂湾に入ると淀川を遡上して摂津富田へと向かいます。普門寺に程近い最寄りの唐崎の船着き場に着くと、龍渓、禿翁らに迎えられ、陸路1里(4q)余りほどを辿って普門寺に入ったのでした。瀬戸内海を通過していく際には途中寄る所もあったようで、興福寺を発って約1カ月後の9月6日のことです。普門寺を空けて隠元を住持として迎えた龍渓は当時妙心寺で再住、則ち2度目の住持の任に就いていた時でした。

隠元はこの9月6日付で、普門寺に招請してくれた龍渓・禿翁・竺印に「与龍渓禿翁竺印三大徳」(龍渓・禿翁・竺印の三大徳に与う)とする手紙を渡しています。

その手紙には、長崎興福寺の逸然性融・檀信徒らに請われて渡来し、その願いに応えたので今年の冬にも帰国しようと考えていたこと、龍渓・禿翁・竺印の3人が幕府に働きかけてくれて普門寺住持の話が実を結んだことから断り切れずに入寺すること、老齢であり日本語が話せないことが気がかりであるということ、日本の禅寺に初めて住するにあたって日本の道理を知らないので世情の事は龍渓・禿翁・竺印の3人に聴いて対応すること、檀信徒などに墨跡を請われた時のこと、訪問客への応対のこと、このほか多事にわたることが書かれていたといいます。

普門寺に進んでの最初の約1年間は幕府から警戒されて、隠元はあたかも普門寺に軟禁されたようになって行動上の自由が与えられず、また普門寺に唐僧隠元が住していることを知っている一般僧俗の参見も禁止されていたといいます。

また、前京都所司代板倉重宗(いたくらしげむね)が普門寺を訪れて隠元に会い、渡来の目的を聞き、その後、板倉重宗は普門寺の状況を幕府に報告しています。

龍渓らは隠元を普門寺に留め置きたい旨の申請を幕府に提出すると、幕府は覚書を下して、京都など近隣の地への外出、一般僧俗の隠元への参謁などについて一定の条件の下での許可を与えたのでした。幕府の隠元に対する接し方が緩和されているのを見ることができます。

明暦2年(1656)10月、外遊を許可された隠元は初めて京都を案内されて、臨済宗の禅寺である妙心寺、南禅寺、東福寺を歴訪しています。

これより隠元は、後に京都宇治に寺地が与えられ、寛文(かんぶん)元年(1661)閏8月29日黄檗山に進むまでの6年足らずをこの普門寺に住することになります。

隠元の普門寺在住中には、公家・大名・幕臣との間に交流が深まるとともに、庶民の間からも有力な外護者も現れてきたのでした。

江戸へ

ところで、龍渓らは隠元を普門寺に招請したとはいえ、龍渓らの真の目的は隠元を日本に引き留めることにありました。

隠元の日本滞留を推進する論拠としたのは、「臨済嫡伝32世の善知識」、「臨済嫡伝の正師」であることでした。さらに、鎌倉時代の13世紀に渡来した臨済宗の僧蘭溪道隆(らんけいどうりゅう)・兀庵普寧(ごったんふねい)・無学祖元(むがくそげん)・一山一寧(いっさんいちねい)らから実に300年来の善知識の渡来であったことも大きな後押しとなったと考えられます。

臨済嫡伝の正師でかつ渡来僧である隠元をかかげることは、師から弟子へと法灯を伝えてゆく師資相承を重んじ、禅の源流を唐に求めてきた日本禅界において、説得力を有し、正論でもあったからです。

そこで龍渓は明暦3年(1657)2月と4月に江戸に下って幕府当局者の間を奔走し、前年の明暦2年に大老職から身を引いていた酒井忠勝や老中らを歴訪し、隠元を日本に引き留めることについて懇願して回ったといいます。しかしこの時は幕府から良い回答は得られなかったようです。

それでも龍渓は翌萬治(まんじ)元年(1658)再び江戸に下り、隠元の日本引き留めについて粘り強く幕府内を奔走したといいます。

すると、そこまでして頼み込むなら、ということなのでしょうか、幕閣の間からも意見が出て、一度隠元を江戸に呼び寄せて会ってみようということになり、将軍家綱に招かれることになったのでした。

第4代将軍家綱の頃にもなると徳川政権は盤石で、それまでの武力第一の政策から、文化の指導者としての姿勢を世に示そうとの空気が幕閣の間に生まれたのが、その要因と考えられています。

同萬治元年7月、普門寺に戻った龍渓から、隠元は江戸行きを請われます。といっても単なる物見遊山ではなく、政治・権力の中枢である江戸城に出向いて、将軍・幕閣にあって欲しい、との話が出たものと思われますが、隠元にしてみると一僧侶がそのようなところに行ってどうするんだ?、といった思いに駆られたのか、隠元は当初辞退したようです。が、将軍に招かれたということであれば断ることもできず、龍渓の余りの懇願に押されたようで、隠元は江戸行きの申し出を受け入れたのでした。

9月6日、隠元一行は普門寺を発ち、東海道を経て、9月18日に江戸に到着。その宿泊先に、将軍家綱は老中松平信綱と寺社奉行を遣わして慰労したといいます。

隠元らが江戸城に登城したのは11月1日。隠元は、龍渓、禿翁、通事一人を伴って登城し、江戸城西の丸で第4代将軍徳川家綱に謁見します。隠元が渡来して7年あまり後のことです。この時家綱18歳(11歳で将軍に就任。)。その場には若い将軍家綱を補佐する老中ら幕閣も同席していたものと思われます。

謁見を無事に終え、隠元は江戸滞在中に、明暦2年(1656)に官職を辞して隠居していた元大老の酒井忠勝、後に黄檗山の外護者となる老中稲葉正則(いなばまさのり)らと交流を持ったようです。酒井忠勝は父忠利(1627年没)の三十三回忌の預修(よしゅ。命日より日を繰り上げて執り行うこと。)を請うと、隠元は唐僧と和僧(日本僧)の合わせて十数人を伴って執り行ったといいます。

江戸滞在は70日ほど続いたようで、隠元の墨蹟を求めたりするなど、様々な交流があったようです。これらを通して、隠元は幕府から正に「臨済嫡伝32世の善知識」との目で見られるようになったものと思われます。

江戸を離れて帰途についたのは11月28日。そして12月14日に普門寺に帰着しています。

隠元が将軍家綱に謁してからは、大老・老中といった幕閣は言うに及ばず大名からも、禅宗僧侶の書である墨蹟を求められるようになるなど、隠元の交流が広くなり、その結果、次第に各地に出向くことも許されるようになるなど行動の自由も得られるようになって、隠元の境遇は大きく変化していくことになります。

その甲斐もあってか、年が明けた萬治2年(1659)正月、隠元は京都・洛西を案内されて、嵯峨にある直指庵(浄土宗)を訪れてここに留まり、臨済宗の西芳寺、天龍寺を訪問し、また、高雄山の中腹に建つ神護寺(真言宗)、愛宕山の山中に位置する月輪寺(つきのわでら)(天台宗)にも登り、清凉寺(浄土宗)などを訪れています。

その後、宇治も訪れ、曹洞宗の興聖寺、平等院(当時は浄土宗)を歴訪しています。

開創

さて、3年の長崎滞在で古黄檗に帰山するとの約束で隠元が来日して今ではその3年も過ぎてしまっています。

隠元が3年を過ぎて猶日本に滞在していたのは、龍渓や日本で交流を深めた人たちが、何とかして隠元を日本に引き留めようとする思いに、隠元がその誠意を感じて帰山を思いとどまらざるを得なかったことによるもののようです。

実は、隠元が承応3年(1654)に渡来して2年後の明暦2年(1656)則ち普門寺に入った翌年には早くも、約束に従って古黄檗に帰山するようにとの隠元への書信が届きだします。

そもそも長崎の寺院に3年滞在して古黄檗に帰る約束だったはずなのですが、古黄檗の人たちにとっては早く隠元に戻ってきて欲しいという思いが募っていたためなのか、どうやら足掛け3年という意味に捉えていたようです。

以後も、隠元の師である臨済嫡伝31世・費隠通容や来日に当たって古黄檗の住持を隠元から引き継いだ慧門如沛、そして諸檀越らから隠元の帰山を促す書信が再三届きだします。

隠元はそれぞれに帰山が遅れている事情を説明して帰山する意思のある返書を送っていましたが、いつまでも帰山を延ばすわけにもいかないことから、萬治2年、隠元は帰唐しなければならない事情と自身の帰唐の意思をしたためた元大老酒井忠勝宛の書信を龍渓に託して江戸へ届けさせました。

萬治元年の江戸での滞在中、67歳の隠元が72歳の酒井忠勝に初めて会った時、隠元は酒井忠勝に対して敬愛の念と親近感を抱いたようです。そしてこの二人の間には厚い交流もあったといい、また酒井忠勝の隠元に対する理解と信任も醸成されたようです。二人の会話は筆談(漢文)で行われたといいます。豊臣秀吉の時代から戦国の世を生き抜いてきた酒井忠勝は、隠元の苦しい立場を深く理解できたものと思われ、隠元からの書信に対して、同年5月3日付の酒井忠勝からの返書が隠元に届きます。その内容は日本滞留を勧めるもので、以下の通りです(冒頭割愛)。

【萬治2年5月3日付隠元宛て酒井忠勝書状】

・・・来示謂、有帰帆之望。其思慕喬木之盛志、可以嘉焉。竜渓演説之執政。乃以聞 大君。有命曰、所白雖良有以也、然偶ゝ投化、既受其一謁。而其齢亦高。想有風濤万里之遙。不若安心以留此土也。故相洛辺之攸賜可営梵宇之地。 君命如此。則老禅宜随其旨。弘祖風於斯、而莫催帰国之志。然則再開可期。甚慰悦焉。其余竜渓可啓之。不宣。

「・・・お送り頂いた書状を拝見するに、帰唐を望んでおられるとのこと。その崇高なる思いは誠にごもっともなことである。龍渓はそのことについて自分の意見(隠元を日本に留まらせるべきとの意見)を老中に対して述べました。その話を大君(将軍家綱)にお伝えしたところ、次の如く命を下されました。

『隠元の申す所、誠に理由のある所であるが、今回たまたま投化し(幕府統治下の日本に赴き)、既に謁見もしている。その高齢で、きわめて遠い距離を、しかも風浪の中を抜けて帰唐するには多大の危険を伴うものと想う。それよりは、心を安んじて日本に留まればよい。都(みやこ。京都。)付近を選んで、梵宇を営むに適した寺地を授ける。』

かくの如きにより、老禅(隠元)、よろしく君命に従い祖風を日本に弘め、帰国の思いは抱かれぬな。そうすればまたお会いできる。はなはだ喜ばしい限りである。あとは龍渓がお世話してさしあげる。不宣。」

隠元を日本に引き留めようとする龍渓はこの書信に接すると、承諾することを隠元に勧めます。

隠元も酒井忠勝からの書信には納得するものがあったようで、ついには日本に留まることを決意し、一代の開山は千古の盛事で、祖風を日本に広めていく旨の返書を萬治2年6月18日、酒井忠勝宛に送ったのでした。

当時は厳しい宗教政策のもと新寺院の建立は禁止されていましたが、龍渓の隠元引き留めに向けた幕閣への積極的な働きかけと臨済嫡伝32世善知識としての隠元の資質なり人となりに対する尊崇の念もあってか、将軍家綱が隠元に帰依していたこともあり、例外的に、絶対的権力を持つ幕府が隠元の背後にひかえて擁護に乗り出し、寺地・造営費そして耐久性・耐水性に優れ美しい木目をもつ西域木(さいきぼく。チーク材。)等の資材を支援されることとなった隠元は寺を開創し、祖風を日本に広めることが許されたのでした。こうして将軍家綱を大檀越とする新寺の建立へと動き出すことになります。

これにより隠元は、古黄檗の住持を隠元から引き継いでいた慧門如沛に対して、日本に留まることを決意した詳細な実情を書信にしたためました。そして最後は次の文で結ばれていました。

今後書信不煩再通跋渉無益須恊心矢志守護祖庭是吾至望

「今後は帰唐を請う書信を送ってきても、自分(隠元)は日本に留まることを決意した以上、もう思い煩うことはない。再々にわたる書信の送付は、無駄に方々を歩き廻るが如く、無益である。すべからく皆で心を合わせて志を固く守り、祖庭(古黄檗)を守護せよ。これが自分の切望するところである。」

日本に留まることにした隠元は、新寺の候補地探しのため龍渓の案内により船で宇治川を遡り、今日、隠元橋(写真集参照)の架かる辺りを通りかかった際、東方の山(妙高峰)裾から二羽の鶴が舞い立つのが目に入り、縁起が良いとして下船します。隠元橋の架かるこの辺りには、当時、岡屋の津という港があったといいます。そして寺地を探し求めて決定したのが現在黄檗山のある山城国(やましろのくに)宇治郡の大和田の地で、幕府から許可されたのでした。寺地に選んだところは古黄檗によく似た風景であったことも決め手になったようです。

この寺地に選ばれた所は、関白近衛前久(このえさきひさ)の娘で後水尾(ごみずのお)法皇の母中和門院藤原前子(ちゅうわもんいんふじわらのさきこ)の別荘があった近衛家領で、9万坪程の広さがあったといいます。多くの禅僧に帰依していた後水尾法皇は龍渓との交流も深かったこともあり隠元の禅要を問い、隠元との交流が始まってからは隠元に深く帰依していたといいます。このこともあってこの土地を幕府が収公して隠元の寺地として寄進され、近衛家には替地が与えられたのでした。萬治2年のことです。

後水尾法皇は、隠元が示寂する前日には「大光普照」の国師号を贈っています。

寺地を宇治に選ぶことができたのは、後水尾法皇と龍渓の深い交流のあったことによるものと見られています。

そしてこの地に新建される寺は、萬治3年(1660)12月18日に、古黄檗の名をそのままとって黄檗山萬福寺と称することになりました。古黄檗のことを忘れないためにも、という思いが込められたといいます。そして、黄檗山内における管理制度、服装、日常の行事などほぼすべてにおいて祖庭則ち古黄檗でのやり方を踏襲することにしたのでした。

翌寛文元年(1661)5月8日、将軍家綱を大檀越とし、隠元を開山とする黄檗山萬福寺が開創されることになります。「黄檗開山普照国師年譜」の寛文元年の条に

五月初八日大和開創 仍以黄檗山萬福禪寺名之 志不忘舊也 故有東西兩黄檗之語 八月廿九日進山
との記述があります。そして幕府より賜った寺地に黄檗山の開創工事が始まります。造営工事は将軍家綱や諸大名の援助を受けて進められ、隠元没後の延宝(えんぽう)3年(1675)に開山堂、その3年後の延宝6年に三門、鼓楼が建立されて伽藍の全てが完成することになります。

寛文元年閏8月29日、黄檗山の新住持に任命された70歳の隠元が開山として黄檗山に入りました(普山(しんざん))。ここに「臨済宗黄檗派」と称する新教団の本山が成立します。隠元が長崎に渡来してから7年2カ月後のことでした。

こうして日本の禅宗は、臨済・曹洞の二派に加えて新たに黄檗の一派が開立されることになりました。

翌寛文2年(1662)には、黄檗山に法堂(はっとう)が建てられます。この法堂は、隠元の支援に尽力を惜しまなかった元大老酒井忠勝が同年7月に死去する際、遺命により寺地造成のために寄進された黄金千両をもって建てられたものでした。

翌寛文3年(1663)正月15日、隠元はこの新建の法堂において祝国開堂を行い、国家の平安を祝して、法堂を開き、住持として最初の大法を説く式(説法)を行なっています。これを機に正式に臨済宗黄檗派(明治時代に黄檗宗を公称。後述。)が開かれ、隠元はその開祖となりました。

そこには京都所司代の姿もあったといいます。

そして祝国開堂から2カ月後の3月23日、幕府から400石の寺領(寺院の経営・維持のために寄進された田畑山林)が下賜されたことで黄檗山財政の基礎が固められることになります。

隠元のもとで黄檗山萬福寺の建立を助け、日本における臨済宗黄檗派の創立に尽力した龍渓は、同年、隠元から印可を受け、名を性潜(しょうせん)に改めました。寛文9年(1669)4月には、正式に隠元の法を嗣ぎ、日本人初の隠元の嗣法者となっています。

さて、隠元が退隠した寛文4年(1664)の3年後の寛文7年には将軍家綱より白金2万両と西域木(チーク材)が寄進されて黄檗山伽藍の創立に充てられることになります。その翌年には本堂の大雄宝殿(だいおうほうでん)や黄檗山の玄関にあたる天王殿(てんのうでん)なども建ち、徐々に黄檗山の伽藍は整備され、塔頭も増建され、黄檗派の僧も増えてくるようになると、黄檗派の僧の間では「御当家(徳川将軍家)御建立の宗門」とも呼ばれていたようで、興隆発展の一途を辿っていきます。

黄檗山は幕府や朝廷の手厚い保護や支援を受けて開創されたという経緯もあり、諸大名はじめ各地の帰依者により末寺が次々と建てられて興隆の一途を歩み、隠元没後70年の延享(えんきょう)年間(1744〜48)頃には黄檗派の寺は1,000ヵ寺を越えていたといいます。

隠元が描かれた絵を見ると、笑みを浮かべ、人に威圧を与えず、親しみやすい老翁といった印象で、人柄も非常に温厚で心優しく、人々から厚い人望を集めていたといわれます。加えて、厳しい修行の末に体得した、なにものにもとらわれない、のびのびとした隠元の書、特に大字は墨痕温潤、運筆緩やかでしかも渋滞のあとを留めず、悠揚として逼らざるところがある、といいます。そのような隠元の書は幕閣や諸大名などに珍重されたようです。

そして隠元は、他宗の僧侶はもとより公家、幕閣、幕臣、大名、藩士そして一般庶民らとも多く交流をもっていたといい、加えて、隠元来日によってもたらされた絵画・彫刻・建築様式をはじめ印刷、煎茶といったいわゆる黄檗文化は江戸時代の文化に大きな影響をあたえたのでした。今日、新聞・雑誌・書籍等でなじみの深い明朝体をはじめ隠元豆・西瓜・蓮根・孟宗竹(タケノコ)そして木魚などは今日においても根付いています。

また、床に座って、1人に一つずつ箱膳を置いて食事をしていた従来の方法も、隠元が伝えたテーブルが後にちゃぶ台となり、みんなで一つのテーブルを囲んで食事をする習慣へと変わって日本に広まっていったといいます。

黄檗山の住持となって3年経った73歳の隠元は、寛文4年(1664)9月4日、黄檗山住持の席を後任の法嗣・木庵に継がせ、東方丈から前年の寛文3年に建てられていた松陰堂(しょういんどう)に移り、退隠します。渡来してから10年後のことです。

ただ、退隠後も隠元のもとに訪れる人は多く、隠元も皆を応接したといいます。

長崎の崇福寺の住持が欠員となり隠元の法嗣が推挙されるも不慮の事故に遭ったことから、高齢ながら長崎へ赴くことになった隠元ですが、そこから思いもかけず大坂の普門寺に住し、江戸にて将軍に謁見、そして帰唐をやめて日本に留まることを決意し、京都宇治に幕府から寺地と寺領を授かり、幕府の支援を得て黄檗山萬福寺を開創した隠元も、寛文13年(1673)4月3日に82歳で亡くなりました。老衰による病死とみられています。山内の開山堂に葬られました。渡来してから19年9ヶ月後、退隠してから8年7ヶ月後のことでした。

黄檗宗公称

時は流れて明治5年(1872)6月、宗教関係を所管する官庁で、社寺の廃立、神官・僧侶の任命などを扱った教部省(きょうぶしょう)が設けられ、寺院の住持を統括するという明治政府の政策により、「一宗一管長」が置かれることになりました。

禅宗では、臨済宗・曹洞宗・黄檗派3宗を一宗として取り扱うことになり、一人の管長のもとに統括されることになりました。

明治7年2月22日になると、禅宗は臨済宗と曹洞宗に分離され、それぞれ一宗としての公称が教部省達書で許可されます。ただ、黄檗派は臨済宗に合附する(一体化される)ことになりました。

そして明治9年(1876)2月3日、「達書第四號」

黄檗派之儀ハ明治年二月来臨濟宗ヘ合附候處今般宗名復舊別立爲致候條此旨相達候事

との教部省「達」で、黄檗派が宗名を元に戻し、臨済宗から分離独立することが認められます。これにより、黄檗派は「黄檗宗」を公称とすることになったのでした。

江戸時代に隠元が日本にもたらした宗派は、「臨済宗黄檗派」と呼ばれた臨済宗の一派ですが、臨済宗の禅の教えを基本としながらも、浄土教や密教を取り入れた独特の禅風になっているといい、日本の臨済宗とは明らかに宗風が異なっていることもあって、明治9年に「黄檗宗」と公称されるようになったとみられます。

写真集写真集(17枚の写真が表示されます。)
写真 
隠元橋
かつて橋のたもとには、岡屋の津という港があったといいます。
「京都に寺地を授ける」との将軍家綱の言葉を受け、隠元らが新寺の候補地探しのため宇治川(写真)を遡っていた時(写真右奥が上流)、東方の山(写真奥)裾から二羽の鶴が舞い立つのが目に入り、縁起が良いとして岡屋の津で下船します。
ちなみに、隠元橋から3q余り宇治川を遡ると宇治橋があり、そこから程近いところに平等院があります。
写真集2写真集2(34枚の写真が表示されます。)
写真 
三門を抜けると・・・
石條に挟まれた黄檗様敷石による参道が真直ぐに延びています。
この参道に沿って進むと見えてきたのが・・・
写真集3写真集3(34枚の写真が表示されます。)
写真 
再び三門から・・・
天王殿に向かって30m程行くと、左(北)へ通じる石條に挟まれた黄檗様敷石による参道の先に門が見えます。
≪関連情報≫
項目 内容
所在地 京都府宇治市五ヶ庄三番割34
山号 黄檗山
宗派 黄檗宗
寺格 大本山
本尊 釈迦如来
創建年 寛文元年(1661)
開基 徳川家綱
開山 隠元隆g
文化財
国宝
大雄宝殿、法堂、天王殿
重要文化財
総門、三門、東方丈、威徳殿、西方丈、斎堂、禅堂、開山堂、松隠堂、寿蔵ほか多数

【境内概観図】

【図中番号の説明】

  1. 龍目井
  2. 総門
  3. 隠元藪
  4. 放生池
  5. 菊舎句碑
  6. 三門
  7. 天王殿
  8. 月台
  9. 大雄宝殿
  10. 法堂
  11. 通玄門
  12. 松隠堂
  13. 開山堂
  14. 廻廊
  15. 真空塔(寿塔・寿蔵)
  16. 石碑亭
  17. 合山鐘
  18. 中和園
  19. 禅堂
  20. 西方丈
  21. 威徳殿
  22. 東方丈
  23. 斎堂
  24. 開梆・雲版・生飯台
  25. 宇治川
  26. 隠元橋
  27. 「黄檗開山隠元禅師登岸之地」碑
  28. 観月橋
  29. 宇治橋
  30. 平等院
  31. JR奈良線・黄檗駅
  32. 京阪宇治線・黄檗駅
  33. 祖師堂
  34. 鼓楼
  35. 伽藍堂
  36. 鐘楼

近隣の観光スポット情報

上記の【境内概観図】をご参照ください。

posted by はんなり・ジャーニー at 11:14 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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