本堂
鎌倉後期の文保(ぶんぽう )2年(1318)建立。
本尊の「千手観音」は本堂と共に鎌倉期のもので、その眼差しが左右対称ではなく、表情の左右で仏の慈悲の二面性である厳しさと優しさを表現した「慈面悲面」の仏面としても知られています。
本堂前に多くの石像が佇む光景と調和しています。
嵯峨野の最奥、愛宕(あたご)山麓に建つ愛宕(おたぎ)念仏寺。
境内には表情豊かな1,200体もの石像が並んでいることで知られ、海外から多くの人も訪れています。
嵯峨野めぐりの始発点となっています。
現在の京都府南部のほぼ京都市に位置した「山城国」(やましろのくに)。7世紀には「山背国」(やましろのくに)という表記で国が建てられていました。「山背国」は延暦(えんりゃく)13年(794)の桓武(かんむ)天皇による平安京遷都から「山城国」に改称され、以来千年以上にわたり日本の政治・文化の中心となってきました。
平安時代中期の承平(じょうへい)年間(931〜938)に編纂されたとされる意義分類体の漢和辞書(一種の百科事典)『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)によると、その山城国は、乙訓(おとくに )・葛野(かどの )・愛宕(おたぎ)・紀伊・宇治・久世(くせ )・綴喜(つづき )・相楽(そうらく)の八つの郡(こおり)から成っていました 。
愛宕念仏寺の記録によると、当寺は奈良時代、女帝称徳(しょうとく )天皇の在位期間である天平宝字(てんぴょうほうじ)8年(764)から神護景雲(じんごけいうん)4年(770)頃に、天皇の勅願により愛宕郡の地に建立され、その郡名がつけられた愛宕寺(おたぎでら)に始まるといいます。
時代を下った江戸時代後期の安永(あんえい)7年(1778)に刊行された当時の山城国の様子を描いたものとして『山城州大繪圖 』(やましろのくにおおえず。諸34:山城州大絵図(徳島大学附属図書館)参照。※1)があります。この絵図には、山城国の八つの郡の境界がJR線(単線)の地図記号に似たデザインで描かれています。
この絵図によると、愛宕寺の場所は、この絵図のほぼ中央を南北に流れる鴨川(絵図では「賀茂川」と表記)に架かる五条大橋から北西のほど近いところにあり、「愛宕寺」の表記が目に入ってきます。同じ愛宕郡で、愛宕寺が建立されて10年前後の後に創建された清水寺から鴨川の方へ西へ向かったところになります。北に「建仁寺」が隣接し、東には「六道」(六道珍皇寺)、道を隔てた南には「六波羅」(六波羅蜜寺)が描かれています。
- ※1.『山城州大繪圖 』の操作について
- 絵図が最初に表示された時は、「北」が画面の左側に表示されます。そこで、同画面の右上に表示されている「回転」をクリックすると、90度回転させる方向を選択できる2つのアイコンが表示されますので、右回転させて、「北」が画面の上になるようにして下さい。
マウスの中心にあるホイールボタンを奥もしくは手前へと回転させることで地図の拡大・縮小を行うこともできます。
なお、キーボードの「F5」キーを押せば、最初の画面状態に戻ります。
平安時代の初期、愛宕寺のすぐ近くを流れる鴨川の洪水により堂宇が流出し荒廃、廃寺となってしまいます。
そこで延喜(えんぎ )11年(911)、醍醐(だいご)天皇の勅命により、比叡山の僧、千観(せんかん)が再興することになりました。宮中で天皇の看病や仏事に当たる僧職である「内供奉十禅師」(ないぐぶじゅうぜんじ。定員10名。)の一人でもあった千観はしばしば朝廷からの招請を受けるという立場にありました。
千観は本尊の千手観音像を彫った際に、一般的には「一刀三礼」(いっとうさんれい) と言われるところを、さらに敬虔を尽くして一刀三十三礼、すなわち、仏像を彫る際、一度彫るごとに三十三度礼拝したと伝えられています(現存の本尊は本堂と共に鎌倉期のもの )。
千観は生涯念仏を絶やすことがなかったということから「念仏上人」と称され、愛宕寺の名前にも後に「念仏」の名が加わり、愛宕念仏寺と言われるようになったのでした。 千観が再興したことにより愛宕念仏寺は比叡山の末寺となりました。
こうして愛宕念仏寺は、いったんは七堂伽藍を備えた勅願寺としての体裁を整えたのですが、その後も天災で幾度も被害を受けつつ興廃を繰り返したといいます。
時は流れて明治30年(1897)、先に挙げた『山城州大繪圖 』に掲載されている愛宕寺の本堂が重要文化財(当時の特別保護建造物)に指定されました。その時の官報告示(明治30年12月28日内務省告示第87号)に表記された名称は「念佛寺本堂(愛宕念佛寺本堂)」となっており、所在地は「京都市下京區弓箭(矢)町」(現京都市東山区松原通大和大路東入弓矢町)とあります。
そして大正11年(1922)、本堂の保存のために現在地である京都市右京区嵯峨鳥居本という奥嵯峨地域に移築・移転し、復興を図ることになったのでした。この時、仁王門も同時に移築されています。
しかし昭和に入って太平洋戦争が始まると無住となり、終戦から5年経った昭和25年(1950)には大きな被害がもたらされることとなります。近畿地方や四国地方などに大きな被害をもたらしたジェーン台風に襲われたのです。この台風で清水寺の回廊は倒壊、西本願寺の左甚五郎作の欄間の彫刻も無残に砕けてしまったといいます。愛宕念仏寺も大きな被害を受けて荒れ果ててしまい、ついには廃寺となってしまったのでした。
昭和30年(1955)、仏師で僧侶の西村公朝(にしむらこうちょう)が天台宗本山延暦寺から愛宕念仏寺の再興を命じられて住職に任じられました。引き受けるのをためらいながらも、復興に徐々に着手していくことになります。
昭和55年(1980)には、仁王門の解体修理が始められた他、本格的に境内の復興に着手。翌昭和56年(1981)からは寺門興隆を祈念して 一般の素人の参拝者が自ら羅漢像を彫って奉納する「昭和の羅漢彫り」が始められます。当初は500体が目標だったようですが、10年後には今日見る1,200体にまで達したのでした。
何とも可愛らしく愛嬌のあるこの1,200体の羅漢の石像は今日愛宕念仏寺の際立った特徴となり、海外からの観光客も数多く訪れています。
写真集(14枚の写真が表示されます。)
≪関連情報≫
| 項目 |
内容 |
| 所在地 |
京都市右京区嵯峨鳥居本深谷町2-5 |
| 山号 |
等覚山 |
| 宗派 |
天台宗延暦寺派 |
| 本尊 |
千手観音 |
| 創建年 |
天平宝字8年(764)〜神護景雲4年(770) |
| 開基 |
伝・称徳天皇 |
| 文化財 |
- 重要文化財
- 本堂、木造千観内供坐像
|
【境内概観図】
【図中番号の説明】
- 仁王門
- 三宝の鐘
- 地蔵堂
- ふれ愛観音堂
- 本堂
- 多宝塔
- 「嵯峨野めぐりの始発点」の碑
- 京都バスのバス停
- 愛宕(あたご)神社一の鳥居(※1)
近隣の観光スポット情報
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